小説「遥かなる大地」(筆名熊野洋 草思社) あらすじ
「遙かなる大地 イリヤーの物語り」
について
河東哲夫
ロシアは,ひところの混乱から脱却し,安定化への様相を強めてはいるものの,基本的には,70年間続いた共産主義から資本主義への移行という,大きな歴史的転換期に未だある。社会の激動は,優れた文学作品を生み出すものではあるが,ロシアにおいては激動から未だ時が経っていないこともあり,ソ連の崩壊からロシアの誕生初期にいたる過程を大河小説として描く試みは,まだ行われていない。
著者はこれまで4回,ソ連,ロシアに計10年滞在し,ブレジネフ時代最盛期,同時代
末期からゴルバチョフ時代初期,同時代末期から91年のク デタ ,ソ連崩壊,94年
の議会砲撃という激動期まで,つぶさに目撃,そして今はプ チン大統領の時代にいる。
右をもとに,著者はこれまでソ連社会,経済に関する3冊の著書を出版したが,いつかはロシア人の目から見たロシアについての小説を書きたいとの野望を持つようになった。なぜなら,そのためにはロシア人の生活,気持ち,社会制度の隅々までを知らねばならず,ソ連・ロシアを専門とする著者にとっては最高のチャレンジになると考えたからである。
モスクワに滞在した1990 1994年の激動期は,そのような著者の思いをさらに
強めることになった。この時代は,「ドクトル・ジバゴ」の背景であるロシア革命をさえ思わせる激動の時だった。個人の運命は時代に翻弄され,時代の主人公は人間ではなく時代そのものであるかの状況が現れたのである。
著者は,この時代を背景に「ドクトル・ジバゴ」の現代版を書くことを決意し,準備も含めて8年かけてこの小説を完成させた。ドクトル・ジバゴのような自由な精神の個人がこの時代に生きていたら,どのような運命をたどったであろうか,というのが,基本的発想である。
著者はこのために,ロシアの農村にも赴き,当時の危険なモスクワをボディ ・ガ ド
を雇って歩きまわり,知識の足りなかったロシア文化史,哲学史を個人教師について勉強しなおした。そしてもちろん,ロシア人との無数の付き合い,新聞・雑誌記事の調査,母
校ハ バ ド大学図書館での調査も経て,7回は書き直して完成したのが本書である。こ
こには,著者のロシアへの想いと知識が全てこめられている。
「遙かなる大地 イリヤ の物語り」は,政治小説でも探偵小説でもない。複雑な文
学手法を用いることなく,簡潔な文体で時代の変遷,登場人物達の運命の変遷を淡々と,しかし全体としてうねるかのようなロマン的感情を喚起するよう,描いたものである。
この小説のテ マは,ロシア人の魂に宿る自由への希求,そして詩情あふれるロシアの
豊かな大地への讃歌である。そこには,現代の行き過ぎた資本主義への批判もこめられている。また小説に深みを与えるため,過度にならない範囲で,ロシアの過去の歴史が現代と対比しつつ言及されてもいる。
「遙かなる大地 イリヤ の物語り」の主人公は,イリヤ ・マコ シン。「イリヤ
」は,ロシアの伝説上の英雄イリヤ ・ム ロメッツ,「マコ シン」は,ロシアの古
代宗教の神「マ コシ」に由来する。イリヤ は完全なフィクションであるが,性格上の
モデルは,奔放な性格と自由な振る舞いで知られた国民的俳優,詩人,歌手のヴィソ ツ
キ (既に死去)である。イリヤ は,「ロシア人魂」を自ら体現した人物である。
イリヤ は1952年生まれの新聞記者。ペレストロイカの時代に時を得て,急速に有
名になり,ソ連の道徳的再生をはかるためソ連邦の自主的分解を唱えるに至る。党の干渉に不満を持った彼は,後に自分で新聞社を興し,ソ連におけるルネッサンスと宗教改革の
必要性を唱える。しかしほぼ同時期に,イリヤ は招待されたスペインでKGBのスパイ
,オ ロラと恋に陥り,妻リュ バと別れるに至る。
92年以降の混乱期,イリヤ は世論を導く力を失った新聞を捨て,この時代多くの者
がそうであったようにビジネスに走るが失敗し,酒色に耽溺したあと,国民的シンガ・ソ
ング・ライタ として台頭し,その影響力に恐れをなした権力,あるいは資本家,あるい
は過激民族主義者のいずれかによって,倒される。
オ ロラは,ロシアの悲劇性のシンボル。まだ16歳の時,父を殺したモスクワ市幹部
サ ヴァ(フィクション)の情婦とされ,後に一子をもうける。この子がイリヤ の子か
,サ ヴァの子かわからないという悲劇に,彼女はク デタ 失敗直後,モスクワ川にか
かる橋からオ トバイに乗ったまま身を投げて,自殺をはかる。彼女は救われたものの記
憶を喪失し,夜の女マリヤとなってモスクワを徘徊する。
イリヤ に対置される登場人物は,工場労働者イヴゲ ニ 。別荘を作ることが夢であ
る。
イリヤ の娘ユ リヤ,イヴゲ ニ の息子ロマンは,共産主義イデオロギ の影響を
受けていない,ロシアの若い世代の代表。互いに対立する階級出身のこの2人は,恋に陥
る(「ロメオとジュリエット」のアレゴリ )。イヴゲ ニ が結婚を認めなかったため
,ロマンは金を稼ぐため家出してマフィアの仲間となる。しかし,ユ ゴスラヴィアに傭
兵として出たロマンは自分の誤りを悟り,ユ リヤの下に戻ってまともな生活を始める。
イヴゲ ニ とその妻パラ シャは,マフィアにアパ トをだまし取られ,浮浪者とな
る。イヴゲ ニ は1993年10月の議会砲撃の際,撃ち殺される。
イリヤ の従姉妹オ リガは,ロシアの強い女性,母系社会を象徴する。オ リガの名
は,建国間もない古代ロシアで,断固たる手段で蛮族と戦った女帝に因んだもの。モスク
