Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
ChineseEnglishRussian

日本・歴史

Automatic Translation to English
Automatic Translation to English
2024年6月19日

利根川 佐原紀行

先日、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館、そして江戸期の利根川水運ハブ、佐原(さわら)に行ってきた。前者は、歴史について唯一の国立博物館なのだそうで。そもそも、明治100年記念事業の一環として構想され、「考古、歴史、民俗」の3分野の研究、展示を使命とする。
開館は1983年なのだが、問題はその後の予算と管理が不十分なようで、落成当時、この建物は建築関係の賞も取っているのだが、今は廊下の雨漏りの修理もされず、ボタンを押せば画像が出たり、何かが動くはずの装置はいくつも故障したままだったり。

民俗はまだしも、歴史学、考古学は年と共に「変わっていく」。天孫降臨、出雲の国譲り、そして古代の九州王朝、邪馬台国と大和の関係、応神天皇、継体天皇等の性質、律令制国家の実態、幕末の政治力学、日米開戦の経緯など、歴史問題については、論争が絶えず、昔の定説も今では否定されているものが多い。博物館での展示をどう変えるかについては、なかなか結論は出ないだろうが、変えずにいれば、「古いなあ」と思われてしまう。

論争があるならあるで、その現状を簡単に説明するコーナーを設け、そこだけ3年に1度くらい更新していけばいい。
考古学にしても、せっかく佐倉という位置にあるのだから、古代、利根川中流・下流の湿地地帯を境に北日本で栄えていたはずの、縄文人、アイヌ人の社会について、新しい発掘・研究成果が年替わりででも紹介されるコーナーが欲しい。

ところで佐倉市は、学校の歴史で習った佐倉宗吾の故地なのだ。重い年貢に苦情を述べるも、藩主に聞き入れられず、遂に将軍に直訴して聞き入れられるも、夫妻ではりつけに会ったという人物。調べてみたら、伝説はそういうことになっているが、しっかりした史料はないそうだ。

で、次の日は佐原に行った。ここは、江戸時代から明治初期にかけての河川通商のハブの一つ。利根川に流れ込む小野川の両岸に、岡山県の倉敷によく似た江戸時代の商家が立ち並ぶ。どうして、こんな内陸に商業ハブがあるかと言うと、それは江戸時代の利根川の歴史に関わってくる。

もともと利根川は東京湾に流れ込んでおり、佐原周辺は香取海という大きな入江や湖沼の入り乱れる沼沢地帯であったのを、江戸時代初期に利根川が銚子方面に流れるよう「付け替え」が行われた、ということになっている。その経緯は不明だし、付け替えの目的も「江戸で洪水が起きるのを防ぐため」ということになっているのだが、それを否定する説もあり、本当のことはわからない。そのあたりは、小出博氏の「利根川と淀川」に詳しい。

とにかく、利根川が銚子で海に出ることになったことで、江戸をめぐる物流ルートに大きな変更が生じた。それまでは、東北地方の豊かな農産物・物産を船で江戸に運びこむのに苦労していた。それは、房総沖が荒海で、季節によっては江戸時代の小船で航海するのは危なかったからだ。

利根川の「付け替え」で、東北の荷は銚子で下ろし、川船に積み替えて利根川を遡り、中流の関宿で左折して江戸川に入り、新設の小名木川(運河)を通って、隅田川の蔵前屋敷街に至る、という水運路が成立した。小名木川と隅田川が交差する岸辺には、松尾芭蕉の借り家があったとされ、今でも句碑が立っている。この小高い地点から茫洋とした隅田川を眺めるのも、自分が芭蕉になったようが気がして乙なものだ。

利根川に話を戻すと、このあたりの紀行記としては安岡章太郎の「利根川・隅田川」が面白いのだが、彼は佐原についてはものすごく素っ気ない。何か気を悪くするようなことが起きたのだろう。宴会で出てきた芸者が年増だったとか。

佐原はこの関宿と銚子の間にあるのだが、多分貨物を小型船に積み替える拠点として使われたのだろう。当時の商家が細い小野川の両岸に軒を並べる。その街並みは大変な観光資源になり得る。インバウンドの観光客もちらほら見えたが、まだ倉敷には及ばない。もったいないことだ。大体、JR成田線は1時間に1本だけで、東京からは車で1時間半もかけて行くしかない。

因みに佐原にある(と言っても、高齢者が歩いて行ける距離ではない)香取神宮は、付近の鹿島神宮と並んで、当時の香取海のほとり。海の向こうの蝦夷の地に攻め上る基地として機能していたようだ。そして鹿島神宮の地は後の藤原氏、中臣鎌足の故地でもある。中臣氏は朝鮮半島から渡来したという説もあるので、蝦夷出身と言うよりは、むしろ蝦夷を討つためにこの地に派遣されていたのだろう。

歴史の話しを続けると、江戸時代に精細な日本地図を作った伊能忠敬は、実に佐原の裕福な商家の入り婿。測量は自分の趣味で勉強し、後に幕府の後押しで大事業になったもの。更に、江戸時代に利根川の「付け替え」工事で名を挙げた地元代官・伊奈氏の子孫、故伊奈久喜氏は、日本経済新聞の特別論説委員だった人。名前の久喜(ひさよし)は、付近の久喜市にちなむものかもしれない。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.japan-world-trends.com/cgi-bin/mtja/mt-tb.cgi/4348