2016年の東アジア
(これは昨年12月29日発売のNewsweek誌日本語版に掲載されたものです。中国経済が危ないことを書いておきましたら、年頭早々上海株価の暴落が世界を揺らせています)
この世界には「地震の巣」ならぬ「紛争の巣」と呼んでいい地域が三つある。それは欧州(旧ソ連との境界)、中近東、そして東アジアである。いずれも、ソ連、オスマン帝国、清朝といった大帝国が崩壊したあとが、紛争の巣となった。今、世界マスコミの焦点は前二者、つまりウクライナ問題とシリア問題に当たり、東アジアでの紛争は国際マスコミの画面から遠ざかっている。
2016年も、この趨勢は続くだろう。しかし北朝鮮が崩れるようなことがあれば東アジアは震度7、もし中国が大きく不安定化するようなことがあれば――習近平のしていることは、ソ連を崩壊させたゴルバチョフの政策に良く似ている――、その震度は8、そして大津波となる。
東アジアの基本構造
東アジアの大半は古来、中国を中心とする秩序の下にあった。日本は894年遣唐使派遣を停止、以降、明治に至るまで外交関係を持たなかったが、文化、通商の面では一貫して「中国圏」の中で生きてきた。江戸時代、長崎の出島の隣りには「唐人屋敷」=広大なチャイナ・タウンがあって、中国人はオランダ人より多くの貿易を手掛けていたのである。
だが今のアジアは、中華圏にはなり得ない。米国が政治的にも経済的にもアジアのハブとなっていて、中国によるアジアの壟断を許さないからである。技術や企業経営等、イノベーションはほぼ常に米国に発し、東アジアはそれに追随、あるいは下請けになる構造にある。
もう一つ現代が近世までと違うのは、日本が世界第三位の経済力、そしてかなりの軍事力をもって――海上自衛隊の戦力は中国海軍のそれとほぼ同等――東アジアに存在し、米国との同盟関係、ASEAN諸国との緊密な関係によって中国とのバランスをはかっていることである。
このヤジロベエ構造の中で、東アジア情勢は推移する。そこには古来、様々の紛争要因がある。かつての紛争は今では「歴史問題」となり、ある時は政治家、マスコミに煽られ利用されて――それが反日・嫌中・嫌韓だ――新たな紛争を生み出す。インターネットやポップ・カルチャーの普及、相互の観光客の増大で、東アジア諸国市民間での共感、理解は実は大きく進んでいるのだが、一度紛争が起きればマスコミはそれ一色となる。
2016年、それに加えて東アジアでは、一連の選挙や政権の交代が、不安定な情勢をもたらす可能性もある。これら個々の紛争は、米中が関与してくるとマグニチュードを俄然として増すだろう。では2016年、この二国は東アジアにどのように関わっていくだろうか。
米大統領選――国際政治は一時休止
今年は米国で大統領選挙がある年。40年外交官をやった経験で言うと、米国大統領選挙の年には不思議に、大国が絡む大きな紛争は起こらない。なぜかと言うと、中国であれロシアであれ、米国大統領選における「イシュー」になりたくない、要するに世界の諸悪の根源と名指しされ、米国の国防予算増強のダシに使われる、そのようになりたくないからである。米中の関係は、9月末、米海軍イージス艦が南シナ海の人工島至近を航行したことで悪化の頂点に達したが、その時も双方の行動は抑制されており、その後中国がスマイル外交を展開したことで、また元に戻っている。米大統領選目下のイシューはイスラム過激派への対処、そして一歩下がって米国に恨みを持つプーチン・ロシアへの対処で、アジア、中国はほとんど話題に上らない。米国は内向きなので、「自分たちの安全を直接脅かすもの」にまず関心を持つのである。
他方、米国大統領は任期も末になると、「北朝鮮の核開発を話し合いで抑制」すれば手軽な業績になると考え、日本など周辺諸国の迷惑も顧みずに邁進することが多い。クリントン政権の末期にはオルブライト国務長官、ブッシュ政権の末期にはクリストファー・ヒル国務次官補といった具合である。しかしオバマ政権は一貫して北朝鮮現政権に取り合わない態度を堅持しており、今に至るもそれを変える兆候は見られない。
