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街角での雑想

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2009年10月31日

ロシアはアジアで力になるのか?

鳩山政権がロシアとの関係推進に前向きだ。いいことだと思う。

でもアジアでのロシアの地位は決定的に不利で、よく日本の一部で言われているように、「中国に対するカード」にもなりはしないのである。
そこをよく見て取り掛からないと、ロシアに貢ぐばかりで領土問題は頬かぶりということにされるだろう。

民主党が来年夏の参院選挙までに北方領土問題で成果を出そうと思って焦ると、かえって火傷をすることになるだろう。

なぜそうなのか、アジアでのロシアの地位についての一文を掲載する。 長文だが、ご容赦願いたい。いちばん言いたいことは、①人口600万人のロシア極東と1億2000万人の中国東北部では比較にならず、極東のロシアは「中国次第」という状況に陥っていること、②ロシア極東の石油・天然ガスは埋蔵量が確認されておらず、それほど大きなものではないだろうこと、③たとえ大きくとも、それを中国が独占できる状況にはないこと。なぜならロシア自身が中国に依存したくないからである、④現在米国では新しい手法による天然ガス採掘が急伸し、LNG輸入需要が急減していることもあって、「東シベリアのエネルギー資源」の価値が低下していること、などである。

                                                 河東哲夫

ロシアの自然、歴史と文化、そして感情表出の幅の大きい人々は、その壮大なスケールで外国人を魅了する。だがアジアでは、この国は帝国主義的な顔しか知られてこなかった。中国が清末期以来の混乱に沈むなか、ロシア・ソ連はアジアの主要なプレイヤーの一つとしてふるまったが、アジアを同等のパートナーとして認めていたわけではなく、またアジア諸国もロシアを完全な意味での先進国とは認めてこなかった。
そして今日、アジアにおける力のバランスは大きく変わっている。ソ連は崩壊し、その軍事力も大きく劣化した。これに反比例して中国は、アジアの大国としての地位を取り戻した。ロシア極東部の人口はわずか六百五十万人で、工業基盤にも乏しい。東シベリアのエネルギー資源が本格的に開発されるまで時間はかかるし、埋蔵量さえまだ十分わかっていない。アジア太平洋地域におけるロシアの地位は、ロシア自身の意思によってよりも、米国、中国、日本などとの関係によって規定されていくことになろう。
ここではそのような観点から、アジアの諸地域とロシアの間の関係を冷戦前、冷戦後に分けて概観した後、ロシアがアジア太平洋地域でどの程度の役割を果たすことが可能なのか、何を期待できるのか、北方領土問題をその中でどのように処理していくべきなのかなどを考察してみたい。

太平洋への見果てぬ夢
東アジアにロシアが現れたのは新しいことである。ロシアはもともとモスクワ公国という都市国家だったが、一六世紀にモンゴル支配をはねのけ逆に拡張を始めたのである。それは、その百年前にイスラムを撃退して拡張を始めたスペイン、ポルトガルの動きとよく似ていた。モンゴルの帝国を裏返しにしたようなものだった、と言ってもよい。だが森に被われた広いシベリアのこと、ロシアが太平洋岸にたどりつきウラジオストック周辺の領有権を清帝国から奪ったのはやっと、一八六〇年の北京条約によってである。それまでのシベリアはチュルク系、モンゴル系諸民族の居住する地域であり、ウラジオストック周辺地方は高句麗、渤海国、あるいは女真族と異なる支配者の手を転々と経てきた。ロシアは西欧諸国と同じく、植民地勢力としてアジアに立ち現れたのである 。

一攫千金を夢見るロシアの冒険家たちは、極東で止まりはしなかった。彼らはアラスカへの植民を進めただけでなく、その推進者のレザノフは一八〇六年、北米西岸を船で南下した。今のオレゴン州のあたりを、アラスカ植民の食糧栽培のため植民地にするのが狙いだった。彼が嵐で流されて、当時スペインが統治していたサンフランシスコの総督の娘(当時一五歳)と恋に陥った有様はまだソ連の時代、ブロードウェイの向こうを張って作られたロシア版ミュージカル「ジュノーとアヴォース」に描かれて、今でもモスクワで上演されている。当時の名残はサンフランシスコ北方のFort Rossや、サンフランシスコ市内の「ロシア丘」という名前に残されている 。

レザノフはロシア最初の世界一周航海も行い、南米から太平洋を横切って一八〇四年には長崎の出島に至って、外交関係樹立と通商を求めた。幕府はこれを拒絶している 。ハワイでも、カメハメハ大王がハワイ諸島統一を進めていた一九世紀初頭、露米会社がアラスカへの補給基地としてカウアイ島などの利権を獲得しようとして、カメハメハに追い出されている。ロシア人は西欧諸国に百年は遅れて太平洋に到達したが、結局強力な地歩を築くことはできなかったのだ。
だがロシアは内陸部においてはかなりの拡張を遂げ、中央アジアに勢力を確立した。これによって、オリエント文明は新疆とペルシャの間の環を失うことになった。ロシアは満州においても、一九〇〇年の義和団事件鎮圧後も兵力を残して入植を続け、さらに朝鮮半島に野心を示したことで日露戦争を起こして敗北した。その後一九一七年のロシア革命で帝国は瓦解、一九一九年には日本、米国などによるシベリア出兵が行われたため、モスクワ中央からの差し金で「極東共和国」が緩衝地帯として作られ、これは一九二〇年から一九二二年まで存在した。その後ソ連は超大国となり、朝鮮戦争、ベトナム戦争では拡張主義勢力として行動したが、一九九一年のソ連崩壊とその後の中国の台頭で存在感を大きく後退させている。

以上を総括するに、ロシア、ソ連も、米国と同様のアジア太平洋国家となることを夢見ていたのである。しかし西海岸で金が発見されて以来、大陸横断鉄道を何本も建設し、パナマ運河を建設してまで西海岸の安全を確保し、私企業の活発な投資で西海岸を発展させた米国に比べて、ロシアによる極東開発はあまりにも弱々しいものだった。ロシアは力に任せて、シベリアから極東にかけての広大な地域を自分のものとしたが、英国にとってのインドに比べれば、それは市場とはなり得ないものであり、ロシアの産業革命を促進しはしなかったのである。ロシアはこれら地域を、その後自力で十分開発もできずもてあますどころか、安全保障上の弱点にさえなっているのである。

自らをヨーロッパ人と位置づけるロシア人にとってロシア極東部は異質の地であり、流刑の憂き目にあうか、ソ連時代大学卒業後に強制的に指定されて就職するか、割高の賃金に魅せられて出稼ぎにくるか、いずれかのケースで移住してくることが多かった。今でも極東で働くロシア人には、業績をあげていつかは「ヨーロッパ」へ帰ることを夢見る者が多い。そしてこの地に来てからまだ時が浅く、法的地位も確定していない土地もあるため、極東を中国あるいは日本が取りにくるのではないかという警戒感が今でも根強く見られるのである。
なお、ロシアは文学、音楽などでは日本に大きな影響を与えたが、政治、経済面でのモデルとしては軽んじられた(但し、戦前の国家総動員法制定のころは、ソ連の計画経済体制が大いに参考とされたが)。これに対して中国人は、国家を短期間に再建するためにはソ連的専制体制が最適と見て、これを「政党国家」と名付けて今日に至るまで用いている。

