Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
ChineseEnglishRussian

日本・歴史

Automatic Translation to English
Automatic Translation to English
2018年9月16日

日本史始原探訪3 日本人の権利意識は室町以来?

このシリーズは12月に第1回、3月に第2回、6月には3回目を出そうと思ったのが、時間がなくて、9月になってしまった。今回は古代から室町時代まで。日本人に強く備わっているように見える権利意識、特に土地に対する権利意識の強さは、室町時代に農民の土地所有権が強化されたことにその根源を有するのではないかという、「研究」というかリポートである。

まとめ

これからの2回は、日本の経済・社会の始原についてである。日本では耕地--つまり富を生み出す源泉――を特定の農民が「所有」しているという意識がいつ頃生まれたか、また日本では村落単位の自治の伝統があったかどうか、あったとすればいつ頃からか、村内部の上下関係はどのようで、村での人間関係のあり方は現代日本の企業にどう持ち込まれているか――それは日本企業の強みでもあり、今や弱みでもあるのだが――、そういったことを中心に論じてみたい。

なぜ所有意識の有無が大事なのか? それは、農地=生産手段に対する私的所有権の概念があるかどうかが、経済発展に大きく影響するからである。社会主義的な共同所有は、聞けば美しいが、実際には無責任体制を生み、発展は止まりがちになる。北米大陸のインディアンは私的所有地を持たなかったようだが、そこに入植した英国からの入植者は柵を立て耕地を囲い込み、その中で生産性の高い農業を展開した。土地の所有権が明確でないと、そこに労力、資金を投入して土地改良をし、水利を改善して生産性をあげようというインセンティブは働かない。

数年前のロシアや旧ソ連圏諸国では、計画経済の縛りがとけたことが秩序を壊し、有力者が官憲を使って、儲かっているレストランを接収したり、会社の登記書類を奪う例が多かった。このように、「明日はどうなるかわからない」という状況でも、何かを一旦所有すると、それに投資するより搾取する方に傾きがちで、経済は全体として発展しない。ゼロサムにとどまってしまうのである。

次になぜ村落共同体に目をつけたのか? 日本で村(「惣村」と呼ばれる)が確固たる形を見せてきたのは、室町時代のようである。それまで農民は領主の農奴的存在として酷使されたり、洪水のたびに耕作可能な土地を求めて転々としていたようで、それが惣村という形で先祖代々固まって一所に集住するようになったのは、室町時代のようなのだ(後出)。

そしてムラは自治意識を持つようになる。その経緯はこうだ。鎌倉時代の元寇で、関東の御家人が関西に移動、彼らは兵糧確保のために近畿以西の荘園に様々の資格で配置され、うち何人かは荘園の差配権を簒奪した。これは、鎌倉幕府滅亡と同時に天皇親政を敷いた、後醍醐天皇の建武の改革で再びもとの持主のものとして安堵される。だがその2年後には、足利尊氏の謀反で北朝が御家人の権利を復活する。それ以降も応仁の乱、そして戦国時代に至るまで、耕地を差配する者は二転三転、所有権があいまいなものになるうちに、惣村を形成した農民の権利が確立した面がある。

そのあたり、「日本の歴史 戦国の活力」(小学館、50頁)のあたりが活写する。土地の所有者が入り乱れると、農民は上の言うことを聞かなくなる。年貢供出を渋ったり、代官に暴力を振るったり、「所有者A」が年貢を要求して来ても、「いつも所有者B様に納めているので、ご勘弁を」と言い逃れ、AとBを争わせようとする。

なぜこんなことを気にするかと言うと、それは日本の農村での人間関係は地主―小作の隷属関係よりも、自営農同士、権利意識が高い者たちの間の関係だったのではないか、ということである。戦争直前の日本では、全国耕地の40%が地主―小作関係の下にあったが、これは明治6年の地租改正で農民の耕している土地に所有権を正式に認めると同時に、その売買を合法化したため、貧農が続々と地主に土地を売却したからである。貧農はそれまでも地元の富農に経済的に依存していたのだろうが、地租改正でこれが表面化したものだろう。それでも、耕地の60%は自営農の下にあったことになる。

このことは、地主―農奴、地主―小作関係が耕地の多くを覆っていたロシア、中国と大きく異なることで、これは日本人には自然な権利意識を持っている者がけっこう多いということを意味する。それは民主主義の基盤となるし、経済的な活力も保証するものだ。

