日露関係 - 何が理解を妨げているか
(2004年頃モスクワで)
旧ソ連における変化がきっかけとなって、世界は戦後初めての大変革期にあります。そこでは超大国を中心とした東西両陣営の枠が崩れ、世界は新しい枠組みを必要としています。東西の対立の構図が崩れた今、日露関係は世界の繁栄と安定を保証する一つの重要な環となっていかねばなりません。またそれは、特に北東アジア地域においては、日露双方にとり不可欠の環となっていくでしょう。しかしながら日露両国民間の相互理解は十分なものとは言えません。日露関係は、両国の対米、対中関係等に比べると、その交流を担う層の厚さは限られたものであり、両国民間の相互理解は未だ始まったばかりと言ってもいいでしょう。
ここでは、自分の計6年の滞ソ経験に基づいて、日露の相互理解を妨げてきたと思われる要因のうち、筆者が根本的と考えるもののいくつかを、全くの私見として挙げてみることにしたいと思います。この試みが、あらゆる先入見を排した「当たり前のパートナーシップ」を日露間に樹立することに資すれば、幸いです。
ヨーロッパかアジアか?
日本とロシアは、妙なところで共通したところがあるように感じます。それは、自分はアジアなのかヨーロッパなのか、という問い掛けを常に自分に行っているところではないでしょうか。日本は19世紀の植民地主義時代、アジアの中で殆ど唯一、列強による植民地化を逃れ、低開発国から脱却した国です。世界で生きていくためには、当時世界を動かしていた欧米諸国の仲間と認められ、これに伍していくように努力せねばなりませんでした。また文化面においては、1868年の開国以来、西欧の文学、音楽、美術等を大幅に取り入れ、日本の伝統文化は軽んじられたのです。しかしこうした中で、「日本はアジアなのかヨーロッパなのか?」という心の矛盾は常にありましたし、今でもあるのです。
他方ロシアにおいても、「自分はヨーロッパなのかアジアなのか?」という問い掛けが常に行われてきました。詩人エセ-ニンは「ロシア、俺のロシア、アジアの国だなあ、お前は!」と歌っています。また19世紀スラブ派と欧州派の間で行われた論争は、今また別の装いで現れてきているようです。
しかし、そもそも何がアジア的で何がヨーロッパ的なのか、ということは、厳密な定義を要します。例えばロシアが「アジア」まで地理的に到達したのは17世紀後半ですし、悪名高い「モンゴルのくびき」もロシア人のメンタリティまで根本的に変えたかどうかについては論争があることに鑑みれば、ロシア人が言う「アジア的」とはあまり明確なものでなく、むしろビザンチンから学んだ中近東的専制主義、農村社会の古い習俗、そうしたものを漠然と、そしてある程度エキゾチックな憧れと恐れをこめて名付けた概念なのかもしれません。
またひるがえってヨ-ロッパを見るならば、ヨーロッパの源泉であると言われるギリシア・ローマ時代においてさえ、帝政に入った時代のローマ皇帝の専制ぶり、法の無視ぶりはまさにいわゆる「アジア」的専制主義を思わせるものがありました。従っておそらく「ヨーロッパ的文明」とは、人種的・地理的に本来的にヨーロッパにあったものではなく、16世紀後半から急速に始まるヨーロッパの経済発展に応じて成立した市民社会を基盤にしたものなのではないでしょうか。西欧文明の基礎の一つであるルネッサンスはその先触れとなるものでしたし、宗教改革は神と人を教会を介さずに直接結びつけることにより、キリスト教を市民社会の個人主義に合致したものにしました。様々な記録によれば、17世紀前半からヨーロッパにおいて、それまでの農村社会から引きずってきた血縁主義、地縁主義、封建的な家族関係は少しづつ後退し、個人主義、合理主義に基づく人間関係が次第に出来上がっていったのです。そしてこれが社会全体に浸透したのは、産業革命による経済力の大幅な向上と、それによる国民全体の生活水準の上昇と均一化を経た、19世紀後半であったと言えるのではないでしょうか。
