先入見のない世界観を
(ウズベキスタンの現地紙に掲載)
今日の世界ではかつてないほど、「ふん、なにがアメリカ人だ! ヨーロッパ人がどうしたってんだ!」という声が上がっている(幸か不幸か「ふん、なにが日本人だ!」という者は少ないのだが)。それは、多くの民族が最近、資本主義、つまりセックスや暴力に満ちた映画や目をみはるような消費財の数々と始めて深い遭遇をして以来、顕著になった。
西側文化の流入は多くの者の神経を逆なでするが、素晴らしい商品は羨望と西側世界への憧れをつのらせる。しかし西側が腰高の姿勢でお説教をせんとの構えを見せようものなら、羨望は直ちに憎しみへと代わり、「ふん、なんで我々の方が劣っていることがあるものか!」ということになる。別の言葉で言うなら、国際経済の範囲が広がるとともに、厄介な問題が起きたのだ。経済のグローバル化と人間の尊厳との間の兼ね合い、という問題が。
西側は悪の帝国か?
「なんで我々の方が劣っていることがあるものか」と言う者は必ず言う。「ほら、西側ではセックスと暴力だらけだ」、「奴らは年長者を敬わない」と。本当にそうだろうか?自分は米国に4年、西欧に5年住んだから80%の自信をもって言うことができる。それは、大げさな見方だと。
アメリカはピューリタン的伝統を多少とも残した社会であり、今日のポリティカル・コレクトネスへの動きは暴力を益々排撃している。フリーセックスの国と言われる北欧でも、男は通常1人の女しか愛さない。年長者を敬うことについては、そうした道徳規範事態は西側にないものの、彼らは何も不自然な強制を受けることなしに年長者を仲間として、あるいは彼らに大いなる愛情をもって接している。日本においてさえ、家父長的関係は戦後消滅した(読者がテレビの「おしん」で見たのは主として戦前の日本である)。
西側及び資本主義については致命的な誤解がある。つまり資本主義社会では「なにをしてもよく」、そして「資本家というのは贅沢をしていいのだ」という誤解である。こうした誤解があったからこそ、ペレストロイカ末期のソ連モスクワでは、赤いブレザーに金鎖、ポケットには拳銃をしのばせたマフィアやチンピラ共が突然わきだし、道徳やら善につばをはきかけ、詐欺や殺人を平然とやってのけたのだ。こうした輩にとっては、他人から金品をゆすり取ることができる者こそが優れた者なのであり、資本主義社会で生きていく権利を持つ者なのだった。
だがこんな社会は日本はもちろん、西側には全然似ていない。アメリカでも西欧でも、市民は非常に質素に暮らしているのだ。ベンツやBMWは贅沢品で、成金の持つものと思われているのだ。米国では60年代以降の30年間、日本その他の諸国との競争のため国民の実質所得水準は全然上がらなかった。今日の米国では望むと望まざるとにかかわらず、共稼ぎしなくては生活が成り立たない。そうしなくては、子供をいい大学に送ることもできないのだ。
西側の社会と経済は、お互いをだまし会うことではなく、信頼の原則によって成り立っている。さもなくば、誰が自分のクレジットカードの番号とサインを支払いのためにFAXでやりとりしたりするだろう?
