北九州紀行 歴史から抹殺された九州王朝
5月の初めに北九州を家族旅行してきた。レンターカーで宇佐神宮、磐井の墓、吉野ヶ里、宗像神社と、日本史のヘソをいくつかまわった。これはそのあと、勉強も重ねてやっと書き上げた紀行記。
日本古代には、朝鮮半島、中国、沖縄方面から連綿として人が流入した。1万年も続いた縄文時代にも、朝鮮半島との交流があった。九州と対馬の中間にある沖ノ島(後出)から縄文時代の遺物が発見されているからだ。
九州で力をつけたうち最有力な勢力は、九州から東に向かって何度も「東征」に進発したと思われる。目指すのは、九州以東で最も近い沃野、畿内だったのだろう。ここなら、抵抗の多い陸路を避け、海路で赴くことができる。そして「東征」の出発点は、潮流と風からいって瀬戸内海を横断するに最も適した、国東半島のあたりだったと思われている。
後世、大和朝廷によって、この「東征」に赴いたのは天孫降臨族の神武天皇ただ一人だったとされるようになったが、それが大和朝廷を正当化するための「神話」であることは、ほぼコンセンサスになっている。「東征」は異なる勢力によって何度も行われたのだろうし(可能性としては崇神天皇、応神天皇、欽明天皇などが言及されている)、古事記、日本書紀では飛鳥や出雲で起きたとされていることは、実際には九州で起きたことだったのかもしれない。後出「磐井の墓」は、古事記・日本書紀では抹殺されている古代日本の中心、「九州王朝」の跡かもしれず、そうなると、九州王朝が(もとは九州から「東征」した結果の)大和朝廷に「日本代表権を奪われた」経緯が重要な問題になる。いずれにしても、古墳発掘をもっと進めることで、歴史の真相はもう少しわかってくるだろう。
で、以上の日本古代史の様々な勢力が一カ所で交叉しているのが、国東半島の根元、宇佐神宮であることを、5月の連休の旅で認識した。宇佐神宮、吉野ケ里遺跡、佐賀市、磐井の墓、宗像大社の順番で旅行したのだが、本当にここら辺の歴史は豊かで、朝鮮半島や中国も含めて、日本史を形作ったいくつかの潮流がここで交叉している。
それは、1)天孫降臨族、その流れの神武天皇、2)中国から朝鮮半島を通ってやってきたとされる「秦」族、そして天孫降臨族のシャーマン格の中臣(後に藤原)家と「秦」族の協力と融合、3)朝鮮半島に遠征したとされる(多分フィクションの)神功皇后、そして同皇后のモデルではないかとされる卑弥呼とその邪馬台国(これを「九州王朝」だとする説がある)、4)神功皇后の子とされるが実は朝鮮半島からやってきたかもしれない応神天皇、応神天皇と飛鳥の大神(おおみわ)一族の結びつき、5)一部の学者が神武天皇のモデルに擬する欽明天皇、6)そしてもしかすると付近には「出雲」のもともとの在処があるのではないか等々、日本史の主要な流れの多くが交叉・融合しているのである。
それは、宇佐が古代は海に面しており、このあたりは瀬戸内を通って畿内に向かう航路の出発点(潮流、風向きが最適)であったことによるのではあるまいか。日本書紀の神武天皇にしても、高千穂(現在の高千穂ではない可能性あり)の方からやってきて、宇佐神宮のあたりで勢力を更に養った後、ここから舟で進発したことになっている。
北九州の歴史、そして邪馬台国や大和朝廷の初期については諸説相入り乱れており、それらを渉猟していくと(秦氏=ユダヤ人説とか、出雲はもともと九州にあったとか)、精神に「統合失調症」を来たすのは確実。特に「古事記」、「日本書紀」にフィクション性を指摘して、古代の権力の中心は邪馬台国も含めて九州にあったという説(例えば「失われた九州王朝」 古田武彦)を取ると、仮設の大伽藍がガラガラひっくり返って、またゼロから牌を積みなおす感がある。それもあって、旅行記を書くのに3カ月も要したのである。
1. 宇佐神宮
宇佐神宮は福岡と大分の中間の位置にある。古代は海に面していた可能性があるが(だから神武天皇が瀬戸内海を通って「東征」に出発したのがこの地点であって不思議がないのだ)、今は山の中。湿気の多い、霧のたちやすい地方で、レンタカーで湯布院を通ったが、ここも山合の盆地の霧に神秘的に鎮まっている趣があった。ここは、イザナギが地獄から追いかけてくるイザナミを振り払った黄泉比良坂(よもつひらさか)だと、どこかに書いてあった記憶があるが、それは確認できない(その坂は今では島根県にある)にしても、ここらあたりは全てパワー・スポット。草木が歴史を語りかけてくる、とでも言うような。
1) 二つの流れ
宇佐神宮の境内は広大で、20近くの社がある。現在の威容は1400年代に、地元の大内氏が中心となって造営したものだが、もともとは巨岩信仰をベースとする祈祷所のある御許山付近に568年の欽明天皇末期(任那が失われた頃である)、応神天皇の霊が示現した時が始原となっている(後出)。
そのため、多数の社は天照大神の三人の娘である比売神(前記巨岩信仰に関係。子孫は宇佐氏)系統と、それをはるかに下る西暦270年頃と目される応神天皇、そしてその母と言われる神功皇后の系統、その二つに分かれている。但し、安藤輝国の「邪馬台国は秦族に征服された」によれば、神功皇后がここで祀られたのは応神天皇の約100年後の823年。これは、神功皇后は後世作られたフィクションではないかとの説を補強するものとなる。同皇后を祀る三之御殿の下には石棺があるのだが(一度発掘されたが開棺せず、埋め戻されている)、これを卑弥呼の墓と想定する者もいる。
(比売神系統=天孫降臨族?)
