Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

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2005年10月 8日

第六話 「文化立国」? - 外交の手段としての文化

(「外交官の仕事」(草思社)より)

 苦しい時の神頼み、という言葉がある。文化にもその「神」に似たところがあって、どの民族も政治・経済が駄目になってくると、「文化」を前面に出す。つまり自分は自分だから偉いんだと開き直るのである。旧社会主義諸国やイスラム国の一部も、「伝統の護持」なるスローガンを持ち出して、国としてのプライドや支配層の既得権益を守ろうとする。

 日本の場合、その文化には確かに世界に誇れるものがあると思う。いくら元祖はやれ中国だ、やれ朝鮮だ、やれ南太平洋だと言って見ても、日本はそれらを保存し発展させているし、中国のように破壊もしていない。伝統文化は今でも社会に息づき愛好されているし、現代文化は例えばクラシックからポップまでその作曲、演奏のレベルは今や世界に出して何ら恥じるところはない。日本のアニメ、コンピューター・ゲームは世界に広まり、テレビ・ドラマ、J-Popはアジア諸国で人気がある。日本料理も僕がアメリカに留学していた三十五年前は得体の知れないアジアのエスニック料理と貶められていて、アメリカ人の友人には味噌汁など口にもしてもらえなかったものだが、今ではモスクワでさえ百軒になんなんとするスシ・バーがあり、日本料理を食べることは一種のステータス・シンボルにさえなっている。これなら、かのジョゼフ・ナイ教授の言う「ソフト・パワー」を、日本は豊富に持っていると言えるだろう。そして「日本」というブランドはただ美しいだけでなく、簡素、謙譲、正直、誠実といった数々の美徳を伴って語られる。

 しかし、ソフト・パワーだけでは国は生きていけない。毎日ラーメンを食べているからと言って、日本人全員が中国をひどく好きだろうか? ベートーベンの第九を歌えば、ドイツやオーストリア万歳! という気になるだろうか?

 アメリカなどで日本文化が「ジャパン・クール」としてもてはやされていると言うが、日本のマンガとかポップ音楽がアメリカの文化シーンを圧倒しているわけでもなし、日本人が急に好かれるようになったわけでもない。日本の工芸品の水準は世界でも群を抜くが、インドのヴェラナーシに行ってみれば、何世紀にもわたって蓄積されてきた織物のデザインの洗練度と豊富さに仰天する。

 日本文化も、世界に数ある文化の一つにすぎない。文化は外交を助けるが、国の力の決定的な要素にはならない。そして社会全体の魅力、活力、そして自由平等さが十分でないと「ソフト・パワー」も十分強いものにはならない。

 それでも、文化は国の重要な力だ。だから外交においても、文化は活用されている。外交官はそれを「国際文化交流」と呼んでいる。外務省では、外国との文化交流のための予算は二百億円弱だが、それでもODAや国連への拠出金などに次ぐ大きな予算項目だ。しかも、外務省と密接に関連して活動している二つしかない独立行政法人のうち一つは、文化交流面での国際交流基金なのだ。

 では、文化が外交とどんな関係を持っているのか、外交官が「国際文化交流」と事務的に呼んでいる仕事はどんなものなのかを見てみよう。

歌舞伎、能、相撲、コンサート、展覧会、そして花火・・・・・

 文化交流の華は、歌舞伎や能、現代演劇、相撲、オーケストラ、ロック・グループなどの海外公演とか花火、そしてベニス・ビエンナーレに参加して入賞するとかいう展示だろう。大使になれば多くの人が、歌舞伎や相撲の公演を実現することに野心を燃やす。もっとも、実現までには二年はかかるから、在任中には間に合わないかもしれないのだが。

 だが、こうした大型の催しはそんなに簡単にはできない。相撲も歌舞伎も能も、スケジュールは何年先までぎっしりつまっており、囃子方や謡手などとのスケジュールも合わせるのが本当に大変だ。花火なら準備がわりと簡単で効果も大きいように見えるが、こちらは天候というリスクを抱えている。苦心惨憺、前宣伝、警備の手配も整えていざ当日になったら大雨で花火どころではないということになると、別の日を設定するのにてんやわんやし、しかもホテル代や食費で経費は大きく跳ね上がるということになりかねない。

