2013年8月20日
仮説 唐詩におけるエゴの強さ
この前ふっと思ったのだが、中国人は詩においても「我」が強いのではないか? 蘇州のあたりで中世の庭園を見ると、それは確かに日本庭園の原型なのだが、庵や茶屋のたたずまいなどが日本庭園とは違って我を張っている。日本庭園のように、我が自然の中に融け込むことが薄い。
そしてそれは、詩においても同じなのではないか? あの我が強そうなロシア人でさえ、その詩においては我は自然に溶け込む。冗談だが、中国人は数が多いから、人間が自然の中に融け込むよりも、自然が人間の大海で溺れてしまう?
と言うか、中国人はどこまでいっても人間くさくて、物事を抽象的に考えるより、人間関係を中心に考えてしまう、ということなのか?
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