Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

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2005年10月 1日

日本に「戦略」はあるか?

 よく、「日本外交に戦略はあるのか?」とか「日本外交は対米依存だ」とか言われる。僕も感情にまかせて同じようなことを口走る時もあるが、本当にそう簡単に言い切れるのか?

 戦略とは、自分の目標を達成し利益を確保するための中長期行動プラン、とでも言える。自分の国の内部や周囲を自分で動かせる力を持つ国は、わりと一貫した戦略を持つことができる。その力のない国は、国内や周囲の変化に合わせていくことしかできないが、そのような日和見政策でもせめて独立を守ることができれば、それはそれでまた立派な戦略なのだと思う。

 敗戦の結果、日本は政治的・軍事的な拡張の途は閉ざされた。そして、日米安保条約と自衛力で安全保障を確保し、経済・社会建設に主力を注入する、という吉田首相の路線―――これも戦略だが―――が連綿と引き継がれ、国民の大多数にも支持されて今日まで続いている。経済面でも一九八五年のプラザ合意後の円高のように、日本は時々むしられはしたが、日本からの集中豪雨的な輸出で消えていったアメリカの企業がいくつもあること、そして何よりも今の日本の社会が所得水準、自由、文化といった面で一つの頂点に達していることを考えれば、戦後の日本の戦略は成功したのである。

 そして日本は外交面でも、アメリカの指図によるのではない、自分自身のイニシャティブをこつこつと積み上げてきた。例えば反日デモの後1977年に行われた福田総理の東南アジア訪問では「福田ドクトリン」が発表され、以後日本の大規模なODA,それに続く直接投資はASEAN諸国の経済発展を大きく助け、ASEANとしてのまとまり、ベトナムなど旧インドシナ諸国の加入をもたらした。二〇〇四年八月川口外相は中央アジア諸国を歴訪し、日本は中央アジア諸国が力を合わせて発展していくことを助ける姿勢を明確にしたが、これはASEANというケースの成功を中央アジアでも繰り返そうと言う戦略に基づくものだった。

民主主義国家が一貫した戦略を持つ難しさ

 だが、そうは言っても、民主主義国家で一貫した戦略を追求していくことは難しい。中長期の目標についても、またそれを実現していくための手段についても、世論が一つにまとまることは稀なことだし、常に揺れ動いているからである。

 日本は、国民が指導者を直接選ぶ大統領制ではなく、議院内閣制をとっているため、総理の力は相対的であると考えられてきた。だが二〇〇五年八月、小泉総理は反対する閣僚を罷免までして、国会を解散に持ち込んだ。その気になれば、内閣総理大臣も大きな力を行使できる。外交についても、それは同じだ。ただイラクへの自衛隊派遣、国連安全保障理事会の常任理事国になる問題、ロシアとの北方領土問題、北朝鮮の日本人拉致問題、自由貿易協定まで全ての懸案を、反対する声を無視して総理裁量で進めれば、敵が増えて総理は指導力を失い、やがて政権を失うに至るだろう。だから、多くの案件は総理以下のレベルで調整・解決していかなければならず、そうするとその結果は玉虫色になりがちで、「戦略」としてはぱっとしないものに終わりがちなのだ。大統領制にすればもっとましになるかと言うと、それも程度の問題だ。民主主義国家である限り、指導者は英明な一刀両断の決定を下せる機会は限られてくる。

 そして経済が大きくなるにつれて、政府の力は相対的に小さくなる。先進民主主義国家のリーダーは大統領であれ、首相であれ、金利は決定できないし、企業の合併や直接投資の方向を指図することもできない。そして高度化した社会では、労働組合その他の利益団体は弱化し、政治家は国民一人一人にマスコミを通じて呼びかけざるを得ない状態になった。このため、空疎なパフォーマンスをしては、テレビを通じて国民の支持を集めようとする、不完全なポピュリズムが世界中にはびこっている。

 外交をポピュリズムの政治に利用すると、危険なことになる。人間は感情に流されやすく、国と国の間の反感が煽られると、事態はなすすべもなく戦争に至る。何をやっても何を言っても全てが破滅に向かって吸い寄せられていってしまうような時が、国際関係、いやこの世の全てにある。第一次世界大戦がそうだった。ソ連の崩壊がそうだった。

パラダイムの変化 ―――「国家」という枠組みはなくなるか?

