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世界文明

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2018年5月31日

飛鳥古代紀行記

5月初め2日半、飛鳥のあたりをレンタカーでとんで回った。このあたりは陵、神社、寺だらけ。それは諸天皇、そして帰化人と見られる漢(あや)氏、三輪氏、物部氏、蘇我氏、あるいは当時の日本に漂着したとされるペルシャ人達の旧跡(かぐや姫はペルシャの姫君だったという説もある)、また彼らの氏神、神話、実話が入り乱れて、考えても考えてもわからない、迷宮のような歴史を形作る。


目次
  神武東征のルート探訪
  崇神天皇と大神(おおみわ)神社と三輪氏
 応神天皇陵 
 飛鳥の都
 陪民たち―漢氏、三輪氏、物部氏、蘇我氏、藤原氏
 藤の木古墳とアフガニスタン
 藤原鎌足と「御破裂山」の言い伝え
 かぐや姫の里



神武東征のルート探訪

まず今から2600余年前に、九州からやってきてここを征服したとされる神武天皇。日本書紀での記述は詳しい。彼の軍は最初大阪湾に船で到着、生駒山の脇(大和川が生駒山系の間を割って出てくるところ)から奈良盆地に入ろうとして地元豪族に阻まれ、仕方がないので南の熊野方面から山中を北上して奈良盆地に攻め入ったことになっている。当時、奈良盆地を治めていた豪族達には全く想定外の、南の山地から軍勢(千名もいなかっただろうが、最新式の鉄製剣で武装していたので無敵だったのでは?)が飛び出てきた感じだったのだろう。

 この「神武東征」、あるいはそれに類似したことは、本当に紀元前600年頃あったのか? その頃の日本はまだ弥生時代の中期。大軍を動かせる経済力は蓄積されていただろうか? だから、神武天皇が実在していたにしても、それはかなり後のことで、日本書紀は日本を古く見せるため(これは漢文で書かれているので、おそらく中国政府に見せ、日本を「格付け」してもらうことを意識して書かれたものだろう)天皇達の寿命を通常の数倍に引き延ばして記載してある。日本書紀では神武天皇は127才で没している。127年間も「生かされて」いるのだ。

 しかし、神武であろうが誰であろうが、多分「東征」は事実であったのだろう、そして出雲にゆかりのある熊野本宮が和歌山県田辺市にあることからも、征服者が紀伊方面から攻め入ったことは事実かもしれない。しかし飛鳥から田辺までは130キロ以上、山道も多いので、本当に行軍できたのだろうか、確かめてやろうと思って、現代の国道(飛鳥から南方に抜けるルートは川沿いに二つある)を少し車で走ってみた。

 その結果感じたのは、このあたりはそれほど険しい山々でもなく、山あいを縫っていけば何とか行軍できるだろうし、当時でも踏み固めた道はあったのだろう、ということ。そして面白いのは、この山中を「神武天皇」軍を道案内した八咫烏を祀った「八咫烏神社」が、想定行軍途上の宇陀市にあるのを見つけたことだ。この神社の創建は705年頃とされるので、後世の観光目当てのフィクションではない。この神社にも書いてあるが、「八咫烏」とは当時の地元の豪族 武角身命のこと。黒い装束を来て、木々を伝って「神武」軍を導いた(忍者の先祖か?)からカラスというのだそうだ(現地の案内板)。

 そして「神武天皇」は樫原に居を構えて奈良盆地を治めたことになっている。だから広壮な樫原神宮があるのだが、これは明治になって薩長政府が天皇に箔付けをするために、初めて建立したものだ。脇には「神武天皇陵」があって、宮内庁管理となっているが、これは誰のものかわからない小さな陵を、江戸時代になって拡張したものとされる。

崇神天皇と大神(おおみわ)神社と三輪氏
 
神武天皇は架空の存在で、実際に東征してきたのは崇神天皇ではないかと言う学者もいる。この天皇は日本書紀では、三輪にある大神神社を建立したことになっている。これは「日本最古」とされる神社である。天皇が建立した神社なら、祭神はさしずめ天照大神だろうと思うのだが、さにあらず、「大物神」で、これは当地に古くからいた三輪氏(後出)の氏神で、実は出雲の大国主とも関係があり、三輪には今でも出雲屋敷という地名があって・・・と、どんどん放散して始末に負えない。