戦前から冷戦終了まで
ここでアジア太平洋地域とソ連の関係をふりかえってみたい。過去と対比すれば、現在の意味が浮き彫りされるかもしれないからだ。

(中国):ロシア革命後ソ連がアジア太平洋方面に有していた最大の目的は、「脆弱なソ連極東を満州の関東軍に攻めさせない」ということであったろう。そのためにソ連は、まだ脆弱だった中国の国民党、そして共産党を利用した。孫文、蒋介石は日本とも緊密な関係を持っていたが、ソ連は彼らをモスクワに招待した。孫文は、ソ連共産党支配にならって「政党国家」理論を編み出し、これは現在の中国共産党の統治理論になっている。そして蒋介石の子息蒋経国はモスクワに留学し、ロシア人を妻とした。コミンテルンは中国共産党誕生の当初からこれを指導し、国民党と無理やり協力させては日本への当て馬として利用しようとしたのである。
太平洋戦争終了とともに、ソ連は「日露戦争でロシアが勝っていた場合」の状況を作り出そうとしたかに見える。欧州での拡張ぶりと相呼応して、満州に侵入して再び大連に至るまでの利権を抑えたのだ。中国はこれを取り返すのに大変な苦労をなめた。毛沢東が一九四九年、モスクワに三ケ月逗留して厳しい交渉を行った末、スターリンからやっと引き渡しの約束を得るのである。そして朝鮮戦争はこの半年後に勃発する。このことは、ソ連が満州を朝鮮半島に進出するための足場と考えていたことを示すものかもしれない。そして中国軍が最終的に参戦したのは、米軍に対抗するだけでなく、ソ連が北朝鮮を牛耳るのを防止するためであったかもしれない。その後ソ連はアジアへの地理的拡張を諦め、他の手段で米国と対抗するようになった。中国という大きな共産国が誕生したから、当面安心もいていただろう。ソ連は中国に多数の技術者・専門家を送って、その開発を助けた。

だが一九五六年スターリン批判を契機に中ソ関係が悪化し、一九六九年には珍宝島で武力衝突が起きる。中国はソ連の盟友であるどころか、共産圏、そして開発途上国での影響力を競い合う相手となり、そのねじれた関係のなかでベトナム戦争が進行する。ベトナムは中ソ対立につけこんで双方から援助を引き出し、米国もこの対立を利用した。つまり一九七一年、キッシンジャーはまず中国をベトナム和平に引き込むことでソ連の支持をも引き出したのである。ソ連はベトナムだけでなく、インド、アフガニスタン、ビルマ、ラオスとも親密な関係を築き、時に中国との間で影響力を競い合った。中国に千年間にもわたって直接支配されたベトナムをはじめ、これらアジア諸国の多くは中国と微妙な関係にあり、ソ連はカウンター・バランスとして利用されてもいたのである。

そしてソ連の艦隊は太平洋艦隊と北洋艦隊の間の航路を維持するとともに沿岸国に勢威を誇示するため西太平洋、インド洋で活動し、交通の要衝マラッカ海峡に遠くないベトナムのカムラン湾には一九七九年、停泊・補給拠点を設けるに至る。これは「カムラン湾基地」と呼ばれて、その実力以上の心理的圧力を西側に与える。これらに加えてソ連は、一九七一年にはシンガポールにナロードヌイ銀行支店を設置して諜報に役立てると同時に、早くからアジアでの資金の流れにも参加するようになっていたのである。ベトナムが勝利するとともに、世界は東南アジアにおける「共産主義のドミノ」現象を真剣に心配するようになった。

(北東アジア):戦後の北東アジアにおいては、北朝鮮、モンゴルがソ連と友好協力援助条約を有する同盟国で、特に後者は社会主義国となった一九二四年から一貫して親ソ路線が際立っていた。モンゴルは、清時代のように中国領内に再び組み込まれてしまうのを嫌ったのである。

ソ連は戦後、波はあったがほぼ一貫して北朝鮮への強い影響力を保持した。ソ連からの重油の供与は北朝鮮経済にとり不可欠のもので、ソ連との貿易は北朝鮮貿易の五〇%以上を占めていた。一九六五年にはソ連の支援で小型軽水炉が完成し、ソ連は中国とともに北朝鮮への核技術支援を続けた。

しかし同じく分裂国家だった東独に比べ、北朝鮮に対するソ連の対応はやや中途半端だった。東独にはソ連軍の精鋭が駐留して、西側との対立の最前線になっていたが、北朝鮮はそうではなかったし、中ソ論争の間、北朝鮮は中国とソ連との間でバランスを維持する要があった。北朝鮮はワルシャワ条約機構はもちろん、モンゴルとは違ってコメコン(ソ連圏諸国の集まった経済共同体)にも入っていなかった。

(ソ連極東における東西対立と協調):冷戦中オホーツク海には、米国に向けて照準を設定したミサイル(SLBM)を装填したソ連原潜が遊弋しており、この地域は重要な戦略的意義を持っていた。ウラジオストックとペトロパブロフスクはソ連太平洋艦隊――ムルマンスクを基地とする北洋艦隊、バルチースクを基地とするバルチック艦隊と並ぶ――の基地として重要な地位を持っていた。またハバロフスクに置かれた極東軍管区は、太平洋の米軍、そして中国に対峙する重要な存在であり、その司令官は数度にわたり国防相などモスクワでの要職に昇進していった。極東からはソ連の爆撃機が太平洋方面に示威・偵察飛行を行った。日本自衛隊の防空能力の多くはこれへの対処に向けられたし、また海上自衛隊はソ連の潜水艦、爆撃機に対して米国の空母艦隊に抑止力を提供することも期待されていた。

軍事的対立の一方、ソ連あるいはロシアの指導者は、ロシア極東とアジア太平洋地域の間で協力関係を築きたいという姿勢も一貫して表明してきた。それは影響力を拡大するためのプロパガンダであると同時に、経済的利益を求めての本音でもあったろう。ソ連、ロシアの指導者たちは突然思い出したように「アジア・太平洋地域における画期的なイニシャティブ」について演説をした。それは、①米国、あるいは中国への牽制、②シベリアの天然資源をもってアジア太平洋と経済関係を強化したいという意欲の表明、③そして(米軍の地位を相対化させるとともに、日米を切り離すために)「集団安全保障体制」をこの地域で樹立しようという提案、から成っていた。だが、これら演説で実際の政策として実現されたものはわずかである。太平洋方面はソ連にとって政治・経済・軍事すべての面で重要な意味を持っていたが、実際の政策重点はどうしても対欧米関係になるのであった。

