中央アジア解説(「国際開発ジャーナル」)Ⅱ
中央アジアと日本 Ⅱ
―-中央アジアをめぐる現在の国際環境
(「国際開発ジャーナル」06,10掲載)
Japan-World Trends 代表
河東哲夫
国際政治の「大学院コース」とも言える複雑さ
中央アジアはユーラシアの真ん中にあり、古来から周辺地域との相互作用には密接なものがあった。現在では米国、日本なども中央アジアでの地歩を拡大しようとしているし――20世紀初頭、英露が鞘当てを繰り広げた「グレートゲーム」の再来、と評されることもある―――、エネルギー資源確保やこれを運び出すパイプラインの敷設をめぐる各国の思惑の錯綜も加わって、この地域をめぐる国際関係は「大学院レベル」とも形容し得る、高度な知識を必要とするものとなった。まず、中央アジアでの主要なプレイヤーを紹介する。
この地域での古来からのプレイヤー、即ちイランやトルコは今でもこの地域に強い関心を持っている。ソ連崩壊直後、トルコは「トルコ文明圏」(トルコ系、即ちチュルク語系諸族はトルコからシベリア、ロシア極東にまで分布している)復興の好機とばかり政治・経済両面での進出をはかったが、そのやり方が腰高で短期的利益を狙ったものと思われて地元の反感を買い、思ったほどの進出は成らなかった。それでも、建設業、流通業においては、トルコ系企業は確固とした基盤を中央アジアに築いている。シーア派のイランは中央アジアのほとんどの国からその拡張主義を警戒されているが、唯一、民族的にイランに近くシーア派に属するタジキスタンにおいてだけは、90年代の内乱時代から大きなプレゼンスを有する。現在では南北を結ぶトンネル掘削など経済援助で目立つ存在となっている。
パキスタンは宗教指導者のアガ・ハーンがタジキスタン、キルギスで経済援助を行っているし、アフガニスタンのタリバンへの影響力を保持しているために、これと国境を接するトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンへの発言権を維持できている。インドは中央アジア、オリエントとは同じ文明圏に属しているが、地理的に少し離れていること、中央アジアの経済力が小さいことなどから、真剣な対応は未だ見せていない。従って、現在の中央アジアでの主要なプレイヤーはかつての宗主国ロシア、9月11日集団テロ以降、アフガニスタンへの作戦拠点として中央アジアへの関心を俄かに増した米国、そして政治・経済両面で力の増大著しい中国だろう。
宗主国マインドの抜けないロシア
ロシアが中央アジアを植民地化したのは、19世紀のことである。その後ソ連時代にまで至る統治は、中央アジア5カ国――今の5カ国は史上存在したことはなく、国境も含めてソ連が人工的に創った統治単位だったのだが――にプラスももたらした。第一に、都市国家の汗(ハン)や大地主、そしてイスラム教会による権威主義的支配に慣れた地元民の習俗に、いくらかの変化がもたらされた。イスラム教会は権力を奪われ、女性の地位が向上した。都市においてはチャドルは着用せず、エリート階級の中からは政府の枢要な地位にのぼる女性も現れた。教育は大衆に普及し、ヨーロッパの先進的な知識の一端が浸透した。行政機構が整備され、経済・社会インフラも整備された。農業は綿花栽培が過度に重視されたが、第二次大戦を契機に多数の工場が中央アジアに立地して、工業化も進んだ。現在でもウズベキスタンには大型航空機組み立て工場、年間数万台の生産能力を有するトラクター工場、大宇が作った大自動車工場などがあり、タジキスタンでは豊富な電力を使った世界的規模のアルミ精錬工場がある。カザフスタン北部は製鉄の一大拠点だ。