前記の比売神は、土着(と言っても相対的なものだが)の勢力が奉じていたもので、本殿ではなく、二乃御殿に祀られている。その正体については諸説がある。宮崎県・大分県・熊本県の境にある祖母山(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E6%AF%8D%E5%B1%B1)の方から北上してきた「天孫降臨」族(江上波夫氏は、天孫降臨神話は朝鮮半島の六伽耶国の建国伝説に類似していると指摘している。有明海から九州に上陸して祖母山の高地に定住した中国出身の秦氏、あるいはツングース系騎馬民族の子孫かもしれない)の子孫だとする説もある。
天孫降臨族、つまり後の神武天皇の勢力は当初、「日向の高千穂」に居住していたことになっており、このため宮崎県の高千穂が一種の聖地とされているのだが、日本書紀では「筑紫の日向の高千穂」とある。古事記の言う高千穂が筑紫にあったのであれば、天孫降臨族の元々の居住地は福岡方面であったことになる。それに、現在の高千穂のあたりは以前は、日向とは呼ばれていなかったとの説もある(安藤輝国「邪馬台国は秦族に征服された」)。
(応神天皇系)
そして後者の応神天皇であるが、社伝では、568年(欽明29年)、大神比義(おおがの-ひぎ。飛鳥の大神(おおみわ)神社の宮司の弟で、なぜか宇佐に派遣された)に突然霊として現出、「誉田天皇」を名乗って、ここに祀られるようになった。神西秀憲氏は「古代九州王国の謎」で、応神天皇は神功皇后の三韓征伐に付き従った武内宿祢と皇后の間の子で、宇佐で武内に養育されたのだとしている。それゆえに、応神天皇は3歳の児童として宇佐神宮の社伝に立ち現れる。
応神天皇は一之殿(725年に造営)に祀られているが、同天皇は「広幡八幡麿」であるとも名乗っている。この「八幡」つまり八旗(軍旗を思わせる。なお宇佐神宮社伝では、「鍛冶をする老爺と八頭の竜が現れ、多くの者を死に至らしめた」とあるが、この八頭の竜と八幡は関係があるかもしれない)をもって、この一之殿は全国の八幡宮の中心ともなっている。八幡宮は応神天皇を祀ったものなのだ。
ただ、八幡は宇佐が発祥の地ではない。北方の筑上郡椎田の「矢幡宮」が次第に南下してきたものだ、とする説がある。この椎田のあたりは、正倉院蔵の「豊前国戸籍」によれば、秦系渡来者の拠点であった由。となると、応神天皇は秦氏と関係があるのかもしれない。
なお安藤輝国氏は、「邪馬台国は秦族に征服された」の中で、八幡神は宇佐の地元の支持を得られなかったので、秦氏は新羅仏教を持ち込み、宇佐神宮境内に弥勒寺を創設したとしている。島田裕巳の「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」によれば、弥勒菩薩は応神天皇の化身であるとされていたのである。もっとも西谷正の「地域の考古学」では、弥勒寺は大内氏が1400年代に造営しているので、その点は疑わしいのだ。なお、弥勒寺は明治の廃仏毀釈で破壊されている。
応神天皇については、彼こそが「神武天皇のような東征」を行って、大和地方を征服し、国の統一を成し遂げた人物だとの仮説を提示する専門家がいる。その説によれば、彼は朝鮮半島からやってきた秦氏の一族なので、これを天皇家の始祖とするのはまずいということで、天孫降臨族出身の神武天皇なる人物を創作し、彼が東征の前に宇佐に1年滞在したこととした。しかし実際の東征は応神天皇が宇佐から出発して行ったので、ここに彼を祀った。ということになる。
こうして宇佐には、土着の邪馬台国、高千穂方面から北上(あるいは南下)して来てこれを征服した天孫降臨族、さらに朝鮮半島からやってきて南下し、天孫降臨族を征服した後、東征に乗り出し、大和朝廷を作り出した応神天皇の勢力(もしかすると秦氏系、八幡の騎馬民族)が「一堂に会して」いることになる。
そのような歴史を反映してか、宇佐神宮では今でも宮司の座をめぐる確執がある。土着の宇佐氏は代々、少宮司にしかなれず、大宮司は飛鳥に本社を持つ大神氏が独占した。それもあるのか、宇佐神宮の宮司、権宮司の地位をめぐっては、今日に至るまで紛争が起きていて、東京の神社本庁を巻き込む騒ぎとなることもある。
しかし、これほどの重要性にもかかわらず、天皇は宇佐神宮に行幸したことがない。天皇は持統天皇から明治天皇の間の約1200年間も、伊勢神宮にも行幸していない。持統天皇については、飛鳥の地元の大神神社の宮司から、伊勢神宮への行幸につき猛反対を受けたという面白い記録がある(「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」)。天照大神は崇神天皇の時、相次ぐ天変地異の責を負わされて宮中から追い出され、諸方を転々としたあげく、伊勢に落ち着いたという、日本書紀の記事があるのだが、それは飛鳥に「東征」してきた天皇勢力が、先住の豪族が奉ずる大神神社を前面に立て、自分たちの奉じる天照大神を外に出したのかもしれない。
そして天照大神が宮廷を去って以来、大神家は宮廷のイデオロギー担当のような役割を果たし、本来余所者であった応神天皇を皇統に位置付けるために、568年大神比義を宇佐に派遣、神宮を建立せしめたのだろうか?
