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日本・歴史

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2023年6月11日

和歌山旅行

5月の連休は和歌山と奈良に行ってきた。観光だが、この機会に近畿と出雲の関係を調べ、古代の葛城一族の古跡も回ろうと思ったわけ。

和歌山城、県立博物館、華岡青洲のクリニック跡、猫の駅長のいる貴志駅、その付近の大国主神社。次いで室生寺に足を延ばしたが、葛城一族の古跡には行けずに終わった。
因みにJR奈良駅の周囲が見違えるように再開発されていて、東京ドームのような大型イベント会場ができていたのにはたまげた。奈良がひなびた古都から、現代の県庁所在地に変身しつつある。背後の利権関係、政治力学はどうだったのだろう。

(陵戸)

県立博物館で学んだ、二つのことがある。一つは、近畿は天皇の古墳、陵が多数あるところだが、それの保全のために陵戸という世襲の身分が律令制で定められていた、ということ。これは賤民身分だが祭祀も執り行った。外部との通婚は不可で、明治まで一部で部落を形成するところもあったと書いてあった。どうやって生計を立てていたのか知らない。

ふと思ったのは、こういう人たちが今でも活動しているとしたら、それは天皇陵とされるものの発掘調査を難しいものにするのではないか、ということ。何千年も何々天皇の陵だとして守ってきたものを、余所者に掘り返され、これまでの言い伝えを引っ繰り返されたらたまらないだろう。ただ、全ての天皇陵がそうだと言うわけではない。

(惣村と雑賀衆、三好衆、根来衆)

もう一つは、戦国時代のこと。信長や秀吉はこの地で、雑賀衆とか三好衆とか根来衆の平定に手こずっているのだが、なぜ上杉とか武田のような大名がいなかったのかということについて。中世、このあたりは荘園がびっしりと位置していたのだが、室町末期からは「惣村」-自治性の強い村落集団―が多数位置するようになる。荘園の支配権をめぐっていくつもの勢力が相争い、支配権が曖昧になったところを、農民たちが突いたのだ、ということになっている。

「惣村」は、紀ノ川の周辺に多い。そして惣村との関係は不明だが、室町時代から雑賀衆とか三好衆とか、一種の傭兵集団の存在が知られるようになる。多分、農家の次男坊、三男坊、あぶれ侍などの集団だろう。黒澤明の「七人の侍」に、その原初的な様が描かれている。彼らは近傍の堺で生産される鉄砲を持ち、強い武力を誇った。

根来衆というのは、このあたりの根来寺の僧兵である。根来寺は中世商業都市の体裁をなし、兵力も保有していたのである。

京都からこの紀州・吉野のあたりを見るとすごい奥地に見えるのだが、実際には海に面しているし、堺は近いし、紀ノ川で内陸まで行けるので、実際には先進地域だったのだろう。

(江戸時代の麻酔医・華岡青洲)

だから、とんでもない辺鄙な内陸にある華岡青洲のクリニック兼医学校に、江戸時代、全国から患者、学生が集まったのだ。華岡青洲(1760年~1835年)のクリニック跡は、和歌山から紀ノ川に沿って40分強、内陸に入った丘陵地帯にある。彼は世界で初めて全身麻酔を施して乳がん摘出手術を行った。麻酔のための薬は、彼が何十年もかけて、トリカブトなどの薬草から開発したものである。その人体実験で彼は母を失い、妻を失明させたとされている。クリニック兼医学校は、当時のままに再建されている。木造民家が数軒並んでいるといった感じの、質素なものである。

風光明媚な田園地帯にあるのだが、ここでは青洲の父もクリニックをやっていた。付近に農家が数軒あっただけだろうこんな奥地で、どうやってクリニックの経営が成り立ったのかはわからない。

(大国主神社)

次いで「猫の駅長」のいる貴志駅に行った。「駅長」は、勤務時間なのに寝ていた。
この近くに「大国主神社」がある。出雲や大国主は飛鳥近辺でその名が頻出する。そのことについては後述するが、この紀ノ川流域にも大国主神社がある。

大国主氏は、その昔、兄弟の迫害を逃れてこの地にやってきたのだそうだ。これは古事記や日本書紀に書いてあることが、ここで起きたという置き換えフィクションで、神社も古来からあるものではない。嵯峨天皇が右言い伝えを事実にするためか、この地に818年に造営している。これはフィクションだとしても、和歌山で銅鐸が多く発掘されているのは事実である。銅鐸は北九州・出雲の方から伝わってきた可能性が強いとされている。

(室生寺)

最後に室生寺だが、これは和歌山から紀ノ川沿いに鉄道で行こうと思っていたが、大阪経由の方が速いということで、大阪に戻って奈良からレンタ・カーで行った。昔修学旅行か何かで行った記憶がうっすらある。当時は寺社見学が嫌いで、なんでこんな山奥まで時間をかけて来るんだ、自由行動ができないじゃないかと思ったものだ。

今回は、感嘆した。景色の美しさに。談山神社と似たような、山腹に木々に包まれてある社堂の数々。すばらしい。西欧の教会はこれほど大きな領域を取らない。こういう寺は、教会よりは修道院に似ている。

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