選挙前 今の時代をどう認識するか Ⅴ 外交と安全保障
では最後。外交と安全保障の話し。もう日本は戦争の一歩手前だ。
歴史の落とし前
イギリス人は、大英帝国が没落して以後、世界中でずいぶん不快な目にあわされている。昔植民地だったあるアフリカの国で、イギリスの商人が大統領に土下座をさせられた話もあった。日本人も今似たような状況にあって、中国や韓国には、明治以後日本に圧迫されてきたことのうらみを晴らそうとする人たちもいる。戦争や支配の補償問題は、韓国とは一九六五年の基本条約、中国とは一九七八年の日中平和友好条約で、政府間の問題としては解決したことになっているのだが、その頃を知らない若者たちは、「そんなことは聞いていない。その頃は民主主義ではなかった。もう一回話し合え」という気持ちなのだ。そしてそうした韓国や中国の若者たちは、「国家」を前面にたてて日本に対抗しようとする。
ところが日本人は、アメリカに安全保障の大所を委任して経済に集中してきたために、「国家」を普段、あまり意識しない。国家や政府を嫌う者もいる。やる気のある若者にとっては、資本と技術、スキルがあれば、ジャック・アタリの言う「ノマド」(遊牧民)のように、世界中どこにいようが自分は自分、自社は自社、国家はあってなきがごとしなのだ。これをポスト・モダンと言うのだそうだ。モダン、つまり近代国家はすでに言ったように、十七世紀の西欧諸国が戦争をしやすいように、税、兵士を集めやすいように、作られた装置なのだが、植民地がなくともグローバルにビジネスができる現代は、この面で国家の役割は後退している。
これが近代以後、つまり「ポスト・モダン」で、日本人は日本がアジアで真っ先にポスト・モダンの様相を示し始めたことを誇りにするようになった。「日本人はちゃんとしている、日本人はアカウンタビリティ(会計の公正さ)がしっかりしている、欧米なみだ」と思っていたところに、急速に力をつけてきた中国、韓国の連中から、「ちょっと待て。お前はそんな上品な面ができた筋合いのもんではないだろう」と止められている。強い力で「モダン」、つまり国家至上主義、民族主義の世界に引き戻されようとしている、抽象的な外交からごりごりしたパワー・ポリティクスの世界に引き戻されようとしている――日本外交はこうした状況にある。
外交、そして安全保障は、自分の言葉で、自分の立場で考える
二〇〇九年民主党は政権を取ると、沖縄返還の際の「密約」調査にとりかかった。政権交代をきっかけに、国民が外交についても知る権利、決める権利を強く意識し始めたことを象徴する問題であった。密約の問題をここで議論する気はないが、外交と社会の関係について一言。それは、国民が自分の知る権利、決める権利を外交について行使する場合、これまでの常識を修正して臨む必要があるかもしれない、ということだ。
日本は日露戦争のころまでは、周囲の世界、周囲の力のバランスの変化をよく見極める、ダイナミック(万物は変化することを前提とした)な外交をやっていたが、それ以後は国内の力のバランスの結果として生ずる自分の都合ばかりを周囲に押し付ける、自閉的な外交をするようになった。戦後は安全保障政策を担当する者の時間の多くが、在日米軍基地にかかわる諸問題への取り組み、あるいはアメリカとの軍事協力の是非についての国会答弁作成などにとられてしまったので、日本の周囲の力のバランスを日本に有利なものに作り替え、それを日本の安全保障に役立たせる、あるいは懸案問題の解決にとりくむ、といったダイナミック、かつさまざまな方面への動きを総合的にプロデュースしていく複合的な外交が足りなかった。
それもあって、北欧のように国民の権利意識が高い国では常識になっている、いくつかの外交上での原則が日本ではまだ広まっていない。外部の世界の実態、世界での常識が日本で考えられているのとはまるで違うことを国民がじゅうぶん知らされていないため、自分で判断がしにくい、つまり権利があってもそれを自分で行使するより、マスコミや政治家にうまく操縦され、利用されやすくなっているのである。詳しいことは本の終わりの方を参照しただきたいが、外交を、つまり世界を考えるためには、いくつかの思い込みを場合によっては百八十度修正する手続きが必要なのだと思う。
まず、皆が、そしてマスコミが当然のことのように使っている言葉、概念、パーセプションを自分の言葉で洗いなおしてみる。「国家を守れ」という呼びかけを鵜呑みにするのではなく、国家とは何なのか、自分にとって何なのか、そのうち一体どういう側面が守るに値するのか、自分は何をできるのか、やるべきなのか――要するに、美しい言葉に酔うのではなく、自分自身にとっての意味合いを考えてみるのである。
