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政治学

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2014年4月28日

太平洋戦争は日中の代理戦争? 満州の利権をめぐる日米中の角逐と、中国による米国の対日参戦工作

(この記事は、メルマガ「文明の万華鏡」第24号の一部です。全文をご覧になるには、http://search.mag2.com/MagSearch.do?keyword=%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E4%B8%87%E8%8F%AF%E9%8F%A1&x=0&y=0をご参照ください)


太平洋戦争は日中の代理戦争? 満州の利権をめぐる日米中の角逐と、中国による米国の対日参戦工作

この頃は、「アメリカにとってはアジアで一番大事な国は日本ではなく中国なのだ、だからアメリカは頼りにならない」という人が多いが、実はアメリカは終始一貫して、「日本が日本だから好き」なのではなく、「日本がソ連や共産中国を抑えるのに便利な位置にあるから大事」にしてきただけなのだ。だが、だからと言って「アメリカが日本を一番好きでないなら日米安保はもうやめだ」というのもナイーブな話し、同盟は結婚とは違う。そのことは僕の近著「米中ロシア――虚像に怯えるな」でも散々説明したので、ここでは繰り返さない。要するに、ペリーが黒船でやってきた時も、アメリカは日本そのものに関心を持っていたのではなく、中国との貿易の中継点、マッコウクジラ狩りの捕鯨船の寄港地としての日本に価値を見出していただけなのだ。

そしてペリー以来、太平洋戦争に至る日米関係も、中国、特に満州での利権をめぐって展開する。そしてこのダイナミックな関係は、学校での教育では全然教えてくれない。自分の国の来し方をちゃんと教えてくれない教育は変えないと。

ここでは、いくつか最近調べた面白い事実をならべておく。まず日ロ戦争。戦費に窮した日本政府は外国での国債発行を志し、高橋是清を英米に派遣する。高橋は米国でロスチャイルド系のKuhn&Loeb商会(当時米国随一の投資銀行)のJacob Schiffに紹介されて、8200万ポンド分(今で言えば3500億円程度か)の日本国債を米国で消化する。そしてこの時、当時「鉄道王」と称されていたユダヤ系資本家エドワード・ハリマンも日本の戦時公債を1000万円分(今で言えば400億円程度か)引き受けている。

ここまでなら、話しは単なる金融取引なのだが、ハリマンには戦後への魂胆があった。日ロ戦争が米国のセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で停戦となり、米国東岸のポーツマスで和平交渉が開かれている時、このハリマンは東京に乗り込んだ。ルーズベルトはモルガン財閥による鉄道独占を打破する運動をした人物だし、その家系はオランダからやってきたユダヤ系であったので(大統領就任式での宣誓で、聖書を用いなかったことが知られている)、ハリマンとは連携プレーをしていたかもしれない。そして1億円(今で言えば4000億円程度か)の財政援助を持ちかけて、日本が手に入れた南満州鉄道の共同経営を申し入れたのである。桂首相はハリマンに会ってこれを飲み、桂・ハリマン協定に仮署名までしたのだが、ハリマンの帰国直後ポーツマスから帰ってきた小村寿太郎全権代表は、「日本国民の血で購った利権を、カネで米国人に譲渡することはまかりならぬ。ロシアから賠償も取れていないのに加えてそのようなことをすれば、日本国民の反発はひどいものになるだろう」と述べて、この合意を反故にしてしまう。

小村はこの頃、ロシアから賠償金を取れなかったためか、随分感情的だったようで、ハリマン提案への敵意は並大抵ではない。推測するに、ポーツマスやアメリカの諸地でディナーなどがあった際、ハリマンに紹介され、満州の利権第一のその態度に、嫌悪感でも持っていたのだろうか。この時日本がハリマンの提案を呑んでいれば、後の太平洋戦争はなかったかもしれない。小村外相の家は、ポーツマスでの和平条約でロシアから賠償金を取れなかったことで、暴徒に焼き討ちされてしまうので、ハリマンの提案に同意していても、それ以上ひどい目に会うこともなかっただろうに。

いずれにしても「満州の利権」は、Jacob Shiffを初め、日本の戦時国債を購入した米国の資本家達の頭の中には当初からあったものかもしれない。ルーズベルト大統領もその想いを代表して日ロ停戦を斡旋したものかもしれず、ポーツマス講和後数年して日本への関心は薄れ、むしろ敵対的言辞をもらすようになっていたというのも、満州の利権への想いを日本に裏切られたことによるものかもしれない。

さて、ハリマンは恨みを呑んだまま1909年には死去するのだが、満州での利権への想いはその後も綿々と受け継がれる。例えば中国在勤のストレートなる外交官は、満州鉄道に並行する鉄道の建設を企んだりする。そして1909年には、ノックス国務長官の名前で、満州鉄道を国際シンジケートが買い取り、管理権を日本から取り上げることを提案してくる。そのたびに日本は防戦するのだが、面白いのは日ロ戦争で負けたロシアが、日本と組んで満州での利権を米国から守ろうとしたことだ。

米国を閉め出した日本は悪乗りする。満州での利権を独り占めにしたのだ。日本商品だけに満鉄の運賃を割引きしたり、大連に陸揚げされる日本商品の輸入関税を免除したり、南満旅行を希望する外国人に旅券交付を拒否したり、また、外国人の通商手続きをことさら煩雑にしたりした。米国は憤激して、明治39年はじめには南満での日本の政策に激しい抗議を送ってきている。

