Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

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2006年11月25日

小説「遥かなる大地」Ⅱ ソ連末期

「遥かなる大地」Ⅱ 

一四・
  一九九〇年五月の夏のように暑いある日,アリル エフはオ プンカ で街に繰り出
す。モスフィルム撮影所から借りだした,派手なヒレつき,五〇年代ものビュイックのオ
プンカ 。モスクワのくすんだ街に,資本主義の象徴が光り輝く。
 さあ,今日はドンチャン騒ぎ。色とりどりの好き者の服装で七人も乗りこんだ友人,女優の卵たち。手にしたラッパや太鼓を鳴らし,大げさなキスを誰彼の見境なしにくり返し,下卑た歌を大声でわめきつつ,ベレシコフスカヤ川岸通りをクラクション鳴らして突っ走る。

おお,ビュイックよ。海豚のごときビュイックよ! 誰が,お前を発明したのか?
これを産むことのできる民は意気高く,物事をいい加減にはすまさない。その国は広く平らな草原に広がり,道標ははるかに霞む地平へと続く。今日お前を動かす者は,アメリカ風のエナメル靴などはいておらず,ほこりだらけの座席に敷くのは哀れなソ連の新聞紙。だが彼がひとたび立ち上がり,警笛を鳴らして歌いだすや,車は疾風のごとくに走り出し,車輪はめくるめく銀板と化す。道行く者がただ呆気に取られて立ちすくむのを尻目に,ビュイックはただ前へ,前へと轟然と走りぬけていく。
 アリル エフよ,お前もこの意気盛んなビュイックのように,何者も追いつけぬビュイ
ックのように,この人生を突っ走っていくのであるまいか? 雲のごとくに埃を巻きあげ,橋桁を揺り動かし,全てのものをただ後ろへと置き去っていく。見る者は神の奇跡に声もなく,立ち止まるのみ。これは神の下された稲妻か? この人を驚かすものの意味は何なのか?まだ見たこともないこの車には,いかなる神秘の力が隠されているのか?
 ああ,ビュイック,ビュイック,何たるビュイック。汝のヒレにひそむは竜巻か? 頭上に馴染みの調べを耳にするや,汝は鉄の胸を引き絞り,車輪は空に浮かぶがごとく,神の啓示を全身に満たし,ただ一つの線と化して突っ走る。
 アリル エフよ。お前は,どこへ飛んでいくのか? 答えよ! だが,答えはない。警
笛は,その美しき調べで大気を満たし,乱された空気は雷のごとくに轟き,風と化す。地上のものはすべて後ろへ飛び去り,他の車は横目でこれを見ながら,後ずさり,お前に道
を譲るばかり

 VIP専用の車線を走るこの一行を,警官はなぜか見て見ぬふりでやり過ごす。あれは気違い,いや映画の撮影,いやお偉方のいかれた子供たちのどんちゃん騒ぎ,触らずにおくのが一番だ。警官は脇を走る汚いジグリに,黒と白の縞模様の警棒をあげると,笛を吹いて停車を命ずる。何も違反はしていないけど,たたきゃ埃は何か出てくるもんさ。こっちをやっときゃ,あの変な車を見過ごした言いわけが立つってもの。
 アリル エフはウォッカをラッパ飲みすると,スヴェ タのくびれた腰を乱暴に引き寄
せ,運転手にわめく。
 「おい,セリョ ジャ,どうした,もっと賑やかに,派手にやるんだ。ぶっ飛ばすんだ
!」
 派手なヒレの五十年代ものビュイックは,低オクタンのガソリンにバック・ファイヤ
の大きな音を立てると,カリ ニン通りからマネ ジ通りへと,クリムリンの城壁の下,
クラクションを鳴らしながら繰りこんだ。ひょっとしたら,この俺をエンマが見てるかも
しれない。アリル エフは,ふと湧いたこの思いに自ら畜生と心のなかで叫ぶと,げたげ
た笑うスヴェ タの真っ赤な口に吸いついた。
 劇場広場の赤信号で止まったアリル エフがふと脇を見ると,暑いのに黒のラバ ・ス
ツに身を固め,赤い外国製オ トバイにまたがる若い女が目に留まる。ヘルメットから
背中にこぼれ出る,きらめく金髪。周りのものは気にもとめず,前方をきっと見つめるそ
の賢い眼差し。アリル エフの心臓はとび上がり,そのまま高く鳴りだした。
 エ,エンマ! 
信号が青に変わる。赤いBMWのオ トバイは,右へ曲がるとルビヤンカへの坂をたちま
ちかけ上り,スタ ラヤ広場の方へと大きく傾いて曲がると,アリル エフの視界から消
え去った。大きなヒレの五十年代ものビュイックが,バック・ファイヤ の音と煙を残し
てルビヤンカにたどり着いた時,オ ロラの姿は既に見えなかった。