あと、本題からは外れるが、日本史を勉強し直してみて感ずるのは、この世界に日本ほど権力が分散と言うか、制度上の権力者が祭り上げられて無力化され、別の者、あるいは者達が実権を握ることの多い国は珍しいということ。飛鳥時代は天皇と蘇我氏等の豪族、奈良時代は道鏡、平安時代は藤原氏、平氏等々。明治以降は天皇と薩長閥、天皇と軍、そして現代は、総理と総理の威を借りて政策を壟断する側近達という具合。なぜだろう。指導者が弱い? それとも強い指導者は好まれない?

では、耕地所有権、そして「ムラ」のあり方を中心にして、飛鳥時代から江戸時代初期までをまとめて見ることにしたい。

飛鳥時代後期から奈良時代にかけて―班田収授の真偽

(土地差配のあり方)
稲作は弥生時代に日本に入って来たとされる。その特徴は、生産性が非常に高いことである。江戸時代は年貢で収穫の3割も4割も取られたので、農民は苦しんでいたかに思われているが、稲作は稲一粒が100-200粒にも育つもので、田を広げるにつれて、収益はどんどん大きくなっていく性質の作物である。年貢を納めた後でも、かなりの利益は農民の手に残ったはずだ。

大和平野では、御所市の中西遺跡に、2400年前(弥生前期)と推定される水田跡が2万平米にわたって850枚以上に整然と区画されていた跡が発掘されている。区画整理されている水田は、土豪の勢力下にあったものだろう(「土地所有史」渡辺尚志)。これがベースとなって、大化の改新後の701年大宝律令では、当時中国の唐王朝で行われていた(唐全域にわたるものではなかった)班田収授制を敷き、全国の耕地を朝廷の差配下に置いたことになっている。

しかし、この班田収授制はどこまで実効性のあるものだっただろう。足元の大和平野ででさえ、名称だけ班田として、実際はそれまでの土豪による差配を追認しただけのところが多かったのであるまいか。大和平野以外の地方については、実態はもっとひどかったことだろう。

奈良時代の聖武天皇は、743年に「墾田永年私財法」を発布している。それまで何者かが開墾した田は3代にわたって私有を認めていたのを、3代の制限を取り払うことで、開発意欲を刺激したものである。960年の史料で初めて、「私領」という言葉が出てくる(「日本の中世社会」永原慶二)。これら私有田地は貴族・寺社が差配する(免税扱いになる)荘園に発達し、中央から派遣された「国司」が差配する建前になっていた班田との間で農民労働力の取り合いを演じたに違いない。これは、もと役人として、建前と実際の間には大いに違いがあることを身に染みて知っている、筆者の推測である。


(中央と現場の関係)

日本の場合、中国とは異なり、中央政府の力が弱く、地方統治・治安はそれまでの土豪の勢力をそのまま利用(「郡司」と呼ばれた)していたようだ「日本の中世社会」)。中国の王朝は強大な常備軍を備えたが、日本の地方は治安を私兵に依存。これが武士となって、遂には中央権力を簒奪するまでになる。

当時、農民達は1カ所に何代も定住して自治性の強い村落共同体を作っていた、というわけではないようだ。日本では奴隷が律令で禁じられていたこともあり、「日本は、奴隷がいなかった、世界でも稀な社会」という神話が世界の日本学界に広まっているが、実態はかなり違うようだ。中世、奴隷的な境遇の者が普通にいたことは、「山椒大夫」の伝説を見てもわかることである。こうした人間達は、自治性の強い村落共同体を作ることはないだろう。土豪や国司の屋敷の周囲の小屋に雑然と押し込められていたのではないか。

藤木久志氏は、半奴隷的労働力の存在を、「雑兵たちの戦場」で活写している。これによれば、中世になっても農村の次男・三男たちは余剰労働力として徘徊し、人身売買等の「しのぎ」で生計を立てていた。つまり彼らは日本人を拉致しては、半奴隷として別の日本人に売っていたのである。

従って、現在の日本社会の人間関係、そして企業の組織原理の根本を成す村落共同体(「文明としてのイエ社会」公文俊平、佐藤誠三郎、村上泰亮)は後出のとおり、室町時代の末期にやっと成立してきたものと思われる。