2)邪馬台国の卑弥呼も宇佐が根拠地?
これに加えて宇佐神宮には、卑弥呼や邪馬台国の影もある。823年には宇佐神宮の三之御殿に神功皇后(朝鮮半島に遠征したという伝説のある女傑。その息子が応神天皇だということになっている)が祀られたが、市村其三郎氏は、応神天皇の母は卑弥呼、即神功皇后なのだという説を提示している。もしそうであれば、応神天皇は朝鮮半島から南下してきたのではなく、邪馬台国の血筋を引く人物だということになって、日本史は一気に立体性を失う。
神功皇后の「三韓征伐」は、古事記にも日本書紀にも記述があるが、年代は不明である。朝鮮の「三国史記」や高句麗の広開土王碑文には、4世紀後半から5世紀にかけて倭軍が百済・新羅・高句麗と戦ったとの記事があって、日本ではこれを神功皇后のことと比定する向きが多い。神功皇后は、実在していたならば3世紀、あるいは4世紀の人物だと考えられている。
卑弥呼はシャーマンだが、西谷正・九州大学名誉教授は「北東アジアの中の弥生文化」の中で、シャーマニズムは紀元前3-2世紀に朝鮮から伝わったのではないかと想定している。そして南ロシアの遺跡から発掘された例だと、シャーマン役の女性は幼時から顔をつぶされて成長したとしており、卑弥呼も顔がつぶれていた可能性を指摘している。
因みに、卑弥呼の時代は、中国では三国志の時代である。当時、日本の王国が競って朝貢した魏は、あの曹操が作った魏なのだ。そして邪馬台国とか卑弥呼は、古事記と日本書紀には出てこない。奇異なのである。双方の名が出てくるのは、魏志倭人伝にある、239年卑弥呼の使者がやってきたことを記した記事のみである。魏は卑弥呼に親魏倭王の金印を交付している。また魏は同時に銅鏡100枚を下賜。その景初3年の年号を刻んだ「三角縁神獣鏡」は群馬、島根、九州、和泉等、全国に広く分布し、その中心は南山城(南やましろ)に比定される由(「北東アジアの中の弥生文化」上P171、西谷正)。
中国の史書にある以上、当時の日本に邪馬台国と卑弥呼に相当する国と人物がいたことは確かなのだろうが、邪馬台国がどこにあったのかについては、論争が続いている。邪馬台国は当時の中国語の発音では「ヤマト」なのだとか(当時、「大和」という呼び名があって、それがヤマトと発音されていた保証はあるのだろうか)、卑弥呼は天照大神、つまり「日の御子」なのだとか様々な説が出されている。しかし卑弥呼という漢字は当時の中国で、ヒミコと発音されたのだろうか?
卑弥呼の墓の主な候補地は、飛鳥の箸墓と宇佐神宮の下に元々あると目される古墳(地下に石棺があるのが、戦前2度目撃されている。そのまま開けずに埋め戻された)だが、後者は魏志倭人伝に言う、卑弥呼の墓と寸法が一致する由。
西谷正・九州大学名誉教授は、飛鳥説を取っている。根拠は、魏志倭人伝に言う、「7万戸の人口を数えた邪馬台国」に相当する大規模遺跡は九州では見つかっていない、他方飛鳥の纏向遺跡は発掘されていないが80ヘクタールにも及ぶこと、としている。
飛鳥の箸墓は放射性同位元素の半減期で測定すると、築造が紀元250年頃で、魏志倭人伝の伝える卑弥呼の没年とぴたり合うのだそうだ。但し、箸墓は前方後円墳。日本に前方後円墳が俄かに広まったのは3世紀で、邪馬台国を滅ぼした勢力が持ち込んだ文化である可能性があり、そうだとすると、箸墓は卑弥呼の墓ではないのかもしれない。
いずれにしても、右のいずれかを発掘して「親魏倭王」の金印が出てくれば、邪馬台国の所在地はそこで決まりである。有名な「漢委奴国王」の金印というのがあるが、これは邪馬台国よりははるか以前の後漢の時代、北九州の奴王国が受けたもので、既に見つかっている。伊都国の宮殿だった(西谷正氏によれば、伊都国は奴国の西方にあったというのが定説)と目される前原市の細石神社の宝物だったのが、江戸時代に一時紛失していたものが、志賀島で見つかったとされているものである。
3)宇佐は全国の八幡神社の総元締め――元々は秦氏が弥勒信仰と共に持ち込んだ?