 さんざん外交を論じてきたが、国家という枠組みがなくなってしまえば外交も外交官もなくなる。現代の先進民主主義社会では政府の地位が相対的に下がってきているのなら、国家もいつかはなくなるのでないか? いつまでも国家をベースに口角泡を飛ばして、やれ戦争責任だのやれ貿易黒字だのと議論しているのも、考えてみれば不毛なことではないのか? アメリカ、中国、ロシア、インドなどは、国民国家の域を超えた多民族国家だ。国民国家を形成した西欧は、EUを作ることによって自らをより大きな形態に発展させたように見える。

 確かに、この世の中に変わらないものは何一つとしてない。僕がボンで働いていた頃は磐石であるかに見えたベルリンの分割も、それから僅か七年後には過去のものになった。あの強大なソビエト連邦も、僕の目の前であっけなく消えていった。だが僕は、世界中の国家が簡単に消えて「世界国家」ができる、とも思わない。一国の指導階層は、自分の権力をそうやすやすとは他者に渡さない。EUも、政治・外交では各国がまだばらばらに動いている。それに言葉の問題がある。例えば日本も、仮にアメリカや中国と一緒になろうとしても、言葉が違うから難しい。そこを無理やり合併しようとしても、どちらかが他方を支配する形態でしかできないだろう。

 日本は当面、現在の世界の体制は続くものだという基本的前提の下、各国の政府の力の推移を見極め、時には超国家的枠組みを自ら仕掛けていく、二正面作戦―――というか一・五正面くらいを採っていくのがいいのではないか? 例えば現在議論の的になっている「東アジア共同体」も、アメリカの参加を得ることができれば、アジアにおける日本の発言力を高いレベルに維持するための大きなよすがになるのである。

当面何をしたらいいのか

 国の現状や方向についていろいろと議論はあるけれど、今の日本の青年は生き生きとして、かつてないほど自分の将来、国の将来を真剣に考えているように、僕には見える。それは「大企業で終身雇用」という生き方モデルが崩壊し、自分で考え自分の力で自分の好きなやり方で人生を決めていける余地が広がったためだろうか。団塊世代が近く引退し、年金支払い負担が若い世代にきつくなることも、彼らの政治への参加意識をより真剣なものにさせているのかもしれない。青年達は、日本社会の自由と高い生活水準を享受しているが、アジアでの力のバランスが大きく変わりつつある中で、日本の良さを自分達で守ろうとする意識を高めているようにも見える。

 戦略とは、国際関係に関わるエリートの自惚れを満足させるためのものではない。今の日本のような、ある意味で頂点に達した社会をできるだけ長くもたせ、同時に他の国々もいい暮らしができるようになるのを助けることが、我々の戦略であるべきなのだ。では、そのために現在なすべきことは一体何なのか?

 第一に、外交官の能力を常に高め、時代の要請に合ったものにしていかなければならない。外交官は、まだ必要である。外交官は駄目だ、俺ならば私ならば日本のことをもっと外国にわかってもらえることができる、と思っておられる方もいるだろうが、「ああそうか、そうだったのか」とすんなりわかってもらえることはないだろう。持ち上げられ、おべっかを使われ、その挙句同じ要求を繰り返されるだけだろう。いつも外交を担当している公務員は必要だ。ただその資質を常に変えていかなければいけないのである。例えば今の時代、日本の外交官はアジアに必ず在勤し、アジアの主要な言語を一つくらいはマスターしていることが必要だ。それは、日本の外交官に「脱欧入亜」しろというのではない。日本も含めてアジア諸国の青年達は、欧米の個人主義的で合理的な価値観を次第に我が物にしつつあるからだ。

 日本の外交官もこれまでは明治以来の伝統で、法律を厳格に運用できる法学部出身者が多かったが、これからは法の枠組みを時代の要請に応じて積極的に変えていく発想を持った人材をもっと多く採用していくべきだ―――と言っても、現在の公務員試験の試験科目ではこれは難しい。そして外交官はもっとマスコミに出て政策をわかりやすく説明するべきだし、またそのように「官僚が顔を見せる」ことに対するタブーは和らげられなければならない。

