インド旅行記 ムンバイとバンガロール これ一つでまとめて
">2月9日から16日まで、インドのムンバイとバンガロールに行く機会があったので、見聞したことを書き記しておく。バンガロール大学の大学院にタシケント時代の知り合いだった日本人教師が日本語科を開いていて、スピーチをしにきてくれと言うので、前から一度見たいと思っていたバンガロール、そして一度も行ったことのないムンバイに行くことにしたのである。往復の飛行機は、これまでたまったマイレージを使った。ルフトハンザのマイレージ係りはずいぶん丁寧にてきぱきと、航空券を作ってくれた">。 ">インドの入り口=成田空港で
ムンバイに着いたら空港からタクシーでホテルに行くつもりだった。昔の記憶をたぐって、デリーの空港で両替にてこずった(てこずったと言うより、空港唯一の両替所に人がいなかった)のを思い出し、成田空港でルピーを入手しておこうと思った。最近では、ロシアのルーブルも中国の元も、割高ではあっても成田空港で両替できる。ところが「ルピーはありません。みなさん、ドルをお持ちになっています」なのだそうだ。インドの通貨管理が厳しいからか(インド国内では両替は簡単にできるのだが)、それとも需要が少ないのか。
インド航空のチェック・イン・カウンターで「ヴィザはお持ちでないのですか?」と言われて気が付いた。「インドはヴィザ不要」と思い込み、確かめもしていなかったのだ。
「でも、なんとかなるでしょう?」
「はい、御着きになるデリーの空港でヴィザを購入できます。60ドルかかりますが、よろしいですか? (もちろん、よろしい)あと、写真が必要になります」
「写真、撮れるところ、ありませんか?」
「エスカレーターを上がられて、左の奥に進まれますと、自動写真がありますのでご利用ください」
やれやれ、行けなくなるところだったと思いながら、重い手荷物(読むべき書類が厚さ15センチほど入っている)を半分引きずって「左の奥」まで行くが何もない。通りかかった警備の人に聞いても、階下の案内で聞いてくれと言われるばかり。おお、インドは成田から始まる。あらゆるサービスを受けるのに、大変な労力と胆力と時間を使って、要するになんでもありの世界が(あとでバンガロールでは、必ずしもそうではなくなっていることを認識したが)。
日本から外に出たら、何を言われても信じない。自ら確かめるまでは信じない。ものごとは実際に起きるまで、うまくいったと思わない。これが、外国に行く時の心がけ。別に、外国の人たちを蔑視して言っているのではない。普通の人間は、いい加減なものなのだ。他人のことなど、どうでもいい。そこを認識せず、相手に好意しか期待しないこちらの方が脳天気なのだ。写真は結局撮ることができたが、ガイドブックをチェックすると、デリー空港でのヴィザ取得には問題あり、と書いてある。気を抜くことはできないな、と思う。でも、その時までは別に思い煩うこともない。
成田空港第2ターミナルは、第1より力が入っていない感じで、セキュリティ・チェックのところには長い行列ができている。ブースがまだ二つあるのに、開いていない。そのくせ入り口ではチェック要員が二人もいて、おしゃべりしている。チェック手前のかごがなくなっても補充しないなと思って見ていると、チェック要員が一生懸命かごを持ってきた。こういうのが、日本人の現場力というものなのだが、本来は現場監督が目を配り、もっとブースを開けさせたり、おしゃべりしている職員に籠をもってくることを指示するべきなのだ。
インド航空機
乗った飛行機の名前はAndhra Pradesh。インド南東、ハイデラバードを首都とする州の名だ。機材はボーイング777。これももう、初飛行から20年弱もたっている。内部は相当古びて、座席の背にあるスクリーンで安全説明をしているのはいいが、画面は歪むし、雪(・)は降るしで、なにもわからない。そして機内アナウンスも、エンジン音に埋没してわからない。