ところで大和朝廷は、力を欠いていたように見えて、けっこう全国を把握していたようで、例えば708年頃には秩父でとれる銅から和同開宝を鋳造している。「続日本紀」は749年の頃に、陸奥で黄金が発見されたと記している。平安末期に平清盛が宋銭の大量輸入を始めるまでは、日本での貨幣使用は広がらず、支払いは米や布の物品で行われていたのだが、情報と輸送のネットワークは一応古くからあったのだろう。

平安時代

(能天気の虫食い政権)

平安時代というのは奇妙な時代で、中国で唐が滅んで(907年)五代十国の混乱時代に入ったことが響いたのだろう、894年には遣唐使は廃止され―今で言えば日米外交関係断絶、あるいは同盟関係の破棄に相当するマグニチュードを持つ―、高句麗の後にできた渤海国との使節往来も922年頃には絶えてしまう。荘園が乱立していずれも免税権を獲得、国家財政は虫食い状態のボロボロになり、律令国家の中央集権制が崩壊するのだが、対外緊張感がないこともあり、お上が京都で源氏物語のようなことばかりやっていても、国内は回っていく。それが実に400年も続いたというのだから、すごい話だ。

所有、統治・支配構造から見ると、平安時代は朝廷と臣民の間の直接の服従関係が断ち切られ――それ以前も、それは律令上の建前だけだっただろうが――、貴族、寺社、荘園という存在が両者の間に「中間団体」として介在するようになった時代である。

荘園は免税権を得ていたから、土豪よりも強い地位にあり、西欧の封建時代によく似た統治構造を呈していたと思う。その点は石母田正氏が著書の「中世的世界の形成」で指摘しているそうだ。「日本史が西欧史に似ているかどうか」は、日本が非白人の中で唯一工業化に成功したことを説明するための重要な論点であったが、中国が急成長した今は、もう議論の対象になっていない。筆者にしてみれば、日本史が西欧に似ているかどうかを議論しても仕方なく――というのは、西欧の産業革命は新大陸からの金銀の流入、あるいは奴隷貿易等、独自の外的要因に多くを負っているので――、日本は日本で社会・経済がどう変わっていったかを研究することの方が大事だと思う。

(土地差配のあり方)

荘園の拡大、あるいは班田が荘園に転化していく過程の全容は不明なのだが、前出の「私領」の拡大や、中央から派遣された役人が班田を簒奪する等のプロセスを経たのであろう。

荘園、荘園となぜうるさく言うかというと、これは班田と違って免税権を中央からもぎ取ったもの、つまり律令国家の中央集権の建前を明確に崩したものだからだ。「日本の中世社会」(永原慶二)によれば、税収減を恐れた中央は当初、荘園の拡大を止めようとした。しかし11世紀後半には豹変して、皇室も摂関家も小規模荘園の寄進を進んで受け、侵食されていく公領に代わってこうした私領から収入を得る方向に転じた。

相変わらず地方の実権を握っていた土豪にしてみれば、権威ある相手に自分の土地を形式的に寄進することで、地元の公権力から独立して、兵役を免れ、実質的な税負担も減らすことができたのだろう。彼らは勝手に「郡司」等の職名をかたり、「××郡司」の肩書は土地を差配する権利とともに売買されるようになった。要するに、一つの土地に対して、朝廷、荘園所有者、そして土豪の権利が並立していたことになる。

なお渡辺尚志氏は著書「土地所有史」で、後白河法皇は平家の集めた私領を自分に寄進させ、自分の荘園を増やしたことを指摘している。この頃の歴史を見ると、法皇が実権を持ち、天皇は二次的な役割に押し込められていることが多いが、要するに天皇は配下の土地を貴族、寺社、そして法皇にも取られ、権力もカネもない状態に追い込まれた、ということなのだろう。

(農民社会の構成原理)

家族、村落の形態はどうだったのだろう? 当時の農村については、史料が少ないようだ。今昔物語や伊勢物語のような文学作品を見ても、農村の生活のことはわからない。わずかに「日本の中世社会」には、11-12世紀に農村の家父長制世帯共同体が分解したとある。しかしそれは、農民がばらばらの農奴的存在に落ちたという意味なのか、核家族が成立したという意味なのかは不明である。