他方、ロシア、ソ連による統治のマイナスもまた大きい。農業では綿花のモノカルチャーが押し付けられたし、工場も文化・スポーツ施設の多くもロシア人など「白人」の世界だった。そして土地も含めてすべての生産手段を国有化し、国の隅々までをあたかも一つの会社のように把握して運営するソ連型社会主義経済は、今に至るも中央アジア諸国の改革を阻害している。事業の自由を奪われた国民は政府に面倒を見てもらうことに慣れ、公共料金引き上げなどを伴う経済改革に強い抵抗を示すようになったからだ。
1991年ソ連が崩壊してロシアが混乱にあえぐ中、旧ソ連圏諸国は経済的利益を西側に求めてロシア離れを強めた。その遠心力は今でも働いている。だがEUから遠い中央アジア諸国にとってロシアの軍事力は相変わらず最後の拠り所だし、原油価格急騰で2,500億ドルもの外貨を溜め込んだロシアは経済的にも十分頼りになる存在となってきた。かつては「モスクワ」の威光の下に特権的地位を享受し、モスクワこそ文明の中心と今でも思い、西側流のオープンでリベラルなやり方に共感よりも反感を覚えるこの地域のエリートの中には、モスクワを根拠地として事業を展開する者も多い。他方ロシア人には、中央アジアを自分達に残された最後の勢力圏と見るマインドが強く、中央アジアを「囲い込んで」利益を引き出してやろうと構えている。
腰の定まらない米国
ソ連が崩壊して直後、ベーカー国務長官はいち早く中央アジア諸国を訪問し、日本の鈍重な官僚制から見れば驚異的なスピードで大使館を各国に開くに至った。だがその後、米国は中央アジアに真剣な対応を示さなかった。米国内に中央アジアからの移民は少なく、経済的な関係もごく小さい。ここはロシアや中国にまかせておいてもいい地域だ―――このように米国は考えた。しかもソ連時代の置き土産である強権政治は人権を軽視するので、このような国々とはおいそれと関係を進められない。
だが9月11日の集団テロ事件以降、米国は中央アジアへの対応を本格化させる。米国はキルギスとウズベキスタンの空軍基地使用権を獲得し、アフガニスタン北部での掃討作戦を進めた。そして人権問題を声高に批判することは控え、たちまちにして日本を抜いてこの地域でのODA供与国ナンバーワンになったのである。他方、米国NPOは政府とは異なるアプローチを取った。彼らは中央アジア諸国の急速な民主化、改革を求め、強権的な中央アジア諸国の指導者を警戒させてしまった。
2005年5月ウズベキスタンのアンディジャンで起きた「テロ事件」で住民が当局から大量に殺された事件では、欧米諸国の政府までが独自の調査団派遣を強く主張したため、カリモフ大統領は内政干渉だとしてこれに反発し、米国のNPOの多くを国外に放逐し、ハナバード空軍基地の米軍も僅か4ヶ月で撤退させた。中央アジアのハブとも言えるウズベキスタンでの地歩を失ったことで、米国の対中央アジア外交は大きなダメージを受けた。ロシア、中国は「上海協力機構」に中央アジアをしっかり取り込み、ここには米国やEUをおいそれとは入れない構えを示し始めた。中央アジアにおける力のバランスは大きく変わったのである。
中央アジアの安定確保と資源獲得が中国の狙い
中国の歴史は中央アジアと切っても切り離せない関係にあるが、漢族が中央アジアに領土的野心を示したことはない。漢、唐の時代、フェルガナに中国の将軍が駐留していた時があるが、これは遊牧民族に対する自衛のためで、定着することはなかった。周囲を蛮族呼ばわりすることが多い中国人も、中央アジアについてだけは「西域」というまともな漢字をあて、その古い文明に憧憬の念を示している。
現代の中国にとって中央アジアは長らくソ連の一部に過ぎなかったし、ソ連が崩壊した後も所得水準の低い中央アジアは大した市場とは見えなかった。だがこの数年、中国は中央アジアへの外交を強化しつつある。2001年には「上海協力機構」を設立する首脳会議を上海に招致し、機構の常設事務局を北京に置いて中国人外交官を事務局長に据えた。胡錦涛国家主席は既に中央アジアの多くの国を訪問したし、04年6月タシケントを訪問した際には、合計9億ドルの借款を中央アジア諸国に供与すると述べてセンセーションを巻き起こした。