ワの地区共産党委員会イデオロギ 担当から出発した彼女は,国民のために尽くすという
強い使命感を持ち,内部対立で辞職した後は学校教師アリル エフと語らって民営企業を
興すに至る。短期間に成功した財力を用い,オ リガは政党を樹立,改革のために国会で
闘う。
サ ヴァ・グノ エフは,人間の悪の象徴(フィクション)。モスクワ市の建設部門で
働いていた彼は,次第に権力・財力を蓄積し,銀行を買収して一大金融コンツェルンを作
り上げる。彼は後に,オ ロラに殺される。
こうして「遙かなる大地 イリヤ の物語り」では,混乱の世を背景に様々な人物が
人間の業を負ってからみあい,その中を強い個性を持ったイリヤ が,一貫して自由を求
めて生きていく。
(なお,登場人物のなかにはモデルが存在する者もいるが,本名で登場するのは良く知られた政治家だけである)
「遙かなる大地 イリヤ の物語り」
あらすじ
創世記:
○イリヤ の出生地,モスクワの東,ウラル山脈の手前,リャザン州ナ ノフカ村(フィ
クション)における,彼の生い立ちを描いたもの。イリヤ は,地元の学校教師フロ
シャと,レニングラ ドからフォ クロア収集にやってきた学者ヴォ ルホフとの間に
生まれる。ヴォ ルホフは,フロ シャに片思いしていた地元の青年の密告によって収
容所に送られ,フロ シャはイリヤ 出産時に死亡する。
○イリヤ は,フロ シャの母アガ フィヤに,10歳までナ ノフカで育てられ,高い
道徳性と口誦文学を教え込まれる。ナ ノフカの四季の変化,農民の生活が詩的に描か
れる。それは,集団農場の灰色の生活という一般のイメ ジとはかなり異なる,生き生
きとして,ある時には詩情を湛えたものである。ここでロシア,そしてイリヤ の原点
,豊かな大地が描かれる。イリヤ が10歳の時,祖母アガ フィヤは死去し,彼はモ
スクワに出ていた伯父イェゴ ルに引き取られる。
約束の土地
1985年から88年まで,ソ連がグラ スノスチ,ペレストロイカ政策の下で,将来
への夢に酔っていた時期を描いたもの。従って登場人物の多くが,夢を持っている。
○この部は,1985年のメ デ から始まる。イリヤ 一家は,赤の広場を行進する。
その日の夜,イリヤ 一家はイェゴ ル伯父の家を訪れ,オ リガも一緒に夕食を取る
。混乱が訪れる以前の,ソ連の平和な家庭生活が描かれる。
○ゴルバチョフの自由化政策が進展するにつれ,これまで逼塞していたイリヤ も,社会
の不正,腐敗を告発する数々の記事で名を上げる。
○イリヤ の従姉妹オ リガの,地区党委員会での働きぶりが描かれる。世直しの意欲に
燃えた彼女は,「民活」による青年会館建設実現で有名になるが,上司の嫉妬を呼ぶ。
この上司は,オ リガが学校教師アリル エフと愛人関係にあり,その上自営企業の設
立を目指している,との密告を仕組み,オ リガを退職に追い込む。共産党地区党委員
会の活動ぶりが,詳細に描かれる。
○工場労働者イヴゲ ニ の生活が描かれる。それなりに安定し,心地よかったソ連時代
の労働者の生活。
○ミュルレル夫人の「サロン」が紹介される。ミュルレル夫人は両親をスタ リンに殺さ
れ,「階級の敵の子供達」のための特別孤児院で育つが,60年代若い頃,奔放で情熱的な詩人として名を上げ,ペレストロイカの中で,共産主義者に対する「復讐」の念に燃えている。
ソ連時代,外国人にとって最も面白かったものは,ソ連知識人達の深い教養と自由な
イマジネ ションをちりばめた会話であった。ミュルレル夫人の「サロン」には,知識
人が集まり,こうした会話を展開する。主要な人物(フィクション)は
ヴォ ルホフ:(イリヤ の父)。今では,ロシア精神史,文化史研究の第一人者。「
ロシアの良心」とも呼ばれている。その実彼は,昔,恩師を裏切って収容所から釈放されたばかりでなく,「ロシアの良心」と呼ばれながらも実は西欧文明に憧れる矛盾に悩む。
「サロン」でイリヤ が歌った英雄叙事詩が,昔フロ シャの歌っていたものに酷
似していることに気づき,もしかしてイリヤ が以前必死で捜し求めた息子ではない
かと,心を躍らせる。
サフロンチュック:ペレストロイカの大立者ヤ コヴレフ政治局員の補佐官。
大学時代,イリヤ 達と気儘な夏のヒッチハイク旅行を試みた,自由な精神の持ち主
。ソ連崩壊後はアメリカに移住し,評論家的人生を送る。
グレ プ神父:ユダヤ人のロシア正教会神父。正教会を国家への従属から解放し,個人
を神に直接対峙させる,「宗教改革」を唱えている。モデルは,1990年9月に暗
殺されたメ ニ神父。
ハチャトゥ ロフ:偽善的なインテリの代表。以前は「反体制家」。
アルメニア人であるにもかかわらず,ロシア人に擦り寄り,ある時はリベラリズムを,ある時はロシア・ナショナリズムを唱える日和見分子。
「サロン」で,ミュルレル夫人が共産主義への「復讐」を声高らかに唱えた時,招待
されていなかったオ ロラ(ミュルレル夫人の姪,KGBのスパイ)が突然入ってきて
,サロンの空気を冷やかなものにする。
ミュルレル夫人の妹,エンマはモスクワ市の悪徳官僚サ ヴァとの不倫の恋に絶望し
て自殺,その子オ ロラの美貌にひかれたサ ヴァが彼女の父を殺した後,ミュルレル
夫人はまだ12歳のオ ロラをサ ヴァに養子として引き渡す。オ ロラが,そのサ
ヴァの愛人にされて以来,ミュルレル夫人は一生の負い目を感じていたのである。
○ロシア正教千年祭の日オ ロラは,赤いBMWのオ トバイに乗って(彼女は暴走族「
夜の狼」の首領でもある),グレ プ神父の勤める郊外の教会に出かける。