因みに伊勢物語の在原業平と言うと、なぜか彼の塚(馬をつないだあとだそうで)が筆者の自宅の近所、埼玉県新座市平林寺の脇にぽつねんとある。彼は東国落ちしているので、埼玉で馬を乗り捨てたとしても不思議でないが、伊勢物語の叙述は抽象的、感傷的で、その地の農民がどのように暮らしていたかなどとんと出てこない。人間の部類に入れていなかったのか。

荘園にも班田にも属さない、限界領域で生活する貧農もいたようだ。条件の良い耕地は荘園、班田に独占されているので、彼らは水害等の被害を受けやすい所に住み、それゆえ逃散することも多かった。

なお、平安時代に武士が出現するのだが、これは日本の朝廷が常備軍をほとんど持たず――と言うか、そのカネがなく――、地方の治安が私兵に委ねられたことが大きいだろう。また土豪の中にも、自ら武装して侍になっていく者もあった。

鎌倉時代――蒙古襲来がもたらした日本史の転換点

(元寇で決定的となった武家支配)
俗に「鎌倉時代」と言われるし、鎌倉に幕府があったのだが、幕府=政府ではなく、ここで日本が一気に武家政権を樹立したわけではない。鎌倉時代とは「平家を倒した後の平安時代」のようなところがあって、鎌倉幕府は東国を支配、西日本では平家の所領が旧勢力の下に戻り、平安時代の荘園制が続いていた。鎌倉幕府は自分の常備軍である御家人の生活を支えるため、彼らを旧平家領や謀反人の領地に「地頭」(警察機能を果たす)として任命したが、これがどこまで実効性のあるものだったかはわからない。

鎌倉幕府は対外代表権、つまり外交権を握っていたわけでもない。それが変わってくるのは、元寇直前、武力攻撃の危険が日本に迫った時、鎌倉幕府が和平論の朝廷を抑えて主戦論を唱えて元の使節を斬り、挑戦的な返状を元朝に送った時である。幕府はまた、朝廷が地域に任命した官員、そして寺社の管轄下にある人間達を対元寇防衛戦のために動員する権限を朝廷からもぎ取っている(「蒙古襲来―対外戦争の社会史」 海津一朗)。つまり元寇を口実に、幕府は朝廷の権限を大きく奪い取り、真の武家政権確立に向かって歩みだしたのだ。

それ以来、江戸時代に武家が統一政権を確立するまで実に600年間、日本は貴族支配から武家支配への移行期にあったと言えよう。それは、荘園の名残りがこの間消えなかったからである。権力は常に数カ所に分散していた。

中国の権力分散期は春秋戦国時代が実に550年間、五胡十六国時代が135年間なので、前者に匹敵する長い移行期である。前述のとおり、日本の歴史は西欧の歴史に似ていると言って喜ぶ人がよくいるが、日本は、西欧が近代の入り口に立った時(17世紀)初めて封建制を確立したとも言えるので、西欧と似たプロセスをたどったとしても、数百年後れてたどったに過ぎない。そうなってしまった理由はわからない。農業生産力の急速な上昇が、西欧(1000年頃)より500年程後れたことによるものだろうか。

なお元寇は、朝鮮半島の歴史でも画期を成している。ここは日本とは逆に、元朝に屈服することで(忠誠の証明として日本侵攻の先導を取る)文民政権の長い歴史の幕を開ける。当時の高麗王朝では、元に服従するかどうかで上層部の議論があったが、結局のところ武闘派を文民派が抑え、それまでの武人政権が倒れたのである。

(土地差配のあり方)

外国との戦争は多くの場合、日本史、日本経済史の一大転換点となる。所有関係が暴力的に一変するからである。白村江の敗戦は日本の律令制を強化した。そして元寇への対処はこれから見るように、西日本の土地所有関係を大きく流動化させ、鎌倉時代末期の後醍醐天皇による建武の改革で混乱度を増幅して応仁の乱、そして戦国時代へと至る。

日本史は、土地(耕地)をめぐるザロサムの奪い合いの歴史とも言える。財産を分与するべき子孫が増えるので、土地の奪い合いは貴族、武士、寺社勢力相乱れて熾烈なものがある。元寇での防衛戦争も、「国を守る」という崇高な愛国心よりも、主君の戦争に協力することで戦後の報奨を得る方に、頭が回っていたらしい。