この観点から言いますと、読者の皆様は驚かれるかもしれませんが、日本とロシアの社会の発展段階には、基本的に似たところがあるとも言えるでしょう。ロシアは日本の1868年より早い18世紀初頭に「開国」を行いましたが、本格的に産業革命が始まったのは農奴が解放された19世紀後半からで、日本の産業革命と時期的には殆ど変わりません。ソ連は1930年代から大幅な重工業化を進め、比較的高い教育・生活水準を持った中産階級層の幅を大きく広げましたが、これも日本での過程とほぼ一致しています。つまり日露双方とも、第2次大戦頃から市民社会化への道を共に歩みつつあると言えるのではないでしょうか。
日本ではその歩みはevolutionaryです。青年層を中心に益々広まりつつある個人主義的・合理主義的傾向や、内政・外交上の諸問題に対する中庸を得た世論が示すように、「市民社会化」は定着しつつあります。他方ロシアにおいては、戦後潜在的に進行してきた「市民社会化」がペレストロイカにより一気にrevolutionaryな形で制度的な表現を与えられ、急激な変化のあおりは今でも続いています。
こうして日露は共に、市民社会への入口にあると言えるのでしょうが、両国の発展は「跛行」的なものがあります。即ち経済面においては、ロシアが高い基礎的生産力は達成しながら、その後中央集権経済に特有の競争の欠如、そして大きな軍備の負担に災いされて、高度消費社会の建設に成功していないのに比べ、日本は過度とも言える競争と低い軍事負担の中で、ある面では欧米をも抜く消費生活を達成したのです。他方文化面においてはロシアが、日本より約150年早く「開国」したため、西欧的文化、学問の歴史においては日本より長じ、また人間同士の付き合いにおけるマナ-もより西欧化されています。
社会的には基本的に似た発展水準にありながら、こうして跛行的な発展を遂げたため、日露双方が心の中で欧米に対するコンプレックスを断ち切れないでいることによって、「どちらが進んでいるか」という潜在心理上の競争が生じているのではないでしょうか。それはまた、両国民が人種的に異なることにより、一層増幅されるようです。日本人の中にはその物質生活での成功をもって、ロシア人を十分評価しない向きが見られますし、ロシア人は自分達を文化的に西欧と同一視して、マナ-や文化の異なる日本人に違和感を持つのです。ロシア人は欧米人と同じく自己主張が強く、国際政治上の駆け引きに長けたところがありますが、日本人はこれがロシア人の場合、殊更「欠点」として気に掛ける傾向があります。他方ロシア人は、日本人に「アジア的」なる漠然とした言葉に含まれる否定的要素の数々をそのままかぶせてステレオタイプ化し、現代日本が質的変容の入口にあることを黙過しがちです。こうした欧米に対するコンプレックスに根差す相互軽視という、非生産的なスパイラルは、いい加減断ち切るべきではないでしょうか。
「世界への貢献」VS「大国」 - 経済主義と政治主義
日本とロシアは、国力のよって立つ基盤がこれまで異なりました。誇張して言うならば、日本は経済至上主義の国、ロシアは政治至上主義の国です。日本は敗戦によって、経済立国を唯一の可能な道として選択しました。海に囲まれた小さな国土、そして日米安保条約の存在は日本に大きな自衛力を必要とさせず、資源の大部分は経済発展に向けることができました。その結果何ら資源のなかった日本は、責任意識が強く適応力に富んだ労働力、という本来の唯一の資源に加え、高い付加価値を生み出す先進工業設備という、現在の世界においてはおそらく最良の資源を手に入れるに至ったのです。
他方ソ連、ロシアは大きな国土、そして豊かな天然資源そのものを、そしてそれを守るための軍事力と政治力、こうしたものを国力の基盤としているようです。今日ロシアは、ソ連時代からの大国の地位を継承しており、他方日本も特に経済面では世界的に重要な地位を占めています。しかしながら両国は、このように国力の基盤が異なるため、「大国」というものに対する理解が、日本とロシアでは異なり、このことが特にソ連、ロシア側による日本への過小評価の一つの大きな原因になってきたのではないかと思われます。
日本においては、大国とは世界の平和と繁栄に貢献するべき存在と考えられ、現在では「経済大国の地位に見合った世界への貢献」が日本外交のモットーになっています。