 第二に、太平洋戦争の問題は、我々の意識の上で、またアジア諸国との間で、あらためて整理されなければならないと思う。日本人の多くは、あの戦争が実は植民地主義帝国間の争いだったのが、負けた日本だけ悪者にされたと思って納得できていない。他方、アジア諸国の中には、経済が発展して国民の政治意識が高度になったために、過去の全てを自分達の目で見直してみたいという気持ちがあり、日本による謝罪、そして既に法的には決着のついている賠償の問題を蒸し返そうとしている。

 二〇〇五年の戦後六十周年が終わればこの問題は切実さを失うかもしれないが、戦争をどう評価するかの問題に蓋をしたまま金儲けに狂奔してきたような、どこか心の片隅に満たされない後ろめたさを引きずったままの我々自身の気持ちを整理しておかなければ、我々自身道徳的な背骨を取り戻せないのではないか?

 次に、これからはアジアとの外交が以前にも増して大事になる。だがそのことは、「アジア」に身も心も捧げてアメリカとの関係を副次的なものとしていい、ということではない。アメリカは、政治・経済・軍事・文化とあらゆる面でアジアに大きな存在を持っている。そしてそのことは、アジアが中国に席巻され「冊封体制」―――周辺国の中国への服属を条件に安全保障と交易を保障した制度―――が復活するのを妨げる最大の重石になっている。 

 僕は中国に敵対する気持ちはないし、中国の人々がいい暮らしができるようになって本当に良かったと思っているのだが、同盟の相手としてはアメリカの方がいいと思っている。今では日本の社会に根付いた自由と民主主義を守っていくには、アメリカの方が適しているからだ。

 「対米追従外交」と言われるが、日本が自主性を発揮できる余地は大きい。これまでは、日本からアメリカに何かを提案、提言することは稀だった。安全保障問題については野党がすぐ国会での取引材料にしたし、経済問題については大蔵省が財政負担になることを嫌がったから、提案しようにもできなかった。このために日本は「自分でものを考えられない国」と見なされ、僕がボストンで在勤していた時も、講演すると「日本は安全保障理事会の常任理事国になりたいそうだが、なっても一体何ができるんだ?」という失礼な質問が行われるようになったのである。

 今では、野党の多くは安全保障問題について是々非々の立場になった。だから日本は、アメリカにもっといろいろなことを提案できる。彼らの政策について意見を述べることもできる。そしてそうしたことを、アメリカの面子をつぶさない形で公にしていけば、日本に対する世界の評価も徐々に変わっていくだろう。日米が自由、民主主義、経済的な繁栄を掲げて協力すれば、そのモラル的な吸引力はアジアで大変強いものになるだろう。他方、そのような価値観を欠いた力だけの日米同盟は、アジアの中で孤立し、日本はアジアにおける米国の唯一の橋頭堡として蔑まれ、憎まれることになりかねない。

 アメリカ、中国、どちらにつくのも嫌だ、屈辱的だ、日本は永世中立の途を選ぶのだ、と感情にかられて叫んでみても、ではその「永世中立」なるものを一体誰が保証してくれるのか、アメリカや中国から過大な要求があった時に、いったい誰が日本を守ってくれるのかと考えてみると、そのような神様みたいな存在はこの世にいないことに気がつく。また、「アメリカと中国の間のバランサー、仲介者として生きる」というのも美しい、一見可能ではないかと見える行き方だが、一旦アメリカと中国が手を握って日本に要求をつきつけてきたら、あっという間に崩れてしまう。

 だからかのブレジンスキーなどはその著書「■」で、このような惨めな立場に業を煮やした日本は、「核武装をして自主防衛の途を選ぶしかない」と面白げに書いている。だが彼は、日本、特に日本の基地使用権を失ったアメリカはアジアでの力の行使を大きく限定されてしまうだろうことを念頭に置いていないように見える。外国に基地がなくても瞬時に展開できる軍隊をアメリカが作ったとしても、普段馴染みのない地域にいきなり兵力を展開することはできない。