ここで宇佐神宮が八幡神社でもある件について一言。島田裕巳は「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」で、次の諸点を述べている。
・八幡神社(若宮神社を含める)は、日本で最多の神社で、1990年神社本庁調査では全国に7817社あった。2位は伊勢神宮の4425、3位が天神の3953、稲荷は2970、熊野(王子も含めて)が2693なのだそうだ。
・そして八幡神社は日本神話には出てきていない。737年、その1月に新羅が日本の使節受け入れを拒んだこととの関連で文献に登場してくる(前記、島田著書)。ということは、宇佐神宮と八幡宮は、朝鮮王朝の本流は日本に渡って応神天皇となり、その後も彼の子孫が天皇として君臨しているのだから、これに従えということを新羅に示す、一種の象徴としての意味を持つことになる。宇佐八幡宮の記録をみると、八幡は朝鮮伝来の神であったことを示唆する文章がある。
・京都では石清水八幡宮が建立されている。京都南西の裏鬼門を守る位置にあり、当初から地位は高く、979年からは天皇の行幸も始まり、伊勢神宮に次ぐ地位を得ている。
・さらに源氏が八幡神を氏神としたことで信仰が広がり、足利、徳川も八幡を奉ずることとなった。
・前述のように安藤輝国によれば、八幡は宇佐が発祥の地ではなく、北方の筑上郡椎田の矢幡宮が次第に南下してきたものなのだが、八幡神が顕現した跡には、馬蹄を象った影向石(神が天から降臨した時、腰を下ろす石)がある由。これは、応神天皇の勢力が朝鮮半島から騎馬で押し寄せたことを示唆するものかもしれない。江上波夫の「騎馬民族国家――日本古代史へのアプローチ」が騎馬民族来襲の時期として想定している4世紀後半から5世紀は、応神天皇元年の西暦270年よりかなり後なのだが。
4)宇佐は、中臣(藤原)氏と秦氏が融合した地でもある
そして宇佐は、平安時代に栄華を誇った藤原氏の祖先、中臣氏と、朝鮮から帰化した秦氏がここで出会って融合した地であるとも言われる。安藤輝国氏はその「邪馬台国は秦族に征服された」で、神武東征にシャーマンとして随行していた天種子命は、宇佐で地元の宇沙都比売姫と結婚している、天種子命は後の中臣氏、そして藤原氏の始祖である、との説を提示している。中臣鎌足は現在の茨城県鹿嶋市、鹿島神宮近くで出生したとの説があり、そこには鎌足神社もあるのだが、藤原氏はもともとは九州ゆかりの一族で、鹿島方面には蝦夷との戦いの前線に配備されて赴いたのではなかろうか。
そして藤原家と宇佐神宮の関係は、奈良時代、道鏡が権力奪取を企て、藤原家を傍流に押しやった時に、ご利益を発揮する。道鏡は769年、大宰府の役人(大神氏系)を通じて宇佐神宮から、「道鏡が天皇になれば天下泰平だろう」との神託を得たのだが、不思議に思った称徳女帝が和気清麻呂を宇佐に派遣。彼は大神氏とかねて対立していた宇佐氏系宮司の手配で、道鏡について正反対の神託を得て帰京する。これによって藤原氏は勢威を取り戻すのだ。これ以降、宇佐の地元では宇佐氏系が大神氏系を抑えて、宇佐神宮の大宮司の地位に一時つく。
なお本筋から外れるが、島田裕巳は「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」で、大和国全体が春日大社の社領となり、さらに春日大社を藤原氏の氏寺である興福寺が支配する構造となっていて、藤原氏の財政基盤となっていたとする(p185)。本当だろうか。
5)宇佐、そして日本史に見え隠れする中国からの(?)帰化人・秦氏について
ここで脱線して、宇佐神宮、あるいは応神天皇にも関係し得る、秦氏という非常に面白い存在について。安藤輝国氏によれば、日本の史書には、「秦」と名のつく地名は見当たらない、しかし702年の正倉院文書の「豊前国古跡」では、秦、あるいは勝の姓を名乗る秦族が377名いるとしている、また中国の隋書倭人伝では筑紫に秦国があり、その国の人達は華夏と同じ人種であるとしている、と述べている。
更に同氏は著書「邪馬台国は秦族に征服された」の中で、中国の秦朝末期、難民が朝鮮の馬韓(後に百済)に定着したとの記録があること、そして同時期に日本で、進んだ鉄・銅器文化を伴う弥生文化が広がったことを指摘、弥生文化は中国文明の流れであることを示唆している。
しかしウィキペディアは、秦氏の来歴には数説があること、中国の五胡十六国時代の後秦に由来するとすれば、これはチベット系民族で、京都の秦氏の根拠地だった太秦のウズはその民族の言語で「第一」、マは助詞の「の」に相当、サは都を意味するので、ウズマサは第一の都市を意味する、と述べている。なお、筆者の在勤したウズベキスタンの「ウズ」は、「自分の」を意味することになっている。
