等身大の坂本龍馬 京都への旅から
2日、小雨の京都を散策していたら、坂本龍馬の墓という標示があった。龍馬は僕が若い頃憧れた英雄だとしても、墓参りをするほど傾倒したわけでもないので、ああこんなところに墓が、それにしても本物かと思いながら行ってみると、そこには国家のために殉じた者たちの霊を祀る「京都霊山護国神社」があった。
志士たちの霊を祀るための社をここに作れという天皇の勅令は、明治維新直前の慶応4年(1868年)に出ていて、靖国神社より少し古い。そして傍らには東山幕末維新ミュージアム、霊山歴史館がある。
「護国」と言えば、僕は池袋の護国寺を思い出す。だが、他ならぬ京都の東寺も真言宗の護国寺で、他にも日蓮宗の護国寺もあって、それらは必ずしも戦没した英霊を祀るためのものではない。他方、護国神社というのは日本中にいくつもあって、それぞれが英霊をお祀りすることを目的としている。東京では靖国神社がその目的のために作られたのだが、ここは設立の時には軍の影響力が強く、以後も特別の地位を保持してきている。
因みに京都の宇治には、曹洞宗の靖国寺というのが昭和24年に開かれている。これは戦争の英霊を祀ることを目的として設立され、靖国神社から約240万あまりの御分霊を得たと、ホームページには載っている。複雑なことだ。
で話を戻すと、この小雨にけぶる京都霊山護国神社では山腹に坂本龍馬と中岡慎太郎の質素な墓石が並び立ち、その両脇の山腹をずっと上の方まで幕末勤王の志士1356柱の墓石がずらりと固める。これはすごい気を感じさせる地だ。
他にも日清戦争、日ロ戦争、太平洋戦争などの戦死者も合わせ、約73000柱が祭神として祀られているそうだ。戦後の極東裁判で犯罪人として死刑の判決を受けたいわゆる戦犯の方々がここでどのような扱いを受けているかは調べていないが、こういう施設があること、そして日本全国に護国神社があることは、これまで全然知らなかった。因みに、この京都霊山護国神社は2002年に神社本庁との包括関係を解消した由。
傍らの霊山歴史館には、池田屋事件とか龍馬暗殺とか、志士たちと新選組の死闘などをめぐる数々の話しがヴィデオも交えて陳列されている。まあわりと興味本位の、ありきたりの説明ぶりなのだが、京都の先斗町あたりで連日、こうした死闘が繰り返されていたかと思うと、臨場感がある。
平成の今で言えば、鹿児島県とか山口県の地方官僚たちが、TPP加盟交渉反対と倒幕ならぬ倒民主党政権を旗印に夜ごと県事務所から赤坂あたりに繰り出しては気勢をあげる。政府は政府で、アウトローと呼ばれる者達を密かに雇い、成功の暁には公務員として採用することを餌として、鹿児島・山口の地方官僚狩りをさせる―――と、まあこんな感じだろうか?
幕末の地方官僚たちが今では「志士」と呼ばれ、その一部は坂本龍馬のように英雄視され、明治維新をほとんど一人、二人の手で成し遂げたように喧伝されているわけだが、そのような英雄史観が当時の史実にどのくらい見合ったものなのかどうか。とかく目立つことをする者だけが歴史に残りがちなので、例えばあと100年たってみると、平成24年消費税率引き上げの決定を実現したのは、その頃ブログやツィッターで消費税引き上げの必要性を喧伝していた何何某の功績であった、ということになっているかもしれない。
だが歴史は個人、組織、政府が相絡まって織りなす複雑な産物だ。史上名高い薩長同盟も、同盟のきっかけとなった薩摩から長州への兵器供与は、英国・ユダヤ系のJardin&Matheson商会に連なるグラバー商会の支援を仰いだものである。当時、フランスは幕府、英国は薩長の肩入れをしていたので、薩長同盟も実は英国資本の意を受けたもの、坂本龍馬はその兵器を薩摩から長州まで運搬することを受諾して活動資金を稼いだ一匹狼程度の存在であったかもしれない。もともと彼が1864年に作った亀山杜中は、薩摩藩がグラバー商会等から最新兵器を入手するためのダミーとして使われていたのだ。日本人である龍馬との取引ならば、たとえ兵器購入を幕府に咎められても、言い訳がたつということだったのだろう。
だがそれにしても、龍馬はどうして殺されたのだろう。犯人は今でもわかっていない。脱藩し、独立した人間として大きなことを成し遂げた坂本龍馬は、僕も大好きなのだが、彼をあまり英雄視しすぎると、「一人のすぐれた政治家がいれば日本はよくなる」という、現在の日本社会における未成熟な政治理解を助長するものになってしまう。
この後井伊直弼の居城だった琵琶湖畔の彦根城に行ったのだが、
桜田門外の変を説明した文で僕にいちばんショッキングだったのは、井伊大老暗殺を防げなかった護衛たちのその後の運命だった。浪士たちに殺害された護衛は除き、無事だった者たちは死罪に処されているのだ。親族も含めて。これが現代の日本だったら、SPのなり手はいなくなることだろう。江戸時代は、市民社会と言っていいほど人々の暮らしは良かったことになっている。だが実際には、こういう有無を言わさない残虐とも言える権威主義的な社会でもあったことは忘れてならない。
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