 それに、大型の催しには五千万円から数億円の金がかかる。謡や囃子も含めて何十人もが数週間も海外で過ごすと、航空賃、ホテル代、ギャラなどはかなりの額に上るからだ。国際交流基金や文化庁の予算も限られているから、助成金もそんなに沢山は出せない。大型の公演は全世界で年間数件実現できればいい方だろう。日本文化が注目を浴びている今なら、歌舞伎や能は商業ベースで海外公演できるだろうと思われるかもしれないが、名手達は単なる商業公演では腰を上げないだろう。国内公演の方が楽だし、収益も保証されているからだ。

 政府とか海外の友好協会に頼みこまれ、国際交流基金や文化庁が助成金を出し、現地の大使館や国際交流基金の事務所が公演実現の手伝いをする、ということになって初めて、大型の公演は実現する。一昔前は、毎日お米のご飯を食べていないと力が出ないという役者も多く、大使公邸で弁当を作っては一行に届けていたような時代もあった。

 歌舞伎や相撲がやってくれば、在外の大使は相手国政府の要人や仲間の大使連中を大勢招待して、日本を大いに売り込むことができる。大使にとっては、晴れの大舞台だ。だが、大型公演というのはそれこそ花火のようなもので、いくら壮大でも次の日にはもう忘れ去られる。これを現場で見ることができるのはせいぜい二,三千人で、その二,三千人の記憶にはわりと長く残るとしても、費用対効果比は随分低い。現地の市民による日本文化愛好活動を支援したりメディアを使った文化交流をした方が、コストパフォーマンスははるかに高い。

 日本の伝統文化を外国にもっと息の長い形で広めようと思ったら、歌舞伎や能の若手に海外に頻繁に行ってもらうことがいいのではないか。その場合、公演よりも現地の演劇関係者に対するワークショップやデモンストレーションを中心にする。こうすれば、日本の伝統演劇のいろいろな要素が現地の演劇に取り入れられるかもしれないし、大型公演よりも交際の密度が濃いから将来にわたる交友、交流関係が築けるかもしれない。そして何よりも、海外での経験は日本の若手文化人にとっていい肥やしとなり、その芸風をより深いものにするかもしれない。

 大型公演や展示の準備、そして実施は地を這うような労力を必要とする。劇場や展示会場を借り切る交渉も、一筋縄ではいかない。僕も混乱期のロシアであこぎな劇場主とさんざん交渉し、会場費の一部を企業から割引で手に入れたテレビで支払ったこともある。次に舞台のサイズをはかり、楽屋の状態を調べ、ポピュラー・コンサートをやるのであれば全てのマイクロフォンのバランスを整え、招待者のリストを作って招待状を出す。歌舞伎なら刀を持ってくるだろうから、それが税関で武器と見なされて止められるようなことがないよう、事前に大使館から文書を出しておく。一行が空港に着くと、乗用車、バスと仕分け、ホテルのチェック・インを手伝い、大使公邸での歓迎会に一行を連れ出しと、要するに文化を仕事にすると、全く文化的でない何か別のものをやることになってしまうのだ。

 混乱期のロシアで日本のロック・グループを公演によんだことがあるが、その時は音響機器を積んでドイツからやってきたトラックが国境の税関で止められてしまったり、予定していた会場が「大音響を出されるとバルコニーが崩れるかもしれない」という理由でキャンセルになって急遽郊外の文化ホールを手配したりと、国際交流基金の担当者は大変な思いをしていた。日本陶器の展示会でもやると、担当者は床に座り込んで開梱を手伝い、輸送中の破損の有無を調べ、カタログと照合し、展示用の札を書かせ、展示ぶりを監督し、こうしたことを徹夜でやるのだ。

地味でも大事な日本語教育

 日本語教育と聞かれると、そんなことが外交に関係するのかと驚かれる方もいるかもしれない。しかし日本語教育は、サッカーにたとえて言えば、ファンとプレイヤー、その双方を育成することを意味する。日本語教育を受けた者は外交官になって対日関係を担当するかもしれないし、ビジネスマンになって日本との取引をするかもしれない。通訳や翻訳者になって、日本との交流にかけがえのない役割を果たすかもしれないのだ。もちろん、日本語を勉強した者が全員、日本関係の仕事につくわけではない。日本でも、ドイツ語を勉強した者がすべてドイツ関係の仕事についているわけではない。だが、言葉は文化、言葉はものの考え方のエッセンスである。日本語を数年も勉強すれば、日本人のものの考え方や日本の歴史、文化、社会に対する理解も深まる。こうした人達は、日本に関心と好意を持ち、それを家族や知人にもしゃべることによって、日本のイメージを高めてくれるだろう。