秦氏は平安時代のあたりで、日本史からその名を消すのだが、それ以前に藤原氏と融合している。安藤輝国氏によれば、長岡京遷都を推進した藤原種継、平安京遷都を推進した藤原小黒麻呂はそれぞれ秦氏の娘と結婚し、遷都で財政的・技術的援助を秦氏から受けている。ウィキペディアによると、村上天皇の日記には、「大内裏は秦河勝の屋敷跡に建っている」との記事がある由。秦河勝は聖徳太子に仕えた人物で、太秦に現在の広隆寺を建立している(当初は別の場所であったとの説あり)。
なお、稲荷は元、伊奈利と表示され、秦氏の氏神、稲作の神であった由。明治時代、神仏分離されるまでは、稲荷神社で般若心経を唱える信者もいたし、豊川稲荷は曹洞宗の寺院でもある(と言うか、もともとは寺であったのが、稲荷として信仰されている)(島田裕己「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」)。バロック的に、種々の要素がブレンドされている。
2.吉野ケ里遺跡
宇佐神宮の次に高千穂に行こうと思っていたのだが、大雨で、鉄砲水に会うのもいやだと思い、北西方向の吉野ケ里に向かうことにした。吉野ケ里は、丘が連なる場所に木造のやぐら、そして竪穴式住居が多数並ぶ集落で、想像復元されている。その様は、米国東海岸にメイフラワー号でやってきた入植者が作ったプリマスの村(これも想像復元)によく似ている。ここに墳丘墓があり、これを卑弥呼の墓に比定する向きもあったが、これは卑弥呼より300年ほど以前の時代のものと認定されて、その説は消えた。吉野ヶ里は弥生時代後期のものと比定されているのに、水田の跡は未だに発見されていない。付近の佐賀平野は今では穀倉なので、若干奇異な話である。
吉野ヶ里は宇佐神宮よりは年代的には前で、今から1800年前、弥生時代後期のものと比定されている。弥生時代は1700-2300年、600年間続いたことになっている。その前の縄文時代は1万年続いたことになっているが、稲作を朝鮮半島から持ち込んだ弥生時代には生産性が飛躍的に向上(何しろ一粒の稲から100-200粒が実るのである。1円を投資すると1年で100倍、200倍になって返ってくるということ)、それによって戦争で領域を広げることが可能となり、歴史の展開が一気に速まったのではないだろうか。吉野ケ里遺跡は日本で発見されている環濠集落としては最大のもので、40ヘクタールを占める。
3.磐井の墓-「九州王国」と大和朝廷はしばらく並立?
次に佐賀城を見学に行き、明治維新における佐賀藩の大きな役割を初めて認識したのだが、それはあとで述べることにして、ここではその次に行った磐井の墓について述べておこう。磐井というのは、6世紀、大和朝廷と並立していたと目される九州の有力豪族で、様々の記録、伝説がある。そして福岡県久留米市の南部、茶の名産地、八女市には、古くから磐井の墓と称される大きな前方後円墳(全長135米)、岩戸山古墳がある。これを見に行ったのだ。
ここは筑後川左岸で、筑紫平野の穀倉地帯にある。これまで知らなかったが、九州の北岸には1000米と割と高い山脈が迫っているので、朝鮮方面からやってきて筑紫平野に入るには、大宰府のある地峡を通るか、南に回って有明海から筑後川をさかのぼるか、どちらかしかない。そして西谷正の「地域の考古学」によると、筑後川中流に馬の埋葬跡が多数あり、馬具も発掘されているようだ。西谷教授は、ここに馬の牧場があったものと想定している。江上波夫の言う騎馬民族はやはり本当に日本に来ていたのだろう。
(九州王国&新羅は、大和朝廷&百済と対抗?)
墓の主(と言っても、彼はここには葬られていないという説もある)の磐井だが、527年継体天皇に朝鮮出兵を命じられ、それを拒否して「磐井の乱」を起こしている。大和朝廷は百済のために新羅を討とうとしたのだが、新羅と結んでいた磐井がこれに抵抗したのである。磐井が戦死した後(生き残ったという説もある)、彼の息子は大和朝廷に領地を差し出して助命を嘆願、家の存続をはかっている。だから前方後円墳は磐井の後も、このあたりに多数作られている。
西谷正教授は、右からしばらく経った562年、欽明天皇23年の時、朝鮮の伽耶が新羅に滅ぼされたので、百済の要望に応えて筑紫から兵員1000名、馬100頭、船40隻を準備したとの記録が日本書紀にあるが、これは磐井一族の的氏ではなかったかと推定している。
そして100年後663年の白村江の戦いでは、前出「失われた九州王朝」(古田武彦)は次の説を提示している(400頁)。「この戦いでは、筑紫君薩夜麻なるものが唐軍に敗北して捕虜となっている。彼は2年後、唐軍によって九州に送還されてくるのだが、九州王朝の長であったと思われ、彼の捕囚で九州王朝の没落と大和朝廷への権力移行は明確となった。それは、「三国志記」で記録されている国名が倭から日本に代わり、大宝年間が始まったことに表れている」という説である。
古田氏は、倭国とは九州王朝のことで、この頃大和朝廷は「日本」を名乗って唐王朝にアプローチを始めていた(7頁。「旧唐書」に依拠)、その態度は尊大であった、大和朝廷が日本を代表するようになってから編纂された古事記、日本書紀では九州王朝の痕を消し、すべてを天孫降臨から一貫して大和朝廷が日本を支配していたことにしてしまったのではないか、としている。
