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日本・歴史

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2024年9月11日

明治維新で一人逆賊にされたトラウマに今も沈む会津磐梯地方

 埼玉のあと、会津磐梯地方にも行ってきた。裏磐梯、そこに新しくできた諸橋近代美術館、喜多方ラーメン、会津若松、そしてその南方にある旧宿場町、大内宿を2日で回った。

郡山からレンタ・カー、高速道路使ったり、裏磐梯までは1時間ほど。ここは明治21年の磐梯山の爆発で山体の3分の1がぶっ飛び、それが土砂流となって五色沼などの湖沼地帯を生んだところ。もとは会津若松から米沢に通ずる街道が通っていて、今はそれは檜原湖の湖底にある。檜原湖はけっこう大きくて、野尻湖より大きいが、水深は浅い。

諸橋近代美術館というのは、NHKの「日曜美術館」で見て感心し、本物を見に行った。思ったとおり、素晴らしい建物だった。これは諸橋廷蔵という、いわきの洋品店主から出発し、後にXebioホールディング会長としてヴィクトリアなど全国スポーツ店チェーンを作った人物。生地の買い付けでスペインに行った時、偶然サルバドーレ・ダリの作品展覧会に遭遇(多分1983年)。ダリに入れ込んで作品の蒐集を開始。10年間ほどで集めた400点ほどの作品をもとに、自費で美術館を立ち上げた。国立公園で、よく建築許可を取ったものと思う。設計したのは郡山市の清水公夫設計事務所。ダリの作品収集数としては、スペイン以外では米国に次ぎ世界2番目だそうで、本当にすごい。

ダリについては、ガウディと混同していたが、辣腕の美術プロデューサーであるロシア人女性を伴侶にしていたのがプラスに作用したのだろう。彼の作品は妄想の産物で、曲がって垂れ下がった時計など、「曲がる太陽電池」を先取りしたものかとも思うが、他人の妄想にまで付き合って感心している暇はこちらにはない。心は喜多方ラーメンに急いでいた。

ところがその喜多方に行こうとしたのだが、カーナビが駄目で、田んぼのあぜ道におびき寄せられ、最後は行き止まり。Uターンもできず、そのままバックで細いあぜ道を戻り、遂にラーメン屋にはたどり着けなかった。ラーメンの恨みをニッポン・レンタカーのカーナビに捧げる。

会津若松では鶴ケ城が素晴らしいし(再建だが)、どこかの国立博物館なみの規模の県立博物館も見たけれど、なんとなく盛り上がらない。結局、幕末の京都で公安警察のようなことをやらされ、志士たちの恨みを一身にかって、ほぼ1人、薩長の朝廷軍に武力で成敗された会津藩。一藩だけ、明治革命のネガにされてしまった。

住民にしてみれば、「なんでうちだけが・・・」という恨みは今でも残る。地元の政治家、渡部恒三が力があったから、県立博物館や会津大学のような目玉はあるが、渡部氏ももう亡くなって勢いがない。街を歩いていたら、偶然彼の自宅の横を通りかかったが、質素なもので、彼の素朴な人柄をうかがわせるものがあった。味のある政治家だった。

次の日は会津若松から1時間もかからない、大内宿に行った。これはよくポスターなどで写真が紹介されている、古い宿場町。かまぼこ型のかやぶき屋根の家が街道沿いに整然と並ぶ。ここは米沢から会津若松、日光方面を通って江戸に至る通商路。参勤交代にも使われていた。あまり賑わった街道ではなかったようで、大内宿の住民は農業を兼ねて店をやっていたそうだ。イザベラ・バードが大内宿の美濃屋に宿泊したとwikipediaにあるので、彼女の「日本紀行」をめくってみたが、見つからなかった。新潟と米沢の間で、彼女は困窮した山間の村を通っていくのだが、まさかこれが大内宿だったのではあるまい。

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