だがこう言ったからとて、西側では全てがうまくいっており、西側の人間の方が道徳水準が高いというわけではない。現在の西側の道徳・価値基準は400年以上の長きにわたって醸成されてきたものだ。所有権の確立を求めての厳しい闘いのあと人々は、社会の規範を守り自分の権利の主張と同等に多謝の権利も尊重することが、社会全体の繁栄の必須の条件であることをやって認識したのだ。
それでも、「なんで我々の方が劣ることがあるものか? 我々には伝統というものがある」という声はやまない。確かに、世界の諸伝統は同等である。そして全ての人間は平等である。しかし同時に自分の意見では、社会というものは富の増大(但し正直な勤労を通じて)と生活水準の平等化、この2つの目的を追求するべきである。こうした資質を多く備えた社会であればある程、そこに住んでいる人達はより多くの尊敬を他の国から受けるだろう。世界の全ての伝統は平等であるとしてもだ。なぜなら社会が貧しくては、人間の尊厳どころの話ではないからだ。
そうだとすると、自国の伝統をもう一度振り返り、社会の健全な発展を妨げているようななにか異質なものがそこにないか、調べてみるのが良くはないだろうか? 例えばかつての社会主義国では、より多く稼ごうとする者への憎しみと羨望が未だに深く根を張っている。なぜならこうした国では、手元に今あるものを分け合うことに重点をおいていたからである。企業や農園の利益は中央諸省に集中され、そこから総花的、悪平等的に再分配された。企業主や農園長は自分の組織を拡大させることよりも、中央から下りてくる多くの目標を完遂することの方が重要だった。
これでは悪平等もいいところであり、「発展」というものの臭いもしない。このような社会においては、何に金を振り向けるかを1人で決めることができる「全知全能のキーパーソン」がいるのだ、という思いこみがあり、西側でも同じようなものだと思いこんでいる。しかし西側や日本では、政府予算の配分は徹底的な調整や厳しい議論を経て初めて決定されるものなのだ。なぜなら国家の歳入源の半分は個人所得税だからである。つまり個人は平均25%程度は所得税を払っているのだ。ところが、かつての社会主義国は西側に経済援助を求めて断られると、彼らはその西側の国の指導者には自分と仲良くする「政治的意思がない」のだと思いこみ、外交の重点をすぐ変えようとする。
確かに、皆が平等にまあまあの暮らしをしているなら、「なぜ発展しなければいけないのだ」という問いは十分成り立つ。しかし、その答えは簡単なのだ。「いいですよ。ご自由に。でもその「まあまあの暮らし」も5年ほどしか続きませんよ。そしてその後はダイナミックな世界経済からの遅れが益々目に付いてくるでしょう。あなた方の企業は設備を近代化する資力も失い、その商品は輸出はおろか国内市場においてさえ競争力を失うでしょう。そうなると、綿花や金の輸出代金を全て消費に回したとしても、まあまあの生活水準を維持はできなくなるのです。そして30年もたてば、全ては未開社会での平等を誇ると同じことになるでしょう」ということだ。
ウズベキスタンの豊かな伝統からは、植民地時代外から植え付けられた夾雑物を除かねばならない。企業家は指弾される代わりに賞賛されるべきだ。そして企業家は奢侈品を買いあさる代わりに利益を投資に回し(そのためには法人税率はしかるべきレベルまで下げねばならないが)、そうすることによってより多くの富と雇用を生み出さねばならない。「ビジネス」を手がける人の多くは商業やサービスで稼ぐことになるのだろうが、国全体の富を大きくするものは食品や商品の生産である。これは、起業家の範疇の話だが。
伝統といっても様々である。社会の経済水準と伝統は相互に影響しあい、いずれが原因で結果なのかはわからない。だが生活水準が向上すると人々は地縁・血縁関係への依存から解放され、より個人主義的になるとは言える。こうした過程は西欧では16-17世紀に、日本では第2次大戦後に、アジア太平洋諸国では現在進行している。こうやってどこかで悪循環を断たなければ、「伝統と社会」という閉ざされた環はいつまでも同じ形でまわっていくだろう。
他方、こうした変化を外部から強要してはならない。今日先進国は、第2次大戦後多数出現した独立国が自分達の自由や富を阻害するのではないかという恐怖を心の底で感じている。このため彼らは自分達の道徳・価値観を新しい国家に拙速に押しつけようとする。これら国家が民主主義・市場経済を奉じている限り、彼らは自分達の利益を冒そうとはしないだろう、というわけだ。しかし外部からの干渉は時によって社会を不安的化させ、テロの新たな温床を生みさえする。