日本書紀では、崇神天皇の時に流行った疫病を鎮めるために、大物神を祀れという夢のお告げで、地元からそれらしいのを探し当て、大神神社を建てたことになっており、これが三輪氏の先祖なのだ。だとすれば、三輪氏はずっと古くからこの地にいたということになる。

面白いのは、日本書紀によれば崇神天皇は、それまで宮中で祀られていた天照大神を宮中から外に出し、その後伊勢に移してしまったことだ。天照は天皇家の始祖、氏神でないかのように。この「天照の伊勢流し」の関係で面白いことがある。それは大神神社の近くに檜原神社という小さな社が山腹にあり、そのすぐ下の池の堤から見た大和平野の霞たなびく景色は有名なのだが、この神社はそもそもは伊勢に流される前の天照大神を一時祀っていたことがあり、それゆえ「元伊勢」と呼ばれていたのだそうだ。

 なお、崇神天皇の陵は飛鳥からかなり離れた天理市にあるのだが、これも「そうではないか」という程度の話し。かなり大きな古墳。

応神天皇陵

神武天皇に相当するのが崇神天皇でないなら、次に東征してきた可能性が高いのは応神天皇だと言われる。同天皇は、3世紀初頭、朝鮮半島で戦闘を重ねていたことになっている神功皇后の息子とされる。神功皇后は夫の仲哀天皇の死後、69年間も天皇名代を務めたことになっていて、百歳以上にも至っている。だから戦前の日本史の泰斗、津田左右吉教授は応神天皇以前の日本史はフィクションだと決めつけて、それが長らく定説になっていたのが、最近では津田左右吉教授の学説の鵜呑みを戒め、「全くのフィクションを書紀に書くはずがない。史実の改変はあったとしても、モデルと目される人物たちはいたのでないか」ということを言う人たちが増えている。

 で、応神天皇陵は飛鳥よりも大阪に近い曳野にあるのだが、これは仁徳天皇陵に次ぐ大きさの前方後円墳。しかしあまり整備されていなくて車を止めて参拝することもできなかった。面白いのは傍らに、誉田(こんだ)八幡宮があることだ。この源氏の祭神とされる神社は、実は応神天皇が朝鮮半島から持ち込んだことになっていて、日本での総社は九州の宇佐にある。誉田も宇佐も建立は欽明天皇によるものとされており、共に最も古い八幡宮。欽明天皇は、八幡宮を建立して応神天皇を祀ることで、任那を取り返したいと願ったのだそうだ。応神天皇と朝鮮半島の間の強いきずながここにうかがわれる。

飛鳥の都

 飛鳥というのは、韓国語アスカにすると、砂州=スカに冠詞のアがついたものなのだそうだ。現に飛鳥は南方の山地から流れ出る2つの川に挟まれたところにあって(もっとも、宮本誠氏の「奈良盆地の水土史」によると、このあたりの河川は何度も付け替えがされたそうなので、現在の姿を古代にそのまま引き写して考えるのは危険なのだ)、本当に砂州に作られたものかもしれない。

 このあたり、古代は大きな大和湖が広がっていたという説がある。何を根拠にそうなっているのかはわからないのだが、上記「奈良盆地の水土史」によれば、海抜40米の場所で遺跡がいくつか発見されていることによれば、海抜50米までは湖だったという説は成り立たない。それでも、等高線地図を見るとhttp://www.gsi.go.jp/common/000184252.jpg大和川が西に曲がって生駒山系へ向かうあたり(大和川は山系を貫き、河内に出る。ここには河内湖という大きな湖水があった)は、低地がほぼ正方形になっている。それは南北で言えば、斑鳩から飛鳥にかけてで、だから斑鳩に住んでいた聖徳太子は毎日舟で飛鳥に出勤していたという仮説を立てる学者もいる。しかし万葉集その他、これは大和湖のことを言っているのではないかと思われるようなものはないので、大和湖があったとしてもそれは人間がやってくる以前のことだったのだろう。

 で、話しを戻すと、山地から二つの川が流れ出る、砂州と目されるところに飛鳥朝の宮殿、「飛鳥宮」はあった。田んぼの中の、今では何もない長方形の遺跡。発掘の結果では、ここには歴代の天皇が自分の宮殿を建てたが、柱は掘っ立て、屋根は板葺き。蘇我入鹿が殺されたのは、皇極天皇が蘇我氏に立てさせた「板葺宮」である。もう少しましな名をつければ、とも思う。

瓦がこのあたりで初めて用いられたのは、蘇我馬子が自分の権威を示すために仏教を盛り立て、法隆寺よりも前に、法隆寺を上回る規模の飛鳥寺(今でも当時の仏像をまつる堂があるが、これは後世の再建)を建てた時に、朝鮮半島の職人を呼んで作らせた時なのだそうだ。ならば、皇極天皇のために板葺宮を施工したのは馬子の子、蝦夷なのだから、もう瓦はあったはず。蘇我家の方が偉い、ということなのだろうか?