これには、多くの背景があります。まず日本が海外に投影できる軍事力を持たないこと、持つつもりがないことが、基本的要因としてあります。このため、世界の平和維持と繁栄達成に対する日本の関与は、軍事力の裏付けをもった「介入」ではあり得ず、主として経済援助等経済力による間接的な、時間のかかるものであったのです。現在では日本の公的経済援助額は世界一であり、またアジア諸国に対するこれまでの大規模な経済援助、直接投資、技術の移転がこれら諸国の経済発展を大きく促進し、それによる生活水準の上昇は各国内の政治的安定性を増大させるとともに、アジア諸国間の経済関係を切っても切れない緊密なものにすることによって、これら諸国間に紛争が起こりにくいようにさせています。つまり日本は、軍事力の裏付けを伴わない外交を行っている、世界でも珍しい国であり、そのために大国の条件とは「世界への貢献」であるとの観念が出来上がってきたのです。
もちろんこれは、それ程単純な話ではなく、日本の「貢献」にはいくつかの他の要因も絡み合っています。しかしながら基本的には、「自分達は豊かになったのだから、世界のためにももっと何かをしなければならない」という意識は、日本国民の間に最近益々広がってきたものです。
他方日本国民は、これまでの日本の世界への貢献が主として経済面、即ちお金が主なものであったことを反省し、他の先進諸国の如く人的・政治的な貢献をも強化すべきだと考えています。当地ではあまり知られていないことですが、既に日本の海外協力隊員は現在■ 人もが、世界中の発展途上国の農村等で技術指導を行っています。またカンボディアで、日本のボランティア組織が以前タイに逃げた難民の帰還を促進している例も見られます。カンボディアでの国連PKOに日本の自衛隊が派遣されたことも、こうした「世界への貢献」のコンテクストで考えられています。実際,700人の規模に限定され、国連の指令に従い、しかも日本国会の決議により戦闘活動には参加を禁じられているカンボディアの日本の自衛隊が、「日本の意見を押しつける」ためのものではないことは明らかでしょう。
日本はもはや、軍事力を裏付けとした外交を行える体制にはありません。それはアジアの周辺国が許さないでしょうし、また平和に慣れた日本の世論が許さないでしょう。日本はカンボディア和平仲介等に見られるように、世界平和への政治的貢献も強化しつつありますが、上記の条件の下では、他国に自分の意見、主張を押しつける力がなく、また世論もあえてそれを求めてはいないのです。
これに比しロシアにおいては、「大国」に対する理解には、米国と対抗していた超大国ソ連時代のものが時として姿を現すように見えます。ここには、大国とは自分の意志を通せる力を持った国、自分の意志を他国に押しつけることができる国、との理解があるように見えます。しかしこのような大国主義は、無法状態と力の支配へつながりかねません。
「大国」に対するこうしたイメージの違いから、ロシアにとり日本は、経済力はあるも政治的には自分の意志も通せない小国と映りがちである一方で、日本にとりロシアは時に道理から外れた無理なことを言う国と映る傾向があるのです。日本の力は米国のように目立つものではありません。しかし上記に述べたように、アジア・太平洋地域の平和維持と繁栄達成には大きな役割を果たしてきましたし、これからは環境問題のようなグロバルな問題の解決においても大きな役割を果たしていくのです。
今日の世界においては、「大国」の地位は相対化しつつあり、東西対立に代わる新しい枠組みが求められている時代です。東西対立によって抑えられていたナショナリズムが噴出し、世界のいくつかの地域で紛争が起こっていますが、世界はいい加減,19世紀に成立したナショナリズムの意味をもう一度問いなおしてみるべきではないのでしょうか。ヨ-ロッパで国家が成立し、「朕が国家」であった絶対主義時代、ナショナリズムは国王とその取り巻きの貴族のものでした。ブルジョア革命による民主化を経て、ナショナリズムは国民全体のものとなりました。国力の増大が軍事力の増大ではなく、国民の生活水準と教育水準の向上に向けられるならば、経済がグロ-バル化し、貿易・金融取引において国境の意味が以前より薄れつつある現在、それは狭い国の枠に囚われたナショナリズムを次第に過去のものとし、21世紀にふさわしい世界の方向を示すようになるのではないでしょうか。
「被害者」は誰か?