冷戦終了後の激変
一九九一年崩壊する前後、ソ連・ロシアは政治的・経済的な大混乱に陥る。これは、極東におけるロシアの軍事力も大きく低下させた。全土で四〇〇万人強の兵員を擁したソ連軍は一一〇万人強にまで減員され、海軍、空軍の装備は更新されずに摩耗度を強めた。二〇〇二年、カムラン湾の使用権をベトナムに返還したことは、アジア太平洋地域におけるロシアの退潮を象徴するものになった。現在も、ロシアの退役原子力潜水艦解体に対して、日本を含めたG8諸国などが資金援助を続けている。極東におけるロシアの地位は政治・経済・軍事すべての面で下がったままで、ロシアは極東・シベリアに中国、北朝鮮からの移民があふれることを懸念している。だが、サハリン石油ガス・プロジェクトが稼働したこと、シベリアの石油を中国・太平洋岸に運ぶパイプラインの建設が始まったことは明るい材料となっている。

(対米国):ソ連崩壊後米国は、民主化・市場経済化を唱えるロシアを助ける姿勢を一時見せ、極東においても老朽化原潜の解体に資金を提供したほか、一部の識者は日本とともに極東の開発を進めることを提唱した。だがブッシュ政権登場のころから米国の対ロ関心も後退し、NATO拡大などでロシアの神経を逆なですることを繰り返した。それに対してプーチン大統領も、厳しい対米批判で応じたばかりでなく 、二〇〇八年八月グルジアに侵攻した。米国批判は、経済問題から国民の注意をそらせるのに適しているという事情もあった。

オバマ政権はロシアとの関係では核軍縮に最重点をおくとともに、対立関係を「リセット」し、ソ連崩壊で傷ついたロシアを宥めて邪魔をさせないように努めている。だがオバマ政権はロシアを大西洋を通して見ており、アジア太平洋地域においてロシアを外交カードとして活用しようとする姿勢はほぼ皆無である。東シベリアでの資源開発に米国が参加し、ロシア極東部からLNGガス、石油等をアラスカ、米国西海岸に輸出するだけでも、極東におけるロシアの対中バランスを向上させ、北東アジアの安定化に資することになるのだが、米国はサハリン石油・天然ガス開発への参加にとどまっている。米国では州毎の規制が異なるため製油所の新設が長らく行われず、ロシア原油を大量に輸入できる態勢になく、またLNGを輸入するためのインフラも欠く。

ロシア軍は極東地域でまだ一定の力を保持している。ただ最も戦略的意味の大きいSLBM搭載の原子力潜水艦は老朽化しているだけでなく、欧州部の北洋艦隊に集約される動きにあるようだ。ロシアの経済が一応回復した二〇〇七年七月、マソリン海軍総司令官は①カムチャツカの原子力潜水艦基地拡充、太平洋艦隊の新たな基地建設、②二〇一五年から新型空母の開発を進め、二〇~三〇年後に極東と北海に空母を核とした新艦隊を創設するなどの構想を発表したが、これは海軍としての抱負にとどまり、同司令官がそれから間もなく更迭されたこともあり、その後具体化への動きは見られない。ロシア太平洋艦隊への意義づけが揺れているようだ。

(対中国):中国は一九七九年の経済改革以降、高成長を開始した。中ソの経済力は逆転し始めた。一九八〇年代後半、石油価格が記録的に下がる中、ゴルバチョフ政権は西側との関係改善によって経済力回復を達成しようとし、中ソ論争で傷ついたままだった中国との関係も修復をはかった。経済発展を政策の第一の目標とし、このために周囲の情勢安定を強く望む中国もこれに応じた。

一九八九年ゴルバチョフ書記長は中国を公式訪問して、中ソ和解を劇的に演出した 。これは天安門事件、そしてソ連崩壊などで頓挫したが、二〇〇一年にはプーチン大統領が、中国側が一九七九年に破棄していた中ソ友好協力条約を実質的に復活させる善隣友好協力条約を結んだ。中ソ友好協力条約は日本の脅威が復活した場合を強く想定した同盟条約だったが、中ロ善隣友好協力条約もその第九条で「中ロいずれかが外部から脅威を受けた場合、双方はそれを除去するために直ちに協議する」と定めている。ただし一九九九年、ユーゴの中国大使館が米国に「誤爆」されて以来、中米関係は緊張気味に推移していたので、この善隣友好協力条約は日本よりも米国を念頭に締結されたものだろう。

このころ、「米国による内政干渉を防ぐ」という趣旨の言葉は中ロ双方の指導者が頻繁に発しており、二〇〇一年結成された上海協力機構は中ロがスクラムを組み、そのなかで中央アジア諸国はその権威主義的政権を米国の干渉から守る、という目的も持っていることが明白だった。しかしその後、対米経済関係に大きく依存することとなった中国は、ロシアの対米批判言辞に本気では加わらない。

なお、中ロは二〇〇七年から二〇〇八年にかけて貿易額を約四五%も伸ばし、中国はロシアにとって最大の貿易相手国の一つとなった 。だがロシアの対中輸出は石油に大きく依存しており、その値決めなどには常に政治力が必要となるだろう。また近年中ロ関係を支えてきた、中国によるロシア製兵器の購入は大きく減少している。戦闘機スホイ27、スホイ30の対中供与契約は終了し、それに続く大型案件がない。二〇〇六年九月には輸送機IL76、IL78の供与が停滞していることなどの理由で、中ロ国防相会議が無期延期されたことすらあった。

こうしたことの背後には、中国がもはや単体の輸入ではなく、ライセンス生産を求めるようになったことがある。ロシアはスホイのための最新の電子技術などの輸出は抑制していたが、中国はそれでもスホイに学んで「殲10」戦闘機の量産体制を整えてしまった。ロシアは、中国に兵器を輸出しようとすればライセンス生産を求められ、それを認めれば大量コピーされて第三国に輸出されてしまうというジレンマをかかえている。

(中ロ間の摩擦要因):中ロは友好協力関係を続けているが、その陰では摩擦要因も存在する。中国人には、清時代からロシアに圧迫され、ソ連時代には「弟」として低く見られてきたという、ロシアに対する欝憤がある。そのため中国人には、現在の経済力をたてにロシア人をことさら下に見る傾向があり、今度はロシア人の側が傷ついている。

また二〇〇八年には中ロ国境問題が解決された と言っても、清王朝が一八六〇年北京条約でロシア帝国に譲渡したウラジオストックなど沿海地方の所属は、「歴史問題」として浮かび上がる可能性が潜在している。鄧小平はかつて、極東の領有権については放棄するのではなく棚上げするのだとの趣旨の発言をしているし、中国の歴史教科書には「ツァーリスト・ロシアによる中国の領土奪取」についての叙述がある。将来中ロ関係が悪化すれば、この「歴史問題」はいつでも中国の外交カードとして持ち出されるだろう。