 アリル エフがのしあがって来た過程は,誰にでもまねのできるものではなかったが,
この時代には珍しいものではなかった。彼は個人タクシ の免許も手に入れると,それで
稼いだばかりでなく,乗客に取り入って商談をまとめてしまうのだった。
 ある冬の日,霧でドモジェ ドボ空港に下りれなかった非鉄金属省の高官がシェレメ
チェボ空港からアリル エフのタクシ に偶然乗った時から,彼の幸運は始まった。不良
品処分との名目の下,ニッケルの不正輸出をもくろむその役人は,アリル エフの協同組
合をこのために使うことを思いついたのである。
 「同志運転手君,上がりの半分は君のものだ。君も,金持ちになれるってわけだぜ」
彼は,車が競馬場を過ぎるあたりで上機嫌でアリル エフに言ったものである。
 アリル エフはこの金を資金に,外国帰りのロシア人が持ち帰るパソコンの買い占めに
乗り出した。当時新しい会社の設立が相次ぎ,パソコンは右から左に売れて,アリル エ
フが気がついた時にはもう一流の商事会社の社長になっていた。
 彼は,数々の国営企業に協同組合を設立し,為替の現金化を請け負っては,莫大な手数料を稼ぎだす。銀行や電話局からひそかに情報を入手したマフィアどもが,蜜に群がるア
リのようにアリル エフに寄ってきたが,彼はそのうち一社を選びだすと,共同で十月地
区の流通網支配に乗り出した。
今のうちに儲けるんだ。だましてでも,殺してでも,今稼いでおかなきゃ,またい
つ方針が変わるかわかったもんじゃない。「世界支配を企てるシオニスト」なんて馬鹿な
こと,またいつ誰が言いださないとも限らんからな
 彼の商売のやり方は豪快だった。ある日彼は,社員の福祉のために牛肉を配ることを思いつき,市場にぶら下がる子牛一頭を買ってくると,事務所の浴室で自らばらした。と,
そこに,ニッケルの輸入交渉でイギリス人のバイヤ がやってくる。アリル エフは,肘
まで血に塗れた姿で現れると言ったものだ。
 「今までここにいたバイヤ をばらしたところで。値段が折りあわなかったもんですか
ら」
 新興実業家の代表株にのしあがった彼は数々のインタビュ をこなし,テレビの対談番
組に自らを売りこんだ。必要もないのに,社のテレビ・コマ シャルを作らせると,自ら
出演して視聴者の顰蹙をかう。五十年代のおおげさなビュイック・オ プン・カ をモス
・フィルムの倉庫から借りだすと,美女をはべらせてモスクワの街をドライブしてみせたのである。彼の野望はいつかテレビ局を買収することで,国営テレビ局が財政難に陥ってくるのを舌なめずりをするようにして待っていた。
 アリル エフがゴルバチョフを批判する政治家に献金を始めると,当局は彼の背後関係
や外国との関係を洗い出し,マスコミを通じて叩くようになった。巷間では彼がユダヤ人であることが強調され,世界を支配するシオニズムの野望を体現した者としての噂が広められる。
反ユダヤ,反シオニズム・・・存在もしない脅威に,牛のように突っかかってくる
愚鈍な野郎ども。自分より優れた者,自分より豊かな者,自分が理解できない者が,憎く
て仕方がないんだ。だが,俺は勝った。アリル エフよ,お前は勝ったのだ。馬鹿者ども
に。あの,学校でピオネ ルの委員長に選ばれて得意になっていた奴らに。勝つ,勝つの
だ。どこに行くのか知らないが,何が欲しくてあくせくしているのか知らないが,どうせ俺は蛆虫のようなもの。腐ったリンゴにせっせと穴を開けて,どうせそのうちリンゴごと
木から落ちるだけ。ままよ,乗りかけた船,せいぜい楽しむんだ,アリル エフよ
 アリル エフはある時,フリ ・メイソンに目をつけた。その話題性が,彼の気に入っ
た。彼は早速,知り合いの新興企業家や取引先の連中をフリ ・メイソンの儀式に誘い始
める。日曜日になると,高級住宅地バルビ ハで手にいれた元宇宙飛行士の豪邸に仲間を
集め,秘密の儀式を見よう見まねでしてみせたのである。夜半になると,近所をはしごし
てまわるお偉方たちが三々五々集まって,フリ ・メイソンの儀式は酒と女の狂宴に変わ
る。
 アリル エフはあげくのはてに,フリ ・メイソンの「輝かしい歴史」についての特別
番組までテレビに放映させたが,国民への悪影響を恐れた当局は,「ヒットラ はフリ
・メイソン」,「フリ ・メイソンは世界征服の野望を抱く」などの怪文書を市民の郵便
箱に投げ込み,フリ ・メイソンの信用を失墜させる動きに出た。
リョ ヴァったら,この頃狂っているみたい
オ リガは,最近やみつきになったマ ルボロを神経質にふかしながら思う。
いったい,何のためにあれだけのことを。自分のため? そう,それは確か。でも
それだけじゃないみたい。何か,子供のように自分を認めてもらいたがる。そのくせ私な
んか,もうどうでもいいんだわ。誰か,女でも? あのスヴェ タなんかじゃなくて。
 自ら目立っては,目をつけられ,憎まれるばかり。私は,人の役に立つようなものを作って,皆の役に立ちたいんだけど,あの人は物を右から左に売って儲けることばかり。資材を回してくれないとか,インフレだとか,当局のことを批判するけど,ただ金が欲しいだけじゃない。やはり,ユダヤ人だから? そうじゃない,あの人の性格と生い立ちなん
だわ。金で自分を証明するしかない・・・

 「リョ ヴァ,あんた少し外国に行って来なさい」 オ リガはある日,意を決してア
リル エフに言った。
 「はあ? 外国? 何を突然? 一緒に旅行でもしたいのか」
アリル エフは机から立ち上がると,オ リガの筋肉質の腰に手を回して言った。彼女は
身をひねってそれを避ける。
 「やめて,リョ ヴァ。あんた最近つけられてるのがわからないの? 消されるわよ」
アリル エフは動きを止め,はっとなる。
 「俺にどうしろと言うんだ? おまえ,俺の会社を乗っ取ろうというのか?」
 「リョ ヴァ,あんたはスイスにでも行って,しばらく身を隠しなさい。殺されたとい
ううわさでも流して。そして皆があんたのことなんか忘れた頃に戻ってきて,政党でも作りなさい。政治家を買おうとするより,自分で政治家になるのよ。献金なんかして。危ないったらありゃしない。あんたに秘密を握られた政治家たちは,いつあんたを消すかわからない。それでなくとも,あんたは見栄っ張りでおしゃべりだって評判なんだから。いっそ,自分で政党を作るのよ。憲法も改正されたじゃないの。もう自分で政党を作っていいのよ」
 「政党? 俺が? フリ ・メイソンはどうするんだ?」
 「やめるのよ。あんなアナクロ。あれがどんなにあんたと会社の名前を損なっているか,まだわからないの?」
 「政党? あんな金のかかるものはない」 アリル エフは黙りこむ。オ リガなどそ
こにいないように。アリル エフはいつも一人で考えた。そして一週間もたつと,オ リ
ガには内緒のつもりでスヴェ タを密かに連れ,西の方へと飛びたっていった。