従って2016年、米国の動きがアジアの政治情勢を大きく変えることは予想されないのだが、経済面ではそうではない。米国連銀は利上げに動いたが、その結果、ドルが上がるのか下がるのか、資金が米国に引き揚げるのかアジアに止まるのかが、アジアの経済情勢を大きく規定する。常識に反し、米の利上げでドルが下がり、アジア諸国の通貨が上がるようであれば、アジア諸国の経済にはマイナスとなるだろう。
日中を含めた東アジアと米国・EUは、これまでは貿易を通じたウィン・ウィン、共生関係にあった。日本は部品、機械を供給、中国で低賃金を利用して製品を組み立て、米欧に輸出する。そして米欧(日本も)は、東アジアに資本と技術を供給するという構図である。中国での賃金上昇がこの構図を壊していくと――つまり中国は西側企業にとっての輸出基地でなくなる――東アジアは経済面での安定を失い、各国が私利を求めて相争うことになるだろう。
TPPは、米国議会の共和党が当面批准しない姿勢を示しているため、2016年には効力を発しないだろう。それでも、ここまで多数のアジア諸国が自由化と紛争処理手続きの厳格化に踏み切ったということは、中国にとっては圧力として作用し続けるだろう。そして、TPPを初め一連のFTAで、メキシコやチリのような中南米諸国が東アジアと経済的な一体性を強めていることも見逃せない。
中国は成長の踊り場から転げ落ちるか
2016年の中国は、国家資本主義の限界を露呈するだろう。世界では、中国のGDP数字を額面通りに受け取り、2025年頃には米国を抜くというような俗論がまかり通っているが、それは中国の実体を全く見ていないことによる。賃金水準が上昇したため、これまでの「チープ・レーバー」に依存した経済は成り立たず、さりとて消費・内需だけでは、これまでのような成長は実現できなくなっているのだ。
だから2016年の世界は、「無限に伸びる中国」ではなく、「自らの不調をいぶかる中国」を相手にすることになろう。AIIBにしても、「一帯一路」路線に基づく中央アジアへの進出にしても、世上言われているほどの勢いはつかないだろう。中国がAIIBに注げる資金の余裕は減っているし、中央アジアは全体でデンマーク一国程度の市場規模しか持たないからである。
今の中国で気がかりなのは、この国がペレストロイカ期のソ連と同じく「改革の罠」にはまって混乱するのではないかということである。ゴルバチョフは、建前と実際が大きく乖離し、エリートが特権を貪る腐敗したソ連を改革、社会主義を再活性化しようとした。だが、党官僚は彼に抵抗する。そしてその党から実権を奪ったゴルバチョフは、それによって国を統治する装置を失ってしまうのだ。
今の中国でも、習近平と王岐山が中心になって進める党内の腐敗一掃は、密かに政権に敵対する勢力を増やしているに違いない。また習近平は経済改革を唱えているが、彼の「改革」とは国営企業の強化・合併・再編で、外資への優遇措置撤廃の動きと合わせて、鄧小平路線=中国の打ち出の小づちの真っ向からの否定なのである。
中国は、民主主義政体ではないために、選挙というガス抜きの手段を持たない。国民の不満がたまると、ベント口(くち)のない原発よろしく、暴発するしかない。過去2000余年にわたって中国の王朝は武力で建てられ、失政で滅んできた。現在の中国は近代国家以前、実は「中国共産党王朝」のようなものなのである。
その中国と似ていた専制国家ソ連では、地方が税収の上納を拒絶したことで、中央政府は息の根を止められた。そして経済改革の失敗は、ハイパー・インフレを起こした。2016年の中国は、そこまで混乱する状況にはない。最悪の場合でも、中央政府の権威が大きく低下し、一部の地方は従わず、経済は悪化して、大都市の近代的外観は維持されても、国民の大半は困窮化、そして犯罪が跋扈する等秩序が崩壊する――1990年代前半のロシアの様相である――程度のことであろう。