デリーまでは9時間かかる(帰りは7時間だった)。背もたれに入っているパンフに路線図を探して見ると、成田とデリーの間には中国を横切って飛ぶ路線が無造作に書いてある。こんな簡単に中国上空を通過できるのかと思って下を見ると、一面の海。自分がどこにいるのかわからなくなる。後で調べたところでは、香港あたりまで海上を南下して、あとは一路西へ、雲南省の上空あたりを通過していくようだ。
エコノミー・クラスの搭乗率は半分ほどで、日本の若者が多い。20年ほど前までは、「生と死が隣り合わせのインド人の厳しい生活を見て『自分を発見する』のだ」などという、センチメンタル、かつ他者の苦しみに無頓着な若者たちがインド旅行ブームを演出したものだが、それがまだ続いているのか? この就職難の時代に、まさか。
客室乗務員が身を乗り出し、機内食は何になさいますか、と窓際にいる僕に聞いている。僕は思わず、「何があるんですか? チキンかビーフの選択ですか?」と聞いてしまい、その音が口外に出ていくそばから、唇が寒くなっていくのを感ずる。ヒンズー教のインド航空で、ビーフを出すはずがないだろう。なんという失礼な。客室乗務員が当惑した苦笑いを浮かべている。スミません。
飛行機は北インド上空にさしかかる。ガンジスの支流だろう、蛇行する大河が下をずっと流れ、ヒマラヤが地平に聳えている。この山脈を飛行機から見るのは3回目だが、毎回雲に包まれ、高い峰だけが頭を出している。飛行機から見ると、インドの農地は形も色も不揃いで小振りだ。言われているように、均等相続がインドの農地を限りなく細分化し、商品作物を栽培する余裕がなくなったことが、インドの貧困の大きな原因なのだろうか。
デリー空港ターミナル
デリー空港ターミナルについては、薄暗いうらぶれた印象が残っていたが、今回は最近のアジア特有の巨大でモダンなものに変わっていた。一昨年新設されたものらしい。その割には、それほどぴかぴかでもなかったのだが、トイレは日本なみの清潔さだった。
Visa on arrivalのカウンターに行ってみる。2人も係員がいて、ほっとする。ガイドブックには、「係員がいないこともあります」と書いてあったからだ。掲示を見ると、「カンボジア、日本、ルクセンブルク、フィリピン、ベトナム、ミャンマー、フィンランド、ラオス、NZ,シンガポール、インドネシアの方はここでヴィザを購入できます」とある。これらの国は、いったいどういう基準で選んだのだろう。ヴィザ購入に特に問題はなかったが、英語のできない個人旅行者には難しいだろう。
やれやれと思って、国内便に乗り換えるために、ターミナルの外に出る。すると冬のデリーの戸外は十分寒いのだ。ターミナルに戻って中でセーターを着ようとすると、汚いイスに腰掛けてターミナルに入る者をチェックしていた老人が手を振って「しっ、しっ」とやる。3秒前に目の前を通り過ぎたばかりなのに。この手の人たちには、英語は通じない。
国内便ターミナルのFood Courtで、懐かしいマクドナルドを見つけたので行ってみると、ハンバーガーがない。当然だ。マクドナルドもチキンの照り焼きくらいしかない。でもそれではマクドナルドではない。
歳を取ってくると、インドではビーフはタブー(イスラム教徒も多いので、安全パイはチキンかマトンかということになる)ということは、頭の中に残らない。自分の食べたいもの、やりたいことしか考えないようになってくる。
ムンバイはオリエント文明圏のなかに