十五・

 時代は,騒然としてきていた。今まで新聞の上にとどまっていた改革の動きは,国民の生活に直接の影響を及ぼすようになった。一九九〇年五月,人々はパンやミルクの値上げを政府から予告され,商店にわれがちに押しかけて,その棚を完全に空にした。モスクワ
市は市民のみにカ ドを発行し,地方からの買い出し客を店からしめ出したが,周辺地域
は憤激し,肉と牛乳のモスクワへの発送停止で脅かした。
 経済学者たちは,この数年間の無秩序な賃上げ,協同組合設立自由化による企業間決済口座からの現金流出,そしてゴルバチョフが就任以来とってきた数々の人気取り政策によ
る財政支出膨張などを指摘しては,耳慣れないハイパ ・インフレの言葉をささやき合う
ようになった。勲章の代わりに食料配給券を胸に着けたゴルバチョフの写真が街にでまわり,人々は腹いせに面白がって買い求めた。
 バルト諸国の情勢は地元のKGBが悪あがきする中でますます悪化し,三月にはリトアニアが独立を宣言して,共産党を政権の座から追い落としていた。ゴルバチョフは悪化する情勢の中にあっても,保守派を追いつめるためさらに民主化を進めていったが,それは唯一の統治の手段,共産党をますます弱体化させ,新たな野党勢力の台頭を招いて,全体として情勢をますます不安定化させるだけだった。
 その年二月の中央委総会は,党の「指導的役割」の原則を遂に放棄するとともに,多党化を容認していた。この過程で行われた,党の保守分子に対する攻撃は,党の権威を完全に失墜させる。高まる経済困難に対する恨みはすべて党に向けられ,支持率は二十%以下にまで下がった。
 ボルゴグラ ド,チュメニ,チェルニゴフでは,市民が党本部に押し寄せ,幹部の辞任
を強要した。三月の地方議会選挙では,モスクワの地区党指導者の多くが落選し,そのため党職も自動的に失ったため,党によるモスクワ支配は終わりを告げた。モスクワ市議会
では野党,「民主ロシア」が多数を占めて,改革派の経済学者ポポ フが議長となり,日
和見主義者たちはわれがちに彼の下へと集まった。
 市の流通メカニズムは,党という行司役を失ったことにより崩壊を始め,その隙間にマフィア組織が入りこんで根を下ろす。六月にロシア最高会議幹部会議長に選ばれたエリツィンは,他の共和国の独立志向をあおることによって,ゴルバチョフの権力基盤を崩す策
に出た。その年五月,赤の広場のメ デ では,市が民主派,共産党系双方のデモを認め
,二つともがゴルバチョフを批判するプラカ ドを掲げて行進する。
 「ゴルバチョフよ,人民をあざむくな!」
 「社会主義の資本主義への世直し,打倒!」
 ゴルバチョフは困惑し,悲しげな表情を浮かべたが,やがて全政府指導者とともに途中で退場していった。
 だが,そんな混乱の中,プ シキン広場では,マクドナルドが場違いな賑わいを続けて
いた。ヤ コヴレフの後押しで許可を得るまで十二年かけ,その年一月末に開店した,赤
と黄色のシンボル・マ クの赤レンガの店には,一度でも本場のアメリカ文明を味わいた
いと思う学生や,ハンバ ガ の肉目当ての買い出し客が,毎日列をなしていた。
 改革派と保守派,ゴルバチョフとエリツィン,連邦と共和国の権力闘争がからみあって進行し,人々は内戦の危機をささやき合う。断固とした指導力が必要とされていたし,最高会議は大統領の権限を何度も強化したが,そんなことにはおかまいなく,ソ連は数々の野心と利害の相剋のなか,なすすべもなく引き裂かれつつあった。

 「イリヤ ,新聞を作れ,党は新しい新聞を歓迎するぞ。もうすぐ,マスコミ統制も廃
止されるし」
 五月の下旬にサフロンチュクが電話してきた時,この半年間急転する情勢と,ユ リヤ
の妊娠,ロマンの失踪騒動に憔悴していたイリヤ は,頭をなぐられて急にわれに返った
ような気がした。これが出口だ! もう誰の指図も受けずに,この国にとって本当に必要なことを国民に訴え,国民を導いていくことのできる新聞。そんなことができるようにな
ったんだ。金? オ リガが何とかしてくれるだろうさ。重要なことじゃない。何を書く
かが重要なんだ。
 こうした思いがイリヤ の頭の中でもやもやとしながらも,だんだん大きくなり,つい
には四六時中彼の頭の中を占めるようになったころ,スペイン旅行の日が迫ってきた。ゴルバチョフ大統領のスペイン訪問の話を進めるスペイン政府は,訪問に先だちソ連の有数の記者を招待し,記事を書いてもらって訪問の雰囲気を盛りあげようとしたのである。
 イリヤ は国際問題とは関係なかったが,常日頃彼から内政情報を聞きだしているスペ
イン大使館の参事官の推薦で,名指しの招待を受ける。いつも外国出張の機会をうかがっている外報部の連中は,悔しがった。世論の関心が内政に傾斜するにつれ,紙面の割当で
も外報部は内政部に圧倒されつつあったが,イリヤ への招待は外報部の敗北の象徴的で
きごととして受けとられた。
 共産党中央委の出国委員会の審査も廃止され,サフロンチュクの後押しでイリヤ が自
分の旅券を社に預けてもおらず,しかもそれには数次出国ビザが押されてある状況では,外報部も何もできなかったのである。

