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日本・歴史

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2019年2月10日

明治以来150年間の日独関係 一人の日本人外交官の回想

(これは、私の尊敬する先輩、稲川照芳・元在ハンガリー大使が、戦前の外務省電報等を調査の上書いた珠玉のような原稿です。
たまたま今週メルケル・ドイツ首相が来日しましたが、日独関係は重要であるにもかかわらず、日英・日仏関係ほどの関心が払われていません。
この原稿は、そうした日独関係をそもそもの初めにさかのぼって調査・考察したものです。中でも、戦前の日独枢軸結成に至るまでの経緯で、どれだけ双方に互いに対する不信、猜疑心があったか、そして日本側はナチの反ユダヤ政策に疑問と懸念を示していたかを、当時の公電に基づいて指摘している点は白眉であると思います)

忘備録

明治以来150年間の日独関係―一人の日本人外交官の回想
(「三国同盟条約」を中心に第二次世界大戦、そして戦後)
          平成31年2月初め      稲川照芳

はじめに

私は1968年より2006年秋まで外務省に勤めたが、その外交官生活40年弱と退職後の生活の中で常に頭にあったことは過去の日独関係とその将来についてであった。その中で印象に残っているのは、私が70年代初めと90年代後半の二回にわたってベルリンに勤務したときの総領事公邸が、かつて第二次大戦中ナチスの大物ゲーリングの狩りの別荘であり、戦後ドイツが敗北した後この館は連合軍に接収されて、その後ベルリン市政府に払い下げられて西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が日本と外交関係を結んでから市政府から日本政府に貸与された。それから、1979年の初めイランで所謂ホメイニ革命が起こった時に在留邦人の引き上げ援助が問題になり、折から米・英・仏・西独間で軍用機を使って引き揚げる協議が持たれるとの情報をボンで入手してその情報を東京の本国に報告すると本省から、その協議に参加するようにとの訓令を受けたことがある。訓令を受けて同僚と連れだってシュットットガルト郊外の米軍基地で行われた協議に参加した。米軍の司令官は、「日本からこれらのガイが来たから親切にしてやれ」と冒頭に挨拶してくれたが、ある国の代表(軍人将校)は西独軍人に向かって「日本は君たちの友人だからそちらで面倒を見ろ!」と発言した。私は、今日になっても、戦前の日独関係がまだ尾を引いているのか!と暗澹たる気持ちを抱いた記憶がある。更に90年代初めのヂュッセルドルフ総領事時代に或るゴルフ・コンペの機会にナチス時代のドイツの外務大臣フォン・リッベントロープの御子息と知り合った。彼は、戦後、大学への入学も拒否されるなど苦労したこと、戦後かつての駐独大使であった大島氏を神奈川の自宅に訪ねた、という。

第二次世界大戦後の日独関係は確かに良好と言えようが、第二次世界大戦中の両国関係は緊密だった,と一般には言われる、あるいはそれ以前の両国関係はどうだったのか、これらについて近年拙訳「ドイツ外務省」(えにし書房、2018年)の翻訳中私は根本的に問い直してみよう、と思った。

確かに私の接したドイツの外交官たちに関する限り非常に親切だったし、日・西独の政治協力も活発であった。しかし、昨年(2018年)3月以降私が東京の飯倉にある外交資料館を訪ねて資料-資料自体焼失した物もあり、完全なものとは言えなかったが―にあったった限りでは、ナチス時代の日独関係は決して表面上の友好関係、平板とは言われつつも内実はそうではなかったし、日本外交も拙劣でさえあった(日独伊三国同盟条約も大急ぎで結ばれたし、就中、一旦合意したのに参戦の義務化をもう一度ドイツ側が主張し、これに対し日本側は折れず、日独双方が意見の一致を見ず。また戦争中も日本はドイツにソ連と和平を結ぶように勧告してもヒトラーはそれを拒否したり、第一、日独伊の最高戦略会議も開かれなかった。これで同盟関係と言えるだろうか?日米安保条約関係を生かすためにも参考になろう。このように実情を見るとナチス時代の日独関係は平板で平穏であった、とは言えない。それを確認できた外交史料館通いは小生にとってはそれなりに価値あるものであった。

明治維新よりナチス時代までの日独関係も三国干渉で日本は反発し、第一次世界大戦では日独は敵同士であったし、ドイツはむしろ中国との関係を重視していた。
丁度去年(2018年)は私にとって外務省入省以来50年にあたり、明治維新後150年経ち、日独関係もほぼ同じくらい(正確に言うと、日本とドイツ・プロイセンとは既に江戸時代末期から外交関係にあり、日本はドイツ帝国とは1871年から外交関係にあった)の長さである。だから大げさに言えば、明治維新以降の日独関係について小生なりに個人的に振り返ってみた。
尚、文中の私の解釈、見解は当然個人的なものである。

             もくじ
              
                                     ページ
はじめに                                  1
                                       
Ⅰ.明治維新から満州事変以前の日独関係 
                   4
Ⅱ 満州事変以降の日独関係      4
(1) 全般的な流れ                             4
(2) 満州事変と日独関係                          4
(3) ナチス政権の誕生                           5
(4) 反ユダヤ人政策 6
(5) 日独防共協定の締結 6
(6) 所謂「防共協定の強化問題」 9
(7) 独ソ不可侵条約の締結 10
(8) 日独伊三国同盟条約の締結 11
(9) 日ソ中立条約の締結 16
(10)独ソ戦の開始 19
(11)日独産業・技術交流 21
(ⅰ2)第二次世界大戦を振り返って
21
Ⅲ 第二次世界大戦後の日独関係 22
(1)直接統治と間接統治 22
(2)ニュルンベルク国際軍事法廷と東京裁判(ベルリン封鎖を始め冷戦の進行) 22
(3)サンフランシスコ講和条約とパリ条約(ベルリンの壁構築からドイツ統一) 23
(4)西ドイツはNATO(北体制条約機構)、東ドイツはワルシャワ条約木機構に23
(5)ソ連(ロシア)との関係                         23
(6)日独共通の立場―核不拡散条約(NPT)                25
核兵器の問題                             25
   (二重決定)
   (核兵器禁止条約)
7)日独両国と隣国との関係は微妙                      26

Ⅳ.戦後の大半を日独関係に関係した一人の外交官として           27

Ⅴ. これからの日独関係                         27
  安全保障、少子高齢化社会、地方の発展、障害者等弱き立場の人々への配慮
 
終わりに  
                               29
参考文献                           30


Ⅰ。明治維新から満州事変までの日独関係
明治維新以降第二次世界大戦までの日独関係は、日本が引き起こした満州事変を境として二分されると思うが、満州事変までの日独関係は紆余曲折があったと言えよう。確かに両国は後れて近代化の道を歩み、近代国家として発展した。日本は東洋にあってその遅れを取り戻すべく、ドイツに範をとり政治、学問、医学、軍事、音楽などの分野に於いて西欧から「お雇い外国人」を日本に招いたり、国家に有意な日本人をドイツを含め欧米に留学させて、さながら日独の関係は子弟関係の様であった。しかし、東洋でいち早く近代化の道をたどった日本は帝国主義でも先頭を走り、先ず1895年、日清戦争で清国を屈服させた。日本は下関条約で清国から遼東半島を割譲させたものの、これに対してドイツはロシアの誘いを受けてフランス、ロシアと共に三国干渉を行い、日本はやむなく遼東半島の領有を諦めた。これに対しては、日本では「臥薪嘗胆」が叫ばれるなど激しく反発した。その後1897年、ドイツはドイツ人牧師の殺害を口実に青島を軍事的に攻めて清国から膠州湾を租借した。これは実質的には植民地化であった。折からドイツのヴィルヘルムⅡ世皇帝は、東洋に対し「黄禍論」の主張を強めた。そしてドイツは民間会社とは言え、1905~6年の日露戦争の最中ロシアのバルチック艦隊の船に燃料である石炭を供給したりして、とても中立とは言えなかった。ドイツのこのような行為にはヴィルヘルム皇帝にとってロシア皇帝は従弟に当たる、ことも関係していたとも言われる。このようなドイツのやり方については日本のドイツに対する批判も強かった。しかも、第一次世界大戦が勃発した当初の段階で日本は日英同盟を奇貨としてドイツが中国から租借していた膠州湾を攻撃してこれを陥落させ、第一次世界大戦後は勝利国として君臨し、国際連盟理事国として委任統治の委任を受けた、として実質的には日本はこれを支配下に置いた。第一次世界大戦は「日独戦争」と呼ばれたほどであった。当然ドイツの国民、国防軍、外務省では、「日本は恩知らず」と日本への批判が強かった。こうしてみると、明治維新以降第一世界大戦終了までは決して日独両国の関係は平穏で滑らかであったとは言えなかった。こうした中でも日本の軍部特に陸軍の中ではドイツの軍事技術に対する敬意は依然として高かった。

Ⅱ 満州事変以降の日独関係
満州事変以降第二次世界大戦終了までの日独関係はどうであっただろう?日独伊三国同盟条約締結を中心に見てみよう。一般の読者には専門的に過ぎる部分もあろうが敢て記述してみよう。
(1) ナチス政権下(ナチスが政権に着くのは、1933年1月30日)の日独関係
当初はドイツでは日本に関する関心は高くなかった。しかし、日本が1933年3月に国際連盟を脱退し、1934年にはワシントン5か国体制から脱退して、折からドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、35年3月、ヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して軍備の充実に踏み切った。こうして日独両国は国際的孤立と国際情勢の現状打破の道に踏み込み、こうした中でドイツのナチス党が日本との提携に着目していった。この間にナチス党は国防軍、外務省などで影響力を増してゆくにつれて日独提携強化の考えは浸透してゆくことになった。しかし、ナチス政権の人種差別的政策、就中反ユダヤ人政策は日本にとっては懸念の材料であった。それに、ドイツの国防省、外務省などでは、軍事、経済関係での中国重視の政策が続いていた。それでもナチス政権の誕生後、同政権の共産主義に対する敵対的姿勢は次第にファシズムのイタリアと共に日本との関係を強化する方向に進み、先ず日独間で防共協定が結ばれ(1936年11月)、これにイタリアが加わった(1937年秋)。更にこの協定に軍事的色彩を強める、所謂「防共協定の強化」を交渉することになった。然し日本が「小田原評定」宜しく独伊の方向で決定できずにいる間、1939年8月23日にドイツはソ連との間で独ソ不可侵条約の締結に踏み切り、一時日独関係は後退を余儀なくされた。この間にドイツはフランスを屈服させるなど西欧では、英国を除いてドイツは破竹の勢いで覇権を達成していった。この間に日本では第二次近衛内閣が成立し、外務大臣には松岡洋右が任命され、新内閣は枢軸強化の方針の下にドイツとの関係修復に乗り出し、ドイツからもスターマー公使が来日して日独伊の三国同盟条約が交渉されて、同条約は1940年9月27日にベルリンで締結された。それに先立ち、日本はソ連との間で日ソ中立条約の締結を打診しており、この条約は翌年1941年4月に松岡外相訪ソの折に締結された。そしてこの年の6月に独ソ戦が勃発し、一方日米交渉が行き詰まり、1941年11月には米国は所謂ハル・ノートを提示した。これについて東郷外相は在京ドイツ大使のオットに、米国は、三国同盟が日米交渉を進めるにあたって最大の問題である、との趣旨を伝えていた。そのほぼ一週間後の12月8日の早朝日本は真珠湾を攻撃して、太平洋戦争が勃発した。ドイツはその直後の12月11日に対米宣戦布告を行い、ここに第二次世界大戦がはじまった。以上が大きな流れであるが、以下もう少し詳細に見てみよう。