この神父だけが,彼女に心の慰めを与えることができる。この道中は,浄瑠璃の道行のスタイルを意識している。
○イリヤ の書く記事は次第に党の路線を逸脱し,党から何回も「注意」を受けるに至る
。にもかかわらず彼は,ペレストロイカが上からの改革でしかなく,もっと大衆のエネ
ルギ を動員することが必要である,という長文の記事を発表する。
○ヴォ ルホフはイリヤ をモスクワ郊外の保養所に誘い,モスクワ川を見下ろす高台の
上で,父の名乗りを上げる。
昔のことを語り合った後,2人は古代ノヴゴロドの繁栄と自由を歌った詩を暗唱する
。自由と繁栄,これはモンゴルの侵入で破られたロシアの夢であり,また現代のヴォ
ルホフとイリヤ の夢でもある。
○モスクワのエリ ト大学,国際問題研究所のディスコで,イリヤ の娘ユ リヤとイヴ
ゲ ニ の息子ロマンは,互いに一目惚れする。
○オ リガと同僚アリル エフは,自営業を始める。市役所における,その登録手続きの
様。
こぼたれた器
(題名は,全て聖書から引用している。これはイェレミヤ書から)
この部は,ペレストロイカが混乱を生む中,登場人物達の夢が破れていく様を描いたもの。
○イリヤ は父ヴォ ルホフに手紙を書き,自分の記事への党の干渉を嘆くとともに,ソ
連の各共和国に独立を与えない限り,ロシア人は帝国主義の「原罪」から逃れることはできないと説く。
○ロマンは,ユ リヤの家を初めて訪問する。イリヤ とその妻リュ バから温かく受け
入れられたものの,ロマンは知識階級に対する深いコンプレックスを再認識する。
○民主化はさらに進み,ソ連で初めての自由・複数候補選挙が行われる。街頭では,エリ
ツィン支持のデモ行進が行われる。
このデモを縫って,イリヤ はミュルレル夫人の選挙集会に駆けつける。ミュルレル
夫人は,人民代議員大会に立候補していた。
共産主義への「復讐」を酔ったように呼びかけるミュルレル夫人に対し会場から,彼
女の選挙運動はモスクワ市の官僚サ ヴァによって援助されていることを示唆する野次
が飛び(オ ロラが仕掛けたもの),ミュルレル夫人はその場で卒倒する(彼女自身,
以前サ ヴァの愛人であった)。
○1989年,第1回人民代議員大会。その熱した雰囲気が描かれる。
記者席から見ているイリヤ は,これまで時代をリ ドしてきたつもりのジャ ナリス
トが,実際の政治から次第に遅れ,観察者の立場に追いやられつつあることを認識する
。○1989年7月,在モスクワ米国大使公邸における,米国独立記念日レセプションの
場。イリヤ は旧知のマトロック大使と,東欧に民主化の一大転機が迫っていることに
ついて,意見を交わす。
○イヴゲ ニ は,モスクワ郊外に別荘建築用の土地を見つける。街頭で売るためのチュ
リップを自由に栽培できる別荘を持つことは,彼の長年の夢。
勇んで家に帰ったイヴゲ ニ に,妻パラ シャは息子ロマンの結婚資金をとってお
く必要性を指摘して,イヴゲ ニ の反発を受ける。
○イリヤ は,ヤ コヴレフ政治局員の補佐官,サフロンチュクをクレムリンに訪ねる。
この大学時代からの親友同士は,立場を少し異にしながらも,ソ連,そして東欧の情勢
がコントロ ルの埒外に逸脱しつつあることについて,憂慮する。
サフロンチュクは,たとえ破滅に向かうことが明らかでも,逃れることができない運命というものがある,船長は沈みゆく船と共に渦に巻き込まれていくしかない,と述べる。
○ロマンとユ リヤは,金持ちになった叔母オ リガのアパ トで,ぎごちないながらも
美しい最初の一夜を過ごす。
隣の部屋のテレビでは,CNNがベルリンの壁の崩壊を狂ったように実況しているが,ベッドの上で夢中の若い2人には聞こえない。
○イリヤ はサフロンチュクの依頼で,1989年11月共産党政権打倒のデモに揺れる
プラハに赴く。
政権交代があっても,ソ連はチェコスロバキアに軍事介入しないという,ゴルバチョ
フのメッセ ジを,反体制派の首領ハ ヴェル(現大統領)に伝えるためである。
プラハの熱狂の中,ヨ ロッパとロシアの決定的かつ悲劇的な違いが描かれる。
○ミュルレル夫人は選挙で失敗したショックから立ち直れず,ヤク トのシャ マニズム
(ロシアもその一部である,ユ ラシア大陸文明の暗い部分を象徴)の儀式に凝る。
狂乱して倒れ伏した彼女の中に,ロシア史上の数々の血なまぐさい思い出が蘇る。
○グレ プ神父は,自分の勤める教会を改築するため,募金活動を始める。
○イリヤ の家族が,イヴゲ ニ のアパ トを初めて訪れる。イヴゲ ニ は,思った
より大衆的なイリヤ に心を開くが,中央委取材の準備でイリヤ が急遽,社に呼び戻
されると,再び臍を曲げる。
彼が息子ロマンに対し,妊娠中のユ リヤには中絶させ,別れることを迫った時,ロマ
ンは家出する。
○ビジネスに成功したアリル エフは,社のテレビ・コマ シャル撮影のため,60年代
の大げさなビュイックを借り出し,女優の卵達とモスクワを乗り回す。その様が,ゴ
ゴリの「死せる魂」の一場のパロディ として描かれる。
○イリヤ は,ゴルバチョフの訪問を前にして,スペイン政府の招待でこの南の国に赴く
。スペインとソ連が奇妙に似ているところがあることが,語られる。
プラド美術館のゴヤの「巨人」の絵の前で,イリヤ はオ ロラに「めぐり合う」。
オ ロラは,KGBの命令でイリヤ の行動を探っているもの。フラメンコ・レストラ
ンでオ ロラに誘惑されたイリヤ は,彼女と激しい一夜を共にする。次の朝公園で,
オ ロラは純真な一面を初めてさらけ出す。
2人は恋に落ち,イリヤ の妻リュ バは実家のあるグルジアのスフミに帰る。しかし