外交というと、「たとえば北方領土問題についてのプーチン大統領の真意は何か」など熱した議論の的になりやすいのだが、ロシアの外交は、プーチン大統領一人の胸先三寸で決められるものではない。アメリカや中国との関係、国内での反政府勢力の力、シベリアの開発、北方領土維持にかかる費用、あれやこれやの要素を総合的に勘案し、もうこれは解決しないとロシアは得るものより失うものが多すぎることになる、日本に島を返還しても国民の支持は得られる――そう判断して初めて本格的に動き出す。そしてこれらの要素は常に変動している。国内の政治もそうだが、外交でも指導者が一人で長期的な戦略を遂行している、と思ったら間違いなのだ。
ここで列挙するのはやめるが、あと一つ。それは、外交も国内政治と同じ、道理で動くよりは貸し借りで動くということだ。日本では、東京の〇〇省に陳情に来るしきたりがまだ続いているが、海外では陳情とか請願はきかない。見返りは何かということを、相手はかならず計算する。みじめたらしく陳情すればするほど、相手は頑なになって、見返りを吊り上げようとするかもしれないのだ。
それと同じ伝で言うと、はっきりモノを言う方が好い結果が出る国が、世界には多いということである。日本人はよく、「そんなことを外国人に言っていいのですか。怒らせてしまいますよ。やめてください」と言うことが多いのだが、多くの外国では言葉に出してナンボ、ということになっている。言葉に出さなければ交渉も始まらない。相手をなじるのではなく、こちらの不満を率直に言うのだ。黙って不満を抑えている人間は、かえって警戒され、嫌われる。
自分で考え、自分で作る時代――自分の価値観も
ロンドンでオリンピックがあった。日本の水泳選手のインタビューを見ると、今の日本の若者はまず自分のため、と言うより、自分にチャレンジするために泳いでいる。「国のために」という気張った思いは少ない。そして体格の点でも、もう見劣りはぜんぜんしない。ちゃんと受け答えができる社会常識を備えていながら、かつチャレンジ精神がある「肉食性」でもある。「ああ、変わったな。良かったな」と思う。
日本人は自信を失う必要はない、これからも世界経済は成長し、そのなかで日本も相応の分け前を得ることができるだろう、ただ国内の政治メカニズムを改善して、社会と政治の間の風通しを良くしないといけない、外交を考えるうえではこれまでの通念を修正し、もっと現実的に、もっとしぶとくならないといけない。
日本では、自分で考え、政治にももっと参加したいと考える人が増えてきた。そうなると、日本人はいったい何をめざすのか、どんな社会や経済を作りたいのか、という根本的な価値観を持つ必要があるだろう。それは政府が上からの目線で「これだ」と決めるものではない。各人各様、いろいろな価値観があって、それらがぶつかり、助け合って、トレンドができていく。
一般に強力な政権が長期にわたって続いた国には、なにか強力な宗教とかイデオロギーがあるものだし、また貧しい国の政権は宗教を使って国民の不満を抑えようとする。日本はそのどちらでもないので、価値観も相対的になってしまう。
ただその中で日本社会を一本、貫いている共通の価値観があると僕は思っていて、それは「ちゃんとしていること」という一語で表される。「ちゃんとしろよ」と会社で言われ、「ちゃんとしなきゃダメじゃないの」と母親に言われる。これにはいろいろな意味が入っているのだが、要するに責任感を持つこと、人をだまさないこと、礼儀を守ること、などにくくることができるだろう。この多分、農村共同体で生きていくための生活の知恵のようなものが日本では仏教、儒教に加わって、キリスト教やイスラム教の宗教規範の代わりをしてきたのではないかと思う。
僕自身は、ボストンの総領事として高級住宅地に住むようになったとき、その慣れない環境のなかでどうしたかと言うと、「国民の九十五%以上もが自分は中産階級だと思えるような、格差の少ない豊かな社会の代表であること」を誇りにして、生きていたのである。引退した今は、日本人は世界のどこに行ってもちゃんとしている人が多くて素晴らしい、ただその「ちゃんとしている」の中に、「いつもみんなと同じ」という集団主義的な響きが聞こえると、ちょっと息がつまる、もう少し自由が欲しい、日本は近代社会なのだから、農村社会の「ちゃんとしている」だけでなく、近代市民社会の哲学を作り上げたロックやルソーやベンサムを日本人だと思って読み直してもらいたい、と思う。
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