(2) 満州事変で日本の軍国主義化は激しい国際的批判を惹起したが、満州事変自体ではドイツの日本への接近はなかったようであった。事変後国際連盟が派遣したリットン調査団(団長のリットン卿は英国人)には新たに連盟理事国になったドイツも調査団に団員を派遣しているが、その団員が目だって日本を擁護することもなかった。その頃のドイツでは、東洋の問題にドイツは首を突っ込むべきではない、関心を持つべきではない、との意見が強かったし、日本に対しては第一次世界大戦の経験から日本は信用できない、という声がドイツの国防省や外務省に強かった。

(3) ナチス党が政権に着いて以来ナチス党を中心とするドイツ政府の中心課題は、ヴェルサイユ体制からの脱却、ユダヤ人の排除、共産主義との戦い、それに欧州東方への生存圏確保であった。そこで折から新体制の下で世界からの孤立の道を歩んでいた日本との提携の模索が重要な課題となった。しかし、ドイツは当初軍事、経済面で中国との関係を進めておりードイツは中国に対して武器、技術を輸出しており、中國からはタングステンなどの原材料を輸入していたー。そして共産主義のソ連に対抗する為にも、日本が中国との戦争を本格化し(1937年7月)以降は日本と中国との間を仲介しようとした。その頂点がトラウトマン―当時の在中国ドイツ大使―であったが、この仲介の動きは翌年1938年1月の「国民政府を相手にせず」という当時の日本の近衛首相の発言で頓挫した。

(4) 反ユダヤ人政策
ナチス政権の人種差別政策就中反ユダヤ人政策には日本も強い懸念を抱いていた。実際日本の武者小路公共大使はベルリンでこれへの懸念をドイツ外務省に表明している。ナチスは大々的な反ユダヤ人政策を進め、例えばノーベル賞受賞が決まったアインシュタインをユダヤ人であるが故にその国籍を剥奪した。私個人の思い出として、平成天皇ご夫妻が1993年秋にドイツを公式訪問された。当時ヂュッセルドルフ総領事を勤務しており、ご訪問の準備にあたっていた私に本省から訓令が来て、両陛下がノルトライン・ヴェストファーレン州ベーテル村のボーデンシュヴィンギッシュという障害者施設を御訪問したいと仰っているので,調べて来い、という。私はベーテルという村もボーデンシュヴィンギシュという施設も知らなかった。そこでその村と施設を調べに行った。重症の障害者はこの施設で保護され、軽傷の障害者の一部は村の郵便局や大工の工場で働いていた。村の施設や民間の施設に障害者が参加しており、いわば共生の典型であった。この障害者施設は第一次世界大戦以前に当時の代議士であったボーデンシュヴィンギシュによって設立され運営されていたが、ナチス政権は、ドイツ民族の優秀性を示すために、ユダヤ人排斥を進めるのみならずロマ・シンティ(ジプシー)を抹殺し、障害者を表から見えないようにした。この関連でこの施設も廃止した.第二次世界大戦後この施設は再開され、陛下はこの施設を慰問された。その後の両陛下の太平洋戦争の激戦地だった場所や災害に見舞われた人々や場所を慰問されるお姿は一貫しておられる。

(5) 日独防共協定の締結
ナチス政権では、1935年春から夏にかけてリッベントロープ(当時、軍縮担当の特命全権大使。同人は外務省とは通りを隔てた場所に自分の外交事務所を構えていた。)と当時の駐独日本大使館付き陸軍武官であった大島氏との接触で、第7回コミンテルン(国際共産主義運動)が日独のファシズムに対抗する姿勢を示したのに対して11月にリッベントロープ事務所のラウマーが試案を作成してヒトラーの了承を得て、この案が大島武官の了解を得、非公式折衝の域を超えて正式に防共協定を結ぶための本格的は交渉となった。翌年、即ち1936年4~5月に有田外相の下で「漠然たる約束を成す」交渉が武者小路大使に訓令された。そして武者小路大使は6月にヒトラーと会談し、(この頃ドイツ軍のラインラント地帯ーヴェルサイユ条約で非武装地帯となっていた―への進駐が実現)、日本との協力強化の考えを得、防共協定交渉は進展した。当時まだドイツの国防省、外務省(国防省が対中政策で軍事、経済面での関係強化の方向に進もうとしたのに対し、外務省は極東の問題に深入りしない、したがって中国一辺倒の政策は採らない)の大半は日本との同盟関係に入ることには消極的で、反共というイデオロギー面での協力ぐらいならば止むを得ない、というものであった。その後ドイツ側ではリッベントロープが、日本側では大島武官が中心となり話し合いが続けられ、協定案は防共を趣旨とするものと、ソ連を対象とする軍事的な意味を持つ附属の議定書から構成されることになった。尚、軍事的な意味合いを持つ附属の議定書は大島武官の主張と言われる。これに対し、7月、日本外務省はドイツ側提案に対し、(イ)ソ連を過度に刺激しないこと(ロ)英国に不安を抱かせないことに注意喚起し、更に協定を必用な範囲にとどめることとして共産主義の破壊工作に関する情報交換と対策に関する意見交換をすることにする、とのコメントを行った。これについて日本側での意見はまとまらなかったが、ようやく10月に協定は仮署名を終え、枢密院本会議で承認手続きを経て(このころになってもドイツは中国との間で軍事協力を進めていたので、流石に武者小路大使も強い懸念を抱いた)、1936年11月25日にベルリンでリッベントロープ特命全権大使(彼は駐英国大使に任命されたばかりであった)と武者小路大使の間で協定は調印された。尚、お気づきのようにドイツ側の調印者がリッベントロープ特命全権大使となっており、通常はこの種の重要な条約乃至協定の署名者は外務大臣(当時はノイラートが外務大臣)となっているが、この協定ではそうなっていない。この間の事情は明らかではないが、私の推測であるが、リッベントロープの権力がヒトラーの信任が厚くて強かったこと、リッベントロープと外相ノイラーの間が緊張関係にあり、競争関係にあったこと、協定がナチス党のイニシアチブで結ばれたことなどがその理由になったのではないか。その後ドイツは満州国との間で通商協定を結んで事実上満州国を承認した。其れと並行してドイツは中国から軍事顧問団を引き揚げ、正式に満州国を承認した(翌年秋には、イタリアが防共協定に加わり、後にはハンガリー、スペインがこれに加わった)。
なお、翌年3月に堀内駐米大使は、有田外相に「日本が全体主義国家との盟約回避するよう決意したように伝えられるが、これは日米関係の悪化を究極に於いて平和裏に解決せんとする余裕を残したものである」と公電で伝えていた。

註 日独防共協定
   本文
 共産インターナショナルに対する日独協定
    昭和十一年(1936年)十一月二十五日公表
    昭和十一年十一月二十五日ベルリンにて署名
    同年十一月二十七日公布

大日本帝国政府及独逸国政府ハ、共産「インターナショナル」(所謂「コミンテルン」)ノ目的カ其ノ執リ得ル手段ニ依ル既存国家ノ破壊及暴圧ニ在ルコトヲ認メ、共産「インターナショナル」ノ諸国ノ国内関係ニ対スル干渉ヲ看過スルコトハ其の国内ノ安寧及社会ノ福祉ヲ危殆ナラシムルノミナラズ世界平和全般ヲ脅スモノナルヲ確信シ、共産主義的破壊ニ対スル防衛ノ為努力センコトヲ欲シ左ノ通り協定セリ
第一条 締約国ハ共産「インターナショナル」ノ活動ニ付相互ニ通報シ、必要ナル防衛処置ニ付協議シ且緊密ナル協力ニ依リ右ノ処置ヲ達成スルコトヲ約ス
第二条 締約国ハ共産「インターナショナル」ノ破壊工作ニ依リテ国内ノ安寧ヲ脅サルル第三国ニ対シ本協定ノ趣旨ニ依防衛処置ヲ執リ又ハ本協定ニ参加センコトヲ共同ニ勧誘スヘシ
第三条 本協定ハ日本語及独逸語ノ本文ヲ以テ正文トス本協定ハ署名ノ日ヨリ実施セラルヘク且五年間効力ヲ有ス締約国ハ右期間満了前適当ノ時期ニ於テ事後ニ於ケル両国協力ノ態様ニ付了解ヲ遂グヘシ
右証拠トシテ下名ハ各本国ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本協定ニ署名調印セリ
昭和十一年十一月二十五日即千九百三十六年十一月二十五日「ベルリン」ニ於テ署名調印セリ
      大日本帝国特命全権大使
       子爵 武者小路公共(印)
     
      独逸国特命全権大使
       ヨアヒム・フォン・リッベントロープ(印)

共産「インターナショナル」に対する協定の秘密附属協定
大日本帝国政府及独逸政府ハ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦政府カ共産「インターナショナル」ノ目的ノ実現ニ努力シ且之カ為其ノ軍ヲ用ヒントスルコトヲ認メ右事実ハ締約国ノ存在ノミナラズ世界平和全般ヲ最深刻ニ脅スモノナルコトヲ確認シ共通ノ利益ヲ擁護スル為左ノ通協定セリ
第一条 締約国ノ一方カ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ヨリ挑発ニヨラサル攻撃ヲ受ケ又ハ挑発ニ因ラサル攻撃ノ脅威ヲ受クル場合ニハ他ノ締約国ハ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ地位ニ付負担ヲ軽カラシムルカ如キ効果ヲ生スル一切ノ処置ヲ講セラルコトヲ約ス
前項ニ掲クル場合ノ生シタルトキハ締約国ハ共通ノ利益擁護ノ為執ルヘキ処置ニ付直ニ協議スヘシ
第二条 締約国ハ本協定ノ存続中相互ノ同意ナクシテ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦トノ間ニ本協定ノ精神ト両立セサル一切ノ政治的条約ヲ締結スルコトナカルヘシ
第三条 本協定ハ日本語及独逸語ノ本文ヲ以テ正文トス本協定ハ本日署名セラレタル共産「インターナショナル」ニ対スル協定ト同時ニ実施セラレルヘフ且之ト同一ノ有効期間ヲ有ス
右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本協定ニ署名調印セリ
昭和十一年十一月二十五日即チ千九百三十六年十一月二十五日「ベルリン」ニ於イテ本書二通ヲ作製ス
      大日本帝国特命全権大使
        武者小路公共(印)
      独逸国特命全権大使
        ヨアヒム・フォン・リッベントロープ(印)