サ ヴァの性的な魔力から逃れられないオ ロラは姿を消し,イリヤ は1人だけ残さ
れる。
○イリヤ は新聞社長の不興を買い(昇進を断ったため),降格されて,結局辞任する。
傷心のイリヤ は故郷ナ ノフカを訪れ,今では農民になっている昔の友人達と一晩飲
み明かす。だが昔の仲間は,今やモスクワのインテリとなったイリヤ に,心を開かな
い。
次の日ナ ノフカの大地の上で,イリヤ は自分のル ツを再確認し,人生への新た
な意欲をかき立てるが,母の墓は完全に土に帰っている。
○ゲレ プ神父が暗殺される。彼は,オ ロラから預かったク デタ 計画のメモを,イ
リヤ に渡しにいく途中だった。
○イリヤ は数々の困難を乗り越えて,自分の新聞を設立する。彼は,ソ連の「ルネッサ
ンス」と,連邦の自主的な解散を唱える。道徳的な基盤を取り戻し,精神的な支柱を確立しない限りロシアの改革は成功しない,というのが彼の論旨。
イリヤ は再び,ソ連の社会を先導する自信を取り戻す。
○ゴルバチョフの改革政策の誤りが分析される。唯一の統治機関であった共産党を,これ
に代わるものを十分準備する前に弱体化させたことが,最大の誤りであった。これは経済の混乱を招き,マフィアが経済に浸透することを許した。
改革を阻む共産党官僚を抑えれば統治ができないという,宿命的なジレンマにゴルバチョフは陥っていた。
○1991年8月19日朝早く,休暇中のイリヤ は,別荘の屋根のペンキを塗り替えて
いる。その日は,和解した妻のリュ バがスフミから帰ってくる予定。
この時,ク デタ のニュ スを聞いたイリヤ は,モスクワに急遽戻る。次の日,
改革派のたてこもるロシア議事堂に親友サフロンチュックを訪ねたイリヤ は,廊下で
長らく見なかったオ ロラに会う。
彼女は,イリヤ の子供を生んだことを示唆し,なぜか別れを告げる。2人が抱擁して
いる場面を,追いかけてきたリュ バが目撃する。外に走り出したリュ バを追ってイ
リヤ も外に出るが,リュ バを見失う。
彼の目の前で装甲車が3人の青年を殺害し,その横で負傷したロマンがイリヤ の前
に現れる。イリヤ は,彼を病院に連れていく。
○ク デタ が失敗に終わって間もない朝,オ ロラは赤いBMWに乗ったまま,モスク
ワ川にかかる橋から身を投げて自殺をはかる。
ヴォ ルホフがノヴゴロドで発掘した,昔の貴婦人がイリヤ という男に向け送った,
古代のラブ・レタ が紹介される。これは,「イリヤ 」への満たされなかった愛の思
いを綴ったもの。
これによって,オ ロラのイリヤ に対する気持ちばかりでなく,ロシアの歴史にお
いては何か真実なるものが探究され続けてきたものの,未だに見つかっていないことが
示唆される。このラブ・レタ は,オ ロラと,後半部に登場する古代ロシアの修道女
マリヤをつなぐもの,現代ロシアと古代ロシアを結び付けるものである。
燃ゆる茨
この部は,ソ連邦崩壊前後の社会における混乱状態を描いたもの。当時の渦巻きのよう
な混乱状態の感じを伝えるため,コラ ジュ的手法が用いられている。登場人物の生活は
,断片でしか示されない。あまりの混乱においては,個々人の運命は弄ばれて,小さな意味しか持たないからである。
一貫性を維持するため,いくつかのライトモチ フが用いられている。運命の力の象徴
としてゴヤの「巨人」の絵,ロシアの悲劇性の象徴としてのカモメのイメ ジ,そしてロ
シアの深い精神性の象徴として神への問いかけ,などである。
この部は,「エピロ グ」から始まる。2014年,ようやく安定したモスクワで,既
に年老いた主人公イリヤ は 彼は,末尾の暗殺から生き延びている ,19
92 94年の混乱の時期を回想する。
けだるい安定の時期から振り返ると,あの頃は人間の赤裸々な野望と欲望で輝いていた
ように見える。イリヤ は目をつぶり,過ぎ去った幻の影を追う
○92年1月,タガンカの場末のバ 。ソ連崩壊,価格自由化直後の混乱を象徴するよう
な喧騒,猥雑。ソ連国家の甘い調べに乗って踊る,老俳優ルイバコフ。
事業で成功したアリル エフはイリヤ に,彼の事業展開を邪魔するポポ フ市長を
陥れる記事を掲載するよう働きかける。イリヤ はこれを断り,夜の街に出る。夜のモ
スクワの街の唸りは,人々の運命を冷酷に磨り潰していく歴史の歯車の回る音に聞こえる。
○ソ連崩壊後の混乱が描かれる。熱病の発作のように,ある日突然自分の過去を振り捨て
るロシア。共産主義の罪を悔いて,一足飛びに西側の価値観に帰依しようとするロシア。 その中での利権の奪い合い,自由業の隆盛,地名の改名,急激に増えた外国車による渋滞,歩道にあふれる金属製の露店,西側企業の進出,ドルと暴力による支配。
イリヤ は,自分の新聞社の金策に追われている。
○ミュルレル夫人は,半年前に書かれたオ ロラの遺書を,今になって受け取る。
オ ロラは,生まれた子供がイリヤ ,サ ヴァ,いずれの子かわからなくなり,絶望
のあまり自殺をはかった。オ ロラも,赤ん坊もどこにいるのかわからない。
オ ロラをここまで追い込んだ,我が身の罪におののくミュルレル夫人。
○92年1月価格自由化によるハイパ ・インフレは,人々を絶望の淵へと突き落とす。
路上でチュ リップを商うイヴゲ ニ は,ショバ代を払わなかったためチンピラに打
ちのめされる。
そこからわずか200メ トルと離れていないキオスクでは,家出した息子ロマンが
,「ユ リヤの家族と同等になるために」金もうけに励んでいる。
○アリル エフの事業は,成功している。その勢いをかって彼は,以前オ リガに勧めら