 今では全世界で二百三十五万人が日本語を勉強している。ウズベキスタンのサマルカンドに行けば、日本語で話しかけられてびっくりするかもしれない。サマルカンドはウズベキスタンの京都に相当するが、そこの外国語大学には日本語科があって、日本に行ったことがないのに日本語のできる学生が無料で観光案内をしてくれる。フェルガナのリシタンという国境の町に行くと、日本のエンジニアが私費で作った「紀子学級」という課外学校があって、ここではこれも日本に行ったことのない十五歳くらいの子供が立派な日本語で大使の僕と質疑応答をしたのである。タジキスタンの首都ドシャンベの外語大学でも、一見して優秀とわかる学生達が将来への希望に目を輝かせながら、日本語の劇を僕に見せてくれた。

 アメリカでも、小さなカレッジや高校に至るまで、日本語を教えている。日本人教師がただ一人で頑張っているところも多い。多くの大学では日本語が中国語や朝鮮語と同じ学科に入れられているので、これら言語との競争が激しい。八十年代から九十年代初期、日本経済がその頂点にあった頃は、日本語志望者も殺到したが、現在では中国語に押され気味である。

 中国については反日ばかりが報道されているが、実は日本語学習では約四十万人という世界最大の人数を抱える。それだけ、経済を中心にした期待が高いのだ。だから中国に行くと、中国語をほとんど使わずに用が済んでしまったりすることもある。韓国、ASEAN諸国、大洋州、欧州での日本語教育も広いベースを持っている。ロシアは日本に縁遠い国と思われているが、ここも日本への期待は大きなものがあり、モスクワ大学の日本語科は狭き門である。極東のウラジオストックやハバロフスクはもちろん、ウラルのエカテリンブルクに行っても、シベリアのノボシビルスクやクラスノヤルスクに行っても大学に日本語科があって、日本人教師が来るのを切望している。日本語の教科書、新聞、雑誌、書籍、ビデオはどこでも不足しているし、プロバイダーの料金が払えないからインターネットが使えない日本語学科も世界に多い。NHKの国際テレビ放送を見ようと思っても、地元のケーブル・テレビは扱っていないことが多いから、その場合自分でアンテナを立てようと思うと百万円以上の費用がかかる。

 日本語教育は地味だが、このように実際は文化交流の柱になっている。もちろん、問題は多い。まず、教師が足りない。例えばアメリカでは、修士の学位を持っていないと高校の教師にもなれないのだが、日本人の日本語教師で修士を持っている人は少ない。だから多くの人がパートタイム的な地位で我慢するしかないのだが、それでは勤労査証が取れない。現地人と結婚している人なら査証の問題は生じないが、パートタイムでは学科での主導権を取ることができない。査証や学位の問題がない国でも、生活環境が厳しいとボランティアの日本人もなかなか行かない。他方、ボランティアの方々が長年苦労して日本語教育を立ち上げたところでは、後から国際交流基金やJICAから教師を派遣して一層の充実をはかろうとしても、人間関係で問題が生じかねない。ボランティアの方々は日本語教育のやり方について正規の教育は受けていないものの、長年ほとんど無給でやってきたという誇りがあるからである。

 多くの国では日本人の教師だけではなく、現地人の日本語教師も足りない。それは、多くの開発途上国では教師の給料が低いために、卒業生は日本語教師になりたがらないためである。国際交流基金では海外の日本語教師を日本での能力アップのコースに招待しているが、彼らは自分の国では通訳などのアルバイトに忙しく、知識を深めている時間はなかなかない。謝金を渡すなどの形で現地人の日本語教師の生活を楽にしないと、この問題は解決されない。