(6) いわゆる「防共協定の強化問題」
その後ヒトラーは1937年11月5日に極秘に少数の外務省、国防省、党の幹部に対して、今後のドイツの進むべき方針を示した(ホスバッハ記録).その中にはオーストリアの併合、チェコスロヴァキアの解体、ズデーテン地方のドイツへの割譲を含んでいた。そして翌年1938年2月にはリッベントロープが外相に就任した。それに先立って大島武官は新年の挨拶にリッベントロープを訪ねた。その機会にリッベントロープより、「ドイツと日本を密接に結び付ける方法はないだろうか?」との打診を受け、大島武官は日本の陸軍と連絡を取り、陸軍参謀本部は研究に入り、対独提携強化に乗り気になった。更にリッベントロープ外相は7月、ヒトラーの了承を得て、対象をソヴィエトに限らないこと、単なる協議に留まることなく相互援助を含み、これを日独伊の三国同盟条約として案を大島武官に提示してきた(「外務省の百年」402,403ページ)。
この案は、第一条として、締約国の一が締約国以外の第三国と外交上の困難を生じた場合には各締約国は取るべき共同動作について直ちに協議を行う。
条約第二条として、締約国の一が締約国以外の第三国から脅威を受けた場合には此の脅威を除去する為に他の締約国はあらゆる政治的かつ外交的支援を行う義務がある。
条約第三条として、締約国の一が締約国以外の第三国から攻撃を受けた場合には他の締約国はこれに対し武力援助を行う義務がある。
 このように当初のドイツ案は非常に軍事同盟の色彩が強いもので、かつ相互援助義務が主眼であった。

これに対し日本で検討されたのは、「日独防共協定を強化」しよう、というものであった。そして、日本外務省はドイツとイタリアと個別に提携の強化を図る、ソ連については対ソ牽制を目的とし、攻撃的な意味を避けて防御的な意味を有する攻守同盟というものにし、イタリアに対しては、イタリアにはこれをバック・アップする、というものであった(当時イタリアは地中海地域の覇権を巡って英国と争っていた)。これに対して日本陸軍の希望は、ドイツに対しては防共協定の精神を拡充し、これを軍事同盟に導き、イタリアに対しては主として対英牽制に利用し得るように、各個に秘密協定を締結する、というものであった。日本の外務省は、日独間にソ連を目標とする相互援助協定を締結する、そしてドイツがソ連以外との関係で戦争を起こすがごとき場合に於いてもソ連が右戦争に参加しない限りわが方は自由に決しうる余地を取り置くとともに、ソ連の当該戦争に参加するのを牽制することを必要とする、締約国の一方が本条約に規定する場合に際し一方に与えるべき援助の内兵力援助の実行方法に関しては当該官憲に於いて予め協議のうえ協定すべし、との案を持っていた。要するに日本外務省は、1.ソ連および共産「インターナショナル」の破壊工作に対する防衛を主眼とし、英米を正面の敵とするものではない。2.本協定によって負う兵力援助義務については先ず「直ちに協議に入る」こととし、かつ秘密協定付属協定によりわが方が与える兵力的条件及びこれの実行方法を明確かつ詳細に規定することが必要である、との考えを示した。その後、総理大臣、外務、陸軍、海軍、大蔵各大臣の協議(五相会議)が何度も持たれたが(この間に、大島武官は特命全権大使に昇格。尚、外務大臣は、一時期を除いて1935年初頭より有田八郎)、五相会議は、概ね外務、大蔵、海軍(「防共協定の延長」を主張)と陸軍(「相互援助の義務化」を主張)の主張が折り合わず、いたずらに小田原評定を繰り返した。(この間の東京での小田原評定ぶりは、「外務省の百年」ペ-ジ413―432に詳しい)業を煮やしたドイツ側は苛立ち、ベルリンの大島大使は陸軍の態度の方向で早く日本の態度を決めてほしい、との矢の催促であった。例をあげれば、1939年4月20日にはベルリンのブランデンブルク門近くのアドロン・ホテルで開かれたヒトラーの誕生日祝いのパーティ-の後で会談した大島大使にリッベントロープ外相は、日本が早く日独伊三国新同盟に加わるように語気強く迫った。そこで大島大使は改めて日本が日独伊の三国同盟を締結するように本省に打電するとともに白鳥駐イタリア大使とともに、これが受け入れられない場合には本国に召還して欲しいと要休した。
このようにして日本が態度を決定しない間に5月22日にはドイツ・イタリア間で日本抜きの独伊同盟が発足し、他方で、独ソ間で独ソ不可侵条約締結に向かって交渉が開始された。また8月にはノモンハンでは日ソ間で戦闘が激化していた。

(7)独ソ不可侵条約の締結
1939年8月23日、日本にとっては突然独ソ不可侵条約の調印が発表された。この条約調印は日本にとっては寝耳に水であり、当時の平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と有名な平沼首相の声明と共に8月28日に総辞職した。もっとも、それをドイツも悪いと思ってか前日の8月22日夕方、オーバー・ザルツベルクにあるヒトラー山荘からリッベントロープ外相は大島大使に電話で、翌23日にモスクワで独ソ不可侵条約を調印すると伝えてきた。大いに驚いた大島大使は、取りあえず「防共協定に違反する」と抗議するのが精一杯であった。23日午前モスクワへの往路ベルリンに立ち寄ったリッベントロープ外相は大島大使に、日独伊三国同盟の締結は殆ど困難になった、それ故にドイツはソ連と不可侵条約を結ばざるを得なくなった、と述べた。その後周知の如くドイツは9月1にポーランンドに侵入し、これに対して二日後に英仏がドイツに宣戦し、第二次欧州戦争となった。
他方、日本では対立相手のソ連と不可侵条約を結んだドイツに対する不信感が強まり、日独間での防共協定強化についての交渉は頓挫することになった。
阿部内閣が発足して外相に野村吉三郎が任命され、大島、白鳥の両大使は更迭され、新たに来栖三郎氏が在ドイツ大使に就任した(12月)。1940年1月16日に別の理由により退陣した阿部内閣に代わって米内首相の下に有田外相が再登場した。然し当初日本の対独姿勢は消極的であった。しかし、1月26日には日米通商航海条約も失効し、日本の苦境も深まった。

 この頃から日本では次第に枢軸関係の強化の傾向が強まって陸軍内部で三国同盟を目指す動きが活発になってきた。4月にはドイツがノルウエー、デンマーク作戦を進展させて、5,6月にはフランスに対する作戦を優位に進め、遂に6月20日にはフランスを降伏させた。これを見ながら日本は南進を進め、「欧州中道外交」から次第に枢軸提携に移行していった。こうした中で7月22日に発足した第二次近衛内閣は松岡洋右新外相の下で日独強化の外交を進める方針を進めることになった。尚、この内閣発足と同時に外相を辞した有田前外相は、後刻振り返って、有田外相下の日独交渉では大島在独大使は訓令(日独防共協定強化は防共協定の延長だと日本は考える、ということをドイツ側に伝えること)を執行しない、したがって外交の一元化も無視され、5相会議も合意できず、いたずらに小田原評定を繰り返したことを皮肉って「日本の国内情勢こそが複雑怪奇」だと回顧していた。

(8) 日独伊三国同盟条約の締結
新たに発足した第二次近衛内閣は枢軸強化の方針を早々に決定した。しかし、8月1日に在京独逸大使オットと会談した松岡外相に対してドイツ側の態度はなおも冷たかった。他方、ドイツはフランスを屈服させたものの英国との戦いは長期戦になりつつあり、ここに日本との提携機運が台頭してきた。
こうした中でリッベントロープ事務所のスターマー(南ドイツ地方ではシュターマーと発音)は公使の資格で訪日することになり、同公使はモスクワ経由で訪日に向かったが、23日モスクワでスターマーと会談した駐ソ大使の東郷はスターマーの訪日目的が日独間の政治的提携の強化であることを察知した。スターマーは9月7日に東京に到着した。松岡外相はドイツからの特使を大げさに迎えることはせず(松岡外相の言)、9月9日にスターマーはオット大使と共に千駄ヶ谷の松岡私邸の裏口から人目を忍ぶように訪問し、日本側に三国同盟条約についてドイツの基本的な考えを説明した。スターマーは、三国同盟条約締結の上はドイツが日本とソ連の間の仲介を行うつもりがあると述べ、これが松岡外相の琴線に触れたようであった。

交渉は精力的に行われ、10,11,12日の3日間で大体合意に達し、14日には渋っていた海軍の同意も得た(海軍は、条約が激しくアメリカを刺激しないかと心配した、という。海軍は未だ米国との長期戦の備えが無かった。また海軍は日本が委任統治で得た南洋群島に付き将来ドイツ領になった後、ドイツが日本に大変高く代償を要求して来るのではないかと、心配したという)。尚、日本側が、スターマーに対し、条約を結ぶ関係上イタリアの同意を得る必要があるのではないか?とドイツ側に問うたところスターマーは、イタリアのことは心配する必要ない、と答えた。
条約は概ね次のようになった。

第一条 日本はヨーロッパ、北アフリカに於いて独伊の指導的地位と新秩序建設を認め、これを尊重する。
第二条 第二条 独伊両国は日本の東アジア(大東亜)に於ける新秩序確立とその支配的な地位を認め、尊重する。
第三条 第三条 締約国中いずれかの一国が、現に欧州戦争又は日支紛争に参入していない一国(註:暗に米国を指す)によって攻撃された時は他の締約国はあらゆる政治的及び軍事的な方法により相互に援助する。
第四条 第四条 本条約の実施の為に混合専門委員会を遅滞なく開催する。(注:即ち参戦は自動的ではなく、あくまでも自主的に決定する、とするのが日本の案―これは最終的には日独間で考え方に違いを来した)。
第四条 本条約は各国がソ連との現存の政治的状態に何らの影響を及ぼさない。