れた自分の政党創設の準備を進めるために,ロシア全土を駆けめぐる。
かと思えばロンドンで不動産を買いあさり,「アリル エフの世界貿易センタ ビル」
の建設を夢見る。
そうした中,モスクワの闇の世界を支配するサ ヴァは,癌細胞のように,静かな増
殖を繰り返す。市民の生活を踏みにじりながら。
○生活のため人々は,路上で不用品を売って生計をたてる。
青空市場のウォトカにあたったイリヤ は,魔女達の祭典,ワルプルギスの夜の夢にう
なされる。
○混乱の中,ミュルレル夫人は,ロシア革命時代の女流詩人ギッピウスを思わせる時代の
書き手として,世の有り様を「蒼い手帖 モスクワ日記」に書き留める。ギッピウスの
「黒い手帖」のように,後世に残る時代の記録となるだろう。
彼女が書き留めるのは,価値観の180度の転回,所有権が旧い支配層から新しいエ
リ トに移っただけの,改革のいかがわしさ,そしていつかは混乱を収拾するためのナ
ポレオンが現れるだろうとの予言である。
○ロマンが属するマフィア一味のアパ トで繰り広げられる,麻薬と乱交のパ ティ 。
それに加わらず,警察の手入れを1人だけ逃れたロマンは次の日から,アルバ ト街で
冬の最中の露天の商売,自家製パンの販売,トルコやポ ランド,ウラジオストクへの
行商など,あてもなく仕事を変えていく。
○地下鉄を行くユ リヤ。突然止まった地下鉄の中,血塗られたモスクワの地下で際限な
く広がっていく妄想。ユ リヤは,プロのシンガ ・ソング・ライタ になっている。
録音の話で地下の防空壕あとに間借りするレコ ド会社を訪れたユ リヤは,近くを通
りすぎるロマンに気づき追いすがるが,彼はモスクワの下水道の暗闇に消えていく。
○世論の信頼を失い,若手記者は商業主義に毒されていく中,イリヤ は新聞発行への意
欲を失っていく。
家に帰ると,アメリカのボストンに移住した旧友サフロンチュクからの長い手紙が待っている。サフロンチュクは,アメリカではロシアがいかに矮小な存在に見えるかを書いた後,それでもロシア人は西側から遅れている分だけ,自然,大地,神の近くに生きている,と言う。
○イリヤ の従姉妹オ リガは,アリル エフと共に造った政党「ロシアの繁栄」の人員
募集に神経をすり減らす。面接にやってくるのは,ソ連時代に押さえつけられ精神の平
衡を失った者ばかり。昔彼女を迫害した上司のウ リナも,職を求めてやってくる。
疲れて帰る自宅の居間,ピアノ三重奏の調べの中,オ リガの心のなかに高まるのは
,いつも隠されていた従兄弟イリヤ への思い。
○ミュルレル夫人の夫ヴァレンティは,混乱の中,精神を病む市民を助けるための精神病
院の運営に疲れ切っている。ミュルレル夫人は,その日街角でオ ロラに似た女を見か
けたことが気にかかっている。
彼女はまた,「蒼い手帖 モスクワ日記」を書き出す。カネが世を支配する中で,地
に落ちる社会道徳,セックス,ホモ,レズの花盛り,マフィアの横行,華の都モスクワにあふれる,売春婦5万人。
混乱と喧騒の中,犯罪の環はじりじりと,市民の日常のレベルにまで下りてくる。
両大戦間ドイツのワイマ ル時代にも似た,華やかでやがて悲しいモスクワのナイト・
ライフ。
○92年春,冬が去ると,人々の気持ちも落ち着きを取り戻す。しかし春は,保守派が勢
いづく季節でもある。
イリヤ の腹違いの妹,ヴォ ルホフの娘アナスタシアは,今では保守派の指導者の
1人となり,集会でスロ ガンを叫び立てる。
○92年夏,保守派はオスタンキノのテレビ塔の下で集会を開き,「外国資本とユダヤ人
に乗っ取られた」テレビ局を非難する。
休業の多くなった工場を抜け,この集会に加わったイヴゲ ニ は,警官隊の襲撃に遭
遇し,棍棒(「民主化精神注入棒」)で頭を割られて入院する。
○イリヤ から離れて,再び両親のいる黒海のほとり,スフミに暮らすリュ バ。別の男
との再婚まで考える中,突然娘ユ リヤと義母ヴェ ラが孫イ ゴリを連れてやってく
る。
アプハジア人,グルジア人とロシア人が,まだ平和に暮らしているスフミでの楽しい団
欒の夕べ。海辺を歩きながらユ リヤは,母リュ バにモスクワに帰るよう懇願して,
泣き崩れる。
○「8月革命」から1年。あの高揚感はどこへやら。厳しい生活。権力とチャンスは国民
の手ではなく,「ただ,あちらからこちらへ」移っただけのよう。
○ロマンを思うユ リヤ。美しい調べが心に湧き出る。
○イヴゲ ニ の妻パラ シャは,帰宅した夫に生活苦を訴える。
彼女はイヴゲ ニ に工場を辞め,近所のヴォルコフのように商売を始めるよう言うが
,イヴゲ ニ は決心がつかない。
○企業の民営化,「ヴァウチャ 」をめぐる大騒ぎ。
○イリヤ はついに新聞「新時代」をアリル エフに売却すると,ビジネスに乗り出す。
○ミュルレル夫人は,「蒼い手帖」を書きつづけている。自由に憧れた「60年代人」へ
の挽歌,消えゆく郊外の農村への挽歌。ソ連崩壊の暗い夜のことが思い出される。
ゴルバチョフ大統領は,その辞任演説で言っていた。「わが国民は,繁栄した民主主義社会に生きるようになるでしょう。皆さんの幸福を祈っています」
○イリヤ は,手を出す事業に悉く失敗していく。時機を失し,大きな事業はサ ヴァ,
アリル エフの輩に抑えられている。
オ リガに頼まれてベルリンを訪れたイリヤ は,雪の降りしきるソ連軍戦没兵士の大
墓地で,時代の変遷をしみじみとかみしめる。負け犬になってしまった恐怖。
○92年冬,泥濘の青空市場でロマンを見かけ,追いすがろうとするユ リヤ。
アリル エフの,愛人スヴェ タとの無為な生活。夢の中でレ ニンのミイラが起き上