 「核武装つきの自主防衛」は、日本にとっても完璧な回答とはならない。今の自衛隊だけでは、日本本土を長期間にわたって守ることは難しい。では大枚をはたき、戦前のように「軍部」の力が増大するリスクを冒して兵力を増強しても、核兵器という問題が残る。大決断をして核武装に踏み切ったとしても、国土が小さい日本は、大国に比べて核攻撃に対して脆弱である。フランスやイギリスなどは、潜水艦発射の核ミサイルを保有することで、領土が小さい弱点をカバーしようとしているが、どちらもNATO、つまりアメリカの持つ圧倒的な核戦力に基本的には依存しているのである。敵のミサイルを撃ち落すミサイル、つまりMDシステムが完成すれば、このシステムはアメリカと共同で開発するものだから「自主防衛」の切り札とはならないし、またもし一本でも撃ち落すのに失敗すればその被害は甚大なのだ。

世界の建設にもっともっと貢献したらいい

 今、国際的な対立は資本主義とか民主主義とかイスラム教とかキリスト教とかいうイデオロギーをめぐって起きているように言われるが、その根底にあるのは欲とか嫉妬とかといった、最も基本的な人間の感情ではないか。イスラム圏では反米感情が渦巻いているかのように言われるが、これらの国のエリート達は米国が推進している民主化が自分達の権力と利権の基盤を崩すのを恐れて「伝統を守れ」と叫んで反米をあおっているのかもしれないし、国民は本当はアメリカが好きなのだが、「彼らだけいい目を見て、自分達のことは助けてくれない」から反発しているようだ。二〇〇五年にイランの大統領になった■はその■で、「自分だけ豊かで、他を助けようとしないアメリカを許すことはできない」と述べている。これらの国におけるナショナリズムは傷つけられた自尊心が富めるアメリカ―――ニューオーリンズの台風禍を見れば、アメリカでの暮らしもそんなに楽ではないことがわかるだろうが―――への八つ当たりのようになって発露したものであり、暮らしが良くなれば危険な方向にはいかないだろう。

 事態は、旧ソ連圏でも同じだ。ここでは、人々が成長することよりも今あるものを分配することによっていい暮らしをしようとする癖が抜けていない。投資して豊かになろうとすると隣人や役人達に白い目で見られるし、市場はもう西側企業の技術力、販売力、ブランド力に抑えられているから、製造業で伸びることはもうなかなか難しい。民間経済が伸びないから、人々は保障を政府に求める。そして政府はその資金を企業から搾りたてようとする。これでは市場経済には移行できず、人々は誰かが豊かになるということは誰かが損をして貧しくなるということだ、だから豊かな者の財産を分配しなければいけない、というゼロサム思考に陥りがちだ。

 こうしてユーラシア大陸もヨーロッパから東に出ると、このような「欲の悪循環」とでも呼ぶべき地域が広がっている。ここでは、妬みと嫉みと陰謀と富の奪い合いが横行し、経済全体の規模は中々大きくならない。大げさに言えば世界は作る国と分ける国に分化してしまったようで、これがイスラム圏とキリスト教圏、資本主義と共産主義の境界線にほぼ一致しているのだ。ここでは宗教的原理主義は、かつてのマルクス主義と同じく、富める者から貧しき者に所得を移転するべきだということの口実として機能している。

 日本は、強い宗教的帰属感を持っていない。元々は同じ幹から出発したキリスト教とイスラム教が、不必要にいがみ合うのを宥めることができる。そして日本は、つい百五十年前に封建制を脱し、民主主義と市場経済を定着させた国家である。欧米的な民主主義が社会に定着するには、一定の時間がかかることをよく知っている。欧米諸国がイスラム教国や旧ソ連圏諸国に民主化や市場経済への移行を求めるのに性急であるあまり、これら諸国の政治的安定を脅かし内戦を招いてかえって改革を遅らせるようなことがないよう、口を利くこともできるだろう。

 そして何よりも、日本はこうした国々が経済的に発展し、自力でいい暮らしができる手助けをできる国だ。不幸にして紛争のあった国、または極度に貧しい国には、必要なら護衛をつけて建設エンジニアを送り込める態勢を整えておけばいいだろう。現地の労務者を雇って無償で道路など基本的なインフラを整備した後には、発電所などの建設に移っていく。相手に支払い能力がついてくれば、そのような援助は次第に円借款に移行していく。このようにすることで、日本は必ずしも自衛隊を大勢外国に派遣することなしに、日本の平和主義にもかなった貢献を世界にすることができる。日本は、アジアでは自由と民主主義、そして繁栄を旗印にし、世界では無私で公正な貢献を強く印象付ける。こうしたことも、日本の外交の大きな資産になるだろう。

「外交官の仕事」草思社より

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