こうして条約は16日に閣議で承認されて、19日には天皇の裁可を得た。しかるにドイツ政府は21日、一国に対して「侵略行為」がなされた場合には援助義務が発生する、そして参戦義務が生ずることを明示するよう修正案を出してきた。困った日本政府は、それでも更にスタ-マー、オットと折衝を重ねるが、いくつかの部分は交換公文で表すことになった。それでも最後まで「参戦義務」の問題はもめた。これに対してスターマー、オットは折れたようだが、後に判明したように、ドイツ側の両者は独断で行ったようで、少なくともベルリンには報告されていないようであった。かくして条約案は26日の枢密議院本会議での承認を経て、ベルリンのヒトラー官邸で調印された。調印には来栖日本大使、飛行機で駆け付けたチアノ・イタリア外相、リッベントロープ独外相の間で行われ、その後でヒトラーは満面の笑みを浮かべて調印式の会場に登場した、という。東京では交換公文が行われ、その交換公文では、「締約国の一が条約第三条に言う攻撃を受けたかどうかについては三締約国間での協議によって決定する」となっており、日本は参戦の時期、方法については自主的に決定する権利を得ていたのである。私の推測であるが、ドイツ側の主張する「参戦義務」に関しては日独間で条約の最後の段階についてドイツ本国は正確に把握していなかったのではないか、と疑われる。戦後ドイツの学者たち(例えば、セバスチャン・ハフナー氏)が「何故ドイツは12月11日に米国に参戦布告したのか?」という疑問を持っているがこれについては、筆者の考えでは、ヒトラーは米国に勝てる絶好の機会だと考えただろうと考えた他、ドイツ側では自国の考えが日本側に理解されている、と思っていたのでいたのではないか、それにヒトラーは政治的にドイツは参戦するのが当然と考えた、と思われる,更に、付属交換公文の第二で、日英間で武力紛争が生じたときは、ドイツは日本をあらゆる一切の手段によって援助する旨最善を尽くす、と有るがこれを、ヒトラーは日本が対米戦を開いた時に参戦の義務がある、と思ったのではないか。現に日本は真珠湾攻撃に先立ち、マレー半島に上陸して12月10日にはシンガポールに向かう英国戦艦を2隻攻撃して撃沈している。
なお、三番目の交換公文では、日本の委任統治下にあって、現に日本の統治下に有る旧ドイツ植民地は日本の属地化に有ることを承認する。ただし、ドイツは何らかの代償を受けるものする。と記されている(海軍は将来ドイツが主権を主張してきて、その際は日本は高く要求されるのではないかとを心配した。これについて三国同盟条約の承認の為に枢密院審議委員会で質問に答えて松岡外相いわく、その時にはドイツは非常に安く日本に売却するだろう、「例えば、珈琲6袋」(「日本外交文書、日独伊三国同盟関係調書集」、ページ218)と答えている)。
また、当時の外務省のドイツ担当官の回想録によれば、松岡外相は「自ら直接スターマーと交渉し、事務当局を完全に無視して」三国同盟条約を結んだ、という。
 米国の反応 28日、堀内駐米大使及び在ニューヨークの井口総領事は公電で(1)三国同盟条約は明確に米国を対象にしており、米国朝野に衝撃を与えている。(2)一方米国政府は三国のこれまでの政策の延長である、として、国内の反応の鎮静化に努力している。(3)米国は一層英国、シナ援助増大の姿勢である。と報告してきている。

ソ連の反応 30日のソ連共産党機関紙プラウダの報道は以下の通り
(1) 条約は既に存在する日独伊の関係を形式化するもの。(2)本条約は戦争が一層の広範の新段階に入ることを示す。今までは欧州では欧州・北アフリカ、東方ではシナに局限され、何ら関連はなかった。今や、日本は欧州不介入政策、独伊は極東不介入政策を放棄した。本条約の特異性は互いの勢力圏を認め、ソ英米の侵害に対し相互援助義務を認めたこと、それにソ連に関して留保していること、ソ連の中立を尊重していること、ソ連に対する平和・中立政策は今後不変である。

 中国 周知のように、日中が本格的な戦争に入ったのは1937年7月であった。蒋介石は日本が欧州の戦争に深入りすれば日中戦争は世界戦争になり、中國は米英を味方に付けることが出来る、と考えており、その観点から日本による三国同盟条約の締結は日本を欧州戦争に一歩近かづけた、と分析した。

註:日独伊三国同盟条約及び日本外相と独大使の間の往復書簡
     日本国、ドイツ国及び伊太利国間三国条約 昭和十五年九月ニ十七日締結、「ベルリン」にて

大日本帝国政府、独逸国政府、伊太利国政府は萬邦ヲシテ各其の所ヲ得シムルヲ以テ恒久平和ノ先決要件ナリト認メタルニ依リ大東亜及欧州ノ地域ニ於テ各其ノ地域ニ於ケル当該民族ノ共存共栄ノ実ヲ挙ケルニ足ルヘキ新秩序ヲ建設シ且之ヲ維持スルコトヲ根本義ト為シ右地域ニ於テ此ノ趣旨に捷ル努力ニ相互ニ提携シ且協力スルコトニ決意セリ而シテ三国政府ハ更ニ世界致ル所ニ於テ同様ノ努力ヲ為サントスル諸国ニ対シ協力ヲ拒マハザルモノニシテカクシテ世界平和ニ対スル三国終局ノ抱負ヲ実現セント欲ス依テ日本国政府、独逸国政府及伊太利国政府ハ左通協定セリ
第一条 日本国ハ独逸国及伊太利国ノ欧州ニ於ケル新秩序建設ニ関シ指導的地位ヲ認メ尊重ス
第二条 独逸国及伊太利国ハ日本国ノ大東亜ニ於ケル新秩序建設ニ関シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス
第三条 日本国、独逸国及伊太利国ハ前記ノ方針ニ基ク努力ニ付相互ニ協力スヘキコトヲ約ス更ニ三締約国中何レカノ一国ガ現ニ欧州戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラサル一国ニ依テ攻撃セラレタルトキハ三国ハ有アラユル政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキコトヲ約ス
第四条 本条約実施ノ為各日本国政府、独逸国政府、伊太利国政府ニ依リ任命セラルヘキ委員ヨリ成ル混合委員会ハ遅滞ナク開催セラルヘキモノトス
第五条 日本国、独逸国、及伊太利国ハ前記諸条項カ三締約国ノ各々ト「ソヴィエト」連邦トノ間ニ現存スル政治的状態ニ何等ノ影響モオヨバササルモノナルコトヲ確認ス
第六条 本条約ハ署名ト同時ニ実施サレルヘク、実施ノ日ヨリ十年間有効トス
    右期間満了前適当ナル時期ニ於定訳国中ノ一国ノ要求ニ基キ締約国ハホン条約 ノ更新ニ関シ協議スヘシ
右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本条約ニ署名調印セリ
昭和十五年九月二十七日即チ1940年、「ファシスト」暦十八年九月二十七日
 伯林ニ於イテ本書三通ヲ作成ス
      (G,1000号)
大日本帝国政府特命全権大使 大島浩(印)
伊太利国外務大臣 チアノ(印)
独逸国外務大臣 男爵フォン・リッベントロープ(印)

 在京独逸国大使ヨリ外務大臣宛来簡第一
以書簡啓上致候陳謝本月九日東京ニ於イテ開始セラレタル吾人ノ会談ノ結果幸ニシテ三国条約ノ締結ニ到達セントスルニ当リ閣下カ会談中終始最モ寛容ニシテ且効果ナル精神ヲ以テ主要ナル役割ヲ果サレタルコトニ対シ閣下ニ向テ深甚ナル謝意ヲ表明スルコトハ「スターマー」公使及本使ノ最モ真摯ナル希望ニ有之候
吾人ハ此ノ機会ニ於テ閣下ノ吾人ノ会談ニ於テ反復セラレタル若干ノ主要事項ニ付再ヒ本書簡ニ於テ先ノ通陳述セント欲スルモノニ之有候
独逸国政府ハ締約国ハ夫々大東亜及欧州ニ於ケル新秩序建設ニ指導的地位ヲ占ムルヲ任務トスル世界歴史ニ於ケル新ナル且決定的ナル段階ニ入ラントスルモノナルヲ確信ス
将来長期ニ亘リ締約国ノ利害関係カ一致スヘキ事実及締約国ノ絶対的相互信頼ハ条約ノ確乎タル基礎ヲ成スモノトス独逸国政府ハ条約実施ニ関スル技術的細目ハ困難ナクセラレルヘク条約実施中ニ発生スヘキ有ラユル事態ヲ想像スルハ条約ノ重要性ト一致セス且実際上不可能ナルコトヲ確信ス右事態ハ発生スル毎ニ相互信頼及互助ノ精神ニ基キテノミ処理セラルヘシ
条約四条ニ規定セラレタル専門委員会ノ決定は夫々関係各国政府ノ承認ヲ経ルニ非サルハ実施セルルコトナカルヘシ
一、 締約国カ条約第三条ノ意義ニ於イテ攻撃セラレタリヤ否ヤハ三締約国ノ協議ニ依リ決定セラルヘキコト勿論トス
条約ノ意図スル所ニ反シ日本国カ未タ欧州戦争又ハ支那事変ニ参加シオラサル一国ニ依リ攻撃セラレタル場合ニハ独逸国ハ全面的支持ヲ興ヘ且有ラユル軍事的及経済的手段ヲ以テ日本国ヲ援助スヘキコトヲ当然ナリト思考ス
日本国「ソヴィエト」連邦トノ関係ニ関シテハ独逸国ハ其ノ力ノ及ブ限リ友好的了解ヲ増進スルニ務ムヘク且何時ニテモ右目的ノ為周旋ノ労ヲ執ルヘシ
独逸国ハ日本国ヲシテ大東亜ニ於ケル新秩序ノ建設ヲ容易ナラシムルト共ニ如何ナル危局ニ対シテモン充分備フル所アラシム為自国ノ工業能力並ニ其ノ他ノ技術的及物質的資源ヲ能フ限リ日本国ノ為ニ使用スヘシ、更ニ独逸国及日本国ハ有ラユル方法ニ依リ其ノ必要トスル原料品及鉱物(油ヲ含ム)ヲ獲得スル為相互ニ援助スヘキコトヲ約ス独逸国外務大臣ハ前記諸事項ニ関連シ伊太利国ノ援助及協力ヲ要請セラルルトキハ伊太利国ハ勿論独逸国及日本国ト同調スヘキコトヲ絶対ニ信スルモノナリ
本使ハ茲ニ閣下ニ向テ重テ敬意ヲ表シ候 敬具
 昭和十五年九月二十七日

外務大臣ヨリ在京独逸国大使宛往翰第一
 以書翰啓上致候陳者本大臣ハ本日附貴翰第G1000号ヲ受領スルノ光栄ヲ有スルト共ニ右書翰ノ内容ヲ了承スルヲ欣幸トスルモノニ有之候
本大臣ハ茲ニ閣下ニ向テ重テ敬意ヲ表シ候 敬具
 昭和十五年九月二十七日

