明治日本は自分のカネで大きくなった わけでもない
今NHKで渋沢栄一の大河ドラマをやっている。同じ登場人物、同じ歴史を手を変え品を変え俳優を変えで、NHKも大変だなと思う。まあ、日本ではNHKがハリウッド、あるいは日本文化の一大陳列場のようになっているので、ご同慶の至りと言うべきか。
で、渋沢栄一のことなのだが、彼もまたいくつもの神話で取り囲まれている。その中の一つに、「一人で500もの株式会社を立ち上げた」というのがある。そして、これは国内の資金だけで実現したことになっている。さらに渋沢個人を越えて、「明治日本の経済発展は、日本の国内資金だけで実現された。それが現代中国のケースと根本的に違うところだ」という夜郎自大の見方がある。僕も後者を信じていたのだが、調べてみるとそういうことでもなさそうだ。というわけで、その調べた結果をここでご紹介する。時間があれば、日本をめぐる神話の数々について検証したものを本にまとめるつもり。
古今東西、増殖、つまり資本主義を否定し、今あるものを全部公平に分配しろという声は、絶えない。しかし、わらしべ長者の民話のように、知恵で富を築くことも古今絶えず、それが格差を伴いつつも、全員の生活水準の底上げを実現してきた。だから僕は、「資本」=元手にこだわる。元手がなければ機械も買えず、工場も建てられない。
では、明治の日本は、どういう資本をどう投資して大きくなったか? 明治初期の統計は不備なのだが、どうも経済成長のテンポは割と控えめなものだったらしい。岡崎哲二東大教授は、1885年から1936年で年平均実質経済成長率は3.1%で、米国とほぼ同等であったと推計している。これは、この間でGDPが5倍弱増加することを意味する。
けっこう高いのだが、清戦争勝利で得た賠償金で金本位制を樹立するまでは、日本経済への海外での評価は低く、起債の条件が厳しかったため、1900年前後までは外国で起債できなかったのである。
日本は江戸時代、酒造、日用品製造、質屋、関西の銀経済圏と関東の金経済圏の間の両替ビジネスで、随分国内資金を貯めていた。更に開国で生糸や茶などの輸出が急増し、国内価格を釣り上げたことで、GDPは65%上昇したと推定する向きもある。また不平等条約で日本は関税設定権を奪われていたが、それで安価な綿糸、鉄などが流入し、これら品目の国内価格を下げたことも、日本に有利に働いた。もっとも輸入需要ばかり増えて、1870年には輸入が全貿易額の70%を占めることになってしまったが(「日本の開国が証明した貿易の効果」柴山千里)。
更には明治9年、政府は士族の帯刀を禁止した上で、彼らへの扶禄支給を廃止。手切れ金として公債を交付した。要するに、紙きれ一枚で士族を解雇、これで当時の国家歳出の3分の1相当を浮かしたのである。
また明治6年の地租改正で、それまでの年貢は金納に代わり、同時に農民が太閤検地以来、占有してきた土地の売買が認められた。政府は既に明治4年の廃藩置県で、全国の土地の差配権を確立。そこからの年貢も独り占めしていたのだが、これを金納に換えたということ。税金を金銭で払えない困窮農民は、自分の土地を新興の地主に売り、自分は小作に転落。税金は地主が一手に払うこととなる。つまり、明治政府は全国の土地をカネに換えたということだ。これで、日本の農村では小作農・貧農が急増し、2・26事件で反乱将校たちが反乱を正当化する事由となるのだが、明治政府はその歳入の8割をこの地租で賄って、列強に関税率設定権を奪われていたことの埋め合わせとした。
明治初期、加えて外資も少しは入ってきていた。香港の英国系資本Jardine Mathesonはトーマス・グラバーを通じて幕末から、日本(薩摩藩・長州藩・坂本竜馬等)に融資をしていた。グラバーは特に三菱との関係を築き、明治になると倒産したかっこうで、グラバー商会の資産を三菱に移し(この出典はインターネットのみ)、三菱の長崎造船所やキリンビールの立ち上げを手伝う。彼は最後は引退して、奥日光で釣りをしていたそうだ。だから金額はわからないのだが、三菱系の企業には英国系資本が入っているだろうし、都心の土地も随分持っているようなのだ。
もう一つ、大所では英国系のOriental銀行がある。これは19世紀半ば、インド発祥の銀行で、アヘンなどを扱って大きくなった。明治初期の大蔵担当、井上馨や大隈重信に重用され、外債の募集、鉄道建設、造幣局の創設など、外国の資金・技術と日本の橋渡し役を果たした。明治13年には横浜正金銀行、同15年には日本銀行の設立にも関わっている(「明治政府と英国東洋銀行」立脇和夫)。
また井上馨が公職を辞して設立した先収会社は三井物産の源流になったのだが、Oriental銀行は当初から、三井と緊密な関係を結んでいる。明治8年、三井が倒産の危機に瀕した時には、Oriental銀行が100万ドルを貸し付けて三井を救っているのだ。Oriental銀行は経営に失敗して、明治17年に破綻しており、それもあって記憶されていないのだろう。
因みに渋沢栄一は井上馨の第一の部下だったこともあり、三井との関係が深かったようだ。彼はフランスのユダヤ系資本にもツテがあったので、「渋沢が立ち上げた」株式会社の中には外国の資本が当初から入っているかもしれない。