人間的な欲と打算、と言うか、御家人は自分の負担で、かつ一家の命運をかけて出征するので、戦後は当然報酬=他人の領地取得を求める。元寇と言うと防戦一方だったように思われるが、日本側は実に2度にわたって朝鮮半島への侵攻を計画している。これには、敵の拠点をたたくという発想と同時に、配下の武士、大名に朝鮮半島の土地を与えようとしたものであったのかもしれない。そして寺社は一丸となって国の勝利を祈願し、その声は天にも届かんばかりだったが、それもまた寄進を集めるため、そして戦後の報酬を求めての話しであったようだ。戦後は寺社の領地争いが激化し、尻は朝廷に持ち込まれている(「蒙古襲来―対外戦争の社会史」 海津一朗)。

こんな次第で、戦後は、「あんなに戦ったのに何もくれないじゃないか」という不満が、特に御家人の間で渦巻いた。御家人の惣領と庶子の間にも争いが起きた(「蒙古襲来と鎌倉幕府」 南基鶴)。鎌倉幕府は西日本に出征した御家人を地元の荘園に地頭として配置(生活の糧を得させるためである)したので、荘園の所有者である貴族、寺社との争いも生じた。

こうして争う者たちは、互いに相手を「悪党」と名付けて訴訟したので、当時の日本では「悪党」がにわかに増えたことになっている。なおこれは、室町初期の「バサラ」とはまた違った連中である。こうした状況を受けてのことだろう。困窮し、領地を質に出した地頭、御家人は「徳政令」で、質入れ地の無償返還を獲得している。

なお当時、私領が増えるにつれて、登記制度の萌芽が見られるようになった。前掲「土地所有史」によれば、12世紀後半関西では「検注帳」、「丸帳」と称される土地台帳が多数作られている。西欧での同様の習わしの始まりとされる英国のDomesday Bookは11世紀末のものなので、それと時期はほぼ同じである。後者は、ノルマン人による英国征服を受けた検地のようなものなのだが、前者も西日本で土地の所有関係が切り乱れてきていたことを反映したものかもしれない。

(長子相続制の萌芽。女性の権利喪失)

元寇以前から、国内の安定によって新たな土地を獲得する機会がなくなった武士たちは、それまでの分割相続を諦めて、長子相続制に移行しつつあった(ウィキペディア)。土地にあぶれた次男、三男は後出のように傭兵、夜盗、あるいは海外へと流出していく。同様の現象は16世紀の英国でも起きている。長子相続制確立で行き場を失った次男、三男は海賊になったり、海外植民地の征服に流れていったのである。

なお水林彪氏は「封建制の再編と日本的社会の確立」の中で、武家の世界では室町時代に分割相続から単独相続への転換が生じたが、個々の家では家父長制的支配の強化が行われた、また農民の世界にも単独相続が及ぶようになったのは17世紀末から18世紀だったとしている。農民の間における長子相続は、農民の租税負担能力を維持しておくために、江戸幕府が意識的に推進したものでもあった。

そして鎌倉時代には、後の日本社会に長く尾を引いていることが起きる。それは、女性の所領相続が難しくなったのである(「蒙古襲来―対外戦争の社会史」)。日本ではもともと女系社会の伝統があったが、資産がなくなれば、女系、女権の基盤はなくなってしまう。

室町時代――土地所有形態の原型

「日本のことを知るには応仁の乱以降のことだけで十分」と言われる。それは一面の真理だろうが、一面でしかない。AがB、つまり応仁の乱以後に変わった時、A、つまり乱以前のことも知らなければ、BがBである理由、背景、意味もよくわからないだろうからだ。

(実は集権化・経済発展の進んだ時代)

室町幕府は弱い幕府であったと思われているが、実はこの時代は集権化と経済発展が進んだ。一見弱い政府の下で、実は集権化と経済発展が進んだのは、中国の宋王朝でもそうであった。

室町幕府は、鎌倉幕府よりは全国政権の色彩が強い。鎌倉からやってきた足利氏は、天皇親政を回復しようとした後醍醐天皇の南朝を破るとともに、幼少の天皇をいただいて北朝とし、その権威を背景に西日本の貴族、寺社勢力も一応支配下に置いたからである。