エネルギー資源を求めて中国が中央アジアに進出を強めていることは、これら資源の独占をはかるロシアを苛立たせている。トルクメニスタンの天然ガスをパイプラインを新設して、ロシアを経由せずに中国に輸出する案件に対して、ロシアは陰に陽にこれに反対するロビー活動を展開した。


ロシアは上海協力機構を軍事機構とするべく中国に働きかけてきたが、米国を過度に刺激したくない中国は対テロ行動以上に駒を進めようとしない。上海協力機構の事務局は北京に置かれているうえ、首脳会議のたびに中国だけが新たな借款供与計画を明らかにするなど、上海協力機構は次第に中国のペースで進み始めている。

シベリアの石油・天然ガス欲しさに中国はロシアに対して下手に出ざるを得ないという見方もあるが、世界的不況の現時点ではむしろ中国が有利な立場にある 。中国は当面必要な石油はアフリカなどでの自主開発で手当てできている上、通貨の元がこれから恒常的に切りあがっていく中で購買力は向上する。国内の石炭は質は悪くとも豊富で、国内エネルギー消費の六〇%以上をまかなっているし、天然ガスも新疆地方などのガス田に四〇年分強の埋蔵量を有する。

耐久消費財においては、安価な中国製品がロシア国内企業の反発を買うケースが見られる。たとえば二〇〇七年上半期、中国車の対ロ輸出は約三万八千六百台で、その前年同期比で約六倍に増えた。中国車はロシア車より約三割安い。ロシア側の警戒は高まり、中国車はロシアでの衝突テストで最低クラスの評価を受け、中国メーカー四社がロシア政府に申請していた工場建設の許可は二〇〇七年十月、すべて見送られたとの報道があった。

(対北朝鮮):ソ連はその崩壊直前、経済力に魅せられて韓国へと歩み寄り、北朝鮮との関係を大きく後退させる。八〇年代末経済困難が顕著となったソ連は、北朝鮮の反対を押し切って一九八八年のソウル・オリンピックに参加した。韓国も「北方政策」を発表して東欧、ソ連との関係樹立に乗り出し、九〇年九月にはついにソ連と外交関係を樹立してしまったのである。

九二年以降経済大混乱に陥ったロシアは北朝鮮への援助を停止し、貿易では外貨での支払いを要求するようになったため、貿易額は激減した。一九九三年に北朝鮮がNPT条約から脱退したこともあり、九五年ロシアは北朝鮮との友好協力相互援助条約を破棄した。


二〇〇〇年二月プーチン大統領代行の下で友好善隣協力条約が結ばれるが、ここでは相互に相手方の主権、独立及び領土保全に反する条約・協定を第三国と締結しないことを誓っているものの、友好協力相互援助条約にはあった、有事の際の軍事的支援についての条項は脱落している。プーチンは大統領就任直後の政権浮揚策の一環として二千年七月北朝鮮を訪問、以後〇二年まで計三回、金正日主席と会談したが、当時のロシアは北朝鮮を助けるだけの経済力に欠けており、その外交は多くの場合ジェスチャーで止まらざるを得なかった。そしてロシアのマスコミ関係者、専門家層は、北朝鮮外交官が酒・煙草類の密輸で生計を立てていたことや、その集団主義、権威主義に対して常に嘲笑的だった。

ロシアが外貨を豊富に持つようになった二〇〇七年には、北朝鮮の対ソ連未払い債務をほぼ帳消しにする提案をしたことがあったが、債務の額 についてさえ合意に達することができない上に北朝鮮側は全額帳消しを主張して、合意は成立しなかった。現在の貿易額については年間二億ドル弱と報道されているが、ロシアのシベリア、極東部では北朝鮮からの労働者が多数働いており、数字に表れない経済関係となっている。たとえばこれら労働者の中には、政府間の取り決めにより、北朝鮮の圧倒的な貿易赤字を支払うために派遣されている者もいるようである。なお、一時マスコミを賑わせた「釜山から北朝鮮・ロシアを通って欧州に至る鉄道」の開設は頓挫したままになっている。

北朝鮮の核開発問題が二〇〇二年頃から先鋭化するとともに、ロシアと北朝鮮の関係は再び微妙なものとなっていった。ロシアは、二〇〇六年一一月、北朝鮮の第一回核実験に関連した国連安保理決議に賛成して、北朝鮮への兵器供給の可能性を自ら断った。〇九年四月にはラブロフ外相が五年ぶりに平壌を訪問したが、金正日主席に会うことはできず、オバマ政権発足後の六者会合再開へのきっかけを得ることはできなかった。

そして二〇〇九年五月、北朝鮮が再度の核実験を行うと、ロシアは六月には安保理決議に賛成して資金・資産の移転や金融サービスの提供拒否に加わるとともに、人道・開発目的以外の北朝鮮への支援をしないことを約した。ただ北朝鮮に出入りする船舶への貨物検査については、協力を約することはしなかった。

(対韓国):韓国・ロシア関係も、伸び悩んでいる。韓国がソ連と外交関係を樹立したのは、ソ連が北朝鮮に対して持つ影響力を使って北朝鮮との関係を有利に進めることができると踏んだためだろうが、ソ連・ロシアはまさに韓国と外交関係を樹立したことによって北朝鮮の信を失い、影響力どころではなくなっていたのである。韓国は、ロシアから得られるものはあまりないことをすぐ見て取り、政治面での韓国・ロシア関係は一時中だるみの状態となった。

経済面では、九〇年代日本の企業が事業の整理に努めている間、韓国の家電企業はロシア市場を席巻したが、当時のロシア市場は韓国にとってもニッチ市場の域を大きくは出なかった。九〇年代半ばから中国の成長が顕著になったことで、韓国の経済的関心は中国へと大きく移る。中国は、短期の間に韓国にとって最大の貿易相手、かつ直接投資先となったからである 。

李明博政権は、就任当初は東シベリアの資源開発に大きな期待を見せた。二〇〇八年十月には訪ロして、「ロシアを戦略パートナーの地位に引き上げる」構えを見せたが、今のところ具体的な成果にはつながっていない。なお報道によれば、韓国は二〇〇二年からモスクワのフルニチェフ社と共同で二段式ロケットを開発し、百キロほどの人工衛星を打ち上げるべく準備を進めている。他方では、二〇〇八年三月、ロシアの偵察機が韓国の防空識別圏に進入し、米海軍の原子力空母「ニミッツ」に接近した事件も起きている。これらを総合するに、ロシア・韓国の関係は十分緊密なものにはなっていない。

(朝鮮半島をめぐる国際協力):ロシアは北朝鮮核開発をめぐる六者会合の一員であり、その中の「北東アジアの安全保障」に関する作業部会の議長国である。ブッシュ政権時代の米国には、この六者会合をベースに北東アジアの集団安全保障体制を作ろうとする動きがあり、その関連でこの部会も注目されたが、二〇〇七年八月モスクワで開かれた以外、この部会の活動についての報道はない。


