日本史始原探訪
新年おめでとうございます。
新年はなぜかすべてのことが改まったような気がする不思議な日で。究極の錯覚、VR。
今年もよろしくお願いします。
(これは、27日に「まぐまぐ」社から発売したメール・マガジン「文明の万華鏡」第68号の一部です。正月にふさわしい話題なので、アップしておきます。
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いよいよ天皇陛下の譲位の日が決まった(再来年の4月30日)。来年度予算では、一連の儀式に必要な用具、装束などの調達に16.5億円の予算が計上されている(産経ニュース)。この機会に天皇家、あるいは日本史の始原について、僕が興味を持っていることを並べておく。これからまとめて本にしようと思っている、日本史・世界史の目のつけ所シリーズの第1回である。
一つの時代から次の時代への変わり目に、何が起きたのかを知るのは、次の時代の基層にあるものを心得る上で必須なのだが、権力の交代期には記録が残りにくいし、後に成立した権力は征服を正当化するために神話や歴史を作り直すので、真実がますますわからなくなってしまう。そこをあえて分け入って、僕なりに一応のイメージを得てみようというわけだ。
・「日本人」の祖先がいろいろな所からこの列島にやってきたことは周知のとおり。シベリア、朝鮮半島、中国南部、台湾、東南アジア等々。しかし、いつ頃、どこから、どういう経路でどういう人たちがやってきて、日本で相互にどういう関係を繰り広げたのかは、多分これからも特定できないだろう。タイム・マシンでその時代に行って見でもしない限り。
・「縄文時代」は約1万5,000年前から約2,300年前(紀元前4世紀頃)までの1万年余も続いたとされる。初期の頃には、日本列島は朝鮮半島とつながっていたと目されていて、これは「日本民族」の由来を考える上では重要なことだ。
しかしその間、その後にも、様々の民族が様々の文化をもって諸方から日本にやってきたに違いなく、これを「縄文時代」の一語でくくるのは、ただ便宜上のことに過ぎない。例えば、九州霧島の上野原遺跡は青森の三内丸山遺跡より4500年以上古いとされる。そしてこの九州の縄文式文化は、今から7300年前、つまり紀元前5000年くらいにあった、鹿児島南方の鬼界カルデラの大爆発で壊滅したと推定されている。そして後者では、主食と目されるクリを栽培していた跡がある。
面白いのは、縄文式文化の遺跡は東北と九州に多く、西日本には少ないと言われることだ。その理由を、縄文時代に海面のレベルが上がり(ウィキペディアによれば「縄文海進」と呼ばれ、約6,500年前-約6,000年前にピークを迎え、ピーク時の海面は現在より約5m高く、 気候は現在より温暖・湿潤で平均気温が1-2℃高かった由)、列島の平野部の多くが湿地帯になったと思われることに帰する向きもある。
現に、奈良盆地の多くは飛鳥時代初期にも大きな湖で、今の「山辺の道」はそれこそ「湖畔の道」であったかもしれず、万葉集の歌や当時の歴史を考える上でも、それは避けて通ることのできないことなのだ(http://blog.goo.ne.jp/nambashout/e/1858903decf3df8427ce6f66be8b8ae7)。しかしその西日本でも、縄文時代のものと思われる銅鐸(内部に舌がついている、鐘のような楽器だったようだ)は淡路島や出雲地方から多く発見されている。
・縄文時代のものと思われる奇妙な遺跡がいくつかある。一つはストーン・ヘンジに似た、秋田県の鹿角市にある「大湯環状列石」遺跡である(石が環状に並べられているが、ストーン・ヘンジのような巨石はない)。なお、青森県新郷村には「キリストの墓」があるが(http://4travel.jp/domestic/area/tohoku/aomori/hachinohe/hachinohe/hotplace/10007043/)、これは縄文時代以降のことである。何でもイエス・キリストは米農家になっていたらしい。
・弥生時代は紀元前5世紀頃から紀元3世紀中ごろまで――それ以降は同じ民族が有史時代に入っていく――とされていたが、最近の調査では水田稲作の始まりはさらにさかのぼることが判明し、合計1200年間ほどは続いたものと考えられるようになった。
イネというのは、一粒が200粒にも増える驚異の作物で(麦は20粒)、養える人口はけた違いに大きい。だから学者によっては、縄文時代の日本人口は10万人台、弥生時代には100万人台との推計を行っている。日本では戦国時代、ちょっとした平野があればかなりの城が建ったが、これは稲がもたらす富に基づいたものだろう。稲作の導入は、19世紀の産業革命にも類する衝撃を社会にもたらしたのだ。