白村江の戦いの実態は後世から隠されている。661年1月、斉明天皇が大和から出陣して筑紫に着くが、その7月に崩御している。そして軍はやっと663年に朝鮮半島に向かったのだが、中大兄皇子(既に天皇位を称姓)はこの時まで九州に滞在していたのかどうか、朝鮮半島に遠征したのかどうか、この間2年以上にわたって、飛鳥の大和朝廷の本拠には天皇と皇太子が不在であったはずだが、僅か15年前の大化の改新で影響力を殺がれた蘇我氏が、その機会に飛鳥で何か策謀を企まなかったのか、何も記録がない。そして白村江に向かった軍の主力は、実は九州王朝のものであったかもしれないのである。
白村江の闘いの9カ月後、唐軍の副将、郭務悰が47隻2000名の艦隊を率いて九州に7カ月滞在。その8年後の672年、天智天皇(中大兄皇子)は没している。宮中で(遷都したばかりの大津で)病死したという説と、一人で狩りに出て行方不明になり、履だけが発見されたという説がある。
倉本一宏の「戦争の日本史2 壬申の乱」によると、前記、郭務悰は白村江の捕虜を返還したのと引き換えに、朝鮮半島への出兵を要請、朝廷はこれに応じて全国で兵を徴募し始めた。まるで、現代の朝鮮戦争で、米国が日本人を戦争に送ろうとして、吉田総理に日本の再軍備を求めたのに酷似している。
天智天皇の死後、吉野を脱出して美濃へ向かった彼の弟大海人皇子一行は、天智天皇の息子、大友皇子に反旗を翻したのだが、その時援軍が彼の下に続々と集まっている。あるいは、白村江の頃、そしてそれ以前の継体天皇による九州王朝討伐(「磐井の乱」)の時から、さまざまの負担に嫌気がさしていた地方の豪族達が、大海人皇子の下に結集して、大友皇子に反旗を翻したものかもしれない。
4.宗像大社
そして、旅の最後の目的地は宗像大社、というか、その神宝館だった。
ユネスコの世界遺産に指定されたことで有名になったが、対馬列島と九州の中間に沖ノ島という小さな島があり、ここは古来、日本と朝鮮半島の間を行きかう使節たちが立ち寄って供物をそなえ、航海の安全を祈るところだった。そしてその供物はその時々の文化・工芸の粋を集めたもので、実に8万点が宗像大社の神宝館に保存・陳列されている。8万点すべてが国宝に指定されているが、まとめて「1件」とカウントされている。
因みに、沖ノ島で発見された品には縄文時代のものもあるそうなので、縄文時代の日本も決して日本に閉じこもった文化ではなく、朝鮮や中国の影響下にあったようである。なお縄文と言うと、あの火焔のような縁取りの派手な土器を思い浮かべ、現在の日本文化とは異質なものを感ずるのだが、縄文も初期と末期の土器の意匠はシンプルで、火焔土器は祭祀用のものに限られているらしい。
宗像大社の宗像氏は、航海に携わった古い一族。「古代九州王国の謎」で神西秀憲氏は、宗像氏は遠賀川下流出身で、もともとは「沼潟」姓だったとしている。中国の宋の有力者の家とも通婚関係にあった。今の宗像大社のあたりは同家の私有地で、645年に始まる大化の改新で全国の土地(と言っても、今の日本のほんの一部)が「公地公民」とされた時も、伊勢神宮、島根の熊野大社、茨木の鹿島神宮、千葉の香取神宮等と並んで、私有を引き続き認められている。そして宗像宮司は鎌倉、室町時代には「御家人」となって、地元の武士を率いている。
神宝館に展示されている文化財は、素晴らしいものが揃っていた。潮風の吹きすさぶ絶海の孤島の戸外に放置されていたものとは思えない。
5)すべては九州に発す――出雲ももとは九州?
以上で、読者の頭の中はずいぶんこんがらがったことだろうが、ここでとどめ。
これも九州王朝から大和朝廷に権力が移行したかもしれないことの絡みだが、1916年生まれの専門家、神西秀憲氏はその著書「古代九州王国の謎」で、非常に大胆な仮説を提示している。継体天皇あたりまでの古事記の史実は、実際はすべて九州で起きたことで、出雲等の地名も九州にあったのが、古事記によって全国に「下付」されたものだ、と言うのだ。
神西氏は、特に遠賀川を重視、この河口に古代倭の首都があったとする。この地域で、日本で最古の土器が多数出土しているのがその根拠。そして(神武天皇の)東征は、新羅等の圧力を避けるために、安全な飛鳥に移ったものとする。それをしたのは実際には欽明天皇で、当時倭は任那を失い、新羅の脅威を感じていたので東遷した、とするものである。そうだとすると、欽明天皇の前の継体天皇も、実は九州で活動していたことになる。
そして神西氏によれば、飛鳥に落ち着いた新政権は全国に、九州の地名を「下付」した。大宝令で、「全国に国々を置いた」とあるのが、それだとする。これによってもともと九州にあった出雲は島根に移り、神話は何が何だかわからなくなった、と言うのである。そうなる前、邪馬台国は豊前、出雲は豊後にあったので、両者が緊密に往来するのは当然のことだった、と言うのである。