外務大臣ヨリ在京独逸国大使宛往翰第二
 以書翰啓上致候陳者本大臣ハ日本国政府ハ独逸国及伊太利国政府ト均シク現在ノ欧州戦争カ其ノ範囲及規模ニ於テ能フ限リ制限セラレ且急速ニ終結センコトヲ熱望スル旨並ニ日本国政府ニ於テモ右目的ニ対シ有ラユル努力ヲ惜シマサルヘキ旨ヲ通報スルノ光栄ヲ有シ候
然レトモ大東亜及其ノ他ノ地方ニ於ケル現状ニ鑑ミ日本国政府ハ日英間ニ何等武力紛争ノ発生ノ危険ナキコトヲ現下ノ情勢ニ於テ確信スルコト能ハサル次第ニ有之従テ日本国政府ハ独逸国政府ニ対シ右可能性ニ付注意ヲ喚起スルト共ニ日本国政府ハ右ノ如キ場合ニ独逸国カ其有スル一切ノ手段ニ依リ日本国ヲ援助スル為最善ヲ尽サルルコトヲ確信スル旨陳述スルモノニ之有候
本大臣ハ茲ニ閣下ニ向テ敬意ヲ表シ候 敬具
 昭和十五年九月二十七日

在京独逸国大使ヨリ外務大臣宛来翰第二
以書翰啓上致候陳者本使ハ左記内容ヲ有スル本日付貴書翰第二第一三々号閲悉致候
「本大臣ハ日本国政府ハ独逸国及伊太利国政府ト均シク現在ノ欧州戦争カ其ノ範囲及規模ニ於テ能フ限リ制限セラレ且急速ニ終結センコトヲ熱望スル旨並ニ日本政府ニ於テモ右目的ニ対シ有ラユル努力ヲ惜シマサルヘキ旨ヲ通報スル光栄ヲ有シ候然レトモ大東亜及其ノ他ノ地方ニ於ケル現状ニ鑑ミ日本国政府ハ日英間ニ何等武力紛争発生ノ危険ナキコトヲ現下ノ情勢ニ於テ確信スルコト能ハサル次第ニ有之従テ日本国政府ハ独逸国政府ニ対シ右可能性ニ付注意ヲ喚起スルト共ニ日本国政府ハ右ノ場合ニ独逸国政府カ其有スル一切ノ手段ニ依リ日本国ヲ援助スル為最善ヲ尽クサルルコトヲ確信スル旨陳述スルモノニ有之候」
本使ハ此ノ機会ニテ貴翰ノ内容ヲ承知致候
本使ハ茲ニ閣下ニ向テ重テ敬意ヲ表シ候
  昭和十五年九月二十七日

外務大臣ヨリ在京独逸国大使宛往翰第三
以書翰啓上候陳者本大臣ハ閣下カ独逸国政府ノ為ニ為サレタル左記口頭宣言ヲ確認セラレンコトヲ希望致候
「独逸国政府ハ南洋ニ於テ現ニ日本国ノ委任統治下ニ在ル旧独逸国植民地ヲ引続キ日本国ノ属地タルコトニ同意スヘク之カ為独逸国ハ何等ノ代償ヲ受クルモノトス南洋ニ於ケル其ノ他ノ旧植民地ニ関シテハ右植民地ハ現欧州戦争ヲ終結スル平和ノ成立ト共ニ自動的ニ独逸国ニ復帰スヘシ然ル後独逸国政府ハ出来ル限リ日本国ニ有利ニ右植民地ヲ有償ニテ処分スル目的ヲ以テ友好的精神ニ基キ日本国政府ト協議スル用意アリ」
本大臣ハ茲ニ閣下ニ向テ重テ敬意ヲ表シ候 敬具
  昭和十五年九月二十七日

   在京独逸国大使ヨリ外務委大臣宛来翰第三
以書翰啓上致候陳者本使ハ本日付貴翰第三第一三四号ヲ閲悉シ且右貴翰中ニ掲ケラレタル南洋ニ於ケル旧独逸国植民地ニ関シ本使ノ為セル口頭宣言ヲ確認スルノ光栄ヲ有シ候
本使ハ茲ニ閣下ニ向テ重テ敬意ヲ表シ候 敬具
   昭和十五年九月二十七日


(9)日ソ中立条約の締結
第二次世界大戦の終結まじかの1945年8月9日、ソ連は周知のようにまだ有効であった日ソ中立条約に反して日本を攻撃してきた。そこで三国同盟条約締結と時期的に近く締結された日ソ中立条約締結の経緯を見ておこう。意外かもしれないが、日ソ中立条約の構想は日本側では既に1940年5月12日(即ち、三国同盟条約交渉・締結の前)に関係省会議で、期限5年の条約案締結が提案されていた(「日本外交文書、第二次欧州戦争と日本」。ページ286)そして、在ソ東郷大使は7月2日にモロトフ外相に提案し、モロトフは積極的な反応を示して検討を約した。

日本は1940年10月5日、建川新大使がモロトフ外相に期限5年の不侵略条約案を提示した。条約締結の裁量権を得て1941年春に松岡外相は訪欧の途次モスクワでモロトフ外相に対して日ソ不可侵条約案を提示したが、モロトフは不可侵条約は領土の侵害を前提に結ぶ条約であるが、日本とソ連の間にはそういう事もないので中立条約が適当、というような理屈で日ソ中立条約案を日ソ間で結ぶことを提案、帰路に再びモスクワに立ち寄った松岡外相は1941年4月13日、スターリン書記長立会いの下にモロトフ外相との間で期限5か年間の日ソ中立条約を調印した。調印後、スターリン書記長は上機嫌であって、例外的ともいえるほどの喜びようで、出発に際して松岡外相を乾杯と共に列車内に来て見送ったほどであった。そして条約は1941年4月24日に枢密院で可決された。
その後の日ソ関係は周知の通りで、スターリンは1945年2月、クリミヤ半島のヤルタでのルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相とのヤルタ会談に於いてドイツが降伏した後の2~3か月後に対日戦争にソ連が参加することを約束した(日本はヤルタでの合意を知らず)。そしてモロトフ外相は条約の廃棄期限の前の4月5日に日ソ中立条約は廃棄する旨を予告した。そしてソ連は条約の期限が切れる前の同年8月8日に対日戦争を布告、9日にはソ連の大軍は満州、樺太、千島列島、北朝鮮島の全域で侵攻を開始した。

註 日ソ中立条約と同条約成立直後の政府声明
1. 日本国及ソヴィエト連邦間中立条約(昭和十六年四月十三日締結「モスコー」ニテ
大日本帝国天皇陛下及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦最高会議ハ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ強固ナラシムルノ希望ニ促サレテ中立条約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為左ノ如全権委員ヲ任命セリ
   大日本帝国陛下
      外務大臣 従三位勲一等 松岡洋右
      「ソヴィエト」社会主義共和国連邦駐箚特命全権大使 建川美次
  「ソヴィエト」社会主義共和国連邦最高会議幹部会
      「ソヴィエト」社会主義共和国連邦人民委員会議議長兼外務人民委員「ヴィチェスラウ、ミハイロウイッチ、モロトフ
    右各全権委員ハ互ニ其ノ全権委任状ヲ示シ之ガ良好妥当ナルヲ認メタル後左ノ如ク協定セリ
第一条 両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス
第二条 締約国ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中立ヲ守ルヘシ
第三条 本条約ハ両締約国ニ於イテ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年の期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラレルヘシ
第四条 本条約ハ成ルヘク速ニ批准セラレルヘシ批准書ノ交換ハ東京ニ於イテ成ルヘク速ニ行ハルヘシ
右証拠トシテ各全権委員ハ日本語及露西亜語ヲ以テセル本条約二通ニ署名調印セリ
昭和十六年四月十三日即チ千九百四十一年四月十三日 「モスコー」ニ於テ之ヲ作成ス
      松岡洋右(印)
      建川美次(印)
      ヴェー・モロトフ(印)

2. 声明書
大日本帝国政府及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦政府ハ千九百四十一年四月十三日大日本国及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦間ニ締結セラレタル中立条約ノ精神ニ基キ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ保障スル為大日本帝国カ蒙古人民共和国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨又「ソヴィエト」社会主義共和国連邦カ満州帝国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨厳粛ニ声明ス
  昭和四十一年四月十三日 「コスコー」ニ於テ
       大日本帝国ノ為
            松岡洋右
            建川美次
       「ソヴィエト」社会主義共和国連邦政府ノ委任ニ依
            ヴェー モロトフ

松岡大臣「モロトフ」委員往復半信(仮訳文)
拝啓陳謝本日署名セラレタル中立条約ニ関連シ予ハ通商協定及漁業条約カ極メテ速カニ締結セラルヘキコトヲ期待シ且希望スルモノナルコト並ニ最モ速カナル機会ニ閣下及予ニ於テ両国間ノ友好的関係ノ維持ニ資セサル有ラユル問題ヲ除去スル為千九百二十五年十二月十四日「モスコー」ニ於テ署名セラレタル契約ニ基ク北樺太ニ於ケル利権ノ整理ニ関スル問題ヲ数カ月内ニ解決スル様和解及相互融和ノ精神ヲ以テ努力スヘキコオトヲ閣下ニ陳述スル光栄ヲ有シ候
同様ノ精神ハ以テ予ハ国境問題ヲ解決シ且国境ニ於ケル紛争及事件ヲ処理スル目的ヲ以テ関係国ノ共同委員会(又ハ)混合委員会ヲ最近ノ期日ニ於テ設置スル方途ヲ発見スルコトヲ貴我両国並ニ満州国及外蒙古ニトリ適当ナルコトヲ指摘致度候

  外務省告示第二十三号
昭和十六年四月十三日「モスコ-」ニ於テ署名著印セラレタル大日本帝国及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦間中立条約ハ両国ニ於テ四月二十五日其批准ヲ了シタリ従テ本条約ハ其第三条ノ規定ニ基キ同日ヨリ効力ヲ発生セリ
   昭和十六年四月三十日 
               外務大臣 松岡洋右