日露はその発展の過程において、双方とも先進欧米諸国の方を向いていたため、相互の関係はそれに比べて薄いものがありました。そのためか、日露関係においては対立の事例のみが目立ちがちでした。そしてそうした事例をめぐっては、互いに被害者意識を持っている奇妙な現象があり、これもまた両者の相互理解を難しくしているようです。
第1の例は、日露戦争です。この戦争は基本的には、朝鮮半島、満州での日露両植民地主義勢力の争いから起こったものと言えます。即ち1900年北京で義和団事件が起こった時、列強は自国の居留民を中国人の襲撃から守るとの口実の下、中国に軍隊を派遣しました。義和団事件が鎮圧された後、1901年、列強は辛丑条約を結んで北京周辺を除く軍隊の撤兵方合意しましたが、ロシアのみは1902年の露清条約に反して満州のロシア軍を撤退させず、逆に増強して満州及び朝鮮進出の意欲を示しました。これは当時、朝鮮半島に進出していた新興植民地主義パワー、日本に脅威感を与え、日本はロシアと交渉を始めました。しかし当時のロシアは、新興日本を全く相手とせず、そのため日本は遂に1903年12月実質的な最後通牒を発し,1904年2月6日には外交関係断絶をロシア政府に通告しました。2月8日には旅順港への奇襲が行われ、日露戦争が開始されたのです。
日露戦争とという昔の出来事にあえて長く言及したのは、この点をめぐるいくつかの誤解が今でもロシアの旧世代に強く残り、これが日露相互理解の一つの妨げになっていると思われるからです。この戦争についてのロシア、ソ連による評価は転々としてきました。レーニンが当時日露戦争を、革命を促進したものとして高く評価していたことは、よく知られています。しかしその後、日露戦争については旅順港への「裏切り的な攻撃」のみが強調され、それに先立つ義和団事件以来の経緯、旅順港襲撃2日前に日本が外交関係断絶を通告したこと、当時宣戦布告は国際法上明文化されたものではなかったこと、等は、全く黙過されています。即ち日露戦争は、日本への警戒心をあおる道具とされ、今ではそうした必要性がなくなったにもかかわらず、古い教育の結果のみが残っているのです。
次に第2次大戦における日ソ関係について大きな誤解があり、これが領土問題の解決を困難にし、日露関係が史上初めて本格的に発展することの障害となっています。事の本質は、日本がソ連に対し被害者意識を持っているのに対し、ロシア国民の一部にも第2次大戦に関し、日本に対する被害者意識を持っている向きがいると思われることです。
まず「日ソは第2次大戦全期間を通じ戦った。日本はソ連に甚大な損害を与えた。そのためソ連は日本に報復を加えた。北方四島はその一環であり、ソ連兵士の血で購ったものだ」、との誤解があります。当時日ソ間には1941年に中立条約が結ばれ、日本降伏の6日前1945年8月9日にソ連が右中立条約に違反して日本に宣戦布告してくるまでは、両国は戦ったことはないのです。日本軍が襲撃を行ったノモンハン事件は、右条約締結前の1939年です。
「日本はソ連攻撃の機会を常に狙い、大軍を対ソ国境にはりつけていた。このためソ連側も大軍を配置せざるを得ず、それゆえ対独戦線に兵力を移転できなかった。このためドイツから大きな損害を受けたのは、日本のためでもある」との議論があります。しかし日本側においても同じような考え方をすることは可能です。また中立条約の下においても、日本がソ連の領空を侵犯した、ソ連の漁船を沈没させた、等の議論が行われる事があります。しかし同様なことは、当時のソ連側からも行われていたのであり、その都度外交チャンネルで平和裡に処理されていたのです。それどころか,1939年ソ連のインディギルカ号が北海道の猿払の沖で嵐のため遭難した時、村民が総出で救助に当たったような例もあるのです。
こうしたことに鑑み日本国民は、当時のソ連が中立条約を破って(ソ連は1945年4月、右条約の効力が切れる1946年以降、右を延長する意思はない旨を日本に通告してきています。しかし1945年8月当時は、同条約は依然有効だったのです)、しかも日本が依頼していた連合国との和平仲介には全く答えず、連合軍の欧州上陸の見返りとして、また対日戦勝利の獅子の分け前を得るために,8月6日広島に原爆が落とされたばかりの、当時敗戦が確定的であった日本に参戦し、一方的利益を収めたことに対し、不公正感と被害者意識を持つに至ったのです。
また当時のソ連は、戦後約60万人もの日本人をシベリアその他に連行し、厳しい条件の下で強制労働に服させました。このうち約7万人は飢えと寒さのために死に、故郷を再び見ることはなかったのです。言うまでもなく、終戦後捕虜を連行することは国際法上の根拠を欠いた行為です。そしてこの事実は、日本人のソ連に対するイメ-ジに長年にわたって強い影響を与えてきたのです。
北方領土についても、多くの事実がロシア国民の知るところとなっておらず、この問題の解決に困難をもたらしています。北方四島を最初に見つけたのはロシア人である,1855年の下田条約は日露戦争で無効になった、北方四島占領はヤルタ協定に基づくものである、サン・フランシスコ条約で日本は四島をソ連に放棄している、北方四島はソ連兵の血で贖ったものである等、ロシアの旧世代を中心とする誤解について、ここで立ち入ることはしませんが、こうした事実誤認が日露関係の進展を妨げているのは残念なことです。