がり,アリル エフを追い詰める。「俺が,何,悪いことをしたというんだ。ただ,ち
ょっと人より目立ちたがっただけなのに」と言い訳するアリル エフ。
○イヴゲ ニ の妻パラ シャは,夫に自分たちのアパ トの私有化を勧める。身体に火
が付いて赤の広場を走り回る夢にうなされる,イヴゲ ニ 。
○ユ リヤは歌手として名をあげて,待ちに待った初めてのリサイタルを行う。
送り狼の男たちを断って1人で拾った白タクは,大きな2両連結の乗合バス。
夜のモスクワを走るバスの中でユ リヤはただ1人,ソ連時代の詩人オクジャワの歌
を歌う。あの頃のメランコリックな雰囲気が,ぺレストロイカを経た今,また戻ってきたとは。
黙示録
○貿易で栄えていた,古代ノヴゴロド。修道女マリヤが導入される。マリヤの名は聖母,
そしてオ ロラの成れの果て 夜の女マリヤの双方に通じ,聖と罪の双方において
現代と古代のロシアを結び付ける。
他方,93年のモスクワは,日に日に変わっていく。外国の消費財の大量流入。しか
しその一方で,大衆の生活は苦しかった。
しかし,その中にあっても,大多数の市民は正直にけなげに生きている。
○イリヤ の友人,「ワシントン・ヘラルド」の特派員ソ ルズベルクは,アメリカ人の
学者のパ ティ に出席し,西側の偽善と,ロシア人にまだ残る帝国主義的な奢りの双
方に辟易とする。
帰宅した彼は,ロシア人の愛人ソフィヤの将来の身の落ちつけ方を考えながらも,ピュ
リツァ 賞欲しさの著作に没頭する。それは,エリツィン大統領の進める改革と,人間
の社会に渦巻く業と欲への批判である。
○民営化第二弾の波の中で,イヴゲ ニ は自分のアパ トを買い取ったものの,マフィ
アの詐欺に引っ掛かり,飲み代の抵当にアパ トを取られ,妻とともに真冬の路頭に迷
う。
浮浪人となり,相手も見失って離れ離れになるイヴゲ ニ 夫婦。どん底の中にも人情
のある浮浪者の生活。
○ミュルレル夫人の「蒼い手帖 モスクワ日記」。
混乱の巷に広まっていく新興宗教,星占い,ロシアを軽侮するだけで助けてくれない西側への恨みがつづられる。
○年金もろくに届かなくなったイェゴ ル(イリヤ の養父)は,昔の職場に翻訳のアル
バイトで出る。
ある日,留学帰りの若い上司から,米国の経済学教科書の翻訳の誤りを笑われて,夜の
街にさまよい出るイェゴ ル。ネオンが輝き,人々がさんざめきつつ通りすぎるトヴェ
ルスカヤ通り。
気のおかしくなったイェゴ ルは道路に躍り出て,マフィアのBMWにひき殺される。
○古代ノヴゴロドの修道女マリヤは,街で見かけた凛々しい騎士イリヤ への思いにふけ
る。
マリヤは実は,キリスト教に根絶されたロシア原始宗教の司祭の家系に属しており,今
でもシャ マンの祈りを行っていた。
○ミュルレル夫人は,オ ロラが自殺未遂直後に川から引き上げられたことを記した警察
調書を入手して狂喜するが,自分に絶望したイリヤ は,無為の時を過ごすばかりだっ
た。
○浮浪者になり,イヴゲ ニ とも生き別れたパラ シャは,日当目当てに保守派の集会
に出る。かつての特権層と浮浪者が,同じ集会で肩を並べている。
○オ リガは,まだ世直しを諦めない。今日も彼女は国会で,投資信託業の振興を訴える
が,小党の哀しさ,見向きもされずに無力感を味わう。
その国会は百家争鳴。誰しもが大統領になれると信じて,浮沈を繰り返す。
その中を,かつての反体制派ハチャトゥ ロフ議員は,日和見の本性を発揮しながら世
を渡っていく。
○モスクワ郊外のゴミ捨て場に住み着いた浮浪者イヴゲ ニ は,森の木に「別荘」を作
り付け,のどかな生活を送っている。拾ったラジオからは,ユ リヤの歌声が聞こえて
くる。
○古代ノヴゴロドでは,修道女マリヤが憧れの騎士イリヤ との初めての夜の歓喜からま
だ醒めきれない。その彼女の姿を,白痴の下男が哀しい嫉妬の目で追っていた。
○オ ロラは生きていた。川に落ちた衝撃で記憶を喪失し,夜の女マリヤとなりはてて。
ようやく捜し当てたイリヤ は,彼女と一夜を共にするが,「マリヤ」はただ冷たく去
っていく。
○オ リガがカジノを借り切って,誕生日のパ ティ を開く。
そこには保守もリベラルも,ロビ ストも花形テレビ・キャスタ も,元KGBの将校
も,昼間に角突き合わせていたのはどこへやら,新たな支配階級として,夜遅くまで仲良く踊り明かすのだった。
政治家としての自己宣伝のためこの派手なパ ティ を開いたオ リガも,心の虚しさ
はぬぐえず,しきりに自然児イリヤ のことを思う。
○そのイリヤ は酒に溺れ,女を求めて夜の街を徘徊している。
街でみつけた家出娘オクサ ナと,爛れた生活に身を持ち崩すイリヤ 。
だが踊るオクサ ナを脇に,街で歌ってみれば,意外と受ける。「おい,この乞食の歌
は中々いい。ヴィソツキ みたいだぜ」
○ロマンは傭兵となってボスニアへと飛び立つ。
だが戦場の現実は,「スラブの大義」からはほど遠く,戦友の死を目撃したロマンは,
やもたてもたまらず夜の女をかき抱き,自分が生きていることを確かめる。
○サ ヴァは,モスクワ郊外に建てた高層ビルのペント・ハウスで,秘書イワンと同性愛
行為に耽る。以前,大学でイリヤ と対立したイワンは,ゴルバチョフの補佐官にもぐ
り込んだ後,エリツィン側に寝返り,そこも追い出されてここまで落ちてきた。
サ ヴァはイワンに,オ ロラの子供を見つけて連れてくるように命ずる。
○古代ノヴゴロドの修道女マリヤは,司教に呼ばれ,おめおめと手込めにされた罪におの
のいて,僧院から姿を消す。
