選挙は今の日本の社会に本当に必要なのか?
なんで今選挙をやらなければならないのかわからないうちに選挙になってしまったが、なったらなったで、違和感がある。どうもこの選挙白々しい。中味のないアンパン、外側の皮についたケシ粒だけがいやに目立って叫んでいるが、それだけ――そういう感じなのだ。
野田総理は民主党の中で孤立しているように見えるし、自民党の方は自民党で、安倍さんの周囲に結集して燃えている感じもない。
政党政治は歴史の産物、もう時代遅れかも
それに、数名の党首が競うだけなら、じっくり比較して選ぶこともできるけれど、政党のアンコであるところの何百人もの代議士をじっくり選ぶというのはそもそも無理だという思いがつのる。それに、政権与党が代わるたびに、現役の国会議員が百名は落選するだろう。それぞれ3,4名もの秘書を抱え、2か所以上の事務所を運営している中小企業が突然倒産するようなもので、秘書もそうだが、議員本人がどこも雇いたがらない失業者と化す。そうなっては大変と、中には民主党から自民党に鞍替えするような議員も出て、主義主張などより、議員であり続けること、選挙で通ることが至上命題になってしまう。
このような不条理は、政党が政治の中心にあるからだ。政党は議員にとって副次的なもの、例えば生命保険のようなものにしてしまえば、ニッセイから富国生命に乗り換えてどこが悪いということになるだろうに。
自民党と社会党、共産党が片や資本主義、片や社会主義ということでイデオロギー対立をしていた時代なら、数は力という諺に従って徒党(政党)を組んで相争う意味もあったけれど、国民の多くが中産階級になってしまった今では、二手、三手に分かれて相争う意味もなくなってしまった。欧米でも、政党の間の差はますます縮まり、英国では労働党が、ドイツでは社会民主党が財政緊縮政策、構造改革政策を進めたりする時代だ。
選挙、政党は「ガバナンス」の手段なので、目的ではない
そもそも選挙、選挙と、やたら神聖視したものの言い方がされるが、今のように一人一票という完全な平等性に基づく大仕掛けな選挙は欧米でも、19世紀、20世紀になってからのことだ。政党の方はもっと古い存在で、議会での派閥、あるいは会派の形で古代アテネの時代から存在していたが、現代の政党のようになったのは、これも普通選挙が欧米で広がってからのことだ。
つまり政党に分かれ、選挙で議会の議席を争うやり方は、産業革命で生活水準が向上し、成人が平等に一票の権利を得て初めて可能、かつ必要になったもの、即ち世界史発展の一段階に応じて出現した一時的なものであるかもしれないのだ。
成人全員が一票ずつ持っている社会、これは容易なことでは治まらない。今様の言葉で言えば、「ガバナンスが困難」になってしまうのだ。ガバナンスとは皆の納得を得て、必要なものごとを決め、実行していくことである。
政党や選挙は、このガバナンスを可能とする道具であり、別に神聖不滅の目的ではない。つまり、日本の衆議院のように480名もばらばらに議員がいたら、どうやってものごとを決めることができるだろう? 1990年代初期のロシア議会は混とんとして、「一人一党」という有様だったから、議員一人一人がマイクを奪い合い、利権を奪い合い、結局1993年10月、エリツィンに戦車砲をぶちこまれてしまったのである。やはり政党を作り、480名の議員を束ね、政党の間で懸案を話し合い、妥協し、修正してものごとを進めていくのが現実的なやり方だろう。
国会議員は地域の代表だ。地域の利益の面倒も見、国政にも識見を発揮する――という建前だ。ところが国政の方は、議員一人一人がばらばらのことを言っていてもまとまらないので、政党単位でものごとが決まる。そういう政治では、有権者は国政に対して大した影響力を行使できない。地域の代表として特定の議員を国会に送っても、その議員は所属政党の方針に従って有権者の嫌いな政策に賛成してしまうかもしれないからだ。
先進社会における選挙の意味
そういう場合、選挙はどういう意味を持つかと言うと、「主権在民」を演出するための儀式、もっとありていに言ってしまえば「ガス抜き」ということになる。有権者一人一人の意見を政策に反映することはできない。そんなことをしたら、政策とか法律は何万ページもの厚さになって、何が何だかわからないごった煮になってしまうだろう。だから、政策のおよその方向は政党毎にまとめて選挙で信を問い、国民から委任されたことにして、細かいことは国会と政府で決めていくのだ。
そういう時、選挙は、たとえば消費税引き上げに反対な国民が、民主党以外に投票することで憂さ晴らしをする場となる。それでも消費税は上がるので、あくまでも「ガス抜き」にしかならない。