デリーを飛び立ちムンバイの空港に着いたのは夜中の1時半。日本から直行便もあるが、マイレージを使った関係でこうなった。以前はタクシーの客引きがわんさと寄ってきたそうだが、今では整然としていて、事前料金制のprepaid taxiというシステムになっている。降りる時に料金でいざこざが起きないので、安心だ。空港ターミナル内でホテルまでのタクシー料金を払い、切符をもらって外に出ると、タクシーの行列が待っている。と思ったら、そんなことはなく、真夜中の空港はがらんとしている。やっと片隅にタクシー待合所を見つけた。何の表示もない。才覚を利かして見つけるしかないのは、やはりインド。
空港から市中心まではタクシーで50分ほどかかるが(日中はバイクやリキシャと呼ばれる小型オート三輪が入り乱れる渋滞で、2時間はかかる)、500ルピーほど(1000円弱)だった。韓国「現代」の小さな車で、トランクもなく、スーツケースは運転手が屋根にのせ、ロープで縛りつけた。エンジンは1000ccくらいだと思うが、スピードメーターにはなんと180キロまで書いてある。でもエンジンは良く、操作性も良いので、もしかすると本当に180キロ出るのかもしれない。
インドでは日本のスズキが乗用車市場の70%をおさえていたが、最近は現代の進出が著しい。日本の製造業の多くは以前、商社に海外での販売を依存していたから、今でも海外での体制が弱い。日本国内では人と人のつながりで売ろうとするのに(たとえば販売店網をおさえるなど)、海外に出ると製品の性能で売れると思い込む。日本人社員は海外で数年しか勤務せず、「大過なく」務めては本社に復帰することを目指しているから、海外の現地の社会に飛び込もう、溶け込もうとしない。そこにいくと韓国の現代やサムスンなどは、海外に赴任する社員に向かって「帰って来られると思うな。□□に骨を埋めるつもりでやれ」と言って送り出すのだそうだ。そういった連中がコンプライアンスもものかわ、必死で頑張るから、韓国企業は伸びる。もっとも、ウォン安も彼らに相当味方しているが。
ムンバイの中心部は函館のように、海中に突き出た岬だ。その突端に近いところには、Gateway of Indiaという大きな凱旋門が海に面してたっている。これはその昔、イギリス国王がインド視察の時にくぐったものだし、1948年2月イギリス軍が撤退した時もこの門をくぐって太鼓をたたいて(多分)海へと去って行ったのだそうだ。
長い海岸沿いの道を走っていくと、夜2時だというのに、途中のグランドでクリケットか何か煌々と照明をつけてスポーツをやっていた。2時過ぎにホテルに着く。中級のホテルだが、受付はちゃんとしており、てきぱきとチェックインをしてくれた。但し、コンピューターではなく、幅広の大福帳を出して僕のデータを記入していた。
これは日本からインターネットで調べてクレジット・カードの番号を登録した上で予約したホテルなのだが、広々とし清潔でモダンで、一見申し分ない。だが両側から引いて閉めるカーテンが真ん中でぴたりと閉まらない、コンセントがゆるくてプラグが抜け落ちる、洗面所の蛇口の金具がちゃんと止めてないのでどちらでも向く、といった細かい問題はずいぶんあった。これは、その種の作業をする低いカーストの人たちの意識の問題なのだろう。彼らにしてみれば、自分たちの生活にはおよそ無縁な、「特権階級のやつらのための贅沢品」に真剣にかかずりあう気持ちなど全然わかないのだろう。