 もう一つ、どこの国でも問題なのだが、高度の通訳・翻訳能力を持った人材が不足している。関係が深まれば深まるだけ、高度なテーマについてのシンポジウムやセミナーが開かれるようになるものだが、通訳でつまずくケースが非常に多い。例えば経済問題についてのシンポジウムだと、経済・金融について自ら深い知識を持っていないととても通訳などできないものだが、言葉しか勉強していない―――それも生半可に―――通訳が驚くほど多いのだ。発言者がどんなに目新しいことを言っても、彼等は日本人が独創的なことを言えるとは思ってもいないのか、その問題についての通念を平然と通訳と称して述べていたりする。これでは、知的な対話など不可能である。翻訳についても同じで、例えばウズベキスタンのように知識人がロシア語をこれまで使ってきた国々では、日本語を美しいウズベク語に翻訳できる人材はまだ育っていない。

 卒業生の就職は、どこの国でも問題だ。もちろん、日本でもフランス語を勉強した者全てがフランス関係の仕事に就職を希望しているわけでも、就職できるわけでもないが、外国で日本語を勉強する学生は、やはり日本関係での就職を期待している率が高いと思う。日本語に加えて英語でもできれば、それだけつぶしもきくのだが、日本語の学習は時間を食うから、他のことを勉強しにくくなる問題がある。ところが、日本大使館で働き口を見つけるのは簡単ではなく、日本の商社は日本語よりも英語のできる人材を求めていることが多い。最近では日本の製造業が海外に盛んに進出するようになり、ここでは日本語のできる要員への需要が高く、東京で金融、IT、その他先端分野で日本語の知識を生かしている外国人青年も増えた。こうした人達が、日本と外国の間の関係推進を常に支え、日本についての客観的な理解を自分の国に広めてくれるのだ。

 最後にもう一つ問題を言うと、ゼロから日本語科を立ち上げるのは非常に難しい、ということがある。日本語を習えばいい職につけると思う学生―――随分多い―――を誘致するため、世界中の大学や高校、あるいは小中学校が日本語科を立ち上げようとし、日本大使館などに「今度日本語科を設立することにしましたので、日本人の教師を派遣してください」と頼んでくる。随分安易な態度だと思うが、フランスやイギリスやドイツはこうした要望に日本よりは積極的に応えているようなのだ。

 ところが、国際交流基金は、数年の実績がないと支援しないのが原則になっている。学科設立を手取り足取り指導して行くだけの人員が足りないため、基金からの援助はモノとカネに偏り勝ちなのだが、実績がまだゼロのところにつぎこんでも持ち逃げされる危険があるからだ。このために、日本語学科をゼロから立ち上げることは非常に難しい。日本人ボランティアや、JICA(国際協力機構)の青年海外協力隊員や、外交協会が派遣する日本語教師がその間隙を埋めるのだが、人数、水準ともまだ改善の余地がある。まして高校以下のレベルでの日本語教育となると、日本の政府ベースでの支援態勢は無きに等しい。もっと予算と人員をつぎこんで十分意味のある分野だと思うのだが、どうだろう?

流行の「コンテンツ」輸出―――ソフト・パワーの最たるもの

 今日本では、「コンテンツ」―――要するに映画、アニメ、J-Pop,小説など伝播力が大きく多数の者に楽しまれる媒体―――をもっと海外に輸出しようという機運が盛んである。これは日本経済の先行きに自信を失っていた二、三年前から、「苦しい時の文化頼み」として始まったものだが、経済が回復しつつある今でも機運が衰えることはないだろう。国ぐるみで良質なコンテンツの制作と輸出に取り組んでいると言われる韓国に見習おうという気持ちが、日本の関係者の間には広がっている。また、テレビのデジタル化とコンピューターによる配信への移行で、これまで流通市場を独占してきたキー局とコンテンツ制作企業の立場が逆転する可能性もあり、その場合、コンテンツを輸出しようとする機運は更に強くなるだろう。キー局は電波独占から得られる広告収入で満足し、著作権処理などの手間をかけても僅かの利益しか得られない海外への輸出には関心を示してこなかったからだ。

 メディアを使った文化交流は、外国での「おしん」、日本での「冬のソナタ」の評判を見ればわかるように、ある国民への親近感を時には劇的に変えてしまう。我々世代も、日本でテレビが始まったばかりの頃、アメリカのホーム・ドラマや西部劇でアメリカへの憧れと親しみを培ったことを思い出す。「ソフト・パワー」の武器にはいろいろあるが、コンテンツこそはおそらく最強の武器なのだ。

