ときどき思い出します 辻井喬さん 堤清二の逝去
11月の28日、夕刊を何気なく広げたら、「堤清二氏死去」という見出しが目にとびこんできた。この日がとうとうやってきたかと思い、哀しかった。戦後日本を象徴する巨人の一人がなくなった。
僕が彼の知遇を得たのは今からもう25年前、1988年のころ。外務省の東欧課長として、「東欧文化ミッション」についてポーランド、東ドイツ、ハンガリーを回った時のことだ。ワルシャワに粗末な(当時はまだ共産主義の時代)LOTの飛行機がやっとたどりつくと、ミッション団長の作曲家、團伊玖磨氏は機内の通路に立ちはだかり、シルクハットを被りつつおごそかにのたまわる。「皆さん、私たちは世界でも名うての美人国ポーランドに来たのです。これから心して参りましょう」。
堤氏は当時、実業家としてのキャリアの頂点にあって、確か池袋のサンシャイン61の上の方に真っ白なシュールなオフィスを構えていた。文化に強いし、何よりカネを持っているから、東欧との文化交流に身銭も切ってくれるだろうという外務省の邪心から、文化ミッション団長をオファーされていたのが、するっと逃げて、友人の團氏に団長を譲り、自分は副団長に収まっていたのだ。文化ミッションを終えた後、堤氏は團氏のオペラ「ちゃんちき」を東欧諸国に送ることで、本当に身銭を切ってくれた。
彼は判官贔屓の人で、世界の小さな国々を日本で紹介するのにひと肌脱いでくれたので、東欧課長のように省内の予算を回してもらえない課長連がよく陳情にいっていたものだ。すると彼は西武デパートの買い付け担当をその国に派遣し、たとえばハンガリーのダウンとか、リトアニアの美術とか、何とか商売になるものに仕立てさせては、西武デパートで売り出してくれたのだ。スウェーデンのSAABの車も日本で何とか定着させようと、自分自身いつもSAABに乗り、全国にSAABの販売網も作ったのだが、これは採算に合わなかったようだ。
そんなことで随分損もしていたようだが、断るのもまたうまい人で、何かを頼みにいくと、「わかりました。そのことでは、うちの〇〇をご紹介します。是非彼と話しをしてみてください」と言うので、〇〇氏に会いに行くと、こちらのアイデアがまったくビジネスにならない甘いものであることを厳しく指摘され、赤面して役所に帰る、というようなやり方。または彼自身、笑いながら話してくれたことだが、「有名な建築家の××さん、いますよね。うちで新しいビル建てるので、設計のコンペやることにしたんです。××さんがよろしくと言ってきたのですが、彼の作るビルは使い勝手が悪いので有名。そこで、××さんにはコンペの審査委員長になっていただき、彼自身の応札を封じたんです」
彼は、高度成長時代の日本人に「ライフ・スタイルのモデル」を与えた人だ。消費に、モノだけではなく精神生活の豊かさ、文化といったものも賦与していて、例えば渋谷に建てた西武などはそのメッカだった。若干教養主義の匂いのするそのインテリア、商品の数々は、それでも欧米とは異なる日本スタイルを確立させたと思う。簡素、優美とでも言おうか。
それは、ビジネスを芸術の創造と同じものと見なしてやっているようで、だからこそ財界で煙たがられたのだろうが、「創業」という言葉があるように、ビジネスは創造そのものなのである。そして堤氏のビジネスへの姿勢は厳しくて、スタッフはいつも絞られていたらしい。多分、彼はビジネスに共産主義者的な社会的責任感を持っていて、自分にも部下にも最大限の努力を求めていたのではないだろうか?
