山陰紀行 古代現代タイムスリップ
5月の連休は松江、出雲、石見、萩、秋芳洞をまわってきた。初めてではないが、今回はいろいろ調べもしたので、面白く感じたことだけ気ままに書き散らす。
大阪でレンタカーをして、連休の大変な渋滞の中を高速道路で松江に向かう。中国地方は随分大きくて、大阪から下関までの全長は500キロもあるのだ。借りた車はスズキのスイフト。スズキを運転するのは初めて。予想外の素晴らしい車だった。オートバイ・メーカーの作るエンジンというのは、粘りがあって、吹き上げる抜けも素晴らしいものだけれど、このスズキのスイフトがまさにそれ。トランクが小さいのが玉にきずだが、排気量1200CCと小ぶりなわりには、出足はBMWのごとく、コーナリングはベンツのごとくで、良かった。スズキと言えば鈴木修社長のワンマンだと思いがちだが、この社と取り引きのある友人の話しを聞くと、社内の雰囲気は自動車会社の中では最も自由闊達な方らしい。
山陰は火山の国
それで中国地方山地を横に走る「中国道」から分かれて米子、松江方面めがけ、「米子道」に入り、北方へ向かうと、視界が開けて壮大な高原の右の方に大山が見えてくる。僕は大山がどこらへんにあるのか、これまでどうもわからずにいた。と言うのは、山陰では松江に行っても萩に行っても大山ではないかと思われるような山が見えるし、昔「大山は中国地方どこからでも見える」というでたらめを見た記憶があって、なるほどと思っていたからだ。「大山は鳥取県にある。そして大山に似た火山は山陰の諸方にある。山陰は火の国だ」というのが、今回発見したこと。
なぜかと言うと、山陰には「大山火山帯」というのが横串にずっと通っていて、山陰地方で多い地震はこの火山帯のせい。死火山(今日の基準では活火山に分類されるものが多い。老人の回春のようなものだ)、活火山が本州の日本海側にずらっと並び、中世に開発された金山、銀山の多く(北から院内、尾去沢、小坂)はこの火山帯の上にある。あとで言うが、松江と萩の間にあって、16世紀にはボリビアのポトシ銀山と世界一、二位を争った岩見銀山は、まさに「仙の山」という名の死火山そのものを掘ったのだ。そして後で言う、タタラ製鉄の原料となった砂鉄(磁鉄鉱)も、地中から噴き出たマグマが固まった花崗岩の中に含まれているものだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E5%B3%A0#.E4.BA.BA.E5.BD.A2.E5.B3.A0.E5.B1.A4)。ウラン鉱石がとれた人形峠も山陰にあって、やはり火山活動の恩恵だ。
そして僕が昔、「山陰ではどこに行っても大山が見える」と思い込んだのは、大きな死火山がそこらじゅうにあるからだ。例えば松江の南に三瓶山(さんべさん)という標高1126米の死火山(今の基準では活火山)がある。石見銀山自身、「仙の山」という死火山であることを、今回現地の博物館で知った。長州藩の都だった萩も火山群の真っただ中に所在していて、沖合のいくつものテーブル状の島々は溶岩の噴き出したもの、萩城の天守閣がその麓にあった指月山は標高143米で、海辺に突き出た溶岩ドームなのだ。
山陰の正体が見えてきた。ここは「火の国」だったのだ。そして火山がもたらした砂鉄で中世・近世は製鉄の中心地。文字通り溶鉱の「火の国」となる。
火山ということでは、かのおとなしい瀬戸内海、四国沿岸も火山帯だったことを、今日認識した。今でも火山のようなかっこうをした島や山がぽこぽこあるし、火山特有の安山岩でできた島が多い。小豆島は火山活動の結果できたらしいし、新居浜の別子銅山も火山活動の賜物だろう。この瀬戸内にあった火山帯は奈良の方まで伸びていて、かの畝傍山、そして大津皇子の墓のある二上山も火山だったというからおそれいる。この瀬戸内にあった火山帯はだんだん北に移って大山・白山火山帯になったらしいが、もしかするとマグマはずっと同じところにあるのを、日本列島が大陸から離れて南下したからそうなったのかもしれない。
古代出雲王国と大和朝廷
山陰に話しを戻すと、このあたりは古代日本発祥の謎を握っている。松江周辺にあったと思われる有力な王国が伝説、神話に残り、神社に残っているからだ。