 だがこの部門に向けられている政府の予算と人員は少ない。体制も遅れていて、これまでは外交便を使ってビデオを大使館に送り、大使館の担当官が現地のテレビ局に持ち込んだりしている。ビデオも放送局仕様の特別のものでなければならないし、脚本も渡さないと現地語への翻訳、吹き込みができないし、国によっては放映の際に日本企業の広告を出すことを要求してくるところもある。だからこれは、文化交流の担当官が片手間でできる仕事では到底ない。民間の拠出も得て、国際交流基金を大幅に拡充する必要がある。

 予算不足がどういう形で表れるかの実例をもう一つ示したい。一般に、名の売れている作品であればあるほど、「作品を文化交流で是非使わせてください」と頼んでも、制作者側が商業ベースで利益をあげることを望んでいる場合、海賊版が作られるのを恐れてか政府や国際交流基金にはなかなか放映権を売ってくれない。売ってくれても高い料金を請求して来られると、一,二回の上映のために国際交流基金の年間予算がとんでしまう。だから、外国のコンテンツを自力で購入するだけの経済力がない国々へは、日本の優れたコンテンツがいつまでたっても出て行かないことになる。

 日本のコンテンツを金で買う力を持っている国々に対しては、日本にどんなコンテンツがあるのか紹介する情報の流布や、コンテンツの流通網の整備が必要になる。個々の案件に手厚い助成をしていくよりも、そのようなメカニズムを整備することに公的資金を使う方が効率的だろう。例えば、日本での新刊、新作映画、テレビ番組などをいろいろな国の言葉で紹介するデータベースを作ったり、世界のプロデューサーや番組ディレクターが集まって日本のコンテンツをあさり商談もしていく「コンテンツ国際見本市」を世界の方々で開いていくことも有効だろう。見本市を日本でするより、その方が外国人は旅費を節約できるから、より多数の人が見に来れる。

 テレビ全盛の今ではもう時代遅れのようになってしまったが、出版というのも忘れてはならない分野だ。ロシアの四十歳以上のインテリは、芥川龍之介や安部公房、大江健三郎などを議論しながら学生時代を過したのだし、ソ連が崩壊した頃には盛田昭夫の「メイド・イン・ジャパン」のロシア語訳が人気になった。中国でも韓国でも村上春樹が青年世代の考え方に多大の影響を及ぼしているし、中国の書店の書棚には吉川英治の「宮本武蔵」や渡辺淳一の「失楽園」までが並んでいる。韓国の若手の作家キム・ヨンスは、国際交流基金の招待で日本にやって来た時、韓国の作家は皆村上春樹を読んで「国家ではなく、個人の視点というものがあることを認識し、個人の視点から朝鮮半島の戦後の歴史を組み立てなおそうと思った」ということを述べていた。

 国際交流基金や文化庁は、日本文学や日本関係の書籍が海外で翻訳、出版されるよう、助成金を出しているのだが、全体の予算額が足りない上に、執行においていくつかの問題を抱えている。翻訳・出版はスケジュールが遅れ勝ちになるし、出版社が倒産することもまれではない。だから、助成金は実際に翻訳や出版が完成してから支払わされるのである。こうすると、資力のない翻訳者や出版社は二の足を踏むことになる。

 文化には大きく言って、創造と流通、この二つの面がある。音楽でも美術でも書籍でも、この両面を押えないと日本文化は広がらないのである。アメリカで日本の「Shall we dance?」という映画が少し評判になったことがあるが、これはミラマックスという映画配給大手がこの映画を気に入ってくれたためだし、日本の天才少女バイオリニストがあるとき突然有名になったかと思うと、次の瞬間には世界の音楽シーンから消えてしまったりするのも、クラシック音楽のプロモーションを世界的に牛耳る者がいるからだ。

 書籍の流通ならそんな難しいことはないだろう、アマゾンでやればいいではないか、と思われるかもしれないが、開発途上国の多くではクレジット・カードも未発達だし、銀行も当てにならない。電子商取引は、こうした国々ではまだ無理なのである。おそらく書店のスペースを日本関係書籍陳列のために借り上げ、そこに陳列する書籍を指定するようなことをしなければ、こうした国での流通面を抑えることはできないだろう。