○イリヤ の父ヴォ ルホフは,癌に蝕まれ,夕暮れのなか,ただ1人,フロ シャを,
そして自分の偽りの一生を思い浮かべて涙を流す。
その2週間後,彼は死去し,政治家たちは争って哀悼の意を表す。
○オクサ ナにも去られたイリヤ は,再び酒に身を持ち崩し,獣のようになって,父ヴ
ォ ルホフの死も知らない。
ある日モスクワ郊外の旧教徒の総本山ラゴ シスコエ修道院に足を向けたイリヤ が
,向こうから修道女に連れられてやってきた幼児の名をたずねると,「イリヤ 」。
修道女の話にイリヤ は,この小イリヤ こそ2年前,赤いオ トバイに乗った若い女
性が近くの孤児院の門前に,涙を流して置いていった,オ ロラの子,自分の息子であ
ることを悟る。
モスクワ川の高台の上,ポプラの綿毛が吹きすぎていった,父ヴォ ルホフとの出会
いを思い出すイリヤ 。だが浮浪者のようななりのイリヤ は,父の名乗りを上げるこ
とは叶わずに,その場をよろめき離れる。
ああ,3代続けて父なし子とは。
○混乱の中にも,モスクワの街には新しい芽が吹き出てくる。消費ブ ムの到来とともに
,ロシア人自身の資本であちこちに開かれていく新しい店。今やル ブルで買い物がで
きるようになり,店には押しかける人々の熱気が満ちている。
新しい店で買い物のできる普通の市民も増えてはいたが,金のない者は日々,政権への
怨みをたぎらせていた。
その中で,浮浪者パラ シャは,けばけばしい西側商品の広告を尻目に,ごみ箱を漁
っていく。
○ユ リヤは,マネ ジャ のヴァレンティンに言い寄られ,不倫に走る。
アリル エフは,オ ロラ=マリヤに出会い,一目惚れ。それもそのはず,オ ロラ
の母エンマは,アリル エフの実らなかった初恋の相手。
情婦スヴェ タをロンドンに追い払い,オ ロラを家に連れ込んだアリル エフはしか
し,サ ヴァの秘密を知り過ぎた者として,マリヤとの結婚の幸福を夢見る朝,消され
てしまう。
○カリフォルニヤに移住することになった,ミュルレル夫妻の送別パ ティ 。集まって
きた客たちは,混乱の世に思いも様々,会話もどこか空々しい。
ミュルレル夫人は最後に,サロンでの皆の会話をKGBに密告していたことを告白し,許しを乞う。
ミュルレル夫人は別れ際,イリヤ に,サ ヴァが小イリヤ を探していること,発
見されないうちに,自分たちがアメリカに引き取る用意があることを告げる。
○傷心のイリヤ は,学生時代サフロンチュクらとの無銭旅行の後を辿っている。自分の
罪を濯ぐ巡礼の旅でもある。
ある日,道端で歌いだしたイリヤ は,居酒屋に群がる男たちから,大変な喝采を受け
る。歌うのは,ロシアの大地への思い,この世の不正への怒り。
○歌心も薄れ,人生の苦しさに押しひがれそうになっているユ リヤのもとに,夫ロマン
が戻ってくる。もうどこにも行かない,正業につくと誓うロマン。
○気儘な無銭旅行を続ける主人公イリヤ 。だが,ふと妻リュ バの住むスフミに民族紛
争が迫っていることを知り,救出に駆けつける。
戦いの中での夫婦の再会。海辺の青空に輝く戦闘機の美しさ。人生の美しさ。2人とも,もう若くない。
○古代ノヴゴロド。攻めてきたドイツ騎士団が打ち負かされた間もなく,修道女マリヤは
水死体となって発見される。
その懐から発見されたイリヤ への遺書は,オ ロラの遺書と同文である。マリヤは,
身を投げる前,自分を辱めた司祭ヨシフ(サ ヴァの父称でもある)を刺殺していた。
現代モスクワ。オ ロラ=マリヤは,情夫アリル エフを殺したサ ヴァのところに
,復讐のため現れる。
ピストルをつきつけるオ ロラを,サ ヴァが罵る。その声に,オ ロラ=マリヤの失
われた記憶は一瞬に甦り オ ロラは,古代ノヴゴロドの修道女マリヤの生まれ変
わりであることが示唆される ,その衝撃でオ ロラは無我夢中で引き金を引く。
床には,オ ロラに撃ち殺されたサ ヴァと,用心棒に撃ち殺されたオ ロラが横た
わる。教会の鐘の音が鳴り渡る。古代ノヴゴロドの戦勝を祝う鐘のように,そしてロシアの罪が濯がれたことを喜ぶかのように。
○93年10月2日。アルバ ト街500年祭の熱狂の傍ら,スモレンスク広場では保守
デモ隊と警官隊のにらみ合い。
警官を蹴散らしたデモ隊は勝ち誇り,保守派議員がたてこもる国会議事堂へと行進する
。国会は,大統領によって解散されている。行進の先頭に立っているのは,イヴゲ ニ
達,流浪者共。
次の朝やってきた戦車の前に立ちはだかったイヴゲ ニ は,背中を撃ち抜かれて最
後を遂げる。仏教僧が太鼓をたたいて平和を祈る中,発射された戦車砲は議事堂を貫き,紅蓮の炎が巻き起こる。赤,黒,茶色の炎は,妄執の時代の終焉を象徴するかのように,火の粉の滝となってなだれ落ちる。
数日後,はや落ちついたモスクワの街。黒こげの議事堂を背景に「堅気の商売」,ロマンは米国人観光客の記念写真を撮っている。
川向こう,橋の脇に広がる黒い染みが,父イヴゲ ニ の最後の跡とは露知らず。「い
いですか。はい,チ ズ」
復活
○94年5月,ユ リヤ,ロマンの一家は,イ ゴリに父の故郷を見せに,ナ ノフカへ
と自動車旅行。イ ゴリは,祖父イリヤ が昔したように,モ クシャ川への斜面を駆
け降り,叫ぶ。
「ヤッホ ,ヤッホ 。ヘ イ,よ く聞け,イ ゴリ大公のお通りだ!」
ユ リヤ夫妻は,もう昔には戻らない,生きていくんだと,誓い合う。
○リュ バも戻り,すっかり昔の落ち着きを取り戻した自宅でくつろぐイリヤ だが,ま
だ何を自分がやりたいのか,何になりたいのか,わからない。
シンガ ・ソング・ライタ として名は売れてきたものの,商業主義の鋳型にはめられ