 それは,イリヤ の西側への最初の出張だった。しかも,今度は何の危険もない。家族
はすっかり興奮し,出発前日にはまたイェゴ ル伯父の家で会食し,買い物リストをイリ
ヤ に押しつけた。ユ リヤは,家出したロマンとグレ プ神父の教会でささやかな結婚
式を上げていたし,その後失踪したロマンから今でも時々手紙や電話があったので,ふだ
んは落ちついて毎日を過ごしていた。その様子は,四十年前イリヤ を身ごもったフロ
シャの楽天的な態度にそっくりだった。
あの人は戻ってくる。今姿を消したのは,私のため,生まれてくる赤ん坊のため
彼女は,イリヤ の出張に喜びながらも「CIAの陰謀」で彼が帰って来れなくなること
を本気で心配しだした母リュ バを,何度もからかった。
 次の日イリヤ は,リュ バのキスと十字を胸に切っての祈りを受けると,涙を浮かべ
るリュ バを後に税関の中へと歩いていった。
 チェコ行きのアエロフロ トとは全く違い,西側の飛行機には文明があった。それはた
だ飛べばいいものではなく,心地よい旅を乗客に提供するものだった。どういうわけか日本人がたくさん乗っていたが,モスクワでは不器用な物腰と下手な英語で失笑を買う日本
人を見慣れていたイリヤ は,西側の飛行機をわが物顔で歩き回る日本人を見て驚くと同
時に,秘かな劣等感を味わった。
 イリヤ は,隣の日本人をまね,ヘッド・フォ ンで音楽を聞いてみたり,プラスチッ
ク製の小物入れから中のものを取り出してみたり,多すぎる飲み物の選択に眩惑されなが
ら唯一知っているコカ・コ ラを英語で注文したり,美しいパンフレットを開いて見たり
するうち,体の芯から疲れを感じてきた。
 このところ,疲れることが多かった。こうして人間は歳をとっていくんだな。新しい新
聞のこと,ユ リヤのこと,仕事のこと,そうした全てが,この安楽さの中では嘘みたい
。俺たちがソ連という国で悩んでいること,悩んできたこと,それはすべて徒労なのではないか,この七十年間ソ連は無駄なことをやってきたのではないか,西側はもう自分たちがとうてい追いつけない程,とてつもなく先に行ってしまったのではないか。
 彼は目をつむった。ロシアの大草原,はるかにうねる大河のきらめきが浮かんだが,そ
れは心なしか色が褪せ,いつものように彼の心に歌を響かせることはなかった。イリヤ
は粗末なアタッシェ・ケ スを開けると,リュ バが分厚いポリエチレンに大事に包んで
くれた黒パンを出してかじりながら,スペイン大使館がくれたロシア語のスペイン案内を熱心に読み始めた。俺もとうとう,闘牛とカルメンの国に行くのか。
 食事の時間になった。その豪華さもイリヤ を圧倒し,アタッシェ・ケ スから出した
ゆで卵とキュウリをこそこそ戻す。これではまるで,一流レストラン,あたためた肉まで
持ってくる。隣の日本人が,イリヤ には非常に流暢に思われる英語で話しかけてきた。
 彼はモスクワから乗ってきたイリヤ がロシア人であることを控え目に確かめると,聞
く。
 「スペインは初めてですか?」 
 「イエス。初めて」 
 「スペインのどちらに?」 
 「マドリッド。ええ  グラナダ,ええ セヴィリア」 
 「お仕事で?」 
 「え ,ノ ・ビジネス。ジャ ナリスト」 
 「ああジャ ナリストの方ですか。プラウダ?」 
 「ノ 。モスコフスキエ・イズベスチヤ」 
 「え?・・・ペレストロイカはどうです? 民主主義はいかがですか? ゴルバチョフさんのこと,お好きですか?」
 「内戦。シ・ヴィ・ル・ウォ 」 
 「え?!」 
 「内戦が起こるでしょう」
日本人は妙な顔をし,そのあとは二人とも黙々として食事を平らげた。
 飛行機はまずポ ランドを,そしてもうすぐ消えてなくなる東独の上を飛んでいく。快
晴で,飛行機の下の畑は西に行けば行くほどなぜか整然とし緑が増えてくるのがわかった
。西独,そしてフランスに入るや,その整った豊かな光景にイリヤ は馬鹿々々しいとい
う思いに囚われた。俺たちが七十年も苦労している間,ヨ ロッパはいつもこうしてあっ
たのか。飛行機でたった三時間しか離れていないところに,まるで別世界,いったいどこに,ロシアとの境があるんだろう。
 飛行機の横に,白くそびえる積乱雲が現れた。『英雄さん,怖がるんじゃない。じっと
見つめて雲に乗り,この広い世界を翔けめぐるのさ』 アガ フィア婆さんの声がよ
みがえる。イリヤ は苦笑した。モスクワじゃ,雲に乗って翔けてるような気分に時々な
ったものだけど,この広い世界をかけめぐるのは大変なこと,言葉もろくにできないんじゃ。
 積乱雲の一角に閃光が走る。時刻は,ゆっくり夕方に近づいていた。
 「ピレネ-山脈!」 食事のあと目隠しをして一眠りしていた隣の日本人が,翼の下に夕日を受けてバラ色に輝く雪の山脈に目配せしながら言った。
 「スペインです」
イリヤ は頭の中で,覚えたばかりのスペイン語を必死にくり返す。グラシアス,パル・
ファヴォ レ,ア ブラ・ウステ・アングレ,ノン・アンタンド,うん,これだけ言えれ
ば,何とかなる。

 不安だった初めての西側の空港も,隣の日本人についていって何とかこなしたイリヤ
は,税関を出ると全くの孤独に陥った。ここでは,全てのものがイリヤ をよそにおいて
忙しく機能していた。
 「セニョ ル・マコ シン? ガスパジン・マコ シン?」 背が低く浅黒い顔をした
出迎えのガイドの声が,あたりを見まわすイリヤ の胸のあたりから突如として聞こえ,
イリヤ は安堵する。
 初めて見る西側に,イリヤ は呆然となった。デパ ト,商店,そしてモスクワにはな
い地下街の店にあふれる洋服,装飾品,日用品,電気製品,そのどれもが何種類もあり,どれを選んでいいのかわからないほどだった。どこでも店員が時には声を張りあげてまで,売りこむのに懸命だった。これじゃ,街全体が自由市場,普通の店はどこにあるんだ。
 イリヤ の驚きは,ソ連体制への怒り,そしてスペイン人に対する強烈な妬みに変わる
。七十年間努力したあげく,人を馬鹿にした半製品のような商品しか生み出せなかった体制,客よりも店員がいばっている体制,そしてこうした全てを西側に優ったものとして国民に教えこんできた体制。嘲笑だ,国民に対する冷笑,ペテン。なに,俺たちだって,少
し努力すりゃ,こんなものすぐに作れる,それに輸入すりゃもっと簡単,帰ったらオ リ
ガに言ってやるんだ。