そして日ロ戦争(明治37年)の以前からも、日米は太平洋での影響力を巡って既にさや当てを演ずるようになっていたのだ。それは明治26年、ハワイ併合をもくろむ米国を牽制するため、日本が巡洋艦をハワイに送ったことを嚆矢とする(併合は結局明治31年に成立)。米国は太平洋艦隊の建設に励み、明治41年8月には大西洋艦隊を「演習航海」の名目のもとにフィリピンに回航している。そしてカリフォルニア州では、日本人移民への差別が火を噴く。当時米国からは陸軍大臣ウイリアム・タフトが日本を訪れ、鎮静化に努めている。彼は日本での夕食会の挨拶で、日米間の戦争を避けるべしと明示的に述べている(「渋沢栄一」講談社文庫 P162)。

第1次大戦で英国の力が衰えると、米国は英国に圧力を加えて1921年、日英同盟を日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約に拡大解消させてしまう。そして米国が中心となって1920年、日米英仏による四国借款団を結成し、満州への借款を四国で調整、日本による独占を防ごうとしたのである(「ウォールストリートと極東」 三谷太一郎)。この時のアメリカの窓口は第1次大戦でのし上がったモルガン商会の幹部ラモント、日本では井上準之助であった。この借款団をラモントは自ら「小国連」と呼び、満州をめぐる列強の対立緩和に尽力したのだが、英国はこの借款団を抜け駆けすることを好み、日本も1931年9月には満州事変を起こし、井上準之助も襲撃され1932年2月に死去するに及んで、ラモントは対日関係から手を引いている。

次に興味ある場面は約5年後になる。米国での対日政策はラモントの時代の財務省から国務省に主導権が移り、日本に対して強硬なものになっているのだが、それに中国国民党の工作が油を注ぐ。浙江財閥の御曹司で国民党政権の要職を経た宋子文は1937年日中戦争が勃発すると米国に赴き、ワシントンで抗日工作に没頭する。彼はフランクリン・ルーズベルト大統領の信任も得て、国民党政府への資金援助を数回引き出した(太平洋戦争の2年前)。彼の姉妹で蒋介石夫人の宋美齢(ヒラリー・クリントンと同窓のウェルズリー大学を首席で卒業したそうだ)も、米軍人シェンノートを説得し、軍籍を離脱して義勇軍として(もちろんルーズベルト大統領の承認を得て)ビルマの「援蒋ルート」防衛のための飛行隊「フライング・タイガー」を組織させている。因みにこの飛行隊のOB達は戦後、航空貨物の「フライング・タイガー」社を作ったのだが、今ではFedexに吸収されている。

そして最後の山は、何と言っても1941年11月の「ハル・ノート」――米国からの最後通牒と言われ、日本政府はこれをもって開戦を覚悟したと言われる――の時にやってくる。ハル国務長官自身が承認した第1次案は、日本に宥和的なものであったようで、これを見せられた蒋介石は強硬な突き上げを行った。そのためルーズベルトはハルに対し、ホワイト財務次官の書いたメモ「日米間の緊張除去に関する提案」を見せ、「我々は日本に最初の一発を撃たせる」と言ったらしい。それに従って作られた第2次案をハル国務長官は野村大使に手交、その後スティムソン国防長官に「私はもう手を洗った。これからは貴殿の問題だ」と投げやりに伝えたと言ったらしい。

ホワイトは後にIMF設立交渉でも活躍した人だが、ソ連のスパイではないかとして1948年下院非米活動委員会で査問を受け、その3日後心臓発作で死去している(自殺と言われる)。そのために、「ソ連がドイツとの戦いに専心するためには、アジアでの『日本の脅威』を除去しておく必要がある。そのためホワイトを使って米国を対日戦争に引き込んだのだ」という見方が日本で行われているのだが、僕はルーズベルトに作用したのは、中国の工作の方が強いのではないかと思う。証拠はないし、前記の宋子文はこの頃はもうワシントンにいなかったと思う(日米開戦直後に国民党政府の外交部長となっている)のだが、オーウェン・ラティモアという親中ジャーナリストがルーズベルトに働きかけた可能性を指摘する者もいる。

またホワイト案には、日本軍の満州駐留を認める項目、太平洋の米海軍力の削減、1924年排日移民法の廃止を議会に要請する、日本に20億円の借款を供与する、との項目が入っていたのだが、ハル・ノートからは削られていた、との見方もあり、ホワイトがソ連のスパイだったら、「日本軍の満州駐留を認める」ことはまずないだろう。従ってハル・ノートは、ソ連の差し金と言うよりは、中国の意向、英国の意向を強く反映して出されたものだろう(但し、ハル・ノートの改定版は英国には事前に示されていなかったようで、これが日本に手交された後、英国は米に強い抗議を行ったらしい。それでも、米国の参戦にチャーチルは喜んだという説もある)。

中国の工作の中に政治献金もあったかどうかはともかく、対米工作自体は日本の侵入を排除しようとする中国の思惑を反映したもので、国際政治上はごく当たり前の行為である。日米は中国での利権をめぐって戦争をし、米国は中国に代わって日本を破ったのだが、そのために中国や米国が非難される筋合いはない。要は、日本が対中、対米関係をマネージすることができず、このような状況に自ら陥った、同じようなことを繰り返さないよう、国内でも、外交でも、頑張っていこうということだろう。

(以上、書名を明示してあるもの以外は、インタネット・サーフィンで得た情報である。書籍より信憑性は薄いが、歴史がぞろぞろ闇の中から出てくる感じで面白くて仕方ない。本来なら、誰かがちゃんと調べて本に書いてほしいのだが。ある研究者によると、日米開戦直前の米英首脳間の書簡のやり取りは、なぜか双方の公文書館からは除かれているそうで、何かまずいことがそこに書いてある可能性はある)

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