ロシア、中国、北朝鮮の国境が集約している豆満江(図們江)河口地帯の開発を梃子に、日本とこれら諸国の間の経済交流を活発化させようとする「環日本海構想」があるが、ロシア側がこの地域のハサン港開発よりウラジオストック港改修を優先したりしたことによって、この構想の実現は停滞していた。だが二〇〇九年には、中国が北朝鮮領内の鉄道を改修して、中ロ間の物流を大きく増やそうとしている。

(対東南アジア):ロシアは、ソ連崩壊後の九〇年代も東南アジア諸国との関係を続けたが、経済力・軍事力が低下したことからその動きは鈍かった。ベトナムは九〇年代半ばまでは、おそらく対中抑止、そして米国との関係推進の際自分の値段を吊り上げるため、ロシア海軍へのカムラン湾の施設貸与を継続したが 、一九九五年に同国がASEANへの加入を認められたことで対ロ姿勢も変化した 。ベトナムはカムラン湾施設の使用料金支払いを求めるようになり、二〇〇一年プーチン大統領はこの施設使用権を返上した。プーチン政権は当時、軍事予算を節約するため、キューバにおけるレーダー基地も返還したが、これにより東南アジア、太平洋地域における唯一の軍事的足場を失った。

それでもロシアには、安価で性能の良い兵器の供与という手段が残った。マハティール首相の下、米国と張り合っていたマレーシアは、一九九四年にミグ二九などの輸入に合意したし、東チモール問題で米国から武器禁輸制裁を受けていたインドネシアも一九九七年、スホイ30などの輸入を約している 。

ロシアもその混乱が収拾した九〇年代半ばから、東南アジアでの足場を再構築する動きを見せる。九八年には「ロシア外交政策の大綱」を発表し、「アメリカ一極主義に対抗し」、「シベリア・極東発展に不可欠なアジア太平洋地域との統合を進めるため」、ASEANでの活動を活発化させることがうたわれ、一九九六年以来、ASEAN拡大外相会合に中国、インドに加えて招待されるようになった。当時は米国との関係も良好であったことから、一九九八年には日本、米国の後押しも得てAPECにも加盟した。ARFには一九九四年の創設当初から、日米中などと同格の「対話パートナー」として招かれている。ロシアはASEAN諸国の大部分にとっては、「何かあった場合の当て馬」程度のものであるようだ。

それ以上は、ロシアの外交も進んでいない。東アジア首脳会議には二〇〇五年一二月、議長国マレーシアのゲストとしてプーチン大統領が出席を認められたが、冒頭にゲストとして挨拶を許されただけでメンバーとなることはできなかった。その直前に第一回ASEAN・ロシア首脳会議が開かれ、今後十年間にわたる協力を約した包括的パートナーシップ共同宣言を採択し、ASEAN・ロシア首脳会議を定期的に開くことに合意したが、その後この首脳会議は一度も開かれていない。多くのASEAN諸国にとってロシアは無害であるにしても、自国の都合ばかり前面に出して日米中との間で主導権を争ったり、日本との北方領土問題が会議に持ち込まれたりしても面倒だという意識があるだろう。

今後も、極東からの資源輸出が飛躍的に増えないかぎり、ロシアは東南アジア諸国にとってはマージナルな存在にとどまることだろう。なおロシアはベトナム、ミャンマーでは石油・ガス資源開発に参画してきた。

(対南西アジア):インドは戦後長らく社会主義的経済体制を取っていたこと、中国と対抗していたことから、ソ連と緊密な関係を維持していた。ソ連崩壊後、ロシアが大混乱に陥ったことで、インドとの経済関係も大きく縮小し、インドは米国との関係を推進し始めた。それでもインドはロシアと良好な関係を維持して大量の兵器購入を続けているほか 、タミルナド州ではロシアが軽水炉建設を進めている。携帯電話などでもロシアからの民間投資が行われ、市場としてのインドはロシア実業界の視野に常に入っている。

ただしインド人に言わせれば「ロシア人は油断がならない」ビジネス相手であり、ロシア人に言わせれば「インド人ほど厳しい商談をしかけてくるところはない」。それに中国と同様、インドに対するロシアの兵器輸出も転換点にあるようだ。二〇〇七年インド国防省は、一兆円以上に相当する中型多目的戦闘機約百三〇機の購入手続きを開始したが、これは一八機のみ完成品輸入であとはライセンス生産、しかも米国、EU、ロシアなどを競わせる公開入札だった。

ロシアもロシアで、二〇〇四年に成約した中古空母「アドミラル・ゴルシコフ」のインドへの売却は、ロシアでの改修が遅れるうち費用がつり上がり、一六億ドルの契約に一二億ドルの上乗せが必要になっている。この背景には、ロシアにおける造艦能力の後退があるだろう。インドが二〇〇五年にロシアに発注したディーゼル潜水艦の近代化改修では、搭載された対艦ミサイルが六発の試射で一度も命中せず、〇八年、インドがその受領を拒否したとの報道があった。

ロシアはエリツィン時代末期から、「ロシア・中国・インド枢軸関係」を提唱してきた 。三国の首脳会議、外相会議は間歇的に開かれているし、G20の場において三国はブラジルとともにBRICsとしての連携を高めている。しかし中国、インドがほとんど明示的に対抗関係にある上、ロシア・インド関係、中ロ関係も枢軸関係からはほど遠い。

その他の南西アジア諸国においては、ロシアのプレゼンスはインドにおけるもの以上に弱い。パキスタンは中国、米国に近く、バングラデシュ、スリランカ、ネパールにおいても中国の進出が顕著である。アフガニスタンについてはロシアは一九七九年侵入失敗のトラウマをいまだに引きずり、兵力の派遣は絶対行わない旨何回も繰り返し表明している。しかしロシアはアフガニスタンの安定化に対する努力を示さないと、国境を接するアフガニスタンを脅威ととらえているウズベキスタン、タジキスタンに米国、NATOが付け込むのを許すことになる。

アフガニスタン発の麻薬はロシアの社会をも汚染している。従ってロシアは、アフガニスタンの麻薬、テロ問題についてはNATO諸国、アフガニスタン周辺諸国などと緊密な情報交換、共同訓練を行っている。また上海協力機構の二〇〇九年議長国として、三月にはモスクワでアフガニスタンに関する国際会議を主催した。アフガニスタン国内でロシアは、北部のタジク系住民と緊密なつながりを維持している。

他方、中国も最近NATOと交流を推進することに関心を示し、アフガニスタンから新疆地方への麻薬流入防止あたりを協力の対象とすることを考えているもようである。これが実現することは、NATO拡張に反対してきたロシアにとって好ましいことではない。中国・NATOの協力の有無は、ユーラシア全域の力のバランスに影響を与えるだろう。