 「スペインは,闘牛とカルメンの国から,ヨ ロッパ共同体の大国としての道を邁進し
ています」
 スペイン外務省の役人は,イリヤ に国の説明を始めた。その物腰は貴族的に洗練され
,表面的には愛想が良かったが,目は職業的な冷たさを時々のぞかせた。それは,イリヤ
の背広とネクタイ姿がぎごちなく見えたためかもしれなかったし,ゴルバチョフがスペ
イン訪問をこれまで後回しにし,ほとんどレ ム・ダックとなった今になってやっと来る
ことへのシニカルな失望感のせいかもしれなかった。あるいは彼は,同じ説明をこれまで何人もの客にくり返して,単に飽きていただけなのかもしれなかった。
 まず王室のこと,中でもスペインの民主化を後押ししてきた英明なカルロス国王のことから始まり,戦略兵器削減,化学兵器の全面禁止など,スペインとソ連の間ではどうしよ
うもない「お義理の」国際問題から,二国間関係まで,そのブリ フィングは秋には行わ
れるであろう首脳会談の予定テ マを忠実に追っていった。
 スペイン外務省の役人は,この訪問がゴンサレス首相にとってはゴルバチョフを利用した人気取り,ゴルバチョフにとっては対ソ支援の獲得,それ以上のものではないことをよく見抜き,そのどちらにも気の乗らない様子だった。ソ連邦の統一維持の必要性を彼は説
いたが,それもイリヤ には熱のこもったものに聞こえなかった。ソ連の崩壊はEU統合
への機運を殺ぎ,ドイツの強大化と欧州情勢の不安定化を招くというのが,スペイン政府の懸念であったかもしれないが,この役人は以前から好きではなかったソ連を,もういわば見放している様子がうかがえた。
 彼は,市民戦争でのソ連の援助に感謝するとともに,フランコ独裁政治から民主政治への移行を果たしたスペインの経験を,恩返しとして現在のソ連の役に立ててもらいたいこと,スペイン・ソ連関係は問題のない状況にあるが,躍進しているスペインからもう少し輸入を増やしてもらいたいこと,ジブラルタルはスペイン領であること,そしてNATOへの基地提供に関するスペイン政府の立場などを,延々と説明していく。
 イリヤ は,彼の話を聞きながら眠気を覚えてきた。どこの国でも役人は同じ,それに
このスペインの役人には,ヨ ロッパ人の冷たさがある,俺たちのことなど本当はどうで
もいいと思ってるんだ。
 役人氏は,ペレストロイカの見通しについて,お義理のように二,三,質問すると,イ
リヤ の説明もろくに聞かないうちに立ち上がって微笑を浮かべ,時間を取ってすみませ
ん,ではスペイン滞在をお楽しみ下さいと言って,手をさし出した。

 セヴィリアの暑熱,グラナダの木陰と噴水を味わったイリヤ は,週末にはマドリッド
に戻ってきた。週末は,ガイドのつかない自由時間であった。
 彼は,気のよいガイドとともにほぼ毎夜あけてきた,テキ ラの二日酔いがまだ十分さ
めなかったが,土曜の午前中から地図を片手にマヨ-ル通りのサン・ミグエル・ホテルを出た。汗にまみれたGパンのポケットには,家族から預かった買い物リストとドルが大事にしまわれていた。
 国を出る前イリヤ-は,今のソ連大使は将来有望な若手外交官だから是非会うようにと
外報部から言われてきたが,必要もないのに役人と関わるのが嫌いなイリヤ は,案内も
なしに歩きまわることにしたのである。マドリッドに詳しい大学時代の友人からは,安売りの店などを十分教えてもらってあった。
 イェゴ ル伯父の心臓病の薬,そしてヴェ ラ伯母の高血圧の薬はガイドに入手を頼ん
であったが,ユ リヤへのウォ ク・マン,そしてオ リガへの香水 こんなものは
今では彼女は自分でいくらでも買えたのだが などは今日買わなければならなかった