まず「国引き」の伝説。大国主命がその昔、前出の三瓶山にロープをかけて朝鮮半島から土地を引き寄せたことになっている(韓国に知られていないことを望む)。余談だが、大国主命がワニ(サメ)をだまして罰に皮を剥かれたウサギを助ける「因幡の白ウサギ」の伝説。あれも子供の頃から、こんなところにサメがいるものかと高をくくっていたのだが、萩のあたりの玉之浦では明治の頃までフカがとれていたことを、地元の博物館で知った。「因幡の白ウサギ」はホントにあった話しなのだ。
この「有力な王国」は松江の南(平野が広がっている)の意宇(おう)に本拠を置き、今でもある熊野大社を祀っていたのだろう。因みにこの神社は火発祥の地とされて鑽火殿というお社もある。10月15日には、鑽火祭(きりびまつり)というお祭りもある。京都の北野天満宮など、日本の諸方で鑽火祭は行われるようだが、それは熊野大社に発しているかもしれない。拝火は世界中で行われるけれど、熊野大社とペルシャのゾロアスター教、あるいは東大寺二月堂のお水取りに関係があったら面白い。
熊野大社と言えば、和歌山の熊野本宮大社を思い浮かべるし、両者は関連していると見る向きもある。それは大和朝廷の成り立ちにも関係してくることだ。神武天皇東征の軍は南方からやってきて奈良盆地(当時はかなりの部分が大きな湖水に覆われていた)を征服したことになっている。
その軍は一時生駒山北から奈良盆地に侵入しようとして撃退されたので、紀伊半島にまわって吉野山地を突っ切ったことになっているのだが、それが事実なら熊野本宮大社はそのルート上にあるし、その神武天皇の軍が山陰に発したものなら(九州から来たことになっているが)、熊野大社と熊野本宮大社はまさに姉妹関係にある。熊野大社の社伝では、地元の住民が紀伊の国に移住した時に分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元ということになっているそうだが、普通の住民があの荒い熊野灘を船で乗り切って移住するものだろうか?
(熊野大社を司った家はその後出雲大社に移り、出雲大社の方が格が上になったようだが、今でも儀式のための火は後者が前者にとりに来るらしい)
もう一つ、奈良盆地の大神(おおみわ)神社は日本最古の神社の一つとされ、神武天皇以前にこの地を治めていた豪族(その後裔は三輪氏なのだそうだ。大神神社の御神体は後方の三輪山である)の守り神だったという説と、崇神天皇が夢のお告げで大物主神をまつったのが始まりだという説の双方がある。そしてこの大物主と大国主の関係が諸説入り乱れていて、中には同一神だというものもあるが、いずれにしても大和と山陰には何か歴史上の因縁がある。両者の中間にあたる京都の西、近畿と山陰を結ぶ国道9号線に亀岡という町があるが、ここには出雲大神宮というのがあって、大国主神をまつり、かつ縁結びで有名なのだ。
昔どちらからどちらに征服のための軍が向かったのか、それが神武天皇や崇神天皇とどう関係していたのか。インターネットを探っていけばいくほど頭が混乱してくる。なお、周知のとおり、大和朝廷の主神天照大神の弟で黄泉の国を差配する素戔嗚命は山陰に縁が深い。熊野大社の主神、伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命様は、素戔嗚命の別名だとも言われる。
製鉄の中心地
先祖たちが歴史をあれこれ書き換えたせいで、古代日本史のことを調べていると、頭が痛くなってくる。で話しを戻して、車が大山を過ぎて米子にさしかかろうというところ、目の前に大きな溶鉱炉のような工場が現れて驚いた。鳥取県にはろくな産業がないと聞いていたからだ。スマホで調べると、それは本当に溶鉱炉。米子製鋼という大企業のものなのだそうだ。それも不思議ではない。今の鳥取県、島根県のあたりは英国で言えばバーミンガムのような製鉄の中心地だったのだから。
江戸時代の記録では、日本の輸出(その多くは中国に向かっていた)品目の一位は銅貨、2位が刀ということになっており(松江歴史博物館での解説)、日本は兵器輸出で食っていた。そしてその刀の原料となる玉鋼は、この出雲で一手生産されていたのだ。当時の松江藩にとっても製鉄は主要な財源で、17世紀になるとこれに綿花が加わっている。松江の歴史博物館での展示によると、明治になっても島根県は全国の鉄生産の半分を支え、中国地方では9割を占めていたそうだ。
