AI・自動運転なんて本当にできるのか
(これは11月23日発行のメルマガ「文明の万華鏡」第127号の一部です)
コロナ禍、ウクライナ戦争のせいで、AI論議はすっかり色あせた。AIではないが、「次の時代はメタバースだ」ということで、社名をメタに変えまでしたフェースブックも業績は冴えない。僕もコロナの前は、AIやロボット、脳波利用の台頭で、世界の文明が一変することばかり考えていたものだが・・・
メタとかアバターなるものも、立体アニメみたいなもので、結局はこけおどし。だから、メタ社は今やメタメタで、大量解雇を考える始末。AIは果たしてナンボのものか。
まず自動運転。コロナ前は、明日にでも実現するかという勢いだったが、今のコンセンサスは、完全自動運転は無理ということのようだ。それは、僕の家の周囲を車で回ってみればわかること。狭いガレージから車を出すのは、自動運転の十八番だろうが、ひとたび走り始めると、百万のリスクが転がっている。歩道の上を走る自転車が、横断歩道の方にハンドルを切った。ように見えたが、また態勢を立て直してまっすぐ走っていく。でも僕の自動運転車は、自転車が横断歩道に出てくるものと予想して急ブレーキを踏むから、僕は運転席のガラスに頭をぶつけている。悪くするとエアバッグさえ、飛び出していることだろう。
そして夜になってきらめく様々な色の灯り。これを信号と区別するのは難しかろう。自動運転車は発狂すること必至。信号機が車に信号を発するようになっていれば大丈夫だが、そのためには全国の信号機を改造しないといけない。そしてヨーロッパのように国境をまたいで運転することの多い地域では、広大な地域の信号機の規格を統一して替えないといけない。
政治、つまり資源配分の決定にAIを使うという案もある。「個人の要望を入力してもらえば、AIがクラウドのスパコンとか量子計算機を使って最適解を出してくれる」ということ。しかし、数十億人の要望を入力すれば、つまりありとあらゆる色をインプットすれば、回答は真っ黒なものにしかならない。
どういう基準に基づいて、どういう配慮で、特定の層、人物への予算配分を手厚くするかという決定を人間がやって、AIにあらかじめ入力しておかないといけない。AIはその政策が定める基準に沿って、予算、助成金等の配分を計算していく。こういう作業はAI、と言うか単純なコンピューターができること。AIがあれば政治家はいらない、国会もいらない。ということにはならないのである。
ただAIを侮ったら、大変なしっぺ返しを食う。その一つに自動翻訳がある。半年前まで僕は、自動翻訳を馬鹿にしていた。誤訳は多いし、違う言語の間の「ニュアンスの差」を取り違えて訳すと、致命的な誤解を生むこともあるからだ。
でも今は、DeepLという自動翻訳にはまっている。このメルマガの記事も、AIに理解しやすいように少し手直しして入力すると、瞬時に英語にでもロシア語にでも翻訳してくれて、それぞれ高い水準なのだ。少し手を入れれば、もうブログで使えるほどの水準にはなる。
これは、世界の各民族間のコミュニケーションを飛躍的に高めるだろう。と思うのは、能天気。そもそも昨今は、「クリエーターの数が視聴者の数を上回る」という現象があって、みんなが何かをクリエートしている。自分という蛸壺に入って、一心不乱。何かを書き、描き、作曲し、他人が「クリエート」したものなど、鑑賞している時間がない。こうなったら、AIに鑑賞してもらって、ヴァーチャル拍手でもしてもらうか。賞金付きならなおいい。ヴァーチャルではない賞金。
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