外交も文化交流も基本は人と人の結びつき

 人間の世界では、多くのことは人と人の間のやり取りと結びつきで決まっていく。それは外交の世界でも同じ、文化交流の世界でも同じだ。日本を知っている有力文化人が多ければ、彼らの発言を通じてその国の大衆も日本が好きになる。モスクワでは今でも日本文化ブームが続いているが、僕が勤務していた二千年の頃もそうだった。僕は自分の家に文化人を何人も招いては源氏物語についての講演会などもやり、日本文化ブームを煽るようにした。彼らも僕を自宅に招いては、そこでテレビ対談の収録をしたりしてくれた。国際交流基金に招待してもらった文化人達は、日本が益々好きになってロシアに帰り、そのことを新聞や雑誌に大きく書いてくれた。

 日本を自分の目で見てもらえば、多くの人が日本を好きになるだろう。だが、日本での観光は金がかかる。開発途上国の人ともなれば益々、そのような金は持っていないだろう。さりとて、外国の国民を全員、日本に公費で招待することもできないから、外務省や国際交流基金は、いわゆる「発信力の大きい」ジャーナリストとか文化人に的をしぼって招待している。演劇人であれば、日本の優れた演劇人と会わせれば、彼らは友人になって終生自力で交流を続けるかもしれない。そのような交流から全く新しい作品が生まれるかもしれない。だからこうした招待事業は、外交ばかりか文化にも大きな実りをもたらすのだ。

 だがこうした交流には、担当者の大変な手間がかかっている。航空券の手配、空港での送り迎えに始まって通訳、交通機関の手配、そして何よりも日本でのアポイントメントの取り付けが大変だ。今でも政府の力が強い旧社会主義圏の人達は、日本の外務省が電話をすれば日本人は誰でもすぐ言うことを聞いて会ってくれるのだと思いこんでいて、平気で遅れたりすっぽかしたりする。こちらは、時は金なりで忙しく動き回っている人達に、国のため文化交流のためにと言って頼み込んでいるのだが。

 誰かを日本に招待した場合、それを中身のあるものにするのは中々大変だ。担当官に丸投げにしておくと、おざなりの観光日程になってしまいがちだ。担当官は多忙だから、一人一人の外国人客と親身につきあっている時間もなかなかない。人と人の付き合いが最も大事だと言っている僕でも、連日連夜続く会食やレセプションにたまりかね、いい加減早めに切り上げてしまったことは何度もある。

 それでも公金を使って人を招待する以上、日本で何を見てもらいたいのか、日本で何を感じてもらいたいのか、招待の目的は何なのかについて、明確な目的意識を大使館や地域課の幹部自身が持つべきだ。外国では、日本人というとしかつめらしい顔をして一日中他人にお辞儀をしている、律儀だがややつまらない民族というイメージがあるので、これを破りたい、日本人の普段着の様子を見せたい、と思ったら、彼らを有楽町のガード下の屋台に連れて行くとか、郊外の住宅を訪問してその後近くの駅前のラーメン屋に寄るとかといった滞在プログラムを作るのである。担当官だけではこんな大胆な日程は作れないので、幹部が具体的に介入する必要がある。日本で懇談させる相手にしても、いつも新聞・雑誌に目を通して面白そうな日本人を物色しておくのだ。

 そしてそのような日本人は、政府の資金で海外に派遣し、講演や小型の公演をやってもらうのである。日本はよく「人間の顔が見えない国」だと言われるが、それは文化、スポーツ、学術、何をとっても馴れない外国語を使って外国で苦労するより、日本で働いている方がはるかに実入りが良いことが大きな原因になっている。政府の資金で海外に派遣することによって、そうした障壁を少しでも破っていくことができる。

 現在、私費留学生も合わせれば、約十万人の外国人留学生が日本に滞在している。これだけ人数が多くなると、問題も多くなる。査証期限が切れても帰国せずに日本のどこかに隠れてしまったり、日本政府の資金で勉強しておきながら、卒業後は本国に帰って国づくりを手伝うことなしに欧米諸国に移ってしまう者もいる。それに白人以外の人種は、日本で部屋を借りるのに苦労しているようだ。大学では英語やその他の外国語で行われる授業がほとんど無いし、日本人の学生もなかなか付き合ってくれない。苦労して卒業しても、本国に帰ると日本留学者は欧米留学組の下に位置づけられてしまう。