テレビをつけてみると、イスラム系、アラブ系チャンネルが驚くほど多い。考えてみればペルシア湾にも近いムンバイは、アジアと言うよりは中近東文明圏にむしろ近いのだ。そして現地語の発音は、中央アジアのウズベク語の語感に驚くほど似ている。中世インドのムガール王朝を作ったのがウズベキスタンからやってきたバブール王子だったためでもあるまいが(と言うのは、今の「ウズベク人」がウズベキスタンに北から入ってきたのは、バブール王子以降のことだから)、インドもウズベキスタンも、ペルシャ人、ペルシャ語、ペルシャ文明が深く浸透している土地柄なので、むしろそこから相似性が出てくるのではあるまいか? ペルシャのゾロアスター教の流れを汲むパーシー教のパーシーとは、ペルシャを意味するファルシのことだし、そのパーシー教の祖先は昔このムンバイのあるグジャラト州に船でやってきたのだそうだ。パーシー教の代表格として有名なタタ財閥も、その本社はムンバイにある。このように、工芸品の意匠も音楽もインド、特にその西半分はアジアと言うより、「オリエント」文明圏に属していると言った方がいい。
社会面記事と国家意識の涵養
インドでは、テレビ・チャンネルにCNN・IBNというのがあり、米国CNNのスタイルで始終現地編集のニュースを流している。その取材ぶりはCNNをまねてはいるが、CNN本体のものよりは突込みが浅い。ニュースの背景にCNN本体と同じように、いかにも迫真感迫るダイナミックな音楽を流しているので、ちょっと見には感心してしまうのだが。
テレビ・ニュースは、社会面のものが多い。その日は、学校の生徒が女性数学教師を刺し殺した、というニュースを繰り返していた。それを見ていると、画面に出てくるインド人の生活ぶりは近代的な都市中産階級のものである。しかし選挙運動に話題が移って農村が出てくると、ここはもう我々の知っているインドになる。
ムンバイで発行されているThe Times of Indiaという新聞は、記事のほぼすべてが社会ネタ、ゴシップの類になっている。その日のトップ記事は、定年の迫った軍総参謀長が誕生日を1年ずらすよう裁判所に求めて斥けられたというもので、国際記事などどこを探してもない。
もっとも社会面記事は、国民意識を一つにするには効果的な手法だ。共通のヒーロー、アンチヒーローを国民に持たせることで、自分たちは一つの国家に属しているという気持ちが自然に醸成される。そしてすべてのことをただ一人のヒーローや、ただ一人のアンチ・ヒーローに帰して単純化して報道することは、新聞が最も売れるやり方でもある。このThe Times of Indiaは日本で言えば、日刊スポーツが読売になったようなものなのだ。
ムンバイ
昔サタジット・ライという大映画監督がいて、岩波ホールで上映された彼の「大地のうた」は、僕にとってのインドの原風景のようなものだ。あの美しい自然に抱かれた、だが極貧の農村風景を求めて今回、バンガロールの郊外に連れて行ってもらったが、さすがにもうあのような光景を見つけることはできなかった。
ライ監督には「大都会」という映画もあって、カルカッタかボンベイ(ムンバイ)かどちらかは忘れたが、戦後間もないインドの大都会の光景が映し出されている。ムンバイはカルカッタと並んで、英国の東インド会社によるインド統治の橋頭保として、ほぼゼロから建設されたものだ。カルカッタは最近まで共産党政権の統治の下にあり、発展より分配を重視した。そのため、果敢に市場経済の発展を続けるムンバイに水をあけられてしまったらしい。
ムンバイはカルカッタより大きく、人口はデリーとほぼ同じく都市域に2000万人が住む。スラムが諸方にあるが、一つのスラムでは100万人が住んでいるという。ムンバイは、インドのGDPの25%以上を生産しており、インド政府歳入の3分の1以上はムンバイで徴収する所得税に由来しているそうだ。工場が集中しているだけでなく、タタなど大財閥の本社がムンバイにあることも影響している。インド人のほとんどは所得税を払っていない[i]中で、ムンバイには金持ちが多いのだろうか?