彼は英語はほとんどできなかったが、世界に討って出た。日本の国際化の一翼をになうということで、気宇壮大だった。一時はインターコンチネンタル・ホテルの世界チェーンを買収、モスクワの名門メトロポール・ホテルにもサービス指南で入り込んだ。それもあって、その頃は世界をぐるぐる回っていたから、僕もストックホルムやモスクワで勤務時代に何度も会ったものだ。モスクワでは一度、公使邸にロシアの文化人を多数招待し、彼に心からくつろいでもらえるパーティーをやったかやらなかったか、もう記憶は定かでない。自分のカネで、壮大なアイデアを実現できる実業家という人種に、僕は心底うらやましいと思ったものだ。
そんな彼は、日本の財界では異端児扱い。また彼の方でも、日本の政界、財界のあり方に不満で、財界をかき回し、政界ではフィクサーとして動いて、人知れず日本の政治をずいぶん変えていたことだろう。若い時には共産党員だったので(かつて自分をいびり出した共産党が、最近意見を聞きたいと言って呼んできた、と面白そうに言っていたが)、民主党が政権を取ると、魚が水を得たように張り切っていた。歳を取ってなぜか毛沢東に似てきていたのが、当時20歳くらい若返って見えたものだ。
堤氏は、いつも世界全体を見ていた。特に中国、ロシアについては、ずいぶん優れた情報を持っていた。民主党時代に日中関係が悪化し始めると、政府間にパイプがないことに呆れ、憂慮し、自分で随分動いていたようだ。ロシアについては、エリツィン時代の好機に北方領土問題を解決できなかったことに呆れており、僕はその頃モスクワで働いていた外交官としてずいぶん馬鹿にされたものだ。
彼は個人としては、最後まで共産主義に強いこだわりを持っていた。僕にとって共産主義とは政治・経済上の統治形態の一種で、それもソ連の破綻で無効が明らかになったイデオロギーに過ぎないのだが、彼にとっての共産主義は社会全体、人間全体の生活・精神水準を引き上げるという一つのモラルの問題、理想であったのだろう。
バブルが崩壊し、自分の事業が逆回りを始めると、彼はビジネスから足を洗い(洗わされて)、辻井喬として文筆・文化活動に専念し始めた。あまりしばしば著書を送ってくるものだから有り難味が薄れ、全部読んだわけでもないのだが、辻井喬さん(彼はそう呼ばれるのを好んでいた)の書いたものは削りたての白木のように清冽で、かつ小林秀雄がモーツァルトについてよく言った、そこはかとない「哀しみ」が感じられた。
それは何冊も書いた自伝的な作品に見られる、自分の血、自分の出生に対するこだわりから来たものだろう。(当時は)正妻でなかった自分の母(高い文化的素養を持ち、繊細な心を持っていた)と三鷹でひっそり過ごした幼少時代。一緒に育ち、その後あふれる才気に押しつぶされるようにパリで客氏した妹さんへの懐旧の念。
小林秀雄と言えば、辻井喬氏も戦後を代表する知識人の一人だった。ある時、「河東さん、ショスタコヴィッチはすごいですね。20世紀最高の作曲家でしょう」と突然言われ、ショスタコヴィッチのざらついた音の嫌いな僕は何を言うのかと思ったものだが、これはひょっとすると、ショスタコヴィッチの交響曲第5番あたりを崇めていた戦後知識人の教養主義の片鱗だったのかもしれない。だがそうした稚気ある教養主義から離れ、日本の伝統、世界文明の底流を見据える彼の目と知識には素晴らしいものがあった。それは、「伝統の創造力」(岩波新書)などで示されている。
巨星墜つ、という言葉があるが、これは彼にぴったりの言葉だ。事業に破れたためか勲章はもらっていないが、文化関係の賞は多数もらっている。それにこういうレオナルド・ダヴィンチ型の多才人間は、何々賞という型にはめてはいけない。覚えていること、語り継ぐこと、これこそ最大の勲章だろう。
彼は生前嘆いていた。最近の世界、特に日本では「知」というものが消費されるだけで、何も伝統、歴史として残っていかないと。だから、高度成長とその後の沈滞の時代のイデオローグ、語り部、フィクサーだった、そして戦後の日本を駆け抜けていった堤清二、辻井喬、両氏のことを僕たちは時々思い起こそう。
さようなら、辻井さん。いろいろ有難うございました。
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