・大和朝廷の始原はよくわかっていない。神武天皇が開いたことになっているが、実在の人物なのか、そしていつ頃の人物なのかについて定説がない。そして卑弥呼の邪馬台国と大和朝との関係もわかっていない。邪馬台国、卑弥呼という名称は中国の魏志倭人伝に記載されているものだが、古事記や日本書記には一切言及がない。
だから学者によっては「当時、台という字はトと発音されていた。だから邪馬台国はヤマトのことだ。卑弥呼はそうすると日の御子(巫女)で、天照大神のことではないか」と推測する者もいる。
その場合、魏志倭人伝で魏が卑弥呼に贈った「親魏倭王印」は、卑弥呼が葬られているはずの奈良の箸墓に、副葬されているに違いない、ということになる(発掘調査は行われていない)。因みに魏の記録では卑弥呼は「真朱」、つまり赤い水銀化合物も魏から贈られたそうで、もしかすると卑弥呼の遺体は箸墓の中で「真朱」の中に沈められているかもしれないという推測もある。これはすごいイメージで、ホラー映画にでもできるだろう。
・卑弥呼は247年頃殺されたと比定されている。弟に殺されたとする説、あるいは外敵に殺されたとする説が入り乱れている。もし邪馬台国が大和地方にあったとすれば、熊野に上陸して紀伊山地を北上し、飛鳥方面から大和平野に攻め入ったとされる神武天皇の勢力に卑弥呼は殺されたのかもしれない。しかしそうすると神武天皇は、今から2700年前の人という戦前の説から紀元3世紀の人ということになって、日本史は実に10世紀くらい縮まってしまう。中国が自分の歴史を毎年500年くらいずつ延ばしている今日、日本史をこれ以上短くしてはならない(?)。それに外部勢力が卑弥呼を殺したのだとすれば、その征服者は、敗者卑弥呼のために箸墓のような立派な墳墓を作るだろうか?
因みに、日本書記では、神武以前に大和平野にいたのは「ニギハヤヒ」王だとしている。そしてこの王族が神武天皇に帰順して、後の物部氏になったのだという解釈も行われている。だから、邪馬台国が大和にあったのだとするなら、卑弥呼は神武天皇よりはるか後に君臨し、魏に使節を派遣することで歴史に名を残したのであろう。
・因みに卑弥呼が殺されたとされる247年は、日本では神功皇后が支配していたことになっている。これは第14代の仲哀天皇が200年に亡くなり、第15代の応神天皇が即位するまでの70年間という長い期間を一人で君臨したことを意味し、実際にあり得るわけがない。そしてこの神功皇后は朝鮮半島の三韓征伐、ないし新羅征伐を指揮したとされていて、はるか後の朝鮮併合を正当化する材料となった。この70年間が実際は混乱の時代であったのなら、卑弥呼もその中にいたのかもしれない。そして、第15代の応神天皇は、以前とは違う血統から即位したものかもしれない。つまり、日本にもいくつもの王朝が存在していた可能性がある。
・大和平野の歴史を複雑にするものは、他に出雲がからんでいて、その実相がわからないことである。出雲との関連が指摘されるのは、三輪山を神体とする大神(みわ)神社。
大神神社が祭るのは大物神(蛇)で、この大物神は古事記、日本書記とも出雲の大国主神と関連付けている。この神社が歴史に登場するのは卑弥呼より古い崇神天皇の時代(紀元前1世紀)なのだが、この崇神天皇というのは謎の多い人物で、大物神を祀る一方で天照大神を宮中から外に出し遂には伊勢に移したようである(そのせいか、六九二年の持統天皇を除いて、歴代天皇は明治に至るまで誰も伊勢神宮に行幸していない。そして持統天皇の行幸にも重臣、三輪の高市麿が強硬に反対した。三輪氏の別名は大物(みわ)氏で、出雲あるいは福岡の出身と言われる)。
・崇神天皇は第10代の天皇だが、ここまでは実在性があやふやだとも言われており、いずれにしても崇神天皇は外部からやってきた勢力であった可能性がある。そして前記のように、その後第15代の応神天皇でまた血統が入れ替わった可能性が指摘されている。
なお大神神社の麓は三輪で、ここは素麺の故地。今でもそこらじゅうに素麺が白く干されているのだが、これは中国伝来の食物の流れだそうで、それをもたらしたのは呉出身の勝(すぐる)氏だ、という説がある。もう一つの素麺の産地、兵庫の揖保でも勝氏の足跡はあるようで、勝氏はもともとは出雲から来たとも言われる。これも出雲と奈良の関係を示すものだろうが、エピソードに過ぎない。