(10)独ソ戦の開始
 既に1940年11月15日、ドイツはブルガリアを巡ってソ連と意見の食い違いが顕在化した(ダーダネルス海峡のソ連の通過権をめぐって)。更に、ユーゴスラヴィア問題で1941年3月2日にヒトラーは大島大使に、ソ連は狡い、と漏らしていた。更にその年の3月27日に、訪独していた松岡外相に対してリッベントロープ外相は、日本がシンガポールを攻略して欲しい、と述べ(この時点で松岡は言質を与えなかった。日本外交文書 「第二次欧州戦争と日本、日独伊三国同盟」、ページ335)。更にヒトラーは、4月1日の松岡外相歓迎会の席上、ユーゴスラヴィア革命の背後にソ連がいる、次の敵はソ連である、と述べていた。4月10日リッベントロープは会見した大島大使に、今年中にドイツはソ連に対して戦争を開始することもある(「日本外交文書、第二次欧州戦争と日本」、ページ369)と述べた。
更にドイツ側の発言はエスカレ-トして、6月5日にヒトラーは大島大使に独ソ戦は恐らく不可避、日本の参戦は自由に決定して欲しい、と述べ(「外交文書、欧州戦争と日本」、ページ407、)リッベントロープ外相は傍らで、日本の協力をもとより希望している、と表明した。ドイツは短期戦でソ連に勝利することを確信し、大島大使やオット大使を通じてそういう見方を日本の松岡外相に伝えていた。
 こうした中、1941年6月22日にドイツはソ連を急襲して独ソ戦は勃発した。大島大使は22日の公電で、「防共協定の精神に鑑み、日本はドイツを支持すべきだ」と提言した。23日、日本政府は「枢軸中心の外交政策を堅持する」と対処方針を確認した。
 元外務省顧問の斎藤良衛氏―松岡外相の顧問であって、友人であったーの回想録によれば、松岡外相は三国同盟条約締結が米国を牽制して、平和を保持できる、と確信していたが、結果的には日米戦争になってしまった、と死の床で号泣していた由(「日本外交文書、斎藤良衛博士書」、昭和26年8月ページ369)である。当初、スターマーはドイツが条約締結後「正直な仲介人」として日ソ間の仲介を行う、と述べていたが、後から振り返れば松岡外相も近衛首相もそんなことの熱意はドイツ側には始めから無かった、と見なしていた由である。ただし斎藤氏は松岡外相が日米交渉に反対だったとの説は間違いである、と述べている。独ソ開戦の後には、ヒトラーはオット大使を通じて松岡外相に、ソ連を背後から撃て、と電報した由で、これに対して松岡外相は、日本は自主的に決定する、と答えた由(以上同上ページ413)。
その後数次にわたり大島大使は、独ソ戦は短い、だから日本は早くドイツ支持を、と督促しており、リッベントロープ外相は日本の参戦を要求していた、という。7月14日には大島大使はケーニヒスベルク(現在ソ連領のカリーニングラ-ド)に置かれた大本営でヒトラ-、リッベントロープと会見したところ、席上後者は1.日本が自発的に参戦することを衷心より希望する、2.ドイツ軍の中では未だソ連に参戦しない日本軍に対する不満が増大している、3.三国同盟条約締結後も日本が米国と交渉を継続していることにドイツは不信感を抱いている、と表明した。前者は、対ソ戦は8月ないし9月初めには終了12する、との見通しを明らかにしていた(「日本外交文書、第二次欧州戦争と日本」、ページ457)。これを踏まえて大島大使は、三国同盟上早く態度を明らかにしないと三国同盟の精神が失われる、と公電で東京に訴えている。
10月2日になると大島大使は、日米交渉についてはヴァイツェッカー外務次官も含めてドイツの朝野には不満があるとの雰囲気を東京に知らせていた。10月にも大島大使はドイツ軍のモスクワ包囲戦に鑑み、日本政府の方針を早急に出すように督促している。尚、話は遡るが、8月25日に日にはヒトラーとムッソリーニはウクライナで共同で軍を視察して会談している。
11月になるとモスクワ包囲網戦が悪天候故に1~2週間遅れることが東京に知らされ、11月7日夜には英軍機90機以上によるベルリン空襲が起こっていたのである。11月22日に東京の外務省で東郷外相は在京オット独大使に対して、日米交渉は継続中なるも見通しは楽観できない、と説明した。
 その月の25日には日独防共協定が延長され、28日にはそのための招宴がベルリンで開かれ、ヒトラー、リッベントロープ、ゲーリングなどが出席した。ドイツの要人たちは日米交渉に対して懸念を表明していた、と公電では伝えられていた。更に30日には東京で東郷外相はオット大使に、26日に米国案(所謂ハル・ノート)が来て、その中には三国同盟条約を骨抜きする案が含まれており、日本が米英ソと不可侵条約を締結することを提案してきている、三国同盟条約の米国案は日米交渉成立の最大困難な主問題である、と説明し、日米交渉につき悲観的な見通しを述べた。その際にオット大使は、個人的な見方だとしつつ「本使がベルリンより得る印象によれば日独いずれかが米国と戦争に入れば他の国は当然よって生ずる責任を負う、と個人的には考える」と述べた。
 そのほぼ1週間後に日本は真珠湾を攻撃して此処に太平洋戦争が勃発した。そして12月11日にはドイツが米国に宣戦布告を行い、欧州戦争は拡大して太平洋戦争とも繋がり、かくしてここに第二次世界大戦の火ぶたを切った。

私が疑問に思うのは、ドイツが対ソ戦で前進できず、まさに12月8日の日にドイツ軍が前進を停止せざるを得なくなったその日に日本軍が真珠湾攻撃をし、太平洋戦争が始まってしまったことである。今なら当然のことながら、日本は独ソ戦の現状についての情報を正確に分析していたならば、少なくともその日には真珠湾攻撃を中止して情勢を把握するのを待つであろう。それほど大島大使及び軍部いや日本政府はドイツより、ドイツ寄りの情報のみを頼っていた、と言えよう。情報の複眼的な分析と入手の必要性が必至であることを痛切に示している。

(11)日独間の技術・産業協力について短く言及しておく。日独でお互いに工業国であることが認識され始めたのは1890年代からで、第一次世界大戦頃には日本は一流の工業国と欧米諸国には認められた。1920年代末には日本では段々と日本独自の技術開発が望まれるようになり、1930年代後半になると、日独間の政治的な接近が生産面でも現れ、特に1937年の日中戦争の本格化と共に日本の航空機産業面でのドイツ航空機産業面、就中ジェットエンジンの開発技術の導入が図られた。又30年代後半になると日独間では軍の関心が日独間の技術交流にも色濃く反映されるようになった。潜水艦生産技術、航空機生産技術に加えて特にレーダーの技術開発は日本に必要とされた。しかし、欧州での戦争が拡大されて(特に独ソ戦の開始)はシベリア経由のドイツと日本の技術交流は困難になり、世界大戦中、特に後半にはこのような技術交流は潜水艦よる細々としたものに頼らざるを得なかったし、これも成功したとは言えなかった(例として伊―8、伊―29)。

(12)第二次世界大戦を振り返って
第二次世界大戦は1945年5月8日にドイツが降伏し、8月15日に日本が終戦を迎えて、9月に日本は降伏文書に署名して終了した。
第二次世界大戦中、日本はドイツに対し再三にわたって、ソ連と和平を結ぶよう要請したがヒトラーはその都度拒否した、という。日独では米英、米英ソ、米英中のように最高レベルでの戦略上の打ち合わせも行われなかったのである(すでに書いたように、ヒトラーはムッソリーニとは戦前も戦争中も会って会談していた。米英は大戦前に大西洋上で会談しているし、大戦の真最中カサブランカで会談している。戦略も違う米英ソもテヘラン、ヤルタで会談している)。三国同盟条約締結の過程を見ても決して綿密であった、とは言えない。それどころかお粗末であったし、結論を急ぎ過ぎた、と言えよう。ましてや、ドイツ側と日本側の間で条約の解釈でも齟齬があったと言え、そうだとすれば両国の協力の上でも齟齬が生じたとしてもそれは自然の成り行きであった、と言えよう。第二次世界大戦後1960年代初めにベルリンに留学していた日本人学生に対してドイツ人学生が「戦争中日本が助けに来てくれる、と思った」との感想を漏らしていたそうであるが、この感想を見ても戦争中日独の国民の受け止めようにも異なっていたことが知らされる。日独政府間の思惑も違っていたのであろう。こうしてみると、条約を結んだからと言っても、ふんだんな接触と対話によって条約に魂を入れることが死活的に重要であることを教えているように思う。言われているようにナチス政権中の日独関係は戦争中も含めて決して平板でもなかったし、両国関係は友好的であった、とは言えないであろう。

私個人の希望としては、日本はこの意味でも戦前から学び、落ち着いて、より賢く振る舞うことである。戦後、日本は米国との同盟関係を深めてきたが、今日では中国が一層力を強めている。日本にとっては中国とロシアとの関係は依然として安全保障にとって重要な問題である。此のことは戦前も戦後も変わらない。そのように考えれば、議会制民主主義の米国との同盟関係を深めてゆくことが大切であるがその際に日米安全保障条約があるからいざとなれば米国が助けてくれる、と安心することなく、安保条約第五条に有るように―日米はいずれか一方に対する武力攻撃が発生した時にはそれぞれ自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する―米国とは政府はもとより、議会、国民とも常に意思疎通を図ると共にロシアとも向き合っており、EUの中で重要性を増しているドイツともこれまでにも増して接触を盛んに行い、対話を深めてほしい。

Ⅲ第二次世界大戦後の日独関係
第二次世界大戦後では日独両国は敗北して共に苦難の道を歩んだ。戦後ドイツは1945年から1990年までのこれまでのほぼ三分の二の時間を東西分裂の時代を過ごしたことはよく周知の事実であるが、戦後の日独の行き方を比較しながら念のためにおさらいしておこうと思う。
Ⅰ).直接統治と間接統治
 ドイツは敗戦後連合国の直接統治を受けて、国土は米英仏ソに領土を四分割され、また首都ベルリンも建前上共同占領(実際は米英仏統治の西ベルリンとソ連統治下の東ベルリンに分割)された。他方日本は圧倒的に米軍のリードの下にGHQ(連合国総司令部)の下に置かれたが、日本国政府は存在したという間接統治下に置かれた。