(海から見たムンバイ)
そしてムンバイには、インドの中央銀行である「インド準備銀行」が本店を置く。ムンバイは、まるでニューヨークのような金融の中心地で、ムンバイ証券取引所とナショナル証券取引所はインドの二大証券取引所であるのだそうだ。そして、世界中からインドにやってくるコンテナの6割がムンバイに集中する。周囲の地方は貧困だが、人口が約3億人もあり、その人口に比例して政治家もいるので、ムンバイと一緒になって大変な政治力を発揮する。
このあたりが、インドが中国と根本的に異なるところで、民主主義は迅速な経済発展にとってはブレーキの要素となるが、持続的な発展のためには吉の要素なのかもしれない。共産党一党独裁は、一度経済が崩れると共産党に代わる支配勢力がないため、選挙で政権が代わってガス抜き、と言うやり方ができない。共産党が締め付けを強化して不満を押さえつけるか、それとも全国的な暴動の波の中で統治能力を失い、全国的な混乱を招くか、どちらかしかなくなる。
「所有権の強さ」は経済発展にとって吉か凶か
北海道の函館に似て、海に突き出た岬にムンバイの中心部はある。弓なりの道が海岸沿いに数キロも続くビーチドライブは壮観で、世界にもこういうのはなかなかない。海があると、オープンな感じで気もまぎれるだろう。ビーチドライブの彼方には高層ビルがずらりと並ぶ。
しかし浜辺には貧民がたむろしている。それを見ていると、タクシーの反対側の窓をコトコトたたく者がある。赤子を抱えた母親風。可哀そうだとは思うが、このあたりでは赤子もレンタルで貸し出されているかもしれないし、一人に施しをすれば車がさらに大勢に囲まれてしまう危険もある。この「親子」に車内から首を振って、車が進むと、道路際には物乞いとはまるで違う世界のThe New Era Shoolなる一見金持ち用の学校がある。そしてその隣にはポルシェのディーラー、そして次には瀟洒な19世紀西欧風のマンション。だがそれは半分こわれているのがミソで。
インドは民主主義の国。そしてイギリスが優越感丸出しに、上からの目線で「開発」に努めた国でもある。生半可な知識で現地の社会をいじったから、インド社会の問題をかえってこじらせてしまった面もある。今のカーストも、英国が気にし過ぎて、かえって固定化してしまったらしい。
そういった英国の失敗がらみの「支援」の中に、私的所有権の確立があるだろう[ii]。インドは均等相続のようで、農地が細分化した上に強固な所有権で守られ、その上に抵当権などが入り乱れるので、外国の企業が工場を作るのはほぼ不可能だ。誰かに地上げをしてもらってたとえば工業団地などにしてもらわないと投資しにくい。
そして所有権は借家権にも及ぶ。なんでも、一度入居すると家賃の値上げを拒み、それが100年以上も続くので、家主はメンテする資金もなく、くずれかけた外壁にカビが黒くこびりつく古代のアパートにいつまでも居住民がいることになる。外壁はスラム風でも、内部のインテリアには住民が金をかけるので、しごく立派なのだそうだが、そのような旧マンションはある日崩れ落ちる。家主は厄介払いができた、これで新しい建物を建てられると思って心ひそかに喜ぶのだそうだ。インドだけでなく、エジプトのカイロなどでも昔のアパートが崩落するケースが時々あって、僕たちはそれを単に日頃の管理の不備、くらいに思っているのだが、実はこのどうしようもない借家人権の問題もあるのだろう。
欧米の経済学界では、「所有権」が経済発展の必要条件なのかどうかをめぐって、果てしないしかつめらしい議論が続いているようだが、インドなどを見ていると(そして土地買収に手こずって道路もろくにできない日本を見ていると)、所有権があまり個人、個人のレベルにまで行きわたると、インフラ建設が阻害されることがわかる。現に、土地は国有の建前である中国では(土地の上に建てた家屋に対しては個人の権利があるようだが)、再開発や道路の建設のための地上げが容易で、そのために中国の近年の経済発展は土建国家の様相を呈しているのだ。
だから経済発展のためには、個々の個人と言うよりは、個々の事業主の権利を守ることが必要なのだろう。17世紀から18世紀にかけての英国では、ジェントリーやマーチャントの権利は保護され、彼らはそれで事業を展開したが、農民たちは「囲い込み」によって農地から追い出されている。
インドの民主主義は誰の役に立つ