日本国民としては、1855年以来法的にも一貫して日本領であった北方四島、それまでロシア・ソ連が一度も要求したことのなかった北方四島をソ連軍が戦後占領し、全住民約2万人を何らの補償もなしに強制追放し、その後領土問題の存在すら長きにわたって否定していたことから生ずる被害者意識には大きなものがあります。日本側の主張にもかかわらずソ連政府が長年この問題の存在すら否定してきたことは、日本国民の間におけるこうした不公正感を強めこそすれ弱めることはありませんでした。
従って新生ロシア政府が、法と正義の原則に則って本件を解決すべき旨を初めて明らかにした時、日本国民はそれに大きな希望を持ち、新しいロシア政府に親しみを感じました。しかしそれは他方、この問題の経緯をこれまで十分知らされてこなかったロシア国民の一部には、あたかも日本がロシアの現下の困難に乗じて領土割譲を求めてきたように映り、被害者意識を持たれる方もいるようです。またロシア人は、日本人は常に物質的利益のために行動すると思っているようで、本件に関しては日本はまず第一に道義問題、原則の問題と考えていることを認識できていないように見えます。
こうしてロシア側が日本国民の対ソ被害者意識を理解していないとするならば、日本国民もロシアとの歴史が自分にとり全く汚点がないとは言えないことを十分認識していません。例えば1918年-1922年に行われたシベリア出兵は、その大義名分はどうであろうと、不正なことであり、ソ連国民に多くの苦しみを与えたものです。更に1939年のノモンハン事件も、関東軍参謀の独走とは言え、日本人の信義をめぐりソ連国民に疑念を与えたものと思われます。こうした事実は、今日日本国民がよく教えられているとは言えません。このために日本人は、ロシア人がともすれば日本人に対し加害者意識どころか被害者意識に近いものないし警戒心を持っていることを、想像すらできないのです。 ここには、日露関係の歴史をめぐって、双方心を開いて、率直で忌憚のない意見交換を行っていく、大きな必要性と可能性があります。なぜなら、日露両国はもはや植民地主義時代にあるのではなく、両国間の協力が不可欠である冷戦後の時代に生きているのですから。
終わりに - ステレオタイプを離れて
国民と国民の間の理解は、人と人の間の理解と同じように難しいものです。人と人の間においても、一度イメージが出来上がるとそれが中々変わらないように、国と国の間においても一度イメージが出来上がるとそれがステレオタイプとなって、その国がどう変わろうが見方が変わらず、その国への対処を誤ったり、その国との関係から引き出し得るべき利益をあたら見逃したりします。
日本に関するステレオタイプは様々あります。やれ集団主義的だ、封建主義的だ、やれ女性軽視だ、やれ中央集権的、政府主導だ、日本企業のマネージメントは日本人の特異な民族性に依拠したもので、他の国にとって参考にならない、等々。
これらの概念の全てが間違っているというわけではありません。しかしその一方、日本の現実は急速に変わりつつあります。その中には、これまでロシア人の専門家が日本人の「民族性」として不変のものと考えてきたものすら、変化を免れていないことに注目する必要があります。それには初めに述べた如く、日本が経済発展に伴い市民社会化するにつれ生じてくる、個人主義化、合理主義化の傾向が根底にあります。かつて地縁、血縁、職場の関係等できまった候補者に投票していた日本国民は、今ではその40%もが浮動票となり、しかも政治意識を増して、現在の政治改革の大きなうねりの原因となっています。若手労働者は、仕事に没頭するよりも、自分の生活を楽しむことに、より大きな生き甲斐を見出しています。産業界は強力になり、政府の経済に対する主導権は金融を除いては過去の話となっています。
日本企業のマネージメントについては、カンバン方式のように米国で採用され成功しているものもあります。また戦後の日本の経済改革は、まさに現在のロシアの経済改革のために、多くの有用なヒントを含んでいます。先入見ゆえに日本的なるもの全てを、頭から異質なものとして受け入れないことは、多くの利益を失うことにつながりかねません。他方、日本人の対露理解もまだまだ十分なものではなく、ソ連時代に培われた「厳しい全体主義国家」というイメ-ジを払拭しきれていない面も未だに見られます。また特に経済的豊かな時代に育ってきた日本の若い世代の中には、日露の物質生活面での格差のみに注意を向けて、ロシア文化の豊かさ、精神生活面での豊かさを認識できない者も見受けられます。
こうしたことが互いに相手を過小評価することにつながった場合、両国の関係改善はあたかも、相手に対する「恩恵」であるかのような錯覚が生まれることになります。日露両国は、「どちらが偉いんだ」というような子供っぽい張り合いを捨てて、隣人として「当たり前のパートナーシップ」を築いていくべきではないでしょうか。そしてその際、ステレオタイプを排し、相手に対する正しい理解、スタティックでないダイナミックな対日理解をロシア国民に与えるのが、現代日本研究センターの大きな使命であると考えます。(了)
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