タタラ製鉄は朝鮮半島から使わった技術。鉄を握る国は軍事強国となる。となると、出雲にあった王国は、朝鮮半島と緊密な関係にあったもので、地元に鉄を発見したか、あるいはこの鉄を狙って来襲したかどちらかなのだろう。この地方、「砂鉄」から鉄をとると言われるが、砂鉄は早くに取りつくして、中世からは山地の風化された花崗岩を取り崩して「砂」にし、そこから鉄鉱石を浮遊選鉱で得ていたものだ。
山口大学の貞方昇教授がインターネットで公開している資料「鉄穴流しに由来する中国山地・臨海平野の景観変容とその今日的意義」によれば、最大10米ほどが掘り崩され、それは1万9000ヘクタールに及ぶので、9-12億立米の廃土が出てきた。その後は農地に活用されたところもあるが、廃土は砂となって海に流出。鳥取の砂丘が今では有名だが、これは千代川が運んできた砂によるものである。また天橋立はタタラ製鉄が盛んになるずっと前から基本的地形はできていたようだが、製鉄の廃土がこれを更に大きなものにしたことは十分考えられるだろう。
そして車は西、つまり松江の方角に向かう。このあたりで今回、「境港」というのは松江の東隣り、中の海と外海を結ぶ水路に面していることを認識した。なぜそんなことにこだわるかというと、酒田、富山、小浜、敦賀など、日本海側の港は、現在は知られていないが、古代には朝鮮半島、中国大陸の方を向いた「表玄関」だったし―9世紀、渤海国の使節は敦賀港に着いている―、江戸時代には北海道松前から米を集荷しながら大阪に至る廻船の航路上にあって、経済史上重要な役割を果たしているからだ。
松江歴史館の資料によると、日本海廻船航路は1671年に正式に発足したそうだ。多分バルト海のハンザ同盟と同じく、入港しても余計な関税や料金を取らないという合意が集積したものだろう。富山に行くと当時の廻船問屋の家がそのままあって、そこから現在の北陸銀行が発生したことが手に取るようにわかる。
松江は素晴らしい街だ。近くの石見銀山は幕府直轄なので、この富が松江を潤したのではないかもしれないが。松江歴史館の資料によると、18世紀初め全国で米価が下落し、天災が続いたことで、藩の財政は逼迫した。松江藩は年間歳出の4倍相当の負債を抱えたが、100年以上かけて無借金になっている。ハゼの木から蝋をとったり、朝鮮人参を栽培したり、努力したあげくの話しである。こういう、赤字財政を立て直した話しは諸方にあって(多分、前記の米価の下落が全国的に引き金になったのだろうか?)、例えば米沢の上杉藩主、上杉鷹山の政策が知られている。松江も米沢も、政策が効果を発揮し出したのは、始めた者が去ってずっと後のこと。ひょっとすると、安倍総理も100年後には日本の財政を立て直した英雄として、歴史書に載っているかもしれない。
松江藩を治める大名は、江戸時代に3度代わっている。御国替えはよほどのことでもないと起きなかったと思っていたが、結構起きている。最後は譜代の松平氏が治めたのだが、幕末には藩政府総勢は1158名。うち200石以上の扶持を持つ幹部級は70名のみだったそうだ。後者の数は当初はもっと多く、戦国時代の群雄割拠の後を引いていたのだろう。そう言えば、隣りの毛利藩では領地がいくつかの「宰判」という行政単位に分かれていたのだそうで、これも地方の豪族の版図をそのまま認めたものだったのかもしれない。
石見銀山
石見銀山のことを言っておこう。これは出雲と萩の中間にあって、ユネスコの世界遺産になっている。ずっと以前から銀がとれていたのを、明との貿易で潤っていた大内藩(大内義隆の大内)が本格的に開発、尼子、毛利、次いで徳川の手に渡っている。関ヶ原の戦いで西軍が敗れるや、徳川は石見銀山を直ちに直轄下に収めた、と地元の資料館はいう。そして盛時には家族を含めて20万人が住む一大集落を成したそうだ。墓が1万1000基発見されているので、それもあながち誇張でないかもしれない。地元資料館には、坑道の模型が飾ってあるが、地中で掘られたにもかかわらず、銀の鉱脈を最大限効率的に掘り出すべく、何本もの坑道が並行に掘られて、まるで地中の蜘蛛の巣のような模様を形作っているのには驚いた。測量技術が発達していたのだろう。