(対中央アジア・モンゴル):ソ連崩壊で中央アジアは独立し、モンゴルはそれまでの完全なソ連寄りの立場から離れ、西側、中国ともバランス外交を展開するようになった。ロシア、中国はこれら中央アジア諸国、モンゴルにおいても中国その他大国と影響力、利権を競うようになり、その結果はアジア太平洋地域におけるロシアの力にも反映される。アジア太平洋地域の国際関係を語るにあたっては、中国、ロシアの裏庭に相当するこれら地域の情勢にも目を配ることが必要になったのである。

これら諸国の対ロ関係はまちまちであり、しかも頻繁に変化する。しかし「中央アジアはロシアの一部」という日本での理解はまったく時代遅れで、かつ歴史的・人種的事実から遊離している。中央アジア諸国は自身の利権構造の保持、つまり独立を維持することを何より大切なものとし、その枠内でロシア、中国、米国などを競わせて最大限の利益を引き出すことを、その外交の基本としている。

日本では、上海協力機構の力を過大評価し、中央アジア諸国と話をするにはこの機構、あるいはこの機構を「牛耳る」ロシアと中国に話を通さなければうまくいかないと見る向きがあるが、中央アジア諸国とは個別に話をすることがもちろん可能だし、またこれら諸国もそれを望む。中国、ロシア自身、経済協力は上海協力機構を通してではなく、中央アジア各国と二国間ベースで進めている。上海協力機構はこうして、経済共同体にも軍事同盟にも発展し得ないまま、勢いを失っている。

一九九一年、ワルシャワ条約機構とソ連が崩壊したあと、ロシアは「集団安全保障条約機構」(CSTO)を一九九二年に結成し、旧ソ連諸国の軍事面での団結維持に努めてきた。メンバーはロシア、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンの七カ国である。しかしロシア以外の加盟国は財政負担を嫌うだけでなく、二〇〇八年八月グルジアで示されたようなロシアの軍事力行使を警戒してか、CSTO早期即応展開軍をロシアの司令下に創設しようとする動きに対して引き延ばし戦術をとった。中央アジア諸国にとってロシア軍はこれまで、米軍のように「レジームチェンジ」に加担しない信頼できる兵力だったが、グルジア戦争は彼らの見方を変えたようだ。
こうして、ユーラシア東部においてロシアは、その背後にさしたる国際組織の支えを持っていない。

(対大洋州):ソ連の時代からオーストラリア、ニュージーランドの関係は経済を除いて希薄だった。しかし中国海軍が外洋に進出の動きを見せている今、中国に隣接し太平洋艦隊も有するロシアは将来意味を持つだろう。

(対日本):中国の力は二十世紀を通じて退潮していたため、この間の東アジアでは日本とロシア・ソ連が主要な対立軸となった。日本はロシア革命後、西側のなかでは最長の四年間、シベリアへの出兵を続けたし、太平洋戦争前にも対ソ連攻撃を幾度か企図し、一九三九年ノモンハンで大敗を喫して初めて中立条約を結んだのである。

だがその中立条約がまだ有効だった一九四五年八月、ソ連に参戦されて五十万名以上の日本人をシベリアなどに強制労働のために連れ去られ、うち六万名近くはその地で病死・衰弱死などしたこと、日本が独立を回復した一九五一年以降も、日本固有の領土である北方領土を返還していないことなどは、今に至るも日本人をしてロシアに親しみを感じさせず、日ロ関係発展の最大の障害となった。

だがそれでも、冷戦時代も日ソ経済関係は、シベリア開発のように進んでいた。日本はソ連にとって常に上位の貿易相手国だったし、日本の商社にとっても国家独占貿易のソ連は上得意だったのである。エリツィン大統領はそのような日本に、ロシア再建への貢献を期待したのだろう。すでにソ連崩壊前の一九九一年九月から、「日本とは戦勝国、戦敗国の関係から決別し」、北方領土問題は「法と正義の立場にのっとり」解決していく姿勢を明らかにしていた。ただ彼は本心では、北方領土については日本との間で棚上げする合意が可能であり、日本は実利を優先してくるものと踏んでいた可能性が高い 。

一九九〇年代を通じて北方領土問題解決への波は二回あったし、日本は二度にわたり解決案を提示した 。ロシア海軍の主力が欧州部の北洋艦隊に集中されつつある現在、オホーツク海への足場としての北方四島を是が非でも維持しなければならない安全保障上の理由は、ロシア側に既にない。なのに日ロ双方とも政府がこの問題での譲歩の姿勢を見せると直ちに国内で反対の声があがって、進展を止めようとする。それにプーチン大統領は二期目にはナショナリスト的傾向を強めたから、北方領土問題の解決はそれにそぐわないものとなった。

冷戦時代は「日本の経済力とソ連の軍事力が結びつくこと」をひそかにおそれていた米国は、民主主義と市場経済を標榜したエリツィン政権に支援の姿勢を見せ、北方領土問題についてもこれを早く解決して日本から本格的な支援を引き出すことを何度となくロシアに助言した。しかし九〇年代後半、ロシアが「米国によるロシア圧迫」に反抗する姿勢を強めると、このような助言はロシアから強い反発を招くようになり、米国は慎重に対処するようになった。

他方、二〇〇〇年代後半、ロシアが高油価による消費景気に沸くなか、日ロ経済関係は急進展した。日本からの輸出ばかりでなく、二〇〇五年のトヨタ進出を皮切りに製造業の進出、それに伴うサービス業の進出が相次いだ。日本による直接投資額は欧米諸国のものに劣るが、欧米諸国の投資がエネルギー・素材分野に集中しているのに対して、日本企業の投資はロシアが今もっとも必要としている製造業に集中していることがその特徴である。

日系の工場に対する機械、部品の輸出も含め、日ロ貿易は急伸長し、二〇〇八年には三〇〇億ドルに達した。二〇〇九年には、日本が約一兆円の融資を供与して、米国企業などと三〇年間以上にわたり進めてきたサハリンの石油天然ガス開発プロジェクトのうち、LNGの対日輸出が開始され、日ロ貿易額をさらに増大させることになるだろう。ロシアにとって日本は、不可欠な貿易相手国となりつつある。

ロシア極東の開発に米国が無関心な現在、日本の関与は極東地方の発展に及ぼす影響大である。二〇〇七年、日本政府は「極東・東シベリア地域における日露間協力強化に関するイニシアティブ」の名の下にエネルギー、運輸、情報通信、環境、安全保障、保健・医療、貿易投資の諸分野における協力拡大をロシアに提案している。しかしロシア極東は人口わずか六百万人強であり、製造業においては軍需の比重が高く、現地の利権構造も複雑なため、日本企業は極東で大きな地歩は有していない。消費財については中国、韓国の進出が目立ち、出稼ぎでは中国人、北朝鮮人が活躍する場となっている。ウラジオストックにはこれまで年間五〇万台以上の中古車が日本から持ち込まれ、報道によれば八万人のロシア人が関わってこれを全国に販売していたが、〇八年末関税が上げられて壊滅的打撃を受けた。