というわけで、伝統の問題はこれだけにするとして、ではどこに社会の目標を設定すればいいのかという問題について述べよう。ソ連が崩壊した時、人々は複雑な気分を味わった。 一方では解放感を味わいながら他方では全世界が尊敬していた(いや、実際はソ連のミサイルが怖かっただけなのだが)ソ連という超大国のメンバーではもはやないという当惑も感じたものだ。そして今に至るまで新しいアイデンティティ-の模索が続いている。いくつかのNIC国では、エリートの一部は未だにモスクワや西欧との結びつきをもって自分のステータスの証明とする者もいる。彼らは「急速に発展するアジア太平洋地域」に時々思い出したように会釈はするが。だが、大衆はそのようなことはない。そして筆者はここでは大衆の立場を支持する。
なぜなら今日では(または少なくともつい最近までは)モスクワのロシア人自身,子弟を欧米に留学させることに血眼になっているからだ。彼らは社会科学、自然科学において自分達は遅れてしまったことを認識しているのだろう。
NIS諸国では、リベラリズムや民主主義とは縁遠く特権にあぐらをかいていながら、自分達を西欧人と思っている人々がいるが、これは筆者には嫌な感情をよびおこす。こうした人々はアジアを未だに見下し、時に物質的な利益しか求めようとしない。アジアの文化には何か貴重で深遠で攻撃的でないものがあるし、評判の悪いかの「アジア的」集団主義や専制性(専制性はローマ帝国にも好例があるのだが)は今日では民主主義及び健康的な(時として不健康的であるが)個人主義に代わりつつあるというのに。
中央アジアは、独立した単一の歴史的存在である。中央アジアはヨーロッパでもアジアでもなく、メソポタミアにその文化を汲み、農耕、工芸そしてシルクロードの通商の上に発展した地域である。中央アジア諸国は、ショーヴィニズムに決別し個人の福祉と権利の実現を目標にすえるならば、どこか別の地域に手本を求める必要などないのだ。
日本の伝統ーーー絶対的論理ではなく相対性
人々は時々他人の例を引用して自分の伝統を正当化しようとする。自分もよく、次のような言葉を耳にする。「大使さん、あなたの国日本は私達の国にとても似ています。日本では年長者を敬うんですってね」。筆者は自分の子供に尊敬されているとは特に感じていないが、仕事柄右の言葉を否定することはしない。だが秘かに自問する:ウズベキスタンではなんでこんなにちょくちょく年長者への尊敬を口にするのだろう、ひょっとしてこの国じゃ年長者への尊敬という点で問題があるのでは、と。日本人とウズベク人はおとなしく、プラグマチックで過激主義に走らない点で似ていることは確かだとしても。
だがこうした表面的な類似は、ウズベキスタンが日本にならって「経済的奇跡」を実現できることを意味していない。両国の歴史にはいくつか相異なる点があるからだ。第一に日本は島国であり、外部から脅威を受けたことは史上、2,3度しかない。多分このため日本では強力な国家イデオロギーといものが通常存在しなかった。日本では歴史のほぼ全期間を通じて単一の絶対的な権力というものがなく、権力は天皇、貴族,侍、そして後には大商人の間で共有された。
かかる権力の相対性は時として武力闘争を生んだが、江戸時代は幕府の下に平和が続き、大名達は藩に任命されることになった。彼らは藩の土地を所有していたわけではなく、徴税権を与えられていたに過ぎない(将軍には天領があった)。将軍は時として、大名を別の藩に移封することがあった。
従って、土地は農民に属していたのである。江戸時代には自営農が農村における主要な存在になっていった。つまり幕府と大名の間の微妙な力の拮抗が、農民の私的所有権を可能としたのだ。こうした例は英国を想起させる。そこでは国王と議会の間の拮抗が豊かなジェントルマンの存在を可能とし、彼らの資本によって産業革命が達成されたのである(しかしながら権力の相対性は両刃の剣でもある。ロシアにおいて1993年議会の砲撃をもたらしたのが、大統領と議会の間の権力闘争であることを忘れてはならない)。
我々日本人は「あなたの宗教は何ですか?」とよく聞かれる。多くの日本人はしばらく考えたあと仕方なしにといった風情で答える。「ええまあ、仏教です。うちの墓は仏教の何々宗のお寺にありますからね」。しかしながら日本人は実際には、いくつかの宗教が混在する世界に生きている。同じ家の中に仏教と神道の祭壇がある(あるいは何もない)ことも珍しくない。社会には儒教的道徳が残っている一方で、若者はなぜかキリスト教会で結婚式をあげるのだ。
島国に住んでいる日本人は、自分達が日本人であることを証明する必要がない。強力で単一のイデオロギーや宗教を持っていないにもかかわらず、日本人は外国に行くと自分の文化的独自性を強く感ずる。それは一部には言葉ができないためでもあり、また大多数の日本人は、では「日本的なものとは何なのか」と聞かれても満足な説明をすることもできないのだが。「日本的なもの」とは、秩序正しいこと、礼儀正しいこと、そして廉潔であることなのか? いずれにせよ日本人は論理的存在というよりは、自分の直感に頼る感情的存在なのだ。日本が世界で知られていなかった頃は日本人も、侍精神とか和の精神を民族的特性として殊更に強調してみせた。しかし日本への評価がもう確立された現在では、宗教やイデオロギーを押し立てて自分を飾り立てようとするがつがつした気持ちは我々にはもはやない。