インドは民主主義の国ということになっていて、インド人もそれを誇りに思っているようだ。だがこれまでもいくつかの国際会議で、譲って構わないような問題についても自分(個人)の所見をとうとうと述べ、一人孤立してもそれにこだわるようなインドの代表を見てきただけに、インドの民主主義はインド特有のものなのだろうと思う。ともすれば果てしない自己主張のぶつけ合いとなって、何も決まらないのだ。
あえて単純化して言えば、欧米の民主主義は多数決で、日本の民主主義は根回しとコンセンサスでものごとを決めるが、インドでは民主主義はものごとを決めるシステムと言うよりは、人々に言いたいことを言わせてガス抜きをするという、「ガス抜き民主主義」とも言える面を持っている。このあたり、2010年12月デリー大学でのシンポジウムに出て感じたことを、下に引用しておく。
―――シンポジウムでは、何人かのインド人学者が、「民主主義こそはインドの特徴で、民主主義は絶対守らなければ・・・」的なスピーチをするのに何回も出くわした。この国の民主主義が大衆にまで及んでいるかどうか疑問だが、民主主義はインド人知識人にとっては、「GDPが世界でナンバー2」を誇りにしてきた日本の知識人と同様に、一種の旗印なのだろう。
だが、インドの民主主義とは混沌のことではないか? インドの知識人には、話し相手の言うことを全然聞いていない者がいる。黙っているなと思うと、その人は心の中で一心不乱に考えており、次の瞬間、突然しゃべりだしたりする。これでは知的な行為と言うより、一種の知の排泄行為だ。テレビのディベート番組など見ていても、皆すごい勢いで言い争いながらものごとが何となくきまっていく。表で何を言っていようが、おそらく裏で決めればいいのだろう。
割り当てられた時間を守らず、自分の意見をとうとうとしゃべり続けるインドの知識人。だが大衆レベルは、ボスからの指示が下りるのを待って、自分では動かない。そういう家庭から大学にやってきた学生たちは、すべてを教師に期待し、自分では本を読もうとしない。
つまり民主主義や言論の自由は、この国では限られた層が気にかけているだけで、残りの人間達は同等扱いされていないのだ。ロシアと同じく、エリートと大衆の間は断絶しており、両者の間はあらゆる誤解と嘘と言い訳と叱責に満ち満ちている。大衆は醒めているが、エリートだけが喧々諤々の議論の末、大衆の生活事情とはかけ離れたところで決定を下す――これがインドの民主主義なのか?―――
だが悪口は別にして、インドの民主主義にも役に立つ面がある。それは、カーストに関係なく一人が一票を持つために、人数の多い下層カーストが大きな政治力を持つ、つまり政治家は下層カーストの票を集めるために、様々の優遇措置を下層のカーストに与え、それによって格差が少しずつ解消されていく、ということだ。
そして、計画経済の国であったにしては、土地などの財産がソ連、中国よりははるかに多くの人の手に分散しているので、それをベースに野党を作ることが容易であることも特筆に値する。ロシア、中央アジアで野党を作ろうと思ったら、まず党官僚が独占的に差配している財産を奪うところから始めなければならない。そうしなければ、政治活動のための資金的基盤ができないからだ。ところがそれは、政策面での闘争と言うよりは、死に物狂いの利権の奪い合いに堕落しやすいのだ。インドはその点、恵まれていると言える。
雑踏と混沌
雑踏の世界
インドは何でもありの世界だ。バスと一緒にスピードをあげて走っては、えいやと飛び乗る少年。雑踏の歩道、いざりが両手で体を持ち上げては振り子のように振って歩いていく。もしかすると、彼は小さい頃から、これを将来の生業にするために、いざりにされてしまったのかもしれない。
その雑踏の中、高くそびえるマンションは、財閥リライアンス・グループの総帥Ambani一族が5家族だけで住む高層ビル。700台が駐車できる駐車場が地下にあって、パーティーをやるのだそうだ。
インドの街の魅力は、その「何でもあり」という活力と混沌にある。人力車、オート三輪、バイク、乗用車、トラック、そして牛が入り混じって作り出す混雑。そして夜、海岸のGateway of Indiaに行ってみると、海の夜風にゴミとホコリが舞い上がり、その風は人糞のにおいを運んでくる。そして歩道にはカラスの白い糞がこびりつき、その上を黒いチャドルで頭まですっぽり覆って歩いていくイスラムの女達。これは普通の観光地ではない。