もう一つ、現在奈良には古い大神神社があり、土地の豪族三輪家の守り神なのだが、神西氏は、これはもともとは祖母山の大神神話(蛇との結婚)に源を発し、その後遠賀川下流中央にあった古代熊野宮の神になっていたのが、奈良に移転されたのだとしている。現在の大神神社は、出雲の大国主と結び付けられたりして、わけがわからなくなっているのだが、こう考えると少し糸がほぐれるかもしれない。
6.古代史の落穂拾い
以上が旅行記なのだが、この一文を書くのに当たっていろいろ調べたことで、これまで知らなかったことの数々を書き記しておく。
1)日本東部への文明の波及
日本史では九州、大和に関心が集中しているが、文明は東部にも波及していて、そのあたりの歴史は全く知られていない。例えば群馬県には1万3千基以上もの古墳が集中し、太田市には東日本最大の天神山古墳もある。埼玉県の行田市にも、大型古墳が集まる埼玉古墳群がある。往時は大小40基が存在した。北信濃の千曲川流域からも銅器・鉄器が多く出土している。
如何なる権力がここに存在したのか、それらと大和、あるいは九州との関係はどうだったのか。埼玉の古墳群は5世紀末、およそ150年にわたって造営されたもので、当時は古墳群の近くを大きな河川が流れ、万葉集には「さきたまの津」という言葉もある由。このあたりで出土した国宝の銘文鉄剣は、畿内政権との密接な関係を示す由。まだ文書史料は発見されていないようだ。
九州から東部への文明の波及においては、九州を本拠とする海洋諸氏族が大きな役割を果たしたことだろう。例えば、金印の出た北九州の志賀島には、海賊、海運を兼ねた安曇氏の根拠地があった。インターネットの情報によれば、紀元前473年越に滅ぼされた呉(三国志の呉はその600年程後)は航海術に長けた国で、滅亡後は九州の志賀島に根拠地を置き、稲作、味噌・醤油の醸造、納豆、養蚕技術をもたらした。そして安曇氏を名乗り(志賀海神社の宮司は代々安曇姓である由)、日本各地に渥美、熱海、伊豆等の地名を残したのである。長野の安曇もそうだし、福井、石川、富山にも彼らにゆかりの地はある。長野の安曇野にある穂高神社では、海もないのに御船祭があり、船を祀っている。往時、安曇野は大きな湖であったとの説もある。
宗像一族は九州と朝鮮半島との通商利権を握っていたようだが、その流れで、九州と本州の間の通商利権も握っていたのかもしれない。
鉄製兵器が日本にもたらされた時期に広がった「環濠集落」も、その遺跡は東日本に広く分布している。それは奈良県、濃尾平野、関東の古利根川流域、房総半島、群馬、長野北東部、信濃川河口、北陸、瀬戸内等に及ぶ(西谷正「北東アジアの中の弥生文化」)。
2)中国との関係について
どうやって往来したのか知らないが、古代中国と日本の間の関係についても、事跡は多数存在する。紀元前2000年頃、中国の「夏」王朝には「禹」という王がおり、黄河の治水に成功したことから「治水の神」として崇められているのだが、その禹王の碑や像が北海道から沖縄まで日本全国に点在している。うち群馬県片品村にあった碑は、その篆書体が中国湖南省にある禹王の碑のものと酷似している由(2016年11月1日付日経、大脇良夫氏記事)。
また春秋戦国時代の呉は前述のように紀元前473年越に滅ぼされるが、その残党が福岡の志賀島に本拠を置き、稲作、味噌・醤油・納豆の文化、養蚕等をもたらしたとする説もある。5世紀初め、王仁が日本に千字文という形で正式に漢字をもたらす以前から漢字は使われており、その発音法は万葉集にも用いられていて、これが「呉音」なのだと言われている。当時の呉での読み方がどうやってわかるのか知らないが、とにかく呉というのは面白い存在なのだ。
インターネットでは面白い記事が多数あって、三国時代の呉の皇帝、孫権の祖先は昔揚子江上流から船でやってきたギリシャ系の人種で、孫権も目の色が青かったそうだ。更に同時代人の卑弥呼も青い目をしていたという記事があり、そうなると卑弥呼もギリシャ系、デルフォイの巫女の末裔か? それはともかく、揚子江方面から福岡まで海路で簡単にやってこられるものでもあるまい。
卑弥呼と言えば、神西秀憲氏は「古代九州王国の謎」で一つの仮説を提示している。古事記では大国主が国造りに窮している時、海から小男がやってきて、大国主を助けた後、帰っていくという箇所があるのだが、この大国主は邪馬台国の統治に苦労していた卑弥呼の弟のことで、小男とは朝鮮半島の楽浪にあった中国の魏王朝の出張所から派遣された魏の役人の張政で、この時の彼の見聞をもとに魏志倭人伝は書かれている、というのである。となると、邪馬台国は九州にあり、大国主の出雲も実は九州にあったということになる。そして皮を剥かれた因幡の兎は、今風に言えば、北朝鮮から板門店を命がけで越えて駆け込んだ脱走兵か。
なお、更に時代が下ると、かの宗像氏は朝鮮半島だけでなく、大陸との通商も手掛けていたらしく、中国の南宋の時代には博多周辺に中国人が住み着き、宗像氏自身も南宋商人の娘を嫁としてもらっていた。そしてもちろんその頃には、中国と日本の往来は九州に限定されず、平清盛は兵庫にも港を開いた。鎌倉の逗子マリーナの横にも、南宋からの船が着いたとの言い伝えが残る和賀江島埠頭の跡が波間から姿を見せている。
