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政治学

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2015年11月 2日

日本人にとっての国連 その幻想

(これは、11月3日付の日本語版Newsweekに掲載されたものの原稿です)

国連で世界国家はできるものなのか?

 戦争は平和を生み、統合を生む。日本の戦国時代は徳川300年の平和を生み、第一次世界大戦は国際連盟、第二次世界大戦は国際連合とEUを生んだ。冷戦が終わって25年、世界は国連を核に統合性を強めるのであろうか?

国連の発足から無力化まで

国連は、1942年末には米国で準備が始まり、1944年秋、つまりまだ戦争中、米英ソ中の「連合国」(英語では「国連」と同じUnited Nations)で憲章草案を仕上げた。それと並行してIMF(国際通貨基金=グローバルな取引を可能とする通貨の価値を安定させるもの)の設立が合意され、1947年10月にはGATT(関税及び貿易に関する一般協定=グローバルな自由貿易を促すもの)が署名開放された。この3機関が米国の夢=市場のグローバル化を支える柱、国連はこの戦後世界の三本柱の中で、グローバルな安全を司る主柱たるべきものだった。

 しかし、戦後激化した米ソ対立、冷戦は、米国が想定したグローバルな世界の実現を妨げた。ソ連はIMF、GATTに加わらず、社会主義陣営を自給自足で計画経済の閉鎖的共同体として、世界から引き離した。ルーズベルトは終戦前、米英ソ中の4連合国が「世界の警察官」となる構想を推進したが、その連合国のうち中国国民党政権は台湾に押し込められ、ソ連は国連安保理で拒否権を行使するようになる。国連憲章第6章の「国連軍」を「世界の警察官」とすることは夢物語となってしまった。

 しかし1956年やっと加盟を認められた日本にとっては――ソ連は1956年日本と外交関係を回復するまで拒否権を行使していた――、国連は光り輝く「世界」であった。1951年、日本はサンフランシスコ平和条約で独立を回復してはいたものの、国連に加盟することなしには戦後の世界の仲間入りをしたとは言えなかったからである。そして日本政府にとって国連は、「独立回復後も実は対米従属」という批判を克服するのに格好の道具でもあった。

1951年、独立回復の代わりに米国と結んだ安保条約は、米軍が占領軍から駐留軍に名を変えただけ、米国が日本を守る義務は定めていない代物であった(1960年の改定で改善された)。交渉の当初、日本側は「米軍は国連の委託を受けて日本を守る。日本はそれに対して集団安保の観点から協力もする」との趣旨を入れようと画策したらしく(米国に拒否される) 、ここには国連を米国の上に位置づけることで、対米従属性を薄めようとの意図が見られるのである。おそらく当時の政府もマスコミも、国連の意義を実体以上に国民に宣伝していたのだろう。

国連幻想

 国連総会決定は拘束力を持たない。拘束力を持つ決定を下せるのは安全保障理事会だが、紛争解決については米ロ中のいずれかが拒否権を用いることが多く、国連はその力を発揮できない。いざ発揮しようにも、年間の通常予算は28億ドル弱、そして「国連軍」という常備軍はないのでは、とても「徳川の平和300年」は作りだせない

そして国連は、法と正義が幅を利かしているように見えて、実は大国のエゴ、小国の自己宣伝、腐敗した国々の代表による利権獲得の場に化している。PKOでさえ多くの国の兵士にとっては出稼ぎの場、そして現地の女性を弄ぶ例も多数報道されている。国連機関ユネスコの定める「世界遺産」は有難がられているが、これを決める国際会議は20万円、30万円という細かな助成金を小国代表たちが奪い合う場でもある。また外国で大使をして感じたことだが、途上国ではUNDPなどの国連機関より、日本やドイツのように中型であっても、国民国家の大使の方が扱いが上。なぜなら、国連機関が使えるODAの額は中型国家のものに劣るからである。

 それでも、日本人は国連への夢を捨てない。一つには、太平洋戦争での敗北の記憶があまりにも尖鋭なことが挙げられる。国民を分の悪い戦争に引っ張り出し、200万人以上もの死者を出した政府に対する不信、そして敗戦国日本を武装させ、共産主義国との戦いに駆り立てようとした米国への不信、両者が合わさってできている日米同盟への不信、この三者に代わるものとしての国連――こういう構図になっている

 EUについての夢も同じことだ。戦争をしがちな国民国家の上に高くそびえ、国民国家を旧式なものとしてしまう「超国家」組織――これがEUについての理解だろう。しかしEUでも、貿易以外のことでは各加盟国の権限の方が上回る。最近では、ドイツが実質的に多くのことに拒否権を行使する。

一方、戦争ばかりしていると言って嫌われる米国は、もはやアングロ・サクソンや白人の民族国家、国民国家ではない。大きく多民族化した連邦国家、つまり米国自体、ひとつの「世界」、宇宙の中の小宇宙なのである。

 「世界国家」は実現が難しい。多民族の米国が膨張すれば世界国家になってしまうのだが、これに抵抗する国家は多い。おそらく国民国家、多国籍企業、インターネットで結ばれた様々の集合体などが担当分野を分け合い、混然一体となった世界を形作っていく――このような形がこれからの世界になるだろう。冷戦という戦争の終了で統合が実現するのでなく、17世紀30年戦争後のウェストファリア体制がそうであったように、諸勢力が織りなすバランス構造が出来するのである。">


 

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