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経済学

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2010年8月13日

日本経済、自縄自縛からの脱出Ⅰ――「もっといい生活」のモデルを持とう

成長と分配の間を右往左往する、日本の経済政策
もうこの20年間、日本の名目GDPは増えていない。その間たとえば洋服とか肉の値段はずいぶん下がったので、それほど惨めな感じもしていないのだが、増えない税収をどう配分するかについて、社会各層の間での奪い合いは激しくなっている。老齢化が進行しており、若年世代は国民年金の負担に抗議の声をあげている。
小泉政権は構造改革、リストラ、円レートの低位維持によって経済の活力を回復させ、それによって税収も上げようとした。だが財政赤字削減のために同政権が道路族等の既得利権を崩そうとしたこと、また社会保障・医療補助の一部を削ったことへの反発が、自民党総理を一年ごとに代え、遂には2009年夏衆院選挙で与党交代まで実現するエネルギーを生み出した。

だが民主党がこども手当に見られるように、「成長よりも配分」に過度に傾いたことで、世論は財政赤字が心配になり、今度は増税だ、いやまだ増税は早すぎる、まず成長確保だ、あるいは増税を通して成長するのだと、極端論、あるいは謬論に惑わされている。
ここには、なぜ日本経済が今のような状況に陥っているのかについての根本的な理解が見られず、ただ右往左往している感がある。歴史認識が足りない。
単純化して言えば、日本は1985年プラザ合意(円の大幅切り上げを米にのまされた合意。日本が対米輸出に過度に依存し、米国の財政赤字・貿易赤字の際限なき拡大を生んだことが、その原因だった。現在の米中関係に酷似)の後始末に今でも悩んでいるのである。

つまり、プラザ合意で日本は、輸出よりも内需に依存して成長することを求められたのだったが、その「内需」が今にいたるも十分ではなく、成長を輸出に依存する体質は以前にも増して強くなってしまったのに、輸出産業が海外に流出してしまったり、海外の景気が落ちて輸出先がなくなったりしているから、にっちもさっちもいかなくなっているのである。

作るだけで、需要面での政策が足りない
なぜ日本の内需は盛り上がらないのか? 2007年には家計貯蓄率が僅か2.2%にまで落ち、けっこうカネを使っているというのに。
ひとつには、日本政府の経済政策がいびつであることがある。つまり生産・供給面についての政策は経済・産業省が中心になって懸命にやるし、財政・金融面についての政策は財務省、日銀がしっかり支える。ところが需要面についてはどの役所も筋道立てては考えていないようだ。内需拡大と言っておきながら。

つまり生産・供給はきちんとしても、それを国内で消費しきれない。だから国債を発行して市場から余剰の資金(つまり消費や投資に向かいきれていない資金)を吸い上げては、予算として配分することで、貯蓄を強制的に消費・建設に回しているのだ。そしてそれでも余った分は輸出に向けられる。
確かに、輸出は必要だ。自分で輸入する分くらいの輸出はしていないと、経済が持たない。だが日本の輸出は輸入を賄って余りがある。その分はもっと輸入を増やすなり、収益を国内で投資・消費に向けるなりして、生活水準を上げていくことが、経済の目的ではないのか? 

これからの生活モデル、社会整備のモデル・目標を社会が共有していないから、需要が盛り上がらない。供給増大、競争力向上、あるいは財政バランスの回復だけに努力が集中して自己目的化し、需給ギャップを生じさせてしまう。いつも家計の財布のひもをきつく絞り、働け、働けと尻をたたく一方では、小遣いはぜんぜんくれない女と結婚しているようなものだ。

「生活レベル大国」を目指し、そのためにカネを使おう
(イ)日本の戦後には坂の上の雲に相当するような、モデルがあった。目標があった。それはまず第一に戦前の都市中産階級の生活レベルを回復すること、次にテレビ、電気冷蔵庫、電気掃除機、電子レンジ、クーラーを買って、「お隣さんと同じ」になり、ピアノと車を買って隣りを抜き去ることだった。だが住宅は高いし、それに退職後は田舎に帰るかもしれないから、うさぎ小屋のままだったのだ。

モデル、目標・・・。「需要面での政策がない」と書いたが、経済学上の需要政策のことを言っているのではない。社会心理学上のことを言っている。つまり、われわれ自身が生活水準向上における当面のモデル、目標を持つことを言っているのである。

そしてその場合ヨーロッパ諸国(すべてではないが)における住宅水準、田園・都市景観、社会保障の水準(つまり住みやすさ、住み心地)は、目標とするに最も適しているのではないか? 日本と所得水準がほぼ同じであるし、米国よりは格差の小さな(特に北欧)社会だからだ。
広いリビング、家族それぞれのための個室、客が家族で何日も泊って行ける部屋をそなえた家、アパート、そして交通を妨げ、景観を害し、カラスをはびこらせる電柱・電線のない落ち着いた景観、人口は少なくても十分ある経済の活気、人口が少ないゆえに生ずる住みやすさ(経済で過当競争が少なくなり住み分けができている、渋滞がすくない、交通機関がすいている、託児・介護サービスが充実している等)などをわれわれが目標として共有し、それを実現する方向で政府や個人のカネを使っていったら、これまでのようなバラマキではない、消費が更なる消費と投資を呼ぶ、意味のある需要喚起ができるだろう。家が大きくなれば、そこに置けるモノも増えるので、需要は恒常的に高いレベルに移行するだろう。

ここに述べた政策のうちいくつかは既に施工されている。例えば一定以上の面積を持つ家を建てると、税の優遇措置が受けられるなど。だがそれら措置のほとんどは知られていない。もっと発信が必要なのだ。たとえば総理が「みんなでもっと、いい家に住もうじゃないか」というスローガンを社会に広く行き渡らせることが必要なのだ。

(ロ)国債についてはあとで議論するが、市場金利を過度に押し上げないかぎり、増税よりましなものだろう。増税は経済を縮小スパイラルに陥れるが、(適度の)国債は経済を拡大させるからだ。
今のように需要が足りないときは、国債で資金を吸い上げ、生活水準をいちだんと高いレベルに移行させたうえで、経済をまわしていけばいいだろう。具体策はあとで論ずる。

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