明治政府は当初から、Oriental銀行以外にもいくつかの外国銀行の活動を認めていた。外銀はその規模で日本の銀行を圧倒していた。しかし明治44年になると、融資額では外銀は邦銀の2.5%、預金額では1%という微小な地位に転落している(「戦前期の在日外国銀行」 立脇和夫 早稲田商学部紀要第358号)。この間、外債の役割が急上昇したのである。
なお、明治15年設立された日本銀行の資本金にも外国人の金が入っているかもしれない。日本銀行の資本金は明治の設立時の1億円(現在の3000億円~1兆円相当)から変わっていないので、もし外国資本が入っているとするなら、今でも大きな発言力を持っているはずだ。インターネット上では、ロスチャイルドの名が喧伝されている。
そこで、日ロ戦争直前から急に増えた、海外での起債に話を変える。明治政府は明治3年に、お抱えの外国人顧問で元英国外交官のHoratio Nelson Layに100万ポンドの起債を授託している。鉄道建設資金のためだった。明治政府は私募債のつもりだったのが、このLayさん、ロンドン市場で、返済10年、9%もの高利子付きで公募して、利子が自分の個人口座を経由するようにした(多分ピンハネした)ことでクビになる。それ以来、明治政府はOriental銀行を重用したのである。
明治政府は、明治6年にも240万ポンドの起債をしている。利率は7%。しかしこれら国債の償還は財政上、非常な負担となったし、当時の日本経済の信用力では低利の好条件での起債は無理だったため、以後日清戦争勝利での賠償金で金本位制を確立、起債条件を好転させるまで、政府は外債の発行を行わなかった。
明治13年には大隈重信・大蔵卿が、貿易赤字を抑えるための国内産業振興用として、5000万円(当時の政府予算の8割相当)の外債募集を提議して、それも原因で翌年政府を追われている。だから、日清戦争後までの日本経済は、あまり外資に依存することなしに、成長を実現したのである。日清戦争も、国内の資本だけで遂行したことになっている。
明治32年になってやっと、第2次山県内閣の松方蔵相によって26年ぶりの外債が発行された(「ウォールストリートと極東」 三谷太一郎著)。松方は明治14年、緊縮財政を唱えて大隈放逐の旗を振った方だったので、皮肉なことである。この外債発行を可能にした日清戦争での賠償金だが、日本円で約3.5億円。当時の国家予算は8500万円。日清戦争の戦費は1.5億円であった(2016年3月29日 エコノミスト誌所載 板谷俊彦)。
これと違って日ロ戦争では、欧米から6回の外債発行で、計1.3万ポンド(約13億円)を借り入れた。うち3分の1ほどは、有利な条件での借り換え用であったが、当時の一般会計歳入は2.6億円だった時代に13億円の借金を背負ったというのだからハンパない。1907年末には、日本の国債発行累積額は約22億7000万円になっていたが(うち約10億円が国内で発行)、その年のGNP推計額は37.5億円である。これら国債の完済は、1986年になってのことだったと言う(Wikipedia)。
なお、この頃の1円は今のカネでいくらくらいに相当するのかということだが、明治4年、1両=1円としてスタートした時には、1円=1ドルと定められた。ところが1897年に金本位制に移行した時には、1ドル=2円と定められて、円はあっさり半分に切り下げられている。だから明治前期の円は毎年減価していったものだろうから、計算が難しい。何かのセミナーだったか、白川日銀総裁(当時)は、明治15年の1000万円は現在の300億円に相当すると言っている。つまり当時の1円は現在の3000円に相当するということになる。
日ロ戦争後も、日本政府は外債発行を続けた。第一次大戦までに合計14回、計7.3億円を起債している。この中には、政府保証つきの満州鉄道社債も多かった(「ウォールストリートと極東」)。日本は満州開発から外資を締め出しつつ、外国から金を借りて満州開発利権を独占したようだ。更に大正12年の関東大震災でも、多額の借款を得ている。一方、大正3年~7年の第一次世界大戦で、日本は28億円もの多額の経常黒字を稼ぎ、債務国から債権国へと躍り出ている。
以上をまとめると、明治以後の日本の発展は、外国資本を大量に利用し、世界の市場との関係で実現されたもの、ということになる。「外資に依存した現代中国の経済発展と違って、日本の経済発展は自力で実現された」と胸を張ることは夜郎自大だ、という結論になるのだ。ただ、現在ロシアや中南米諸国が悩まされているような、国内資本が海外に流出してしまうという問題は、明治期の日本にはなかった。国民は働き、政府は土地民有化の上りを税金で搾りたて、富国強兵にまい進したということだ。
外国資本を利用したことで申し訳ながる必要は全然ない。ヴェニスもオランダも英国も米国も、経済発展のための資本の多くを、海外との結びつきで得ているからだ。ヴェニスはエジプトとの交易、オランダはヴェニスを初めとする全欧州の資本、英国はそのオランダからの資本、米国はオランダ、英国等からの資本で経済発展の離陸を実現している。
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