ガバナンス空洞化 無主物 として極東に漂う日本
(これは5月15日の日本版Newsweekに掲載された記事の原稿です。少し新しくして、ここに掲載します)
この頃の政治の乱れ、そしてセクハラ、パワハラの連続は、小手先の修正では収まらない、何か根本的な検討を日本の社会に迫っているのでないか。ここで再度、明治維新以来の日本国家を支えてきた官僚システムの劣化度、そしてあるべき姿を考えてみたい。
官僚が劣化したと言っても、実は前から公文書改ざんやセクハラはやっていて、今回たまたまそれが世論の目についてお咎めを受けただけの話しなのかもしれない。そしてたとえ劣化しても、それは日本の終わりではない。
もともと官僚制はどこの国でも、強い君主の手足として発生したもの。何人、必要なのか。どんなポストが必要なのかについては、絶対的な基準はない。中国の宋王朝は科挙官僚を重用することで貴族を排し皇帝の絶対権力を固めたし、オスマン・トルコのスルタンはマムルークと呼ばれる子飼いの軍人・官僚集団を作り上げた。そして17世紀英国は、オランダに対抗するための強力海軍を作る際、予算を管理するため官僚機構を整備した。
そして日本の官僚は、欧州型の集権国民国家を作った薩長閥の手足として肥大した。それは江戸幕府の侍官僚達が将軍の名代、「御公儀」と呼ばれた伝統を引きずって、天皇の名代の「お上」と呼ばれ、法で与えられたもの以上の権威をまとった。選挙で浮沈定まらない政治家に比べて、科挙のような高等文官試験で終身雇用の官僚の方が、天皇の手足としてふさわしかったのである。
大蔵省は戦前乱立していた銀行を整理して、戦後の高度成長をファイナンスするメカニズムを確立し、税制を管理することで国内の利権調整を一手に掌握し、予算配分権を握ることで他の省庁を従えた。戦前のスーパー官庁であった内務省が、戦後米軍に解体されたのを受けたものである。カネ=予算をつけてもらえなければ、他の省庁は何もできなくなるからである。そして税務署から上がってくる脱税関係の情報は、政治家、マスコミ、その他もろもろの団体・個人を牽制するのに便利なものだった。
こうして日本では、政治家が自分だけの思いつきを実行しようとしても、官僚層に「検討させていただきます」の一言で引き取られ、窒息させられてしまうのが当たり前になった。筆者は昔ウズベキスタンで外交官をしていた時に、時の総理がカリモフ大統領に述べた約束が一向に実行されないことを先方の官僚に批判され、「日本は民主主義だから」と反論したことがある。ところが先方は、「それは民主主義ではありません。官僚主義ではないですか」と答えてくる。そう言われてみればそうだなと苦笑いしたものだが、要するに戦後の日本で官僚の力は政治を一貫して上回ってきたのである。
しかし1990年代バブル崩壊と期を一にして、大蔵省、外務省などで今と同じような「劣化」現象が発生。それに対する世論の反発は、小泉政権の頃から顕著になった「政高官低」の風をもたらし、それは民主党時代に決定的になった。民主党の大臣には、官僚をはなから自民党の回し者扱いにして使おうとしなかった者がいた。学生の間では、政治家やマスコミに罵倒され、若くして退職した後の再就職の途もふさがれた官僚になりたいと思う者が少なくなり、高級官僚の養成所として作られた東京大学の法学部は近年定員割れを起こしている。
こうして日本は、官僚機構空洞化の危機にある。財務省は日本にデフレをもたらした主犯のように扱われ、アベノミクスの5年間ほぼ終始、財政赤字容認の煮え湯を飲まされてきたが、今回他ならぬ総理案件のつじつま合わせを見咎められ、その責任を負わされる形で組織としてのとどめ=解体の憂き目を見ようとしている。自民党は、財務省の主計局は内閣官房に移して、総理直轄のものとしたいようだ。そうなれば、財務省主導デフレの代わりに政治家主導の野放図なインフレが常態になるだろう。
折しも米国では、大統領の補佐官だったバノンの「政府解体」論が実現しているかのように、省庁の幹部ポストががら空きで、空洞化が進行しているように見える。それでも米国の行政が回っているのは、ポスト名は別にして官僚が残っているからだ。米朝首脳会談の例が示すように、ものごとには下ごしらえ、準備が必要で、そこでは官僚が動いている。
問題は、時代時代の国家の任務にマッチした陣容に常に変えていくこと―役人と言っても生身の人間だから、そんなに簡単に首切りはできないが――、地方自治体との権限・予算の配分を適切に行うこと、そして人材の水準とモラルの維持をはかることなのだ。
先進国では、ポピュリズムの弊が指摘されているが、今回の財務省次官問題が象徴するように、法治ではないポピュリズムをマスコミが自ら助長している面がある。折しも世界ではAIが進歩して、最も複雑なゲームとされる囲碁でも名人を打ち破る。このままでは日本人は、いや人類全体が、「自分を治めることができず、資源の最適配分を邪魔する下等動物」と見なされて、AIに抹殺されてしまうかもしれない。
国民、政治家、官僚、マスコミ、それぞれの間のつき合いにはもっと良識が支配してしかるべきだ。いつもは無関心でいながら、何か問題を起こしたように見えると皆でとびかかって権威を引きずりおろすというようなやり方は前近代的だ。これでは権力が真空化して、無限の利権争いが起きた応仁の乱のようなことになる。
朝鮮半島での敵味方の関係が反転し、日本が極東で孤立の様相を強めている中、ガバナンスの空洞化に早急にけりをつけておかないと、日本と日本の富は、むるで無主物のようなものになる。周りから毟られる一方になるだろう。安倍総理は官僚制のウミを出すとか言っているが、今回のウミの大本となった総理の支援者、そして側近を斬らねばウミは出続ける。「泣いて馬謖を斬る」か、それも支援者、側近と共に壇ノ浦のウミに沈むか、早く決めて欲しい。
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