 ジェットプログラムというのがあって、外国人の青年が日本政府に雇われ、地方自治体で事務を手伝ったり、地元の学校で外国語を教えたりしている。だが生徒はおろか先生でさえ英語がほとんどできない場合が多く、しかもこのプログラムで来た青年達も数が少ないからいくつもの学校を掛け持ちで教えることもあって、結局「発音マシン」のような扱い方をされて終わってしまう。児童の英語力を高めたいのなら、まず日本人の英語教師の英語力を高めるべきだ。例えば夏に数週間の合宿をし、外国人と一対一で相部屋にすると、嫌でも英語を使わざるを得ないから短期間で上達するだろう。

 海外での日本研究を奨励することも、文化交流の重要な部門だ。テレビ、ラジオ、新聞で日本について解説するのは、それぞれの国の日本研究者達であることが多いから、彼らには日本についての正しい認識を持っておいてもらわないと困る。国際交流基金には、そのために特別の部が存在している。図書の寄贈、日本からの講師の派遣、学会開催のための費用助成、研究プロジェクトへの助成、日本での研究のための招待などがその仕事である。

文化交流の虚実

 日本はかなりのソフト・パワーを持った国だが、国際文化交流のための予算や人員数は欧米の主要国にまだまだ見劣りする。確かに政府と文化の関係は国によってまちまちだ。米国文化は映画、音楽、ダンスと、もう世界中に浸透していて、政府のやるべきことは少ない。そこへ行くとカナダやオーストラリアの政府などは、映画制作助成に力を入れているようだ。そしてフランス政府は、フランス語こそ世界の言語の女王というわけで、アテネ・フランセーズを通じてその普及活動に力を入れている。イギリスはブリティッシュ・カウンシル、ドイツはゲーテ・インスティテュートが言語の普及、文化交流を担当している。日本の国際交流基金は、この中で最も予算が少なく、人員はそれ以上に少ない。二千三年度、国際交流基金の年間予算は百七十七億円、人員は二百二十七人なのに対し、ゲーテ・インスティテュートは二百九十五億円、六百二十五人、ブリティッシュ・カウンシル―――技術協力も司る―――は九百五十九億円、千四百二十三人を数えている。国際交流基金の予算は、他省庁に比べて小規模な外務省予算の一部で、その伸びには限度があるのに対し、文化庁は文科省の大きな予算の枠内で年間四十六億円を国際文化交流に振り向けている。ところが文化庁は海外に手足を持っていないから、この金を有効に使うためには海外にネットワークを持っている外務省や国際交流基金ともっとタイアップするべきなのだ。

 もう一つの問題は、外務省や国際交流基金、文化庁などには、プロデューサーの役割を果たすべく養成された人材が殆んどいないということだ。国交樹立何十周年とかが間近に迫っても、外務省の課長クラスが有力企業も引き込んだ実行委員会を立ち上げて自ら募金にかけずり回ることなしには、何事も動き出さない。こういう時、資金繰りも含めて行事の発案から実施まで一切を取り仕切ることのできるプロデューサー的な人員が国際交流基金にもっといたら、と思う。

 在外の大使館や総領事館も、もっとイニシャティヴを発揮することが要請されている。大使館の文化担当官も自分で文化交流のシナリオを描き、効果の出そうな案件が現地の人達から申請されるように自ら仕組み―――というのは、文化交流も経済協力と同じく「要請主義」によるところが大きいからだ―――、それを優先案件として大使や東京に承認させるだけの気概を持つべきだ。そして大使館幹部も含めて文学、美術、演劇、映画、スポーツ、諸分野の有名人や若手と親交を深め、彼らをいつでも東京に推薦できるようにしておく。

