古代も彩の国だった 埼玉
埼玉というと、「彩の国」と呼べ、とかいろいろ涙ぐましい取り組みはあるのだが、どうも盛り上がらない。しかし古墳時代、ここは大きな富の中心、権力の中心だったのだ。
先日、県立歴史・民俗博物館に行ってきたので、断片的になるけれど、いくつか埼玉県の歴史・地理を復習してみたい。
・古代、今の大宮近辺まで東京湾は入り込んでいた。氷川神社は見沼という大きな沼のほとりに建てられている。
・6世紀頃、埼玉では前方後円墳が多数作られた。当時米作が広がり、富が蓄積されていた。そのうちの一つの行田市、稲荷山古墳では鉄剣が見つかっているが、これにはその古墳の主が大和の王(つまり天皇)「ワカタケル」の親衛隊長であったことが記されている。
つまり関東地方のあたりまでは大和朝廷の権力が及ぶようになっていて、朝廷は国衙を任命し、官道を建設して統治のネットワークを整備していた。
それだけの基盤があったから、7世紀朝鮮半島の百済が滅んだ時、遺臣が多数日本に来航。大和朝廷は彼らをまとめて関東地方に入植させている(日本書記)。特に秩父では彼らは銅の採掘と精錬に従事。奈良の大仏建立のための銅を献上している。日高市には今でも高麗神社があるし、このあたりは高麗群とされていた。また今の新座は新羅群となっていた。
・埼玉には出雲からも移住した勢力があった。氷川神社の「氷川」は出雲の「斐伊川」に発するという説もある。県には諸方に出雲大社の名を冠する神社があるが、いつ頃の創建かは調べていない。
・慈恩寺には、西遊記の玄奘和尚の遺骨(の一部)が祀られている。これは日中戦争の当時、日本軍が南京の大報恩寺で入手し、持ち帰ったものらしい。
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