中国の狙いはいくつかあるだろう。「大国」にふさわしい国際的立場を作り上げる、という漠然とした目的の他に、米国に対抗するために少しでも友好国を増やしておこうとする狙い、中央アジアが新彊独立を策する者達の根拠地となるのを防ごうとする狙い、石油、天然ガス、ウランなどの天然資源獲得などだ。だが中国は、ロシアに比べていくつかの限界を持っている。中央アジア諸国民はロシア語を話せるが、中国でロシア語を話す者は少ない。上海協力機構の会議でも、中国の代表だけが雑談をできずに浮いている。
だが一方、06年にはカザフスタンから中国への原油パイプラインが短期間の工事で完成し、輸出が始まっている。同年訪中したニヤゾフ・トルクメニスタン大統領は自ら対中経済関係促進委員会の委員長となり、パイプラインで天然ガスを中国に輸出する夢を追っている。カザフスタンもトルクメニスタンも、ロシア経由で欧州にエネルギー資源を輸出してきたが、別のルートも開発して価格設定の主導権を握りたいのだ。
中国はこの地域に死活の利益を持っているわけではない。経済力を復活させた旧宗主国ロシアの影響下に取り込まれたとしても、この地域がとにかく安定していれば、中国としてはそれでいいのだ。ここに米国が入り込めば、脆弱な新彊地方がかきまわされることも恐れているのだろう。
中央アジアのASEAN化?
8月末、小泉総理はカザフスタン、ウズベキスタンを、日本の首脳として初めて訪問した。例によって「エネルギー資源外交」だと評する外国メディアも多かったが、中国の人民日報はその社説で、「これは中国、ロシアの裏庭にくさびを打ち込もうという狙いだ」と評し、ロシアのメディアは「日本は米国がウズベキスタンに戻ってくる露払いをしている」と評した。中国、ロシアにとっては、日本が政治パワーとして見えるようになったのだ。そして小泉総理の中央アジア訪問の前後から、中央アジアをめぐる力のバランスはまた微妙な変化を示し始めた。8月初めには中央アジアを担当するバウチャー米国務省次官補がウズベキスタンを訪問してカリモフ大統領と長時間会談し、以後「アンディジャン難民」(アンディジャン事件以後、捜査を恐れて米国に逃亡した住民達)の本国帰還が実現している。EUも8月末に、アンディジャン事件以後初のハイレベルの代表団をウズベキスタンに送っている。「中央アジアの大国、ウズベキスタンをいつまでも孤立させておくのは得策でない」というのが、欧米の共通の認識になった。
小泉総理が去った直後の9月2日、カザフスタンで中央アジア諸国(トルクメニスタンを除く)の非公式首脳会議が行われ、4カ国の首脳は域内協力を強化することで意見の一致を見た。かつて存在した「中央アジア協力会議」(CACO)に2004年ロシアが加わったことで中央アジア域内協力の動きは一時勢いを失っていたが(その後CACOはベラルーシも加わる「ユーラシア経済共同体」(EAES)に吸収合併された)、今回動きを復活させたものである。中央アジアはこれまで大国の間でバランスを取り、大国を競り合わせて最大限の利益を上げてきたが、今度は域内協力というカードも手の中に加えたのであろう。
5カ国を合わせても人口5,000万人、GDP7兆円にしかならない中央アジアは、域内協力を強化しなければ大国の草刈場になるだけだ。奇しくもちょうど30年前に第1回首脳会議を行ったASEANも当初は過小評価されていたが、今では立派なプレイヤーとして成長している。
中央アジア諸国と日本の利益は一致している。中央アジア諸国が独立と団結を強化することが、日本には政治・経済両面でのプラスとなる。植民地主義は復活させてはならない。中央アジア諸国の安全は、1974年欧州がCSCE会議でしたように関係するすべての国が保障すればいいのである。独立性強化とオープンな協力、これが現時点での中央アジアのベクトルである。
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