2).ニュルンベルク国際軍事裁判所と東京裁判ーベルリン封鎖と冷戦の進行
ドイツでは1946年末からニュルンベルク国際軍事裁判が開かれて、翌年秋にはナチスの幹部が、人道に反する罪、戦争犯罪、平和に対する罪などで死刑の判決を受け(なおドイツではナチス幹部に対する裁判―主要裁判―と、経済界、主要官僚に対する裁判―後継裁判―が行われた。後継裁判は1948年まで続けられた)、他方日本・東京では同じく同様な訴因で極東軍事裁判が開かれてA級戦犯に対して死刑を含む厳しい判決が下された。この裁判が行われている間に所謂米ソ冷戦が進行して、次第に戦争犯罪人に対する、例えば、非ナチ化などの戦犯に対する態度も変化していった。特に、西ドイツ地区―英米仏占領地区―で行われた通貨改革がベルリンの西側占領地区(ベルリン西)でも行われたこと--1948年―に抗議してソ連はベルリンの西に対する封鎖-ベルリン封鎖―を行い、これに対し、西側連合国はベルリン空輸で対抗した。ソ連は1948年にはチェコスロヴァキアを共産化し、更に、1950年6月にはソ連に後押しされた北朝鮮が軍事境界線であった38度線を突破して南の韓国に対して侵略を行った。この朝鮮動乱は一気に冷戦を加速化し、特に、米国にとっての日本の戦略的意味を深めた。副次的な意味で朝鮮動乱は西ドイツ及び日本の工業などに対する需要を高めて両国の産業復興に貢献した面がある。
3).サンフランシスコ講和条約とパリ条約―主権の回復(ただし、全ドイツに関する権限についてはドイツ統一までは引き続き米英仏ソが保持)―主権の回復問題である。
 日本は戦後約7年を経て1952年4月にサンフランシスコ講和条約を結んで主権を回復(ただし、沖縄は引き続き米国の施政権の下に置かれ、この状態は1972年まで続いた)した。他方ドイツでは、西側連合国占領地区から国として1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)発足したが、その年の十月にはソ連占領地区からドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立して、国家の分裂が始まった。そして東ドイツによって、1961年8月13日にベルリンの東西間に壁が構築されて東西ドイツの分裂は決定的になった。(なお、私は1985年秋に―当時中南米第一課長―昭和天皇にベルリン問題について御進講の機会に恵まれた。私は、昭和天皇がベルリン問題について多大な関心を持っておられたことに深い感銘を受けた。東西ドイツが平和裏に統一されてドイツが完全に主権を回復したのはやっと1990年秋の事であった。此の間1980年代には東ドイツは西ドイツを含めて主権国家として国際的にも広く認められ、1973年には両ドイツ国家間は「基本条約」を締結して、74年には東西両ドイツは国連にもむかい入れられ、東ドイツの国家元首であるホーネッカー統一社会党書記長は80年代後半には西ドイツを公式訪問し、国賓並みに迎えられた。西ドイツは両国関係を普通の外交関係ではなくて「特別な関係」と呼び、双方の代表は大使ではなくて「常駐代表」と称していた。他方1980年代には、東西ドイツの統一への動きはソ連に登場したゴルバチョフ党書記長の「新思考」、ポーランンドの連帯、ハンガリーの動き、ドイツではどちらかというとライプチッヒのデモを始め東ドイツの民主化を望む大衆行動であった。

4)西ドイツはNATO(北大西洋条約機構)に、東ドイツはワルシャワ条約機構の構成員に、日本は日米安全保障体制に
 同盟関係問題である。日本はサンフランシスコ講和条約(1952年4月発効)の直後米国との間に日米安全保障条約を結び、米国の軍隊の駐留を認め、日米同盟関係を発足させた。ただし、この条約は米軍の日本駐留の権利は認めているが、米国の日本防衛義務については明記されておらず、片務的だとして結局1960年の安保条約の改定に繋がった。
他方ドイツはドイツ連邦共和国(西ドイツ)の成立後フランスのシューマン外相からのアデナウアー首相への提案で、イタリアを加えた欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)から出発して1958年には欧州経済共同体(EECで、後の欧州統合の核で、―EU-になった)発足に繋がった。一方アデナウアー西ドイツ首相の念願であった欧州防衛共同体(EVG)はフランス議会の反対で1953年8月に成立しなかった。西ドイツは1955年5月パリ条約によって主権を回復した。ただし、全ドイツに関する権限は1990年10月まで英米仏ソが握っていたことは前述の通り。
尚、英国は2016年の国民投票によってEU離脱を決定し、その後議会でも離脱を決定した。EUとの離脱条約案が英国議会で承認されるかが焦点になっているのが現状である。私の思いとして言えば、英国は1960年代に2回にわたってEECに加入を求めその都度拒否され、ようやく70年代初めに加盟が認められた。いろいろな経験を経て英国国民はEU離脱を決定したのであろうが、英国はその当時の英国、戦前の大英帝国でもないし、現在は欧州の一国であるし、中から欧州に貢献した方が良いと思うのだが。

5)ソ連(今のロシア)との関係
 西ドイツは主権回復直後の1955年9月にアデナウアー首相が訪ソし、外交関係を樹立した。その機会にドイツ人捕虜の帰国を果たした。他方日本は、1956年秋に当時の鳩山首相が訪ソして日ソ国交を回復した。日独はほぼ同時期にソ連との国交を回復したが、違いもあった。ドイツはその時も、1990年のドイツ統一に向かってもソ連との間に領土問題を提起しなかったようで、(私共の記憶しているのはドイツの国境は1937年のもので、ドイツ統一も西ドイツが東ドイツを吸収したものであって、ソ連との間でドイツが平和条約を締結してドイツ統一がなされたのではない。18世紀初めにプロイセン王国が宣言されたケーニヒスベルクは当時ドイツのものであったが、第二次世界大戦後はソ連領カリーニングラードとなっており、ドイツ統一後も依然としてソ連領である。これに対して日本は領土問題をソ連・ロシアに提起してきており、1956年の日ソ共同宣言-共同宣言では、平和条約を締結して歯舞・色丹2島を日本に引き渡す、となっている―以来北方4島の帰属が懸案だ、としてソ連・ロシアと60年以上にわたって平和条約交渉をしてきた。最近2018年11月の安倍首相とプーチン大統領との間の交渉では、1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和約交渉を加速する、となっている。それに加えてプーチンは、共同宣言では歯舞、色丹島2島を引き渡す、とだけ書いてあり2島の主権については書いてない、といっている。ロシア側は国後、択捉の問題は話すことなく、もっぱら歯舞・色丹2島の問題を解決し、しかも主権の存在をも明らかにせず、平和条約を結ぼうとしているようにも聞こえる。日本政府は、この問題は交渉中だから、と言ってコメントを控えている。

私自身は、ウクライナを一方的にロシアに編入した国と平和条約を結ぶのは欧米も賛成しないのではないかと思うし、2島返還{完全に返還されるかどうかも分からない}だけで平和条約を結ぶメリットも今はないし、一体共同宣言以来の日本政府の努力も水の泡となるのではないか、と思う。

 日独ではソ連に対する態度で違いがあるように思われたのは、60年代末から70年代初めの西ドイツの東方外交当時である。西ドイツはその当時ソ連が東欧を実質的に支配していたので、「東方外交」ではまずソ連との話し合いを行い、1970年8月にブラント首相が訪ソしてモスクワ条約を結び、次いで12月にポーランドとの間にワルシャワ条約を締結した。東ドイツとの「基本条約」を結んだのはやっと1972年の事であった。
片や日本はソ連との間では56年の国交正常化以来は顕著な進展はなかったと言えよう。それは、当時ソ連は中国との間緊張関係にあり(69年には中ソ間で武力衝突もあったし、72年の田中首相訪中後の日中平和友好条約交渉に於いて中国は「覇権条項」を持ち出して暗にソ連が「覇権」に乗り出している、と主張した)、ソ連は当時韓国とも外交関係を持っていなかった。それ故、日本としてはソ連との関係に其れほど力を入れなかったのかもしれない。

6)日独共通の立場―核不拡散条約への対応
 日本と西ドイツが国際的に共同の立場をとった例は核不拡散条約(NPT)についてであった。
 因みにソ連がこの条約案を提案したのは中国が二回目の核実験を実施した直後の1965年4月の事であった。これを見ても如何にソ連が中国の核保有、核の拡散を懸念していたのか解る。この条約案は日本・西ドイツなどの高度な技術力を持った国などの、核技術の平和利用を妨げるものである、等の猛反発を食らった。1966,67年にはこの条約案にどう対処すべきかが日本と西ドイツの間では焦眉の論点となりメディアを含めて論じられた。1967年4月のブラント西ドイツ外相の訪日でも議論の対象になった。このような議論の末、条約案は修正のうえ、非核兵器国に対する安全保障の確保、原子力の平和利用の権利、核兵器国は核軍縮に向かって誠実に努力する、の3点が付け加えられた。そうして条約案は1968年6月に国連総会で採択された。その後もこの条約案について日本・西ドイツでは議論され、例えば、日本では1970年2月に署名されたものの国会における批准はさらに遅れ、やっと1976年6月にこの条約は国連に寄託された。なお西ドイツでも1975年5月になって国内の批准手続きが終わった。然し日本・西ドイツのNPT批准までの過程は両国の戦後の議論の集約として注目すべきことであった。
 核兵器の問題 日本・西ドイツの間でほぼ同様な政策を追求してきたが印象的だったのは次の事である。
 日本では60年代の後半非核三原則(持たず、造らず、持ち込まず)が佐藤内閣時代に採用され、以来国是になっている。これに対して、西ドイツでは50年代の初めにアデナウアー首相が核兵器を持たないことを明らかにしていたが、80年代初期には所謂二重決定(当時の西ドイツ首相シュミットが米国のクルーズ・ミサイル、パーシングⅡという中距離ミサイルを西ドイツに配備する用意がある、としてNATOと共に米国に対して、ソ連が70年代より配備していた中距離ミサイルSS20を撤去するように交渉すべし、と要求し(SS20はソ連が、欧州と米国の離反を画して米国には届かないが欧州全土を射程に含ませる中距離のミサイルをソ連のヨーロッパ部とアジア部に配備したもの。交渉の途中でアジア部に配備されたミサイルは日本にも届くという事で日本の中曽根首相が83年のG7の場でSS20を全廃すること、米国も中距離ミサイルを配備しないことを提案し、これが西側の共通ポジションとなり結局ソ連はSS20を全廃し、米国も中距離ミサイルルを欧州に配備しないことで米ソは87年に条約を結んだ。「交渉と配備という二重決定と言われる。)、これは西ドイツ国内では大々的な反核運動を引き起こしてシュミット首相の退陣に繋がった。2019年2月初めに米国トランプ政権はこの中距離ミサイル条約の廃棄をロシアに通告した。欧州諸国は懸念を表明しているが日本も無関心ではいられない。米ソ初め中国を含めての1970年代初め以前の軍拡競争に逆戻りしないかと懸念される。新しい条約が可能とすれば中国の中距離ミサイルをも廃棄するように中国をも交渉に含ませてほしい。

 核兵器禁止条約と核の抑止力
この関連で、2017年に国連で採択された核兵器禁止条約に関し、日本政府は「核のない世界を目指す、という意味では目的は共有するものの核兵器国と非核兵器国の橋渡し役を演じている政府とはこの条約はアプローチを異にしている」、として条約の批准を拒んでいる。私自身軍縮問題を担当したことがあったが、毎年の広島、長崎への原爆投下記念日に考えたことであるが、核兵器禁止条約は、唯一の核兵器犠牲者たる日本の立場・主張を国際的に強めることに繋がるものではないだろうか?核兵器禁止条約は非核三原則とは矛盾しておらず、また日本の核不使用も米国の核抑止と矛盾しないだろう。だから「アプローチを異にしている」というのは思考停止と同じではないか、と疑われる。政府はこの点をはっきりと解り易く説明するべきであろう。