それでも、ガス抜きは大事だ。一党独裁とか選挙がない社会では、「ガス抜き」の機会がなく、国民の不満は暴動、革命という暴力的な形で噴出することになる。そして少し別のことになるが、選挙は内乱、内戦なしに、大きな政策の変更をすることを可能とするものでもある。与党は利益団体に縛られているので、ある政策が失敗しても、その政策を変更することができないかもしれない。変更すれば総理が責任を問われることになるかもしれない。その場合、選挙を行い、与党を替えれば政策変更が可能になる。つまり選挙は、「代替」政策の実施を可能とする。これも、一党独裁国では難しい点である。
もう一つ、選挙は特定の政策に対する国民投票のような意味も持つことがある。小泉総理の2005年郵政民営化解散がそうだった。大きな政策変更を実現するためには、総選挙に訴えるのがひとつの手なのである。
改革の方向
というわけで、現代社会のガバナンスに必要なものを列挙すると、①ガス抜き効果、②政党間の競争による政策の切磋琢磨(日本では「ばらまき」[=集団買収]を競うことが多いが)、③複数政党の存在によって代替政策を確保、④大きな決定に対する国民投票的なもの、といったところになるだろうか。これらの条件が満たされれば、選挙だけにこだわる必要もないだろう。
今度の「維新の会」騒ぎを見てもわかるように、百名以上もの良質な議員候補者を集めるのは難しい。いい定職を持つ者は、無理して国会議員になって、2,3年先に落選でもすれば目も当てられないことになるので、立候補などしやしない。そうなると、今回橋下市長の勉強会に希望者がわんさとつめかけたことが示すように、政治が就活とほとんど同義語になってしまう。こういう人たちは、なぜ試験を受けて公務員になろうとしないのだろう。志も準備もなく、ただ定職を求めて政治を志す者には、検定試験をやって、「政治士二級」とか「政治士一級」の資格取得を義務付けるべきだ。法務省が外郭団体でも作って、検定試験をやればいいと思う。
そんな不自然なことをやるより、一般の議員を終身雇用の公務員で代える――つまり国会議員は選挙ではなく官僚の中から選任し(総理だけは直接選挙とする)、各省庁の官僚が起草した法案を審議させる――、こういうやり方はどうか? それは、うまくいかないだろう。それでは、地域の利益を国政に反映しにくくなってしまう。それに官僚は本来、既存の法律に従い、できるだけ公平に税を配分する存在なので、大きな政策変更はやりにくい。官僚が官僚の起草した法案を審査するということは、今でも内閣法制局がやっているのだが、それは既存の法律との整合性とか文言の正確さの追求とかについてである。
では、総理は直選制、国会は官僚に任せたうえで、その審査、評価はマスコミに任せる――と言うやり方はどうか? これも、やはりうまくいくまい。主義主張が180度異なるマスコミ同士では、評価のやり方について意見が一致しないだろうからだ。
地方に財源を配分し、地方自治を強化する、国民は地方の政治への発言を強化する、というやり方も提唱されている。だが、地元に事業所が少ない県では、財源が不足するだろう。また外交問題やTPPのような自分たちの利害に関わる国際問題について、消費税引き上げのような国全体の問題について国民が自分たちの意見、立場を政府にインプットするチャンネルがないと困る。
それは、インターネットでクリック投票する等して担保することができるだろうか。現在、納税の自己申告はインターネットでできるようになっている。つまりそこまで本人認証、ダブル申告(まあ、納税をダブルで申告する人はいないでしょうが)防止の技術は確立しているのだ。だとすると、投票もインターネットでできる時代が来るのかもしれないが、「何々について何月何日までインターネットで投票を」ということを有権者の一人一人に徹底することは非常に難しいだろう。
せめて総理は3年間
以上、極論、空論を並べてみた。日本の民主主義は村落共同体の習俗を引きずって、コンセンサスを重視する。多数決でものごとを決める欧米の民主主義とは一味違う。だから、欧米で開発された議会とか選挙にこだわらず、自分に合った制度を発明すればいいではないかと思う。
もっとも、それが夢物語だということも重々承知。毎年一回は政権交代があって、新聞がよく売れ、ニュースの視聴率が上がるというのは、内需拡大の観点からもいいことだ。それに日本では、明治の昔から総理が頻繁に代わっていて、別に今の状況が絶望的だというわけでもない。
筆者が調べたところでは1885年から1928年(普通選挙が初めて行われた年)までに延べ26名、つまり1名1.65年の任期、普通選挙で政党政治が行われるようになった1928年から1939年の太平洋戦争までは日本が政治混乱と軍部の介入のなか、戦争への道を転げ落ちていった11年間だが(僅か11年! 2009年から数えると、あと8年で日本にとって致命的な戦争が始まることになる)、この間の総理は述べ15人、つまり1名1.36年の任期、プラザ合意で日本経済がふるわなくなった1985年から現在までの総理は23人、つまり1名1.17年で、加速度をつけてはいるものの、もともと日本の政治には総理が長くもたないというDNAがある・・・または制度の設計に瑕疵があるらしい。