・出雲と大和朝廷の天皇家は古代から関係が深く(現代でも高円宮妃久子様は、出雲大社代々の宮司、千家の長男、国麿氏に降嫁している)、千家は代替わりのたびに宮中に出向いて「出雲国造神賀詞」を述べる習わしだった。そして大和と出雲のちょうど中間、丹波地方の亀岡には、出雲大神宮があり(創建時期は不明)、祭神は大国主神である。大和から出雲へか、それとも出雲から大和へ進軍したのか、いずれにしても両者はつながっているようだ。
なお、出雲勢力の故地は後世の出雲大社よりも意宇川上流の熊野大社であったとされており、これは神武天皇東征のルート上にある紀伊の熊野本宮大社と名称が通ずる。後者の創建は上記の崇神天皇の時とされ、祀る神は素戔嗚神、つまり出雲の神なのである。しかし、だからと言って、紀伊の方は島根の熊野大社より後にできたとも言い切れない。紀伊の方には以前から地元の神が祀ってあったのを、神を入れ替え、名も熊野にしただけかもしれない。
なお熊野神社というのは日本全国にあり、大体は紀伊の熊野本宮大社のフランチャイズである。新宿にも熊野神社がある。今の新宿副都心の前身淀橋浄水場は、十二社池をつぶして作られたが、この十二社池のあったほとりに今でも熊野神社が立っている。祭神は素戔嗚とイザナギ神で、熊野本宮大社から招請している。
・もう一つ、さらに日本史を複雑にするものに、九州北部にあったかもしれない、伊都の国という存在がある。中国の記録では、紀元57年に後漢の光武帝から金印を受けた日本の国王がいるが、この金印は例の有名な「漢委奴國王印」で、これを受けたのは伊都の王であったかもしれない。卑弥呼が魏から金印をもらったのは、その約200年後の話しだ。インターネットに出ている話では、この金印は地元の細石神社――伊都国の宮殿跡と目される――の宝物だったのが、江戸時代紛失し、百姓が畑から見つけたことになっている。しかしこの純金の金印は長年地中にあったとは思われないほど無傷であるし、彫ってある字が「漢委奴國王」だといやに速く鑑定した黒田藩の学者、亀井南冥はその功績でライバルの修猷館系に勝って藩校長に任命されながら、その後修猷館系の巻き返しにあって失脚している。彼が金印の「紛失」にからんでいたことも十分考えられる。今で言うなら、県立大学長の地位をめぐる争いに、国宝が巻き込まれたようなものだ。
・伊都国でもっと面白いのは、光武帝から金印をもらった「奴国」の使者は、「自分たちは呉国の祖、太伯の後裔である」と述べたということである。この呉は三国志の一つの国の呉よりは前の春秋時代、同じく揚子江の下流にあった呉で、紀元前473年に越に滅ぼされている(呉越同舟の因縁同士)。三国志の方の呉は、紀元222年 - 280年に存在した国である。そして4世紀末、朝鮮半島を通じて「千字文」で漢字が伝わる以前から日本で用いられていた漢字の読み方は「呉音」と称され、古事記の万葉仮名もこれによっている。これが本当に呉で使われていた読み方なのかどうかは、証拠がない。
・そしてこの(春秋時代の)呉から来たと称する人たちは「安曇」姓を名乗り、日本の諸方に拡散していった。呉出身であるためか航海術に優れ、水に関係するところに多くその後を残している。伊勢湾の渥美半島、伊豆の熱海、そして長野県の安曇野等である。
景行天皇(紀元1-2世紀)の時代まで松本から「安曇」野にかけては広大な湖があったらしい(http://smile-labo.co.jp/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E3%83%BB%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%AE%89%E6%9B%87%E6%B9%96/)。そのあたり、今でも「島々」、「海ノ口」、「有明」の地名がある。そして上高地は昔「神垣内」と書き、それは「穂高神社」の神域であることを意味した。この穂高神社は安曇氏によって創建されたものと思われており、祭神は例の金印が発見された志賀島の志賀海神社と同じ海の神「綿津見三神」系。志賀海神社の宮司は代々安曇姓を名乗っている。
「穂高神社」は湖水もないのに、船の形をした山車を繰り出して「お船祭り」をするが、これも海洋民族だった安曇氏とのゆかりを示唆するものとされる。
・この伊都国は663年の白村江の戦いの時代まで存在していた可能性がある。しかし、それは次号でまたフォローすることにする。
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