日本人にとっての 外国
(これは、東京雑学大学二十周年記念文集「続 学ぶよろこび」に寄稿したものです)
どの国の人間にとっても、「外国」というのは遠い存在だ。アメリカでも、海さえ見たことのない人は多い。周りを別の国に囲まれているヨーロッパなどでは外国をわりと意識しているが、海に囲まれている日本は極め付きの「島国」である。外の世界を考える時も、井戸の底から外を見るのと同じで、実際の外国を見ていない。
この結果どういうことが起るかを書き、「ワルの外交」と名づけて出版したのだが、そこでは次のことを言っている。まず一つ、日本のエリートに多い優等生気分を引きずったままでは、外国とつきあうことはできないということ。優等生というのは、日本という国が頑として存在していて、自分の社会的地位も給料も安泰で、とそういうことを頭から信じきっている人のことを言うのだが、自分が外交官をしていた当時、ソ連という超大国が目の前で崩壊していった。国家というものは人間が作ったものなので、人間がしっかりしていないと崩壊してしまうのである。
だから日本人が世界でやっていくためには、学校では優等生であったことを忘れて、「ワル」にならないといけない。「ワル」というのは「悪人」とは違う。本当は善人で、日本の中ではちゃんとした人間なのだが、世界に出たら少し人をワルくしないといけないのである。というのは、この世界には国際法と称されるものはあるが、これは国内の刑法や民法と違って、生活のあらゆる問題について決めてあるものではない。決めてあっても、国際的犯罪を犯した国を成敗してくれる国際警察はないからである。
世界を律しているものは理屈ではない。赤裸々な力関係、つまりどちらが強いか弱いかということ、そして何が自分にとって得で損なのかという損得計算、そうしたものが国際関係を律しているのである。日本人は、国連などの会議の場での弁論合戦がものごとを決めるかのように考えているが、それはものごとの上っ面、たとえば安保理での議論は、核兵器を持ったP5と呼ばれる常任理事国5カ国の代表が内々に集まって本国からの訓令を引き比べ、次の日の安保理の議論をどう進めるか、米国の代表はこう発言するが、ロシアの代表は結局拒否権を行使する、しかしそれは米国といつまでも対立するつもりであることは意味しない、など立場をすり合せている。こうした中では理屈より手練手管が必要、つまりワルにならないといけないのである。
日本人はよく、好きか嫌いかで外国とのつき合い方を決めようとするが、外交では「あの国はちゃんとしていないから・・・」などと忌避してはいられない。尖閣などの問題が起きる中国、反日と言われる韓国のような国とこそ、話し合いのパイプを維持していかないと困ったことになってしまうのである。
そして問題が起きた時、ものごとはたった一度の首脳会談、あるいは代表同士の交渉で決まるものではない。双方ともまず自分の国内の諸勢力に納得してもらわないと相手との合意はできないから、交渉の前には念入りな根回しが必要になるのである。それは自国内の主要関係者との意向をすりあわせるだけでなく、相手国の政府、マスコミ、業界などに日本の立場を説明してできるだけ納得してもらう作業も意味する。よく「胸を張って毅然として交渉せよ」とか言うが、交渉の時だけ胸を張り、テーブルを叩いてもお茶がこぼれるだけだ。
外国での人間のつきあい方は日本と全く違う。外国が違うのではなく、日本が世界の中で違う――つまり「ちゃんとし」過ぎているのである。ものごとは決まり通りに進み、人は周りの空気を見て行動する。ところが日本以外の外国ではそんなところはまずない。ものごとを決まり通りに進めさせるためには、いつも気を張って見ていないといけない。
そして、日本ほど先輩・後輩関係が厳しいところは世界でも中央アジアくらいなものだ。他の世界では人間のつき合いはもっと対等な個人同士という感じなので、そこは日本人も率直に、そして日本とか□□社とか□□省の肩書に依存するのでなく、個人としての自分を前面に出して相手と渡り合えるようでないといけない。
まだまだいろいろあるが、要するに日本という井戸の中で外の世界をあれこれ議論し、幕末のように斬りあっているより、井戸の外に出て自分の目で見、自分の頭で考えることが重要だということである。
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