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論文

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2007年6月 4日

日本の戦争体験

戦争が終わって60年以上。戦前から終戦直後にかけての記憶は薄くなるばかり。
ところが経済が発展して政治意識も向上した東アジア諸国の市民達には、自分達の知らないところで行われた日本との終戦処理をそのまま認めるわけにはいかないという感じが仄見えます。
日本も戦前、戦中、終戦直後にいろいろなことの実態は果たしてどうだったのか、記録を残しておく必要があります。
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最初は、緑川潤氏による投稿です。

(07,5)小生も当時は軍国少年として、満蒙開拓青少年義勇軍におりましたし、旧制中学時代は学監という形で陸軍から教官が軍事教練のために派遣されており、我々も慰安婦のことを情報としては知ってます。

当時、日本には公娼制度があり、いわば女郎屋が日本の市町に溢れてました。私は日本中の「投げ込み寺」の無縁仏になっている女郎たちを調べようと思ったこともあったのです。 女郎たちは借金が嵩むと、もっと稼げる満州女郎と呼ばれるように大陸へ売られて(希望して)いったり、軍隊も兵隊や将校たちの性処理として駐屯地に簡易性交所を設けていたのです。この小屋の前に順番を待つ兵隊が行列していたそうです。将校は上級女郎が相手をしますから別に場所があったそうです。で、在日の慰安婦問題ですが、彼女らは貧困家庭出が多く、料金も日本女郎よりも安いものでした。しかし、彼女らも日本に居るよりも稼げるので前借までして軍隊女郎屋に雇われていった人たちもいるようです。

占領下の進駐軍米兵のことを思い出してます。4人乗りのジ-プを二人で運転し、東京で日中歩いている若い女性を無理やりに乗せて走って行った光景を私は自由ヶ丘で見てましたし、「助けてくれ」と女性が叫んでいてもどうしようもありませんでした。夜はもっと酷かったですよ。そういう女性はパンパンか兵隊のオンリ-として米兵相手の娼婦になり、また、キャンプの近くには米兵専門の女郎屋が沢山営業してました。> >

日本政府の中に特別調達庁というのがありまして、此処がキャンプのショウを扱っていて、芸人に支払うギャラもここを経由してプロダクションに支払われていました。私が所属していたのは「JTB芸能渉外部」で日本交通公社の京橋支店にありました。特別調達庁「特調」はあらゆる米軍の調達折衝をしてました。

GHQの中にもRTOという進駐軍交通輸送部みたいなのがありまして、この特別列車で我々は地方のキャンプ回りをやったのですが、一般人は汽車に乗ることも難しい時代でした。進駐軍の兵隊に銀座尾張町の四つ角でブン殴られ、帰りの東横線の中で、黒人兵の靴を踏んだと再びブン殴られ、酷い思いもしましたが、キャンプ回りでは良い思いもしました。遠い遠い昔話になりました。

進駐軍時代に米軍が日本の警察に命令して、各地の女郎屋に米兵用の娼婦を出すようにさせたことも事実です。松本清張も「小倉事件」のことを書いてますが、朝鮮戦争の時に北九州に進駐していた米兵たちが、小倉の祭太鼓に浮かれてキャンプから脱柵し、一般民家を襲い強姦の限りを尽したのは有名な話しです。何処の国の軍隊でも若い男子が軍役に従事してますから、性の処理に各国はそれなりに方法を取っていた筈です。

私も、青森県三沢のキャンプ前の進駐軍専門の女郎屋(パンパン屋)から、かって踊りで仲間だった女性が現れビックリして、何も言えなかったことがありました。戦いに負けた国ほど哀れなものはありません、特に女性は無残でした。しかし何れにしましても、「従軍慰安婦」といっても軍隊に強制されて連行されたというのは聞いたことがありません。
戦中に日本には公娼制度がありましたから、女郎が全国に溢れてまして、無理に日本軍は強制的に女を女郎として連行する必要は無かったのです。女衒といわれる女の周旋屋が地方から親との話し合いで娘を買って、女郎屋に売り渡していたのです。

奇しくも今朝の産経紙に占領時、米軍も「慰安婦」調達を命令したとの件をワシントン発で取り上げてます。日本軍と異なり強制徴用されたのでは無い、とのホンダ議員の言葉も紹介されてますが、これは異なります。現実に日本の警察が遊郭の経営者たちを集めて、慰安婦の提供を割り当てた事実もあるのです、これは強制です。

米軍キャンプの兵隊たちが日本国内の別のキャンプに移動すると、逆に米軍人に惚れた娼婦たちも移動していったそうです。当時の日本政府機関「特別調達庁」の実態を調べる必要があります。

しかし、こうやって考えてみますと、日本軍もかっての占領地で米軍と同じように現地調達をやっていた可能性があります。風化しないうちに日米共同で?協力調査すべきでしょう。戦後に日本では物資がありませんでしたから、米軍キャンプのPXから食料品を持ち出すには彼女たちの協力?も必要でしたし、米兵が彼女たちと共同作業で持ち出していた事実もあります。私たちもキャンプで踊ってから、コ-ラ、チョコレ-ト、兵隊の携帯食料パックなどを持ち出したこともありました。闇い時代でしたが、今と違って生きるためには必死の手で動き回っていたのです。

米兵相手のパンパンになった素人娘たちは、前にもお知らせしましたようにジ-プに乗せられたり、引っ張り込まれて陵辱され、それが己の所為ではなかったのに、米兵と寝たということで日本人から白い目で見られ気の毒な運命に落ちてしまったのです。産み落とされた哀れな子供たちは大磯のエリザベスサンダ-スホ-ムに引き取られ、沢田美喜さんの保護を受けて大人になった話しは有名です。この中から芸能人で有名になった人もいます。有楽町の有名なパンパンの元締め、お時さんは、新橋の第一ホテルにいて新橋のガ-ド下でグル-プが商売していたのですが、この、お時さんを歌にしたのがヒット曲「星の流れ」で菊地章子さんが歌いました。(以上)

コメント

投稿者: 緑川潤 | 2007年6月 4日 01:58

素晴らしい文章に纏めて戴き感謝してます。反響があると思います。しかし、戦争に負けた国は哀れです。
食べるものも無い、住む家も無い、着る物も無い、ないないづくしで生きていた時代を今の世代の方に理解して戴くのは無理でしょう。

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