ロシア極東部
ここで、アジア太平洋地域に直接面している、ロシア極東部を概観してみたい。アジアにおけるロシアと言っても、直接にはここが対象になるのだから。ロシア極東部 は人口六五〇万人、全国人口の四・六%、GDPの四・六% (二〇〇五年)を占める。サハリン州での石油・ガス生産により、これからはGDP比率が上昇する可能性がある。ロシア極東部はサハ共和国、マガダン州の金、サハ共和国のダイヤモンド、サハリン州の石油・天然ガスなどの天然資源を産出し、ロシアの漁業においても欧州部での漁獲高を上回る。サハ共和国は希土類、希金属も含め、鉱産物の宝庫と言われているが、一部を除いて開発は本格化していない。極東部からさらに内陸は東シベリアと呼ばれているが、ここでの天然資源の埋蔵量はあいまいである。

極東は、日本、米国、中国、ロシア、韓国等の強国がせめぎあう世界でも珍しい場だが、経済力、人口で劣るロシア極東部はその中では脆弱な存在である。欧露部との物流はシベリア鉄道ほぼ一本に依存し、ハイウェーはいまだに整備されていない。そしてそのシベリア鉄道は人口と経済力で圧倒的な差を見せる中国との国境に近いのである。中国の東北三省(黒龍江省、吉林省、遼寧省)と内モンゴル自治区を合わせると一億三千万人を上回り、ロシア極東部人口の二〇倍となる 。またロシア極東部の経済は、ロシア本体に十分組み入れられていない。二〇〇七年八月、イシャエフ・ハバロフスク地方知事(当時)は地元の集会で、「極東で生産される財・サービスのうち四%のみがロシアの他の部分へ移出され、七五%は外国に輸出されている。」と述べている 。

このためロシア指導部も、極東部を安全保障上の問題ととらえるようになっている。二〇〇六年一二月、プーチン大統領は国家安全保障会議で発言し、極東が資源も活用できず、中国人の移住を許したままでいるのは安全保障上危険だとして、首相をトップとした「極東委員会」を設置した。メドベジェフ大統領もまだ大統領府長官だった二〇〇四年当時、「エリートが結束しなければ、ロシアはソ連崩壊以上に厳しい崩壊に見舞われる。特にシベリア、極東は開発しなければもたない」と警告している 。二〇一二年ウラジオストックでAPEC首脳会議が開かれる予定であるため、ロシア政府要人は極東視察の頻度を高めている。

ロシア極東については、「開発計画」に類するものが何回も採択されてきたが、現在は「二〇一三年までの極東ザバイカル社会経済発展連邦特別計画」を実施中である。この計画は元々は二〇一〇年までの予定であったのを、二〇一二年のウラジオストックAPEC首脳会議をにらんでウラジオストック市整備計画を付加した上で、二〇一三年まで続けることとしたものである。

この計画では、二〇一三年までに極東地域のGDPを二・六倍、投資額を三・五倍、鉱工業生産を二・三倍とするため、東シベリアも含めて二〇一三年までに六千億ルーブルの予算配分、二〇二五年までに九兆ルーブルの投資を予定している 。
ロシア極東の経済をこれから左右するのは資源開発・加工、そして運輸サービスであろう。後者については、日本からの中古車輸入とその全国への搬出が八万人分の雇用を創出していたことを想起するべきであり、世界の工場と化した東アジアに面するロシア極東部はこれからもロシア全土のための輸入基地として大きな役割を果たし得る。

ロシア極東部における製紙、木材加工、漁業加工も、将来性を持つと思われる。カムチャツカは、観光業を拡大する可能性を持つ。だがいずれの場合でも、製品・サービスの質を高めるために西側の協力を必要とする。なお魚の缶詰などの損益分岐点は非常に低く、ロシアの高い賃金水準で競争力を維持するのは難しい。

アジア・太平洋でのロシアに何を期待できるか以上を総合するに、アジア太平洋地域諸国とロシアの関係にはまだ大きな限界があり、この地域でのロシアの発言力は限られている。上海協力機構も実質を欠き、内部で中ロの間の隠微な主導権争いがあるため、ユーラシア北東部の総意を体して米国、東アジア諸国と取引ができる態勢になく、これからもそうはならないだろう。そしてロシア自身も自分をヨーロッパの大国と位置付け、アジアを「異質」なものと見て、本気の対応をしてはこなかった。アジアからは自分の利益だけを一方的に得ようとする姿勢が、指導部の大勢を占めていた。今日、アジア太平洋地域でロシアが占めるべき地位については、ロシアがこれを自分で決めると言うよりは、中国、米国、日本などの意向によるところ大になってしまっているが、それもロシアの自業自得なのである。

だがそのことは、アジアにおいてロシアを無視してよいとか、アジアからロシアを放逐するべきだという議論につなげるべきではない。ロシアにも、自国の安全を確保する権利はある。アジア太平洋地域の安定と繁栄のために前向きな要素でいてくれる限り、ロシアが民主主義国になったかどうか、市場経済の国になったかどうかも、主要な問題ではない。ロシアに対しては抑止力を整備しつつも、この地域の力のバランスを構成している一つの要素として、ある時は組み、ある時は対抗する、このようなやり方でいくのが現実的だろう。

但しロシアがアジア太平洋地域への参入を真剣に望むなら、その時代錯誤とも言える米国への過度の対抗意識を改める必要がある。ロシア政府にとって対米批判は、経済・社会問題から国民の目をそらすための格好の道具なのだが、東アジア諸国はほぼすべて米国との関係から利益を得ているのであり、抗米を国是のようにするロシアとは協力関係を進めにくい。そのためにもロシアには、極東地域での軍備拡張を控え、軍縮を進めてもらいたい。

二〇一二年にはウラジオストックでAPEC首脳会議が開かれる予定である。その前年二〇一一年の同首脳会議は米国、その前年二〇一〇年の会議は日本で行われる。この時期に向けてロシアをアジア・太平洋地域にどうはめ込むかについて議論は高まるであろうし、東アジア情勢を将来長期にわたって安定させるためには右を話し合っておくにしくはない。二〇一〇年の議長国日本は自らのアイデアを提示してロシアを極東地域の安定勢力として確保するとともに、北方領土問題をも解決して北東アジア集団安全保障体制を樹立し、もって日米安保条約の補完としていくべきである。オバマ政権の下、米ロ関係が好転する兆しがあるが、そうであれば米国に北方領土問題収拾の斡旋を依頼することもしやすくなろう。

以上の条件の中で、当面アジア・太平洋でロシアに我々は何を期待できるか、いくつかの可能性について論じてみたい。これをどう組み合わせていくかは、アジア太平洋諸国の意向の推移、そして他ならぬロシアの出方によって決まっていくだろう。