てしまうのも気が進まない。
彼は,散歩に出る。相変わらず雑然とし,乳児の姿もすっかり見かけなくなった,こ
の頃のモスクワ。この国は,トルストイもドストエフスキ もなかったかのように,ま
たゼロから始めなくてはならないのかもしれなかった。
○イリヤ が家に帰ると,アメリカに移住した旧友サフロンチュクからの長い手紙がまた
待っている。
サフロンチュクは,フランス革命と現在のロシアを比較してみせる。情報革命,ヴェン
チャ ・ビジネスにわきたつアメリカとも比較して今のロシアに絶望してみせる彼だっ
たが,ロシアの河,ロシアの大地への望郷の念はいかんともしがたく,知名度の上がっ
たイリヤ を大統領にするためにロシアに帰ってくると言う。
○ロシア原始宗教,「イヴァン・クパ ラ」の祭りの夜。
やってきたイリヤ は,祭りが保守派の道具にされているのに怒り,自分の歌で聴衆を
引きつけてしまう。イリヤ の心の迷いは次第に晴れ,人々の心を,ロシアの大地を歌
っていきたいという気がふつふつと沸き起こる。
傍らで,怒りをもって見守る,イリヤ の腹違いの妹アナスタシア,学生時代からの敵
イヴァン。
○ロマンの家では,ユ リヤ,救出されたパラ シャも共に,息子イ ゴリがパソコンを
いじっている。
オ リガの下で働くようになったロマンがグラフィック化を担当する,新築予定の西側
なみのデパ トの売り場が,画面に次々に現れる。カネを稼げば自由になれると信ずる
ロマンにとってデパ トは,「ただ買い物するところじゃない。文明の中心。新しい生
活を発信するところ」なのだった。
○イリヤ は,腹違いの妹アナスタシアを懐かしさから訪れる。
ヴォ ルホフを同じ父として生まれながら,イリヤ とフロ シャを思う父に愛されな
いことに拗ね,過激民族主義運動に身を投じていたアナスタシア。
2人は自由と秩序の相剋,父をめぐって対立するが,イリヤ の去った後,アナスタシ
アは1人激しくむせび泣く。イリヤ が懐かしく,それでいて憎かった。だが,やっと
亡き父ヴォ ルホフに認められたような気もするのだった。
その横で,今ではアナスタシアの補佐官となっているイワンが,イリヤ への冷たい復
讐の念をたぎらせる。
○家に帰ったイリヤ は,父ヴォ ルホフの著書「イリヤ とマリヤの物語り 古代
ノヴゴロドの愛」をひろげてみる。オ ロラの遺書と全く同じ,修道女マリヤの遺書。
オ ロラは,マリヤの輪廻だったのか? 馬鹿な。
イリヤ は夜のベランダに出て,しめやかな大気の中,古代ノヴゴロドの自由を偲ぶ詩
を口ずさむ。
○94年夏,夕立の中,イリヤ は街角で,昔無銭旅行に一緒に出掛けたアポロ ンと偶
然出会う。
テレビ・ニュ ス番組のディレクタ をしているアポロ ンは,イリヤ に警告する。
反体制歌手として名前の上がったイリヤ を,大統領府も資本家も,保守派も胡散臭が
っている,と。
政治などに手を染めるより,詩人として国民1人々々の心に語りかけるのがお前の使
命だと,アポロ ンはイリヤ に言う。だが,乗りかけた舟。イリヤ は,オ リガに
推されて「ロシアの繁栄」党の党首になるつもりである。
○94年夏のある日,党首就任のお披露目を兼ねた野外大コンサ ト。大観衆の前で,ロ
シアの大地を歌い上げ,現世の混乱を批判するイリヤ 。
歌ううちイリヤ は,自分の使命をやっと認識する。政治家になるなど,まっぴらだ。
ここに集まった連中を見ろ。みんな自分のものなど,何一つない。自分の意思さえ,あってはならない。カネは人を自由にもすりゃ,奴隷にもする。さあ,みんな働こう,作ろう,耕そう,と心から言えるようにならなきゃ。
俺はこのギタ と歌で,一生やつらの中で歌うんだ。自由の歌を,人間の心の歌を。
だが,「カネはもう沢山だ,俺はただ自由が欲しい」と歌った直後,イリヤ は何者
かに撃たれて,舞台に倒れる。
薄れ行く意識の中モスクワは,昔地下に埋められた無数の川からあふれ出る水に沈み,
ナ ノフカの草原が姿を現す。その中に,「ヤッホ ,イリヤ ・ム ロメツのお通り
だ!」という叫び声が,碧い空へと融けていく。
プロロ グ
事件のあと,イリヤ のジ パンのポケットから,ミュルレル夫人の手紙が発見される
。イリヤ とオ ロラの子,イリヤ ・ジュニヤがアメリカに無事着いたことを報告する
手紙である。ミュルレル夫人は,全ての文化を画一化してしまうアメリカへの絶望を語り
つつも,ロシア人と似たカウボ イの気儘な開拓精神,将来への確信に,生きるよすがを
見つけている。
その中でイリヤ ・ジュニヤは,「自分の中に大きな自然を包容しているようで,アメ
リカだろうがロシアだろうが,雲にのって天を翔けることができるだろう」との希望が,述べられる。
父なしに育つイリヤ ・ジュニヤ。だがロシア人は,あたかも父親なしに育つよう運命
づけられているよう,治める者のない優しい大地の懐に抱かれて生きるのがロシア人の運命なのだと,ミュルレル夫人は言う。
「イリュ シャ。いつか必ずここに来て,父の名乗りを挙げて下さい。あなたの父ヴォ
ルホフが,昔あなたにしたように」・・・
全ては,また最初から始まる。その意味で,これはプロロ グなのである。
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コメント
こんばんは。先日は乾坤宝照図ありがとうございます。ところで、お財布は札入ればかりの紹介ですが小銭入れのほうはあまり気にしなくても良いのでしょうか?私は別々に使用していますので開運の小銭入れってありますでしょうか?よろしくお願いいたします。