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街角での雑想

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2008年9月23日

九州見物2--有田で朝鮮半島との絆を実感

九州を旅すると、朝鮮半島、中国との深い深い歴史上の関係を認識する。明治以来の脱亜入欧で、忘れていたものだ。別にいまさら欧米を捨ててアジアに入れ込む必要もないと思うけれど、アジアとのこれまでの関係くらいちゃんと思い出しておかないと、過度に頭を高くしたり、逆に謝ってばかりということになる。

で、今回は有田と長崎でその感を強くしたという次第。まず有田のことだ。

有田
博多駅から西の佐世保やハウステンボスに行く電車に乗って1時間半、山奥の(実は佐世保の海に近いのだが)有田に着く。線路に沿って伸びた細長い街だ。陶磁器を売る店が街道沿いに並んでいる。博物館があって、そこでは有田焼とは何たるかが一目でわかるし、鳥居も陶器でできている陶山神社というのが線路の向こうの丘の上にそびえたち、あたりは桜で満開だった。
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このあたりの桜はなぜか、東京より1週間も遅れて満開になっている。

博物館では陶器人形がからくりで動き、それが幾体もからみあってダイナミックな芝居を見せる。
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このあたり、昔から陶器を作っていたらしいが、豊臣秀吉に従軍した鍋島の殿様が李氏朝鮮から連れ帰った(拉致したとも言われる)陶工、李参平がこの地で磁器の原料となる白磁鉱を発見ーーそれを掘りつくした後は大きな空き地になっているーー、伊万里の名で知られる磁器を開発したという次第。

有田で初めて知ったことだが、伊万里と有田焼は同じもの、有田焼が伊万里の港から出荷されていたので、欧州では伊万里と呼ばれていたらしい。で、有田焼の磁器(磁器というのは陶器のように粘土ではなく、岩を砕いて粉末にし、それを焼き固めて作るのだそうでーー何回聞いても忘れてしまう)には主な流派が3つある。それは古伊万里(金、銀で派手なやつだ)、鍋島(花の模様でうめる)、柿右衛門(空白がある。日本人向きかもしれない)であります。
現代の世では個人としての陶工が芸術家としてもてはやされるが、江戸時代の有田焼は分業体制で作られていて、「陶工」が出てくる素地はなかったのだそうだ。

中国の明朝末の動乱で、中国からの陶磁器輸出が滞ったすきに、有田焼など日本の陶磁器は欧州の市場に入り込んだ。20世紀前半の中国動乱期に日本が工業化を達成し、輸出大国となった姿とそれはだぶって見える(明治期の日本は、中国と絹の輸出を合い争ったのだ)。奇しくも、九州北部はかつては陶磁器、今は自動車輸出の中心地になっているというわけだ。

さっき、鳥居が陶器でできた陶山神社があると書いたが、ここの本尊は有田焼の始祖、李参平なのだそうだ。で、ここの急な階段を下りて街道に出ると、瀟洒な新しい陶磁器の店があった。白磁を売っていると書いてある。

ここに入って驚いたのが、この店の主人は金ケ江三兵衛、つまり金江島出身だった李参平が名乗った日本姓の金ケ江と同じ、要するに彼の14代後の子孫だったのだ。彼は、祖先にならって白磁の創造にかけている。芸術家としての陶工だ。彼の素晴らしい作品が店には陳列されていた。是非http://www.shun-c.jp/gallery/2007/1-0922-report.phpを見てください。

あとで見たら、彼の店の前には韓国人観光客が乗った観光バスが止まっていた。最近出した店なのに、もう韓国でも知られているらしい。感慨深いことだ。
                                        ©河東哲夫


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