そこまで情勢が悪化しなかった場合、中国は周囲に向かってどう出るか? 今中国は、アヘン戦争以前の優越性を取り戻したいという時代遅れの自我意識と、経済を成長させるためには世界との関係を良好に維持しなければならないという良識の間で揺れている。しかし、軍備を拡張してみても、米国には結局追いつけない。しかも2016年には経済成長率は益々落ちる。その中で、中国の外交は、宥和的なものになるだろう。「中国が父で他のアジア諸国は子ども」という国際(・・)家父(・・)長制(・・)的な態度は封印し、各国の主権を尊重するだろう。
以上、米国、あるいは中国が動因、あるいは触媒となって、アジアで大きな紛争が起きることは考えにくい。「ワイルド・カード」として考えられるのはまず北朝鮮である。内部から金正恩を倒す動きが出て、政権が代わるだけならいいが、情勢が不安定化して核兵器の奪い合い、あるいは半島再統一の話しが出てくると、中米韓の動きと思惑が入り乱れて先が読めなくなる。もっとも独裁政権というものは、うっかり政権打倒の意図でもしゃべろうものなら密告され、抹殺される危険が非常に高いので、滅多なことでは謀反は起きない。
台湾では1月、総統選挙が行われ、今の情勢では民進党候補の蔡英文女史が勝つ可能性がある。しかしその場合でも、民進党政権が「台湾独立」を過度に進めて中国と武力紛争になる可能性は小さい。まず米国がそのような動きを抑えるし――既に長年、米国は台湾の求める先進的兵器を台湾に売却していない――、台湾人自身も今では大陸に膨大な利権を有することもあって自制するだろう。
タイでは軍事政権の民政化移行問題がくすぶり続けているし、安定の重石であるプミポン国王が逝去した場合には、その後継者決定にタクシン元首相一派もからんでの大騒ぎが起り得る。ミャンマーでは1月に議会が招集されて新大統領を選ぶが、アウンサンスーチー与党・国民民主連盟党首と軍部の間の綱引きは、北部少数民族の平定に中国をどの程度関与させるか等をめぐって、複雑な展開を見せるだろう。だが、これらの問題で米国、中国が衝突し、紛争が大規模化することはないだろう。
なお韓国は、米軍に抑止力の多くを依存しつつ、政治・経済的には日米中ロの間で揺れ動く存在である。現在対日関係を修復中だが、もしウォン高が是正され、経済が好調となれば、またいつでも反日ナショナリズムを前面に出してくるだろう。
日本はどうする
日本人は最近、腰が浮いている。米国には技術で水を開けられ、中国、韓国にはコモディティーの生産でも抜かされたためである。しかし日本は戦後、これまでが出来すぎだったのである。冷戦のおかげで、米国から甘い汁を吸いつくすことができたから、今日の経済を築くことができたので、冷戦が終わった今は、米国もドライになった。だからと言って、癇癪を起して日米同盟も投げ捨てるようでは、自分の立場を悪くするだけだ。日本の置かれた状況、日本の国力の限界をよく見つめ、安全保障では抑止力を、経済では技術力と経営の改善を地道にはかっていくしかない。
最近のように国際政治で武力、あるいは暴力が前面に出てくると、日本の影は薄くなる。それに世界では日替わりでニュースの主役が交代しているので、どの国も何をしてもすぐ忘れられる。だが2016年東アジアで大きな動乱が起きる可能性が小さいのであれば、日本は無理をすることはない。5月伊勢志摩で開かれるG7先進国首脳会議も、どうせすぐ忘れられるものなので、日本は失点防ぎに力を入れれば十分だ。
日本は戦前、中国での利権をめぐって米国と決定的な対立に至り、完膚なきまでに打ち負かされた後、共産化した中国に対する当て馬として米国に利用され、自らは米軍を中国に対する抑止力として利用して成り立っている国である。その微妙なバランスを、軽挙妄動で崩さないよう、サル知恵でなく理性的な対応をしていきたい。
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