(1)ロシアに、アジア太平洋諸国(北米も含め)に対するエネルギー資源・天然資源の主要なサプライヤーとしての役割を期待する
これも、上記の点と並んでよく見られる論点である。基本的にはその通りだと思うが、いくつか留保を付しておくべきことがある。サハリン石油・天然ガス開発プロジェクトが始動して、ここからのLNG輸入は日本の需要の十%弱を近く占めるだろう。だが東シベリアの石油・天然ガスについてはその埋蔵量がまだ確定されておらず、中国に供給したあと、太平洋方面までパイプラインでもってこられるだけの余剰が生ずるかはわからないのである。加えて、シベリアでの資源開発はインフラの建設、労働力の確保、太平洋岸への搬出手段建設などに膨大な投資を必要とするので、商品市況が恒常的に高くなっていないとリスクが高い。

サハリンのプロジェクトは実現までに三〇余年をかけている。東シベリアの資源開発についてもあせることはない。この問題では、よく日本がやりがちな懇願・陳情外交の姿勢を取るべきではない。ロシアも、資源の販売先が中国だけになることを嫌っており、販路を多様化したがっている。
他方、「ロシアにエネルギーを依存すると、それを政治的な脅迫材料に使われる」という見方が根強く存在する。だがロシアはソ連の時代から、国際価格で安定的かつ大量に購入する需要者に対して、エネルギー供給停止をちらつかせたことさえない。もともと売買関係は双方向のものであり、パイプラインで天然ガスを供給する場合には、おそらく大口需要者の立場の方が強いのである。ロシアにエネルギー供給を過度に依存するべきでないのはその通りだが、総需要の一〇~一五%程度なら問題はないだろう。アジア太平洋地域はエネルギー・天然資源の大口需要者であるので、「資源取引独占監視機構」のようなものを結成して、実勢を超える価格、市場原則にもとる行動に対して警告を発することも検討していいだろう。

北方領土問題が解決していないなかでロシアとの経済関係を推進すると、「経済だけ食い逃げされる」ことを恐れる向きもある。だが経済関係を推進すれば、経済的利益は日本側にも落ちるのである。そしてロシア側には、日本との関係をもっと推進しようとするロビー層が形成される。日本側の利益になる案件ならば、推進すればいいと思う。

なおサハリン石油・天然ガス・プロジェクトでは既に実現しているが、東シベリア・極東でエネルギー・天然資源を開発する場合にも、米国、EUその他の有力企業と提携することが望ましい。ロシアではエネルギー・天然資源分野における政府の独占度が高いため、第三国の参加も得ることで交渉力を高めなければならないからである。
またサハリンの石油やLNGがASEAN、インドに輸出されるようになれば、ロシアも航路の安全確保に関心を持つようになるだろう。

(2)ロシアと核軍縮を進める一方、平和目的の核燃料についてロシアと協力
ロシアはウランの大生産国であるだけでなく、世界一のウラン濃縮能力を有する国である。また世界で二位のウラン埋蔵量を有するカザフスタンはじめ、中央アジア諸国にはウランがかなり埋蔵されている。日ロ間では既に原子力平和利用協定が結ばれているが、米国議会が同様の米ロ協定を批准すれば、中央アジア諸国・ロシアを包括したグローバルな協力のネットワークができあがり、アジア太平洋諸国もこの恩恵を得ることができる。

(3)極東の森林・水・エネルギー資源を環境保持に配慮しながら開発する
ロシア極東ではエネルギー資源のみならず、森林・水資源も世界有数である。この地域の土壌・大気・水を資源・工業開発による汚染から保護し、ロシア国内での木材加工を推進することで付加価値を高めて森林の乱伐を防止するなどの協力を国際的に進めることができる。

(4)ロシアへの東アジア産品輸入の基地としての極東
すでに述べたように、日本からの中古車輸入、そして全国への搬送は多数の雇用を創出したが、米国西岸部、大洋州、東南アジアの産品も、同じルートでロシア全国に搬出することができるだろう。それは、極東部に多くの雇用と所得を創出する。

(5)ロシアに、台頭する中国に対するカウンター・バランスとしての役割を期待する
これは、小泉総理の時代、反日デモ、靖国神社参拝問題などで日中関係が荒れていた頃、よく見られた視点である。なかには、この視点を推進したいがために北方領土問題解決を断念することまで提案する向きもあった。だが、日中関係はその後落ち着いた。それにロシアと中国の関係は基本的に良好であるため、日ロ関係が良くなれば中国が圧力を感ずるという構造にはなっていない。国際情勢の局面によっては、ロシアが中国と組んで日本、そして米国に対抗してくる場面も生じ得るのである。
それに、アジアにおけるロシアの力は中国にくらべてかなり小さい。これを助けてまでして対中カードに仕立てることは、現実的ではあるまい。

「集団安全保障体制」の中のロシアの地位
アジア太平洋地域における軍事バランスの維持、政治的な現状の維持にとって、日米の同盟関係が持つ意味はこれからも減少しないだろう。「中国が台頭すればするほど、米国にとって日本との協力は重要になる」というのが、米国で多く見られる意見である。だが同時に、北東アジアの軍事バランス、政治的な安定に中国をコミットさせるため、中国も含めた緩い「集団安全保障体制」を補完的に作るべきだとする声も根強い。このような「体制」が何らかの形でいつか実現すると、そこにロシアも含まれることになるだろう。ロシアはそれを機会に、日本との北方領土問題を解決しておくべきである。NATOでは、加盟国と何らかの紛争を抱える国は新規加盟を認められない。

北東アジアにおいては日本、韓国、中国、台湾などが、中産階級が主体となった社会を共通して作り出し、若年世代の意識と行動様式が徐々に接近しつつある。もともと人種的、文明的には近いこともあり、日本による統治、日本との戦争などをめぐる歴史的摩擦を克服して数十年先にはECの初期段階程度までには共同体的なものを形成することができるかもしれない。これは、アジアで広い集団安全保障体制ができた場合、そのなかの一つのクラスターのような存在となる。ロシアは北東アジア諸国とは歴史的・文明的に異なる存在であるので、北東アジア諸国だけのクラスターに直接加わるのは適当でなく、EUあるいはNATOとの間のような協力関係を結ぶことになる。

日本は二〇一〇年のAPEC首脳会議で、これらの諸点を盛り込んだ「アジア太平洋憲章」のようなものを採択するべく、今から準備を開始したらいいと思う。

コメント

投稿者: 高月 瞭 | 2009年11月 9日 11:30

ロシアと言う巨大な国家の中でのウラル山脈以東の情報をこれほど明確にお書きになったことに感謝いたします。
ヨーロッパロシアからみるアジアロシアの統治は困難を伴うことが理解できました。確かにロシア帝国自体がタタールの軛から逃れることにどれほど苦労したか、島国の日本人には理解しがたいと思います。極東アジアにわずか600万人の人口では常に中国からの侵入に苦心していることが垣間見えます。中国人はどこに住んでも彼らのコミュニティーを作ってしまい、場合によっては反感を買うことがあると思うのですが、ロシアは日本にその緩衝の役割を期待しているのでしょうか。

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