室町時代と言うと混乱の時期と思われているが、経済的にも大きな画期を画した時代であった。それは中国から銅銭が大量に流入し(明朝が当時紙幣の普及をはかろうとして、銅銭の使用を禁じたので、その銅銭が日本に大量に流入したのである。別に、当時の日本が明朝に対して貿易黒字を収めていたから、その代金が大量に入って来たというよりも、銅銭そのものを割安な商品として輸入していたのであろう)、それがそれまでの貨幣不足、デフレ基調を逆転したからである。

日本海で引き揚げられた当時の沈没船は、今で言えば8-16億円相当の銅銭を積んでおり、もし10隻の船団を組んでいたとすると、1回の航海で80-160億円の銅銭を持ち帰っていたことになる。これをアンガス・マディソンの試算した室町時代初期のGDPと比べると、その10-20%、つまり近年の黒田日銀総裁の異次元緩和に等しいマネタリー・ベース増加の効果をもたらしたはずである(以上、「日宋貿易の実態」 服部英雄)。

また室町時代は、商業の発達も顕著だった。延暦寺は、若狭湾の港から京都に至る通商路に関所を設けて関税を徴収し、それを貸し出しに回してさらに増やした。その利権は後に本願寺に移行していくが、いずれも織田信長に弾圧されるのである。因みに北陸地方は当時、大陸との貿易では日本の表玄関の一つ、しかも日本海側沿岸通商のハブだったので、その利権は争奪の的となった。例えば信長に撃滅された朝倉氏は、福井の一乗谷を拠点に、朝鮮、大陸との貿易で栄えた。また後の武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いは、信濃と日本海との間の通商路制覇をめぐるものであったと、誰かが新聞小説で書いていた。右の戦い数年後、同盟相手の今川氏に塩を絶たれて困っていた武田信玄に、上杉謙信が塩を送ったという美談も、実は通常の商談の一環であったのかもしれない。

(土地差配のあり方――持主乱立で漁夫の利を治めた自営農)

この時代は元寇に次いで、後醍醐天皇による武家支配押し戻し(2年半続いた建武の中興)とそれに対する武家側からの反動である南北朝時代の混乱があり、西国を中心に土地を支配する者が流動化した。特に南朝方についた者の荘園は荒廃したのである(「日宋貿易の実体」 服部英雄)。これに応仁の乱が事態をさらに悪化させる。京都の本拠を焼失し没落した禅宗五山、あるいは公家の荘園は地元の武士に簒奪されていく(「経済で読み解く織田信長」 上念司)。

そしてこの頃、自営農が増える(「日本の中世社会」 永原慶二)。前述のように土地を支配する者が不明瞭になったために、実際に耕している者の権利が増大したのだろう。一方、悪党(暴力団と地上げ屋)、夜盗・強盗が横行していたので、百姓は自衛体制を固めた。自分の耕す田地に実質的な支配権を確立した小規模自営農が集住し、名主(長老)を頭に自治体(「惣村」と呼ばれる)を作ったのである。これを描いたのが、黒沢明の「七人の侍」である。渡辺京二氏は「日本近世の起源」の中で、戦国時代に荘園制は完全に崩れ、自然発生した惣村が農民の土地所有権を守るようになった、また領主に変わって村が裁判を行うようになった、と指摘している。集住した理由はわからない。班田で半農奴として働いていた時代から、集住していたのかもしれない。

他方、班田収授制の流れを引いて、「国司」の子孫が広い田地を世襲差配して、小作人を雇っているケースも続いていた(「封建制の再編と日本的社会の確立」 水林彪)。これが後の豊臣秀吉の検地の時、どのように扱われたかは知らないし、江戸時代にまで続いて行ったものなのかどうかも知らない。

惣村」は、前記「文明としてのイエ社会」が指摘する疑似「イエ」そのものである。現代の日本の企業も同じ「イエ」の原理――閉鎖的、かつ内部の階層性が強い利益集団――で作られている。その意味でも、現代日本は室町の頃に発しているのである。

土地に対する農民の権利意識、仲間内での自治意識、そしてムラの論理が確立した戦国時代、安土桃山・江戸時代については、近日中にアップすることにしたい。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.japan-world-trends.com/cgi-bin/mtja/mt-tb.cgi/3743