 その恨みかどうか知らないが、この掘っ立て柱で板葺きの「宮殿」で、645年蘇我入鹿は殺されている。女性の天皇、皇極天皇の面前で。当時の中国は唐。そのすぐ前は隋で、607年推古天皇(聖徳太子が摂政)が派遣した遣隋使が帰朝するのにくっついてやってきた、隋皇帝からの答礼の使節裴世清は、淀川河口から大和川に舟を乗り入れ、上流の初瀬川の海石榴市で舟を下り、迎えの馬で飛鳥に向かったことになっている。ここは飛鳥にとっての横浜のような場所で、百済がつかわした仏教伝来の使節もここで552年、下船している。だから川岸には「佛教伝来之地」碑が立っている。当時、川港のようなところだったと言うが、東京で言えば石神井川下流程度の河川。

 それはいいのだが、使節が馬に乗ってとことこ行くと、あまり何もないところに板葺きの掘っ建て家屋が立っていて、「ここが宮殿でござる」と言われた中国や朝鮮からの使節は呆れたことだろう。

 だからこそ、朝廷はこの頃、立派な都を作ることに情熱を燃やしたのだろう。新羅・唐の連合海軍に大敗を喫した白村江の戦いの後、日本を二つに分ける内戦の「壬申の乱」を制して、帝位についた天武天皇が志したのが、後の平城京を上回る規模と言われる「藤原京」の建設だった。現地の案内板だと、これが1694年に完成する前に天武天皇は崩御、完成したのは彼の未亡人である持統天皇の時代で、じゃによって藤原京は「二人の愛の産物」なのだそうだ。

701年大宝律令が発布されて、日本が律令国家としての体裁を整えたのは、この藤原京時代=白鳳時代。藤原京は、明治維新の時の東京に似た地位にあったようだ。ここは今、だだっ広い草地になっていて、ところどころに大極殿の敷地跡などが残っている。それにしても、平地のど真ん中の無防備なところによく作ったよ、と思う。自らの権力によほど安心していたのだろう。

陪民たち―漢氏、三輪氏、物部氏、蘇我氏、藤原氏

 飛鳥朝の歴史は単純ではない。多くのことは歴史に書かれていない。冒頭書いたように、天皇家がここに入ってくる以前からいた諸勢力(その多くは朝鮮半島や中国から来て、当時間もない)が入り乱れて、歴史を作っているにもかかわらず。それを今になって解きほぐすのは容易なことではない。しかし、今回地元で面白いシリーズ本を手に入れた。それは地元の青垣出版が出版した、漢(あや)氏や三輪氏や物部氏や蘇我氏の氏素性を克明に追ったもので、主たる著者は宝賀寿男(ほうがとしお)氏。大蔵省のキャリア出身という珍しい人物である。学界のしがらみ、タブーからは全く離れた立場から、そして元(税務?)官僚の徹底した調査手腕を発揮して、目からうろこの体験をさせてくれる。

 で彼によると、漢(あや)氏は百済からの移住者で、飛鳥の南西、桧隈のあたりに土地をもらって集住した。1970年代に発掘され、中から極彩色の壁画が出てきて話題をさらった高松塚古墳、そしてそれよりわずかに年代が古いも、発掘されたのは1980年になるキトラ古墳はいずれも、この地域にある。そして双方の棺室の壁に描かれた四神、つまり青竜、朱雀、白虎、玄武(カメヘビ)は、中国の陰陽道に由来するものである。高松塚古墳で描かれている宮廷の人達の服装も中国風のものである。惜しいことにこの二つの古墳とも盗掘されていて、副葬品は何も残っていない。なおキトラの埋葬者は、百済王昌成か高市皇子と想定されている。鑑定の結果、虫歯が多い。そして右側犬歯が、いつも何かをくわえていたかのように、へこんでいるそうだ。

 でこの漢氏は武力も備えていて、時の権力者に利用されている。例えば後世のし上がった蘇我入鹿は、漢氏の直駒という若者をたぶらかして、自分の娘かつ崇峻天皇の女官であった女性に惚れ込ませ(異説あり)、崇峻天皇を殺させてしまう。そして口封じのために直駒をすぐ殺すのだ。漢氏はその後、蘇我氏から中臣=藤原氏にうまく乗り換えて、後世には初代の征夷大将軍、坂上田村麻呂となっている。