 財政悪化もあって、「予算は、日本のため、日本人のためだけに使う」という方針がこの頃、強く徹底されている。だがそれでは、文化交流では困ったことが起きる。既に書いたように、外国で現地の人がやっている折り紙とか生け花のサークル活動を助けることは、日本のシンパを作ることになるのだが、彼らの活動を何年にもわたって恒常的に助成していくことは禁止されている。日本国民の税金で外国人の生活を恒常的に支えるのは避けるべきだ、という発想だろうか? ならば現地に長い間住んでいる日本人がやっている活動を支援しようとしても、流派に分かれて争っていたり、同じ流派の中でさえ仲たがいをしていたりでは、支援するのも難しいことがある。外国人の活動に公的支援をするのが難しいため、珍しい外国の文化を日本に紹介することも難しくなる。中央アジアやアフリカの、日本では知られていない国の民族芸能を日本に連れてくることは、その国への親しみを大いに増すことになるのだろうが、助成金を出せる予算項目はない。これらの国の芸術家達は、助成金がなければ、日本での高いホテル代や食費や交通費をまかなうことはできないのである。商業ベースで興行させればいいではないかと言っても、情報が不足しているから、日本のプロモーターは彼らのことを知らないのである。

 日本では、市町村に至るまで立派な文化ホールを持つに至っている。そこでカラオケ大会やバレーの発表会をやっているだけではなく、こうした知られざる民族芸能を紹介していけば、けっこう採算に乗るのではないかと思う。そのためには大使館、国際交流基金事務所、「全国公立文化施設協会」などが協力し、海外から安心して招待できる文化団体の情報を全国の文化ホールに流していったらいい、と思うのだ。

 文学にしても、演劇にしても、テレビ番組にしても、面白いものは海外に沢山ある。翻訳や出版にかかる費用が大きすぎるために、こうした宝の山は日本で知られていない。だが、マルチメディアの時代、情報伝達の費用は極限にまで低下する。可処分所得を多く持つ高齢者がこれから増える日本では、市役所でやっている文化教室の仲間達が資金を出し合い、翻訳者を雇ってスウェーデンのベストセラーを翻訳してもらい、インターネットで日本中に流すとか、ロシアの面白いテレビ番組の著作権を処理した上で、日本語の字幕をつけてインターネットで日本中に提供するとか、そんなことができるようになるはずだ。そのようにしてこれからの日本では、日本文化だけでなく外国の文化もその頂点を迎えることができる。

外交官と文化交流

 外交官はどうしても政治・経済・軍事をその主要な仕事だと考えがちだ。外交官の多くにとって文化が重要になるのは、本省で文化交流を直接担当した時、または在外で大使や総領事になった時だけとも言える。文化交流と言うと、「僕は文化をよく知らないから」と言って敬遠する者も多い。

 だが外交官は文化については行政官、つまり役人の立場にある。どんな分野のどんな案件に助成金をつけていくべきなのか、どんな方向に重点を置いていけばいいのかを、自分の個人的趣味に偏らないように公平に判断していく能力があれば、それで十分なのだ。それどころか、「文化に強い」と自分で思い込んでいる外交官は、文化交流を担当するのには向いていない時さえある。彼らが自分の好きな分野、好きな文化人ばかり重用すると、そうしてもらえなかった大部分の者を敵にしてしまうからだ。

 文化交流は、できるだけ環を広げる方向にもっていかなければならない。日本の映画を上映するのであれば、大使館が自力で中型の映画館を借りより、地元のマスコミを共催者に引き込み、市内最大の映画館を彼らに安く借りてもらい、新聞紙上やラジオで無料で宣伝してもらえば、労することなしに大会場を満員にできる。大使館の中だけでこもっていることなしに、リスクを恐れて他者との提携を避けることなしに、担当官はどんどん外向きに思考していくべきだ。文化交流は、若手の外交官が自由に腕を振るえる分野であるべきなのだ。

コメント

投稿者: 佐野一枝(ペンネーム:水木愛絵可) | 2006年11月27日 16:04

文化については「○○界は狭い」の一言に
つきるのでは。旧態然とした旧習がまかり通っているような気がします。誰かが気づいて事を起こしてもその気持を持ち続けて継承していく人がいないと立ち消えていってしまうのではという危惧があります。個人の力ではどうにもならないこともありがちです。志のある人は自分で自分の道を切り開いていくのでしょうか。
BFN

投稿者: 河東哲夫 | 2006年11月27日 22:49

組織になるとちまちましてしまうんじゃないですか? ○○界が狭いのは、アメリカでも同じことかと思います。文化の「流通」を少数の有力者が牛耳ってしまっているらしい。
もっとも、組織とか有力者の網の中に入っていない人達の文化が力があるんですよね。飯を食うためではなく、とにかく叫びたいという人達の「文化」が。
河東

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