3)騎馬民族
日本では騎馬民族渡来説が異端視されているが、農耕民族というのは経済の根幹をなしても、それを武器で征服して権力を樹立し、「歴史」を作っていくのは多くの場合、余所者の遊牧民族なのだ。だから日本の大和朝廷の祖先が騎馬民族であったとしても、何も驚くことはないのだが。
日本で騎馬民族渡来説を最初に唱えたのは江上波夫氏だとされている。それに対して、その頃日本で乗馬の習慣はなかったとの反論が出されているが、乗馬の証拠は各地で発見されている。前記のように西谷正氏の「地域の考古学」によれば、筑後川中流には馬の埋葬跡が多く、馬具も発掘されており、牧場の存在を思わせる。既に述べたように、安藤輝国氏の「邪馬台国は秦族に征服された」によれば、八幡神が最初に現れたとされる筑上郡椎田には馬蹄を象った影向石がある。この椎田のあたりは、正倉院の「豊前国戸籍」によれば、秦系渡来者の拠点だったので、八幡信仰は秦族の習俗、そして応神天皇も秦族だったのだということになる。
また河内の応神天皇陵に食い込んでいる形の古市丸山古墳からは、金銅製の鞍金具などの馬具が出土している。その透かし彫りの意匠は、伽耶高霊の古墳から出土した遺品の文様に酷似している由。そして6世紀末の藤の木古墳から出土した豪勢な金製馬具は、スキタイ等、ユーラシアの騎馬文明の流れを示すとしか思えない。
4)継体天皇の素性
既に多くの人が指摘していることだが、万世一系とされている天皇家も、実は何回か「王朝」が交代している可能性が高い。崇神天皇、あるいは応神天皇が朝鮮半島からの渡来系ならば、そこでまず1回。次に506年武烈天皇の死で男系が途絶え、重臣達協議の結果、今の福井県の豪族から継体天皇を迎えた時が2回目になる。そこからでも1500年もあるので、立派な王統なのだが、継体天皇自身、応神天皇の子孫であったとか、応神天皇直系の皇女を娶っているので女系では血筋が途絶えていないとか、継体以前までさかのぼっての万世一系説が護持されている。
継体天皇については、わからないことが多い。今は伝わっていない「百済本記」の一部は日本書紀に引用されて残っているが、そこでは継体天皇は531年に、太子及び皇子とともに死去したとあり、戦死、あるいはクーデターによる暗殺を思わせている。このあたりも、日本史の空白となっていて、種々の憶測を生んでいる。
5)斉明天皇
斉明天皇というのも、謎の多い人物だ。もともとは元天皇の孫同士を両親とし、舒明天皇の皇后となった後、その死で皇極天皇となり、645年には宮廷の彼女の目前で、彼女の重用した蘇我蝦夷の息子、蘇我入鹿が自分の息子の中大兄皇子に惨殺されている。彼女はその1カ月後退位するのだが、655年には中大兄皇子に推されて、今度は斉明天皇として再登場。そこでなぜかペルシャ文化狂いを始めて、猿石や酒船石の遺跡を残す。かつて自分が重用したが息子に斥けられた蘇我一族と自分の関係を否定するためか、蘇我家が庇護した仏教ではなく、ゾロアスター教に凝って見せたのだ(日本書紀等によれば、当時ペルシャの亡命貴族と目される者が飛鳥に来ている)。
660年、朝鮮半島の百済が新羅によって滅ぼされたことで、彼女は新羅征伐を志し、北九州朝倉宮に赴いて軍の結集を待つうちに、病を得て逝去する。それ以後、大和では6年間も天皇が空位となっている。日本は、白村江の戦いを、最高指導者不在の状況で戦ったのだ。
6)佐賀藩
今回、佐賀市にも赴いて、佐賀城等を見物した。明治維新では、薩摩、長州の名しか出てこないが、実は佐賀も傑出した人材をトップに送り込んでいたのだ。
佐賀は鍋島家だが、10代の鍋島直正は種痘を自分の息子にさせる等、先進的な藩主で、その下に人材が輩出している。それは副島種臣、大隈重信、佐野常民、江藤新平、島義勇等である。しかし身の処し方が下手な者が多く、結局は主流からはじき出されている。江藤、島は西南戦争に先立ち士族の反乱に担ぎ出されて、刑死している。
なぜ佐賀藩に先進的な機運が漲っていたかと言うと、この藩は福岡藩(黒田)と交代で長崎港警備に当たっていたので、先進的な情報を手に入れやすい立場にあったからだ。鍋島直正の下、佐賀城下には国内初の反射炉(製鉄のため)を、書物から得たノウハウで大変苦労して自力で建設。そしてこれで品川台場用の大砲を鋳造している。
佐賀藩は、英国から先進的なアームストロング砲も購入しているが、これは戊辰戦争で新政府側が使用して威力を発揮。維新後の上野の彰義隊鎮圧でも使われている。
佐賀は今では地味な存在になっているが、穀倉の筑紫平野にあるだけに、古来から大きな力を有していたに違いないのである。
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.japan-world-trends.com/cgi-bin/mtja/mt-tb.cgi/3902