これでは何も決まらないし、何も変えられない。変わらないと周りの国々に、よってたかってむしられて(・・・・・)しまう、ということになる。今われわれが早急にやらなければいけないことは、①一度選んだら4~5年は政権を変えないための制度作り(憲法改正が必要になるだろう)、②昔より権利意識を高めた日本国民が参加意識を持てるような制度作り、③人口の小さな地方、そして高年層が過大な発言権を得ていることの是正、この三つだろう。
今回野田総理は、予算関連法案は予算案本体と同時に成立させる慣行をこれから二年間は続ける、との与野党合意を取り付けた。今回の選挙では、自民党が勝とうが民主党が勝とうが、参院では少数党だ。衆参両院間のねじれが続いた場合、このねじれが毎年政局に結び付くのを防ぐと言う意味で、予算関連法案についての与野党合意は、非常に大きな意味を持っている。英国では、与党は任期開始から3年間程は総選挙に訴えない、という紳士合意があるそうだが、日本でもこのような良識を伝統としていくことで、憲法改正をせずとも2~3年の安定政権を得ることができるだろう。
政治が安定すれば経済も良くなる、経済が良くなれば政治も安定しやすい。今はこの逆が起きている。それと同時に、円高基調のなかでもやっていける経済を構築していこう。
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短すぎる総理の任期
最近、小生が尊敬する元外務官僚河東哲夫氏が、そのブログに書いていたことで、本当に驚いた記述があった。
つまり、日本国の総理は、議会制が敷かれた明治...
» ブルガリア研究室
コメント
総理の任期が短すぎる、そしてこの短さは明治期でもそうだ、という視点には驚きました。
ところで、小生が少し計算してみたら、軍部主導時代の内閣の数は15代ではなく、10代で、少し計算の過ちがあるようです。
小生の下記ブログで、訂正版の掲載をしましたので、参考としていただければ幸甚です。
http://79909040.at.webry.info/201212/article_6.html
(河東より:反応が後れてすみません。時々計算違いをしますので、ご指摘ありがとうございます。ただ論旨の大筋は変えなくてもいいものと理解します)
はじめて投稿させて頂きます。選挙について。
私は、やはり小選挙区制に問題ありと見ました。何より、死に票が多すぎます。前回の参院選にしても、今回にしても、得票差がさほどないにもかかわらず、風が吹いた方が総取りしてしまう、小選挙区制は、民意を全く反映しないばかりか、民意に反して、一方を大勝させてしまうという欠点が露呈しています。その結果が、恒常的に生ずる衆参の捻れです。その結果政策は低迷し、政権は常に短命になってしまっています。
少なくとも、1選挙区最低二人が当選する制度にすれば、死に票は圧倒的に減少し、競合する反対政党が、圧倒的民意を代表する議会が構成できます。
選挙制度の見直しこそ、喫緊の急務です。
はじめて投稿させて頂きます。選挙について。
私は、やはり小選挙区制に問題ありと見ました。何より、死に票が多すぎます。前回の参院選にしても、今回にしても、得票差がさほどないにもかかわらず、風が吹いた方が総取りしてしまう、小選挙区制は、民意を全く反映しないばかりか、民意に反して、一方を大勝させてしまうという欠点が露呈しています。その結果が、恒常的に生ずる衆参の捻れです。その結果政策は低迷し、政権は常に短命になってしまっています。
少なくとも、1選挙区最低二人が当選する制度にすれば、死に票は圧倒的に減少し、競合する反対政党が、圧倒的民意を代表する議会が構成できます。
選挙制度の見直しこそ、喫緊の急務です。
はじめて投稿させて頂きます。選挙について。
私は、やはり小選挙区制に問題ありと見ました。何より、死に票が多すぎます。前回の参院選にしても、今回にしても、得票差がさほどないにもかかわらず、風が吹いた方が総取りしてしまう、小選挙区制は、民意を全く反映しないばかりか、民意に反して、一方を大勝させてしまうという欠点が露呈しています。その結果が、恒常的に生ずる衆参の捻れです。その結果政策は低迷し、政権は常に短命になってしまっています。
少なくとも、1選挙区最低二人が当選する制度にすれば、死に票は圧倒的に減少し、競合する反対政党が、圧倒的民意を代表する議会が構成できます。
選挙制度の見直しこそ、喫緊の急務です。
かも様
賛成です。