放屁と古典
昨日、ワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」を観に行った。45年前に建てられ、音響は素晴らしくても、椅子が小さくてかなわない上野の東京文化会館。二期会の歌手たちに読売日本交響楽団、指揮者はスペインの76歳ヘスス・ロペス=コボス。これまで知らなかったけれど、マドリードのオペラ劇場の総監督を務める大御所だ。
これが素晴らしかった。オペラの筋は動きのない対話劇みたいなもので、これを4時間も狭い椅子で聞かされるとエコノミー症候群になるのだが、音楽と演奏は素晴らしかった。
この頃の日本のクラシック演奏家は、昔と違って「技術だけでヨーロッパの精神をものしていない」ということがない。二期会の歌手はよく訓練されていて、演奏だけでなく、手や体の動かし方が白人風で、それが昔のようにわざとらしくない。ヨーロッパへのコンプレクスはなくて、自分の延長の中に入っている風情。一人だけ、ドイツ語の発音が日本風だったけれど。
ところが・・・隣席の男(日本人とおぼしき)が数分ごとに悪性のガスを発射するようなのだ。ワーグナーも台無し。昔タシケントに住んでいた時も、大使公邸の隣が小さなしもた屋で、僕が深夜ワーグナーを大音響で聞いていると、そこに住んでいる牛が、「モーっ。下らない西洋音楽はいい加減にしろ」と警告を送ってきたものだ。それを、上野でやられるとは。
でも、と前向きに考える。トリスタンとイゾルデは狭い船室で媚薬(何だったんだろう? スッポン? 高麗人参? 「トリスタンもイチオシのスッポン」)を飲まされ、道ならぬ恋に陥ってしまうのだが、この時どちらかが悪性のガスを発射したら、物語はどう展開していただろう。イゾルデにとってトリスタンは、もともと自分の許嫁を殺した敵。屁で相手をへこませる高等作戦も可能だったはずなのだ。
イリアスやオデッセイ、そして三国志の昔から、屁という重要な生理現象を正面から取り上げた芸術作品はない。なぜだろう? 作ってみたらどんなものか。
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