「国民国家」とは、19世紀西欧世界の産物である。古代帝国の再現さながら、西欧の国家は産業革命の結果生じた大量の商品を売りさばく先としての植民地を獲得する道具として作られた面がある。「国民国家」(実際には多数の民族が住んでいるのだが)には強い軍隊、強力な諜報機関そして強力な徴税機構が備わっている。その後国民国家は全国民の社会福祉を手がけるようになり、その負担にあえぐ現代の政府は公営部門の削減・民営化を迫られている。そしてそれは他ならぬ国民国家の基盤を解体させつつあるのだ。現代の国家にあっては経済界の力は中央政府の力を何倍も上回り、豊かになって関心と利害が多様化した社会にあっては、多くの者にとって政府や政治家はあまりお呼びでない存在になりつつある。
植民地主義華やかなりし150年前日本は開国を迫られ、西欧の例にならって「国民国家」を作ることになった。しかし日本では江戸時代に資本の蓄積は既に行われており、また1895年日清戦争での勝利によって中国からその年間予算の3年分に相当する賠償金を得たのである。こうして日本の工業化が始まった。
日本は「戦後突然、奇跡的に」発展したのではない。この過程は、歴史的に深い根を持っている。私的所有権、資本、そして勤労道徳は、日本の工業化が始まる前に既にあったのだ。1700年頃何人かの思想家は儒教と仏教をもとに「人間は正直な勤労によってのみ社会に認められる」という勤労道徳をうち立て、当時日本に多数あった寺子屋でそれを広めた(1800年頃の日本は、一般市民、農民の識字率では世界最高水準にあった)。
従って日本にとって、西側の技術を手に入れれば工業化は困難なことではなかった。工業化に資本を投入したのは地方の郷紳や都市の大商人(国営企業払い下げにより彼らは財閥になったが、それでエゴイスティックな振る舞いをするようになったわけではない)、そして政府である。そして外国資本はこの過程から閉め出されていたことが特筆される。日本人はほとんど自分の資金で工業化を行ったのである。政府は、製鉄のように利益の上がらない、しかし不可欠な工場を建設したが、これら工場が採算にのるや否や、民間企業に高い価格で売却したのである。
こうして日本は第2次大戦までには工業化を達成し、都市には多数の中産階級が形成されていた。日本は後進的な封建主義の闇から突然飛び出てきたものではない。
日本モデル:誰がために鐘は鳴る?
しかしながら、戦後日本の急速な発展は賞賛と羨望を呼び起こした。「日本モデル」という単一のモデルはないのだが、海外の(そして時には日本国内の)識者はそれぞれ「日本モデル」なるものを考え出して、自分の都合のいいようにそれをあれこれ利用するようになった。
ソ連時代のイデオロギー担当者が抱えた課題はもっと複雑だった。彼らはアジア人に対する自分達の優位、そして市場経済に対する計画経済の優位についての神話を維持せねばならなかった。第一の課題は、彼らが西側の似非学者に従って、「日本は、企業や政府に対する国民の盲目的な服従、そして集団主義、つまり「アジア的」な遅れた要素を利用して発展したのだ」という命題を確立することにより解決された。こうした連中にとっては、「日本経済における民族的特性」が決まり文句になった。
第二の課題は、また西側識者の尻馬に乗った彼らが「日本では政府が経済、企業を運営している」ということを発見した気になった時に解決された。この時以来、「日本モデル」の鐘は、旧ソ連の保守的な似非識者のために鳴り続けている。
日本人が自分の政府に服従的ならば、政治家や官僚があれほど苦労することはなかっただろう。終戦後日本人は政府を顧みなどしなかった。戦時備蓄品は横流しされ、あらゆる商品はヤミに流れ、詐欺は横行し、公衆便所は不潔を極め、そして何よりもストライキが頻繁に起きていたのだ。もしアメリカの占領軍当局が介入しなかったなら、ゼネストを契機に日本で共産主義革命が起きていたかもしれない。
当時、愛国主義という言葉はほとんどタブーだった。日本軍部があおった超国家主義のために戦争になり、日本が破滅の縁に立たされたことから、日本人自身、愛国主義という言葉を口にしなくなった。終戦後に書かれたものを読むと、当時の日本人は「やっと普段の生活が戻ってきた。さあ、戦前の豊かな生活水準を一刻も早く取り戻そう」という気持ちで生きていたことがわかる。
ここでも、社会を新たに建設するために特別のイデオロギーは必要とされなかった。当時、生活のスタイルが世界規模で変化しつつあった。それまでなかった冷蔵庫、電子オーブン、掃除機、テレビといった電気製品が次から次へと現れて、巨大な需要を喚起した。そして日本人はこうしたものを全て自分で製造したのだ。かの巨大な軍需産業は(幸いにして)完全に根絶され、日本の企業にとって他の選択肢はなかった。比較的緩い規制、そして賄賂がはびこっていなかったことによって、当時多くの日本人が自分の商売を立ち上げた。その多くは流通・サービスだったが、製造分野に進出した者の中からは、後にソニーや本田のような世界的企業が現れた。