 三輪氏
については、あまり研究が進んでいないようだ。宝賀寿男氏は三輪氏は韓国から九州を経てやってきたものだが、源流は中国大陸江南の越種族(タイ人)で、そこから竜蛇信仰を持ち込んだとしている。三輪一族が長く大神主を務めた大神神社の神体は後景の三輪山だが、主神の大物主は蛇である。この大物主は出雲の大国主とよく関連付けられるし、三輪氏も出雲との関連を指摘される。宝賀氏は、三輪一族は紀元2世紀頃、出雲から到来したと断じている。実態は良くわからないのだが、砂鉄を産し、朝鮮半島伝来の高い製鉄技術を有した出雲地方は、刀の生産のためには絶対味方に引き込んでおかないといけない勢力だったであろう。

 そしてその刀は物部氏に関係してくる。物部氏は宝賀氏等によれば、蘇我氏が伸びてくる以前、大和朝廷の「力の機関」、つまり軍、警察を握る勢力だった。その証拠は、天理市にある石上(いそのかみ)神宮にある。ここは物部氏の本拠とされ、祭神は剣の神。御神体は剣。大神神社に匹敵するような広壮な神社で、スサノオの命がヤマタノオロチを殺すのに使った剣などの名剣が保存されている。

以前は実に千単位の剣が保管されていたそうで、ここは大和朝廷の武器庫のような存在だったとされる。そのためか、ここと飛鳥の間には運河が通じていた跡がある。斉明天皇が自分の宮殿を作る石材を運ぶためで、そのために彼女は世間から批判されたとも言われる。
 
藤の木古墳とアフガニスタン

 で、この物部一族は蘇我氏と権力闘争をする。587年物部守屋は蘇我馬子との戦いで敗北するのだが、この時守屋が天皇にしようとしていた穴穂部皇子が殺されている。そして右皇子と親しかったとされる宅部皇子も殺されている。

面白いと言ったら失礼だが、飛鳥からは20キロ以上離れた斑鳩(聖徳太子の居所、今の法隆寺のあるところ)で発掘された藤の木古墳は、盗掘されていなかったために、金銀の絢爛豪華な副葬品が山と出てきて、現地に陳列されている。精巧な細工だ。金の細工と言うとすぐ、ユーラシアのスキタイ文明を思い起こすのだが、まさにその系統で、一つの冠の意匠はアフガニスタンで発掘された昔の冠のものと共通しているそうだ。そしてこれらの副葬品の多くは馬具(但し装飾用)であり、それは江上波夫氏の言う「騎馬民族」が当時既に日本で定着していたことを示している。

 因みに、この古墳の石棺は今でいうシングルベッドくらいの小さなものだが、中には2体の成人男性(一体は女性とする説もある)の骨が寄り添って横たわっていたそうだ。これが今流行りのLGBTだったかどうかは知らないが、測定された死亡年齢から言って、二人はちょうど上記の穴穂部皇子と宅部皇子であって不思議でないそうだ。

因みに蘇我馬子に殺された穴穂部皇子の母親は蘇我氏、彼の姉の穴穂部間人皇女で聖徳太子の母。つまり当時は一族の間でも、皇位をめぐって殺し合いをしていたのだ。このあたり、古代日本は本当にロマンに満ちているのだが、不思議に親近感がない。どうも、古すぎる話しなのだ。

藤原鎌足と「御破裂山」の言い伝え

 物部氏を滅ぼした蘇我氏を滅ぼした中臣、後の藤原鎌足。藤原氏500年の栄華の源流に位置する人物だ。大和朝廷では神官的役割を果たす家柄で、蘇我氏が仏教を導入したことで商売あがったり、深い恨みを抱いていた(というのは、筆者の仮説)。もともとは645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と飛鳥のすぐ南、多武峯(とうがみね)中腹にあったサッカー・グラウンドというか蹴鞠場に赴いて、蹴鞠をしながら蘇我入鹿暗殺計画を練ったことになっている。そして彼の墓は多武峯の頂上にあって、国家の危機が訪れると、その山頂が裂け、鳴動して光を発するのだそうだ。