16世紀末、日本は銀の輸出大国で、マニラ経由で明朝に運ばれた日本の銀は年間100トン。これはボリビアのポトシ銀山等からマニラを経て運ばれる中南米の銀、年間50トンを大きく上回り、明にとっては銀の最大の供給源だった。
そして銀は佐渡の金とともに幕末までには枯渇して、明治政府は初期の頃、もっぱら石炭の輸出で外貨を稼いだのである。まるで今の北朝鮮だ。と言うより、日本も以前は資源大国だったのだ。
萩と長州藩
萩は、毛利藩にとっては、豪州のキャンベラのような人工首都。関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めて敗北し、それまで8カ国を領していたのを2カ国に減じられ(それでも37万石で大名の中では10位)、広島を追われて藩都を荻に移さざるを得なかったうらみは大きいだろう。萩は物流・経済のハブにはなり得ず、仮の都という気持ちがつきまとったことだろう。写真で見る萩城天守閣(明治7年に取り壊されている)も、メンテが悪かった。この毛利藩・長州藩が明治革命の原動力になるのだから、面白い。薩摩は大名の中では前田藩に次ぐ所領の大きさ、かつ沖縄を通じる中国との密貿易で潤っている。長州はその点どうしていたのか知らないが、吉田松陰から始まる一連の志士で、イデオロギー面での貢献をしたのだろう。
その松陰塾、萩のはずれで歩いて10分ほどのところかと思っていたのだが、バスに乗って15分ほど。歩いたら1時間は優にかかるところにあった。吉田松陰、今回いろいろ資料を見ると、どうも思い込みの強い、何々と紙一重、あるいは半重の人で、誰々の主張がちょっと気に入らないと思うと、塾生に対して暗殺をそそのかしていたようだ。これでは何かに似ていて、あまり尊敬する気にはなれない。まあ、国家が倒される時というのは、こんなもので、フランス革命もそうだけれど、思い込みの強い唯我独尊の連中が押し合い、圧し合い、殺し合いをして、誰も残らず、結局保守的なナポレオンとかプーチンとかにまとめられてしまうのだ。
その吉田松陰、可哀そうに長州藩から厄介者払いされて江戸に突き出され、井伊直弼の安政の大獄であっけなく斬首されてしまうのだが(武士だったのに斬首されたのは、幕臣暗殺を企てたため?)、その遺骸は小塚原の刑場脇に埋められていたのを、彼の学徒の高杉晋作などが掘り出して、今は世田谷区の豪徳寺近くに埋葬し直す。これが松陰神社で、考えてみれば、世田谷区に山口県の英雄の神社があるのも、奇異なことだ。このあたりは谷の多いところで、松陰神社から谷を経た向こう岸は、彼を斬首させた井伊直弼の墓がある豪徳寺だそうで、これもまた面白いことだ。
ところで吉田松陰の掲げた「攘夷」。これは外国人皆殺しと同義に聞こえるのだが、必ずしもそうではなかったようで、今で言えば反米・自主独立と同程度、要するに植民地主義勢力から日本を守れ、圧力に屈するな、程度のものだった。もちろん、過激分子は皆殺しの方に走ったが、吉田松陰自身、米国の力の背景を自らの目で確かめたいとして、ペリーの船で米国に行こうとしたくらいなのだから―費用はどうするつもりだったのだろう―、攘夷というのも盲目的なものではなかったのだ。
その証拠としてよくあげられるのが、長州藩の井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)5人の「英国留学」である。このうち井上聞多は1862年江戸の英国大使館を焼き討ち、1863年6月には下関砲台から英国軍艦を射撃した数日後、藩主の命令で江戸経由、英国に旅立っている。当時の英国にトランプ大統領のような人がいたら、とても入れてもらえなかっただろう。
一般にこれは長崎のグラバー商会から資金を出してもらったことになっているが、萩博物館の資料によれば、長州藩が兵器をグラバー商会から購入するための資金を担保に金を借りた形(変な担保だが)で彼らを送り出したようだ。だから、貧乏留学だったようだし、伊藤と井上は激動の日本に早々に帰国している。
というところで、尻切れとんぼですが終わりです。調べながら書くのは大変でしたが、楽しいことかぎりなしというところでした。
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