 イリヤ は地図と買い物リストを片手に,慣れない英語とスペイン語と身ぶりでやっと
のことで買い物を終えると,暑熱と排気ガスのマドリッドの街を歩いてホテルに戻り,冷え過ぎる冷房にくしゃみをくり返しながら,ひんやりとしたベッドに倒れこみ,しばらくまどろむ。これがシエスタってやつだな,スペイン人の気持ちがよくわかる。
 言葉もわからない遠い外国で,こうして一人で放り出されるのは,不思議な気分だった。自分が何なのかわからなくなる。それは自分がロシア人であるためではない。自分がスペインの新聞社で熱っぽく語った,独立の新聞をソ連に作るアイデアに,スペイン人が慇懃無礼とも言える無関心な態度を示したためでもない。それは単に,人間は人間関係の中
にあって初めて人間であるという事実によるものであることを,イリヤ は発見した。
 これまで自分が大事なものと考えてきた様々の思想,そして信条は,そうしたものが生まれた環境を離れてしまえば全く無価値なのだ。では,こうしたものをこそぎ落とした自分とは何なのか。いや,人間などは,実は本能しか持たない動物に過ぎないのではないか
。 イリヤ が目を覚ますと,三時になっていた。彼は,マドリッドでは必ずプラド美術
館のゴヤの絵を見てこいとの,サフロンチュクの知ったかぶりの忠告を思い出し,下のレストランで軽く昼食をすませると暑熱の外へ出た。
 マドリッドには大きな建物が多かった。かつて帝国であった国,そして独裁政治の過去を持つ国の首都はどこでも,威圧感のある,不必要なほど大きな建物によって彩られている。
 イリヤ は,絵にはあまり関心がなかったが,エル・グレコやヴェラスケスの部屋をそ
れなりの興味をもって歩いていった。大学であまり熱心に勉強しなかったヨ ロッパ史の
様々な断片が頭の中に蘇ってきたが,ほとんどの絵の題材はイリヤ には馴染みのないも
のばかりだった。
 だがゴヤの部屋に入った時,雰囲気は一変する。それは,宗教的想念に満たされたヴェラスケスやグレコとは全く異なり,現実の人間の世界へと,見る者を引き戻す。絶対主義時代のスペインを,狡猾に,しかし大胆不敵,自由奔放に生きた男ゴヤ。支配階級の人間もゴヤの絵では,悪意と皮肉のこもった目で普通の人間として描かれる。そこには,没落した王朝の無気力と凡庸さが露になっていた。さらに奥へと進むと,壁いっぱいのナポレオンとの戦争のスケッチが,全ての虚飾を生からはぎ取り,人間の本性に潜む残酷さを示
して,イリヤ を暗澹たる気持ちにさせる。
 戦場で撃たれ,驚愕して大きく開けた口から血を吐いている男,恐怖の色を顔いっぱい
に浮かべて銃殺されていく男,屠殺された牛のように木に裸で吊るされた死体,イリヤ
は祖国がこうなった時のことを思い浮かべた。どんな下らない男でも,可愛がってくれた母親がいる,その死をなげく家族がいる。
 最後の部屋,「黒い絵」。人間のどす黒い情欲が渦巻きとなって,イリヤ に襲いかか
る。自らの子供を何の感情も見せることなく,ただ血だらけの大口を開けむさぼり食う魔神。無知蒙昧さと下劣な欲望を剥き出しにした,大衆の姿。彼らをたぶらかす魔術師。疲
れはてた大衆を,絶望的な表情を浮かべて歌いつつ,巡礼へと導くギタ 弾き。荒れはて
た大地の上,人間の運命を定めるべく漂う,四人の醜悪な魔女の姿。これらは,ロシアの
現状そのものの比喩となって,イリヤ の頭の中で分裂,増殖をくり返し始める。まさか
,まさか
 一番奥の絵の前で,イリヤ は足を止める。「巨像」,副題「パニック」。絵の下のス
ペイン語はロシア語と同じなので,イリヤ-は意味を解した。巨像。地上は戦乱。混乱の中,馬車で避難する人々の群れ,群れ,群れ。地平の向こう,あの飛行機から見たような雷雲の中,裸の巨人がそびえる。感情も思想も持たず,その表情に浮かぶのはただ苛酷な
ばかりの意志と本能。これが時代の運命という奴だ。イリヤ は,そのまま服を脱ぎ捨て
て,荒々しい欲望のまま時代を生きていきたい衝動に駆られる。
 「あなたみたい」 
背後から若い女のロシア語が突然響く。ふり返ると,オ ロラがやや不安げなまなざしで
イリヤ の眼をのぞき,すかさず手をさし出した。彼女が髪に上げたサン・グラスを取り
上げ頭を一ふりすると,真紅のブラウスに長い金髪がぱっと散る。純白のショ-ト・パンツからは,白く艶めかしい脚が伸びていた。
 「あなたみたい。ロシアの魂そのものね。イリヤ ・イヴァ ノヴィッチ。私のこと覚
えてらっしゃる?」 
 「覚えてますよ,もちろん。ロ ラ。何度もお目にかかりました。また何でこんなとこ
ろに」
 イリヤ-は,彼女を人民代議員大会や最高会議の場などでよく見かけていた。オ ロラ
はそのたびにイリヤ に話しかけたそうにしたが,イリヤ は彼女を避けていた。フリ-
のジャ-ナリストである彼女は,センセ-ショナルな暴露記事をモスクワ・イズベスチヤ紙にも時々売りこみにきたが,それは「体を張って」取材した結果,しかも彼女の背後にはKGBがいるとも言われていたからである。
 彼女には,何か黒い謎のようなものがいつもつきまとっていた。ルサ ルカ,ルサ ル
カなんだ,こいつは。男を誘惑しては破滅させる,女の死霊。イリヤ は,アガ フィヤ
婆さんの言葉を思い出した。
 「ワシントンの帰り。首脳会談を取材してたの。ここでは,ゴルバチョフ訪問の下見ってわけ。あなたはどうして?」
 「スペイン政府の招待です。ゴルバチョフ訪問の準備でね」
 「あら,同じお仕事じゃない。でも,これいいお仕事ね。マドリッド,素晴らしい街じゃありません? 権力亡者だけのワシントンなんかより,よっぽど人間が生きている。ロ
シア人の性に合うの。イリヤ ・イヴァ ノヴィッチ。もう美術館は十分でしょう? ど
こかでお茶でも飲みません? スペインのことでもお話したいわ」
 逃げるわけにはいかない。それに,話だけなら。イリヤ-は,オ ロラの後ろ姿が頭の
中に呼び起こす妄想のおぞましさに苦笑しながら,出口に向かって歩き始めた。ベッドの
上に媚態を浮かべた裸のマハが,謎めいた微笑で二人を見送る。イリヤ は,自分の中で
何か運命の車がぐるっと一回転したような感触を感じながら,決然として歩くオ ロラの
後について行く。グラナダで聞いたフラメンコの暗い情熱の和音が,頭の中でかき鳴らされる。マドリッドの街頭は容赦ない西日に照りつけられてまだ喘いでいたが,街頭の賑わいはもう始まっていた。