7)日独両国とも隣国との関係はお互いに微妙である。
 それは歴史にも由来しているだろう。韓国と日本との関係は現在も微妙(レーザー照射問題や徴用問題など)であるが、ドイツと東の隣国ポーランド、チェコとの関係も難しい。
ポーランドとの関係では、私のチュービンゲン留学時代の1970年12月、ワルシャワ・ゲットーを訪れた西ドイツのブラント首相が「思わず」跪いた光景がメディアの写真を通じて世界中に知られたことは私たちの記憶に新しい。私は、これを見てドイツ人のユダヤ人に対する懺悔の気持ちの現れは勿論のこと、ポーランドに対するドイツ人の良心の思いを表わしたのだろう、と思った。
 ドイツとポーランドの関係は複雑で、遠くは12世紀頃よりドイツ人の東部のポーランド地域への移住が始まり、ポーランド貴族とプロイセンとの入り組んだ関係もあり、17世紀後半のザクセン候アウグスト大公がポーランド王に就いたりした。更に18世紀の後半ポーランドは3分割されたが3度ともプロイセン(後のドイツ)が関係していた。20世紀には、第二次欧州戦争勃発の契機となったのは、1939年8月23日の独ソ不可侵条約の締結とそれに付随した秘密議定書によりポーランドはドイツとソ連により「勢力範囲」の名の下に分割され、そのほぼ1週間後のドイツによるポーランド侵略だった。第二次世界大戦後、ソ連はポーランドの西部国境線は、1939年にドイツと共に分割してポーランドを西にずらしてオーデル・ナイセ線とすることに固執した。東ドイツは早々にこの線をポーランドとの東部国境とすることに同意した(しかし、ポーランドの東ドイツに対する不信感も強かったようで、私はベルリン総領事館員であった1972年(当時日本は東ドイツを承認しておらず)に一計を案じて東ドイツに入り視察旅行をしたが、東ドイツとポーランドの国境を旅しているとオーデル河のポーランド川堤防に東ドイツに対してこれ見よがしに「平和を」と大きく書かれた看板を目にしたことがあった、がこれはポーランドが「兄弟国」の東ドイツを完全には信用していないように私には思えた)。ポーランド・西ドイツ関係ではポーランドの西部国境をオーデル・ナイセ線にすることは長いこと未決着で、やっと統一ドイツが条約でその線を両国の国境とすることになった。
 ポーランドに対する国民感情もドイツの東西で違っているように思う。例えば、東部ではポーランド人への受け止め方は甘くないようで、私が最初にベルリン総領事館に勤務していたある日私が乱雑な机の上を整理していた時に秘書が入ってきて「ポーランド経済のよう」と感想を漏らしたことがあった。他方ドイツ西部のライン地方では19世紀に多量のポーランド人労働者が移住してきて石炭産業に従事した。今でもヂュッセルドルフ市とクラコフ市は姉妹都市関係にある。
 チェコとの関係もドイツにとって簡単ではない。第二次欧州戦争前には、1938年9月にはミュンヘン協定でズデーテン地方はドイツに割譲され、翌年春にはチェコ・スロヴァキアそのものが解体され、ドイツの保護国化された。占領中暗殺されたドイツの保護官ハイドリッヒの暗殺場所が名も知れずに放置されていた。ドイツはこの復讐としてある村を焼き尽くした。
チェコで起こったプラハの春を押し潰すべく1968年のワルシャワ条約軍がチェコ・スロヴァキアに侵入した時にも、東ドイツ軍は東ドイツ国境に留まってチェコ・スロヴァキアには入らなかったほどチェコとドイツの関係は微妙であった。

Ⅳ.戦後の大半を日本とドイツに関係した一人の外交官として
第二次世界大戦後日本とドイツ両国は敗戦を克服し復興に努力して、概ねその間似たような苦労を重ねてきた。西ドイツの大学に留学し、1968年に外務省に入省してドイツを中心に在外公館での生活を長く経験してきた私に対するドイツの官民―大学、東の住民を含む―態度は正直言って大変好意的であった、と言えるだろう。それは同じく新たに民主主義国家として敗戦の苦労を克服して国家再建の道を歩んでいる同じ運命の国民に対する共感もあるであろう。外交官に限って言うと、本省勤務、ドイツ在勤の時もドイツ以外での勤務の時も、お互いに国益に沿って主張すべきは主張してもそれを離れればドイツ人外交官たちは友好的であった。それは外交辞令以上であったと言える。その意味で私自身が『日本とドイツの関係は友好的だ』と感じてきたことは偽らざる感想である。他方第二次世界大戦及びそれ以前の日独関係は見てきた通りそんなに単純なものではなかった。
 1970年代以降も本国政府からの訓令にも、日本の直面している問題、例えば介護保険制度、介護施設などについての西ドイツの実例、問題点などについての質問や視察に随行するようにとのものもあった。

Ⅴ. 将来に向っての日独関係
(1) 安全保障面でアジアに位置する日本と、今やEU(欧州連合)の位置するドイツの距離は遠く、日本は実際問題としてアメリカとの同盟を中心に自己の安全保障を考えざるを得ない。しかし今の米国のトランプ政権の下では米国に開かれた安定した将来を見据えた自由貿易、民主主義的な人類の未来は託せなくなっているのが現実であろう。他方、ロシアはクリミヤ半島を自国に編入して其れを既成事実化している。中国は一党独裁体制を維持しつつ、米国トランプ政権の保護主義的な主張を逆手にとって「自由主義貿易」の一方の旗手だと任じている始末である。この国は一方では、南シナ海では人口島を造って南シナ海の多くを自国領だと主張しており、東シナ海でも日本の固有の領土である尖閣列島を自国の領土である、との主張を強めている。
日独両国は強大な大国ではないが安定した先進民主主義国家として且難しいロシアと中国という国を隣国に抱えており、これらの両国は民主主義的な発展に向かって立ちはだかっている。日独両国は自由と民主主義の土台の上に両国、人類が直面する共通の課題に協力して取り組んでいってほしい。ただ1点気がかりなのは日本人が時々ドイツ人に優越感を垣間見る、という事である。ドイツ人の方でもそう見られがちであることに留意してほしい。
日本社会はこれからの新たな社会保障制度の創出に、労働人口の減少に悩むだろう。これらの問題は以前から見通せたはずである。
私の個人的記憶であるが、1960年代を通じて、また70年代初めには西ドイツでは開かれた国に成る為にも、労働力不足を補うためにも盛んに外国人を迎え入れ、彼等は大半はガストアルバイタ-と呼ばれ、60代にはイタリア人、ユーゴスラヴィア人、70年代にはトルコ人が多かった記憶がある.ドイツ政府、州政府はそのために多大な費用をかけてこれら外国人たちの為にドイツ語、ドイツの文化を学ばせる教育の施設、制度の改革に努力してきた。もちろん成果が出なかった例もあるであろう。もっとも日独の置かれた立場は時代と共に大きく変わってきているが、ドイツでは外国人を受け入れる制度は日本の外国人受け入れ制度や考え方に比べても遥かに柔軟であり、入国管理制度も違う。もっとはっきり言えば、日本の外国人受け入れ制度は、ドイツのみならずヨーロッパ諸国に比して外国人に厳しい。流石に、政府も将来の人口減少、現実になった労働力不足に直面して入国管理局を入国管理庁に昇格させたり、外国人労働者の受け入れ拡大に踏み切ったようである。これが外国人の帰化条件の緩和に繋がるかどうか判らないが,ただ忘れてはならないのは、これは長期にわたる問題で着実に、思慮深く、急がずに対処していってほしい。外国人労働者も人間であることを忘れないでほしい。
 現在ドイツを始めEU諸国は難民の受け入れに苦慮しているが、中でもドイツの難民規制は比較的に緩い、と言われる。これはナチス政権の人種差別政策への反省にも原因があろうが、多数の外国人を受け入れて開かれた国になることと経済成長を確保しようとしてきたことに背景があろう。日本が戦後開かれた国に成る為にも、将来の経済成長を確保してゆくためにもこの問題は避けて通れない。もちろん治安の確保は難しい問題である。この面でもドイツが直面した課題にも失敗にせよ成果があった面にも、学ぶこともあろう。

(2) 最後に40年余りの外交官としての生活・体験、10年以上に亘る退官後の生活を顧みて私の個人的な感想を言えば、日本の人々は礼儀正しく、親切であるが、一点だけドイツ人他欧米人に学ぶべき点があると思う。それは、障害者などの弱き立場の人々に対して思いやりの心で接して欲しい。心のバリアーを低くしてほしい。

終わりに

この「忘備録」を完成する為に多くの友人たちのアドヴァイスを得ることが出きた。特に、貴重なアドヴァイスを頂いた河東哲夫大使及び霞関会の竹内春久大使には深謝したい。また、現役時代にも影になり、日向になり外交官の私を支えてくれ、この「忘備録」を書く間アイデアを呉れたり食事を造ったり、執筆の時間を造り、いろいろの家事・雑事の時間を私に自由に使わせてくれた妻順子に深く感謝したい。


参考文献

外交資料館。 就中、「日本外交文書」中の日独伊三国同盟、日ソ中立条約、日独伊三国同盟締結の内幕(斎藤良衛書)、「外務省の百年」、戦後の日独関係に関するマイクロフィルム、内核不拡散条約、等
半藤一利著「昭和史」 平凡社
半藤一利、保阪正康等著 「日本の独立」 ちくま文庫
井上寿一編「日本の外交第1巻」 岩波書店
加藤陽子著「戦争まで―歴史を決めた交渉と日本の失敗」 朝日出版社
豊下楢彦著「安保条約の成立―吉田外交と天皇外交」 岩波新書
工藤章/田島信雄 「編」 「日独外交史-1890-1945」Ⅰ.Ⅱ.Ⅲ 東京大学出版会
アネッテ・ヴァインケ著板橋拓己訳「ニュルンベルク裁判-ナチ・ドイツはどのように裁かれたか」 中公新書
法眼晋作「外交の真髄を求めて」―第二次世界大戦の時代 原書房
柳谷健介 「オーラル・ヒストリー」上巻 政策研究院
新井弘一著「モスクワ・ベルリン・東京―外交官の証言 時事通信社
Sebastian Hafner著「Von Bismark zu Hitler-Ein Rueckblick」 Knauer出版社 1998
その他拙著「欧州分断の克服」 信山社、 「ドイツ外交史」えにし書房
   拙訳「ドイツ外務省―過去」
      など

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