奈良盆地は瀬戸内から伸びる火山帯の上にあって、死火山もある(畝傍山、耳成山等)。だから多武峯も火山なのかもしれない、と思って、今回好奇心丸出しで登ってみた。これは、ふもとの談山(たんざん)神社から500米急坂を上るのだ。途中ちょうど半分のところに、「大化改新御相談所」あるいは「御相談所」という立札がある。まあ、「策謀」とか「陰謀」とか書けないのだろうが、「御相談所」では迫力がない。ここは鬱蒼とした山の中、直径20米もない円形の台地があって、ここで二人は蹴鞠をしたことになっている。多分、「ちょっと蹴鞠してくるからな」とでも言って、絶対盗み聞きされないこの山腹で謀議をこらしたのだろう。蹴鞠が外れれば、ころころ転がり落ちそうな狭い場所なのだが、蹴鞠というのは反発力がなくて、蹴ると、紙風船に似た感触なのだそうだ。

で、そこから更に250米上ると山頂になる。小さな祠があり、その後方にはこんもりとした泥の山がある。多分陵なのだろう。横の案内板には、「ここが藤原鎌足の墓所で国家不祥事には鳴動」とあるが、この泥の山が溶岩丘とは見えない。但し記録では、1600年頃までは鳴動していたそうだ。今回の登山はちょうど、国会が森友・加計学園問題という「国家不祥事」で揺れている時だったが、ここ多武峯の「御破裂山」はしんと静まり返っていた。多分、鳴動するほどのこともない、スケールの小さな不祥事ということなのだろう。

なお、藤原鎌足の陵とされる場所は他にもある。東京の新宿にも多武峯内藤神社というのがあり、祭神は藤原鎌足となっている。もともとは、江戸時代の内藤家屋敷の内部にあったもので、内藤家は藤原家の末裔と言われる。ここに「内藤の新しい宿場」ができ、新宿となった。つまり新宿も藤原鎌足からみ。

かぐや姫の里

そして大化の改新後間もない斉明天皇の時代。この時代はペルシャ文明の匂いがする。飛鳥に残る、いくつもの独特な石の彫像はゾロアスター教、ペルシャ文明に由来する可能性が指摘されている。中には、かぐや姫は当時日本に漂着したペルシャの王女をモデルにしたものだという説もある。

孫崎紀子女史の書いた「かぐや姫誕生の謎」という本がある。これは既にある同種の研究を下敷きに、日本書紀にもある「トカラ人」渡来伝説をふくらませ、かぐや姫はそのトカラ人=ペルシャ人王族の姫君だったのではないかと推理している。彼女は長じて飛鳥の北西、斑鳩の近く、今の葛城郡広陵町に陪民とひっそりと暮らしていたのが、天皇に側室に望まれたのを忌避するために、死亡を装う薬を服用、飲み過ぎて本当に死亡し、鳥葬に付されたので、あとかたもなくなったように見えた。陪民は、怒った朝廷の使いに切り殺されて、今は地元の讃岐神社(「讃岐」はペルシャ語由来なのだそうだ)の祭神となっている、というのである。

で、広陵町の地図を見ると、「竹取公園」というのが目についた。好奇心にかられて八咫烏ならぬカーナビに導かれて行ってみると、驚いたことに「かぐや姫の里」という大看板が道端に立っている。地元はもうすっかりその気。町おこしにかぐや姫を使おうというのだろうが、まだ説明看板等は整っていない。かぐや姫まんじゅうもなかったが、町のイメージキャラクターは「かぐやちゃん」である。

何かの資料に「鳥葬の丘」という名称を見たのだが、これは見つけることはできなかった。「竹取公園」というのは本当にあって、うっそうたる竹林。かぐや姫が見つかった竹はここにあったのかも。その横に小高い丘があったので、あるいはそこでかぐや姫は鳥葬に付されたのかもしれない。そこの土からDNAでも分析してみてはどうか?

というわけで、飛鳥というのは縄文、弥生、朝鮮半島、中国、ペルシャ、アフガニスタン、そして彼らの神々が入り乱れた、非常にコスモポリタンな時代であったようだ。飛鳥坐神社の陰陽石や夫婦和合の祭りのような古俗もそれに混じっている。

こう見ると、古事記などはこうした神々や滅ぼし滅ぼされた諸豪族を関連づけて、先輩・後輩関係をはっきりさせた、一種の神々の台帳のような意味を持っているのではないかと思われる。無数の古墳、陵は未だ発掘されていないので、これから益々予想外の発見があることだろう。それまでは、我々は日本の故事来歴をちゃんと知ることもできないのである。

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