 「マコ シンとゴヤ いい取り合わせだこと」 ゆらめくろうそくの光りを琥珀
色のワインにすかして見ながら,オ ロラがテ ブルの向こうから挑むような目で言った
。フラメンコ・レストラン「デ・チニ タス」。イリヤ は財布の中身を心配し,料理の
値段を必死でドルに換算していた。お茶だけのつもりが,夕食にまで。イリヤ ,お前,
おかしいぞ。いや,外国だからかまわない。でもこれじゃ,買い物ができなくなる。
 「二人とも,がんじがらめの社会なのに自由にしてる。権力を馬鹿にして。とてつもな
いエネルギ 。まるで,混乱した国の上,人民の上,全てを踏みしだいて歩いていくみた
い。まさに『巨像』だわ。ゴヤのこと良く御存知? アルバ公爵夫人のことは? ゴヤの愛人。公爵夫人のくせに,ゴヤのところに走ったの。この人も当時の自由人だった」
 オ ロラはこう言うと,グラスに映るろうそくの炎に再びじっと見入る。その目は,遠
い昔を見るようだった。優しさと憂いと,かすかな残酷さをたたえた栗色の目。ロシアの目。やや厚めの官能的な下唇が,赤いワインに濡れてきらきら光る。いたたまれなくなっ
てきたイリヤ が,沈黙を破る。
 「スペインは面白いですね。冷たいドイツ人やイギリス人より,よほど気が合いそうで
す。今まで知らなかった。ドン・キホ テとカルメンと闘牛だけ」
 「闘牛ご覧になりました? あのオ ・レ,オ ・レって,牛の死を求める観衆の残酷
さ」
 「でもその中でも特に残酷なのは,御婦人方のようですが」 イリヤ は,「ソ連マス
コミ界のルサ ルカ」という,オ ロラの評判に当てつけて言った。オ ロラは,何気な
く話題を変える。
 「スペインのどこが面白いと思われまして?」
 「この国は面白い。わがソ連とよく似ています。それも,外務省の役人が言った表面的なきれいごとじゃないところでね。ゴンサレス首相は,ついこの間までは独裁国だったこの国では初めての,社会党の首相です。このドロドロした,裏取引でものごとが決まるマドリッドに,合理主義者がやってきた。彼らを『デンマ-ク人』というそうですね。『デンマ-ク人』がその昔イギリスを征服したように,彼らがマドリッドを征服できたか,あるいはマドリッドが彼らを呑みつくしてしまったか」
 「ゴルバチョフに似てるってわけね」
 「そう。ところが社会党員も,新しい統治方法がわかってないそうだ。今までのスペイン社会の命令体質,集団的体質が彼らにもしみ込んでいるのです。三権分立の意味も彼らにはわからず,権力を独占することばかり考えているって,新聞社の人が言ってました。社会党も,純粋な者がいる一方では,地位と利権を求めるばかりの日和見分子も増えているようでね。国民は国民で,民主主義でも社会主義でも何でもいいという,お上の保護に依存する体質がなかなか取れません。それは企業でも同じことだそうですよ。そんな中で,僕の会ったインテリたちは困っていました。フランコの時代に比べて,はりあいがなくなった,何を言い,何を書いたらいいのかわからなくなった,と言ってましたよ。いや,スペインは面白い。でもわが国に比べれば,全然ましですがね」
 「あなた,ゴルバチョフでは駄目だとおっしゃるのね?」
 「いや,この国の人,いやヨ-ロッパにとってソ連は実はどうでもいいんですが,ゴルバチョフの話しには皆ずいぶん関心を示しますね。ペレストロイカの行方となると,少しは質問してきましたよ」
 「で,どう答えたの? ヨ ロッパ人のナイ ブなバラ色の見方を無残に砕くようなこ
としなかったでしょうね。イリュ-シャ」
 「適当に答えておけばいいんです。どうせ,わが国の複雑な状況は説明してもわかって
もらえないんですから」 イリヤ は,アエリ タが急に敬語なしで話し始めたことにぎ
くりとしながら言った。突然,ギタ が激しくかき鳴らされる。フラメンコが始まった。
 東洋的な顔をした,しわだらけの小柄な老人が出てくると,手拍子を打ち始める。それは彼の外見に似合わず的確,かつ複雑なリズムだった。彼の両脇にならぶ若者たちが手拍子に加わると,合奏は次第に激しさを増し,不規則なリズムが全員揃って一つの乱れもなく打たれていく。それは聴衆の体をしびれさせ,性的な快感をさえ呼び起こす。再びギタ
が激しくかき鳴らされ,エキゾチックで切ないアラブ的なメロディ が,しゃがれ声の
歌手の喉からしぼり出された。
 舞台の端に衣ずれの音が聞こえると,大柄なしかし優雅な女性が踊り出る。彼女は,上品なしかし大胆な腕と体の動きで切ない気持ちを吐露し,恋の苦しさに顔をゆがめて歌い手の回りをめぐる。イリヤ-がグラナダで見た素人の踊り手とは違い,その腰と足はぴたりと決まってびくともしなかった。高度の芸術である。
 音楽は激しさを増し,女性はタップを踏み始める。タタタ,タタタタッタ,タッタッタ
,タタタタタッタ。ジプシ たちの手拍子はどんどん速くなり,踊り手は髪を振り乱して
足を踏みならす。そのまま頂点に達すると,踊り手は頭を反らせて両手を振り上げ,最後の和音とともに足を舞台に打ちつけた。彼女は,そのままの姿勢でしばらく荒い息をつく
。テ ブルの客たちは,圧倒された思いで手をたたいた。ジプシ の手拍子に比べ,それ
は何ともだらしなく力のないものに響いた。

 オ ロラは,絶頂の中で頭を反らせると大きな声を上げ,しばらく荒い息をついていた
。冷房はあったが,二人とも汗だらけになり,情事の間中卑猥な音が絶えなかった。
 イリヤ はオ ロラをベッドに押し倒すと,真紅のブラウスをもぎ取り,純白のショ
ト・パンツを押し下げて,黒のレ スのパンティをはぎ取った。オ ロラは,裸になると
白い肢体をベッドの上に惜しげもなくさらけ出し,挑発的な目でイリヤ を見つめる。彼
は自分の服を脱ぐのももどかしく,彼女の上にのしかかると,その体をもみしだいた。オ
ロラの手が伸びてきて,イリヤ の下腹部をまさぐった。イリヤ は,フラメンコ・レ
ストランで彼女がテ ブルの下から手を彼の股に置いてきた時を思い出し,凶暴な本能が
ますます燃えた。
 二人はそのまま,口を熱く吸いながら,ベッドの上を転がりまわった。イリヤ は手を
伸ばした。彼女の肌はひんやりしていたが,その内部は熱く潤っていた。彼はオ ロラの
両足を荒々しく開くと,彼女の中に力の限り進入した。オ ロラは声を上げると,上にず
れ動く。イリヤ は構わずそれを追って彼女を激しく責めたてる。声にならない声がオ
ロラの喉から何度もふりしぼられ,その腰は自分の意志をもっているかのようにイリヤ-
に吸いついてくる。二人は汗にまみれて絶頂に達した。イリヤ の頭の中でフラメンコが
鳴る。タップの音が高まる,速くなる。オ ロラが法悦の叫びを高く長く上げた。