一般的な雰囲気は「働かなきゃ。働けば働くほど給料は上がるんだ。働かなきゃ自分の会社は競争に負け、自分が失業することになる」というものだった。金融や、競争力のない工業分野においては、政府による規制は強かった(それは西側でも同様だった)。そして通産省は費用のかかる技術開発の音頭を取ったりした。だがそれも資金の大半は関係企業が出したのである。また米国においては軍事技術開発予算は巨額であるが、その成果は民需部門にも流用されていることを忘れてはならない。 しかしながら、日本政府は計画経済の国と異なり価格設定(公益価格は除く。いずれにせよ電力、鉄道、ガス等公益企業が経済に占める比重は、旧ソ連諸国におけるほどではない)、生産量(過当競争を防ぐための投資抑制指導を除く)、部品購入先・製品販売先を指定することはしていない。経済企画庁は5年計画とか×年計画とかを策定していたが、その指標は主として大蔵省の官僚が参照していたのである。彼らは右計画をもとにして税収を予想し予算を作っていた。しかし民間企業は自分自身の景気見通し、分析、そして野心に基づいて自分の操業計画を作っていたのだ。
こう言うと、「では、日本はどうしてあんなに速く発展できたのか?米国の援助と洪水のような輸出が日本の成功をもたらしたのではないか?」という疑問がわいてくるだろう。だがこうした疑問への回答は、これまで述べてきたことから明らかだ。内需の急速な拡大、企業活動、企業設立のための好条件が主な原因なのだ。輸出については、なぜか多くの者が、日本は輸出で生きていると思っている。しかし戦後長年にわたり輸出はGDPの10%以下しか占めていなかった(ドイツではその1,5倍)。内需拡大が終わって初めて日本は、その経済成長を達成するために輸出に依存するようになったのだ(それでも、経済全体が輸出のために存在しているわけではない)。そして海外市場進出の過程は苦しいものだった。製品の品質向上と販売網の確保に多大の努力を払って初めて進出が可能になったのである。
アメリカは日本の復興を助けてくれたが、西欧への援助の水準には達していない。日本は「マーシャル・プラン」の対象国にならなかった。アメリカが日本に供与したものの多くは融資だったのである(その一部は後に返済が免除されたが)。右融資総額は24億ドルに及んだが、それは年平均ベースでは当時の日本政府予算の4,5%に相当する。これは巨大な額であるが、それでもこの論文の基本的論理を変えるものではない。日本は経済的法則に従って発展したのであり、「奇跡」や施しによって発展したのではないということだ。
日本における統治の性質についてはよく誤解が見られる。多くの者が日本は厳格な上意下達の社会であると思っている。日本では天皇陛下が国を統治しているという誤解については言うまでもなく(日本の天皇はイギリスの国王と同じく国家の象徴なのだ)、日本では首相が全能の存在で、彼に接触して自分の願いを聞いてもらえばすべてのことはうまくいく、というような誤解にぶつかることがある。
残念ながら、それは日本の現実ではない。日本においては日常的な政策、イニシャティブは関係省において、他省との協議の上に念入りに策定される。首相が強い力を有する場合のみ、省庁をオーバールールできる。首相の力は、情報と政策執行者としての官僚を有する省庁に基づくところ大であるが故に、首相といえども省庁をないがしろにはしにくい。それに日本の官僚制においては英国と同じくポリティカル・アポインティーが殆どない。日本の官僚は終身雇用であり、年功序列で昇進する。これも、前記の首相と官僚の間の相対的関係の一因ともなっている。
日本人はコンセンサスの原則で行動する。そしてコンセンサスは時間のかかる徹底的な調整のあと初めて形成されるものである。日本人も上の者に取り入って自分の意志を通そうとすることがあるが、そのようなやり方は結局うまくいかないものだ。官僚は、そのようなやり方に抵抗する手段を抱負に持っている。そして日本人自身、強力なリーダーに時には熱狂してみせるものの、「権力の相対性」に慣れているがゆえに、そのような強い指導者を多くの場合放り出す。だから、日本が厳格な上意下達の国だと思いこむことは、そう思いこんだ国の対日外交に過誤をもたらすことになるだろう。
ウズベキスタンは、まだこれから市場経済への移行に向けて苦しい過程を経ねばならないだろう。「現在の世代の犠牲の上に明るい未来を築く」という共産主義の誤りを繰り返してはならないが、他方辛抱も必要になる。日本の「奇跡」においてさえ、平等な社会が実現したのは戦後30年たってなのだから。 (了)
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