 オ ロラはしばらくそのまま横たわっていたが,やがてその表情が人間味を帯び,微笑
みを浮かべてイリヤ に言った。
 「イリュ-シャ,ありがとう。良かったわ。私,ずっと楽になったわ」
 イリヤ はベッドを下りると煙草に火をつけ,裸のまま窓際に行くと夜のマドリッドを
見下ろした。やれやれ,今夜はこの女と一緒に過ごすことになるのか。人間は,家族や友人に囲まれてやっと人間になる。外国で獣のような情欲に身を任せた悔いが苦く胸に迫った。ええい,俺は,いつもこうだ。いいことも,悪いことも,わからない。ままよ,なるようになるさ。

 次の日二人は,レティ-ロ公園で時を過ごした。一夜明けた後のオ ロラは穏やかで,
全ての虚飾を捨てて,小娘のようにはしゃいでいた。
 「イリュ シャ,見て。何てきれいな花なんでしょう。何ていうの? あら,あんたが
外国の花なぞ知ってるはずないわね。ロシアの英雄さん」 彼女は明るい笑い声を立てる
と,頭をそっとイリヤ の肩にもたせかけた。そして,胸の奥から深く息を吐き出すと言
った。
 「イリュ シャ。私もう長いことこんな気持ち味わったことないの。小さい頃,まだお
父さんが生きていた頃・・・」 彼女は言葉につまると,目に涙を浮かべて遠くを見る眼差しをした。
 「君のお父さんはどういう人だったの?」 
 「研究所で働いてたの。交通事故で殺され 死んじゃったわ」
 「お母さんは?」
 オ ロラはその質問を聞かなかったかのように,小走りに走りだすと,噴水の水が霧に
なって降り注ぐところで,両手を上げて大きく伸びをした。夏の陽光を霧がきらきら反射
し,オ ロラの長い金髪に細かい水玉となって輝いた。彼女は頭を振りながら,太陽を胸
いっぱいに吸いこむ。
 イリヤ の心の中では,変化が起こっていた。外国でいきずりの情事に身を任せただけ
のつもりでいたが,今日のオ ロラの少女のような無邪気さ,そしてきらめく才気と情熱
,隠れた優しさ,そして何よりもその若くみずみずしい肢体は,イリヤ の心を根底から
ゆり動かした。それは若いころ,行きずりの一夜の相手に対して感じたことのないものだ
った。やり直しだ,人生のやり直しだ,根底からやり直す,この女と一緒なら イリ
ヤ は,こうした思いを振り切ろうと,頭をぶるっと一振りした。

 シェレメチェヴォ空港の喧騒,薄暗い税関,行列,迎えにつめかける人,人,人,客に
呼びかけるタクシ の運転手,リュ バの涙でいっぱいの嬉しそうな顔,道ばたに捨てら
れて転がる土管,思い思いの大きさの古い木材。祖国は別世界のように全てが色褪せ,捨
てられたものに見えた。イリヤ は二,三日,その違和感に悩んだが,ロシア共和国最高
会議,第二十八回共産党大会と,次第に仕事に忙殺される。
 オ ロラは連絡先も教えないまま,姿を消した。イリヤ はソ連での日常に埋没し,彼
女のことを考えることも次第にまれになっていったが,夜になると時々スペインでの一夜
が頭の中に蘇り,やるせない思いがするのだった。リュ バはいつもの控えめな優しさと
聡明さでイリヤ を包んでいたが,その顔はだんだん寂しげに,厳しくなっていった。
 「イリュ-シャ。あなた私が好きなの? この頃おかしいわよ」 ある夜彼女は,突然
目を開くと思いを決したように,隣の枕のイリヤ の目をのぞきこんで言った。
 「スペインから帰って,ずっと。何があったの? お願い。本当のこと言って」
 「何言ってるんだ,お前。また,CIAの陰謀かい? 心配することなんて何もない」
 夫婦の仲はその日からおかしくなった。リュ バはイリヤ と口をきかなくなった。彼
女は毎日夜遅く家に帰るイリヤ をこれまでのように待つこともなく,向こうを向いて寝
ていることが多くなった。ユ-リヤは,大きな腹で青い顔をしながら両親を心配そうに見ていた。
 ある日オ ロラから電話があったことが,イリヤ の家庭に破局をもたらした。リュ
バが電話に出ると,しばらく沈黙した後,オ ロラは抑えた声で聞いた。
 「イリュ シャは,イリヤ ・イヴァ ノヴィッチは家にいますか?」
リュ バもしばらく沈黙していたが,意を決して「番号が違います」と言うと,受話器を
置いた。彼女は全てを理解した。頭の中が白くなり,様々な思いがこみあげて激しく泣い
た。その夜イリヤ が家に帰ってきた時,彼女もユ リヤももういなかった。置き手紙だ
けが,台所のテ ブルの上に白くさびしくのっていた。
 「イリュ シャ,さようなら。もうあんまりよ。愛していたのに」
 「パパ,悪いのはパパよ。ママはスフミの実家に行くわ。私はお祖父さんの家に御世話になります。こんなことになるなんて」
 イリヤ はめまいを覚えて,台所の椅子にどっと腰をおろす。部屋の中が歪んで見え,
恐ろしい孤独感が迫ってきた。フラメンコの手拍子とギタ の音,オ ロラの声,そして
帰ってきた時のシェレメチェヴォ空港の雑然とした騒音,涙で顔をくしゃくしゃにしてイ
リヤ を迎えるリュ バ,こうしたものが脈絡もなく押し寄せて,頭の中で高鳴った。
 「一人になってしまった」 彼は思った。

 次の日の夕,「地獄の狼」軍団は,金髪をヘルメットからなびかせ,イリヤ を戦利品
のように後ろに乗せたオ ロラを先頭に,モスクワ郊外の森に轟音とともになだれこむ。
森の奥深く,草地が開けたところにテントの一群があり,炊事の煙が上がっていた。Tシャツ,Gパン姿の若い男女が食事の支度に動き,そのまわりでは鶏が餌をついばんでいた
。そこは,平和主義者のヒッピ たちのコミュ ンだった。
 その夜イリヤ とオ ロラはテントの中で,スペイン以来の激しい,しかし優しい一夜
を過ごした。オ ロラのあげる悦びの声はヒッピ たちを刺激し,白夜の草地にはせっぱ
つまった女たちの上げる声が絶えなかった。それは,昔の共同体を思わせる聖なる一夜だった。

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