こうしたすべてを見ると、嬉しくなってしまう時もあれば、うんざりする日もある。だがその混沌ぶりも、今日のムンバイでは随分薄れている。市の中心部では人力車とオート三輪が禁止になっており、聖なる牛も一匹もいなかった。
それでもムンバイでは、同じ人ごみの中に最高の上流から(一戸4億円のマンションがあった)最低の階層までが混住する。アッパー・ミドルの連中は、トヨタのカムリをLuxury carとして使っている。運転手つきの白いカムリの後部座席には、有閑マダムや携帯にかじりつくビジネスマンの姿が見える。
普通の中流の生活実感を聞いてみた。エンジニアをやっていた初老の男だ。
「私の息子はIBMに入って、ソフトを作っています。入ったばかりなので給料はそれほど高くなくて、1000ドルくらい。私の父親は、インド航空で店舗部門を担当していました。(店舗担当ならさぞかし実入りが多かっただろうと聞いてみたら)いや、父は正直で、そのことを誇りにして生きていました。私をエンジニアにしたかったのですが(因みにインドは昔も今もエンジニアリングの志向が強く、その点は中国人と異なっていて、地道な経済発展のためにはいい)金がなかったんです。うちの家柄(カースト)は悪くないのですがね。ああ、私の息子は能力でIBMに入ったのです。ソフトのような新しい職業では、カーストは関係ありませんから。
息子は、私の若い頃には考えも及ばなかった高い給料を得て、私とはまったく違う一生を送るのだろうと思います。私もまだ頑張って稼ぐことができますが、もう新しいことはできません。楽しみながらぼちぼちやっていきます」
ムンバイの市内では、10年くらい前から米国風のショッピング・センターが建てられるようになった。その1軒に行ってみたが、昨今の中国やロシアで見かけるような超巨大なものではない。入り口では荷物検査やボデイ・チェックがある。ムンバイはパキスタンに近く、時々テロがあるので、用心しているのだろう。ショッピング・センターの写真を外側から撮ろうとしたら止められた。
この何となく、ロンドンのヴィクトリア駅を思い起こさせるムンバイ駅は、ユネスコの世界遺産に指定されている。朝の9時半くらいが出勤のピークのようだ。朝市で買い物をすませてくるからだという。駅の内部にも入ってみたが、ここは郊外から来た人も含めて、特に貧しげな人々は見当たらない。
英国の産業革命は、インドの木綿工業壊滅の歴史でもあったのだが、19世紀も末になると、ムンバイを中心に紡績・繊維産業が復活してくる。そしてこれら工場は明治維新後勃興した日本の木綿工業と競合関係に入り、敗れたことになっている(日本人の書く本では)。ムンバイでは今でも諸方に古びた煉瓦つくりの煙突が立っているが、これは紡績・繊維工場が閉鎖されたあとなのだ。この煙突は、蒸気機関の排気のためである。これら工場跡地は地上げが不要のまとまった土地として、マンションに化けていく。
「インドはカーストがあるから発展できない」?
――ドイツのギルド、アメリカの職能別労働組合との違い――
日本人はインドというとすぐ、「ああ、あそこはカーストがひどいですからね」と言って手を振り、そのままインドのことを忘れてしまう。それは、ものごとを上からの目線で決めつけて、インドというチャンスをみすみす逃しているのだ。最下層のカースト出身者が大統領になったこともあることを、これらの人は知っているのだろうか?
外国の企業がインドに進出した場合、カーストは確かに問題だ。たとえて言えばコピー取りとかワードの打ち込みとか仕事毎に、どのカーストの者がやるべきかが厳格に決まっているので(4000から5000もの職種について、それぞれのカーストが決まっているという)、日本の企業なら一人の社員でできるのことに何人もの社員を雇わざるを得ない。また低いカーストの者を高いカースト者の上司にでも任命しようものなら、組織が動かなくなる――つまり生産性が低くなる。こうなると、能力に応じた人材配置ができず、道路工事などでも建設機械をおいそれと導入できない。カーストを尊重して人力に頼らざるを得ない作業が多いからで、そうするとできた道路の質は悪くなる。
イギリスの支配は、いくつかの点でインドを後れた社会のまま固定してしまった面もある。例えば国勢調査が行われるようになってから、カーストが明文化、固定化されてしまったのだそうだ。そしてイギリス人は、実際に使われていた慣習法よりヒンズー法、イスラム法に重点を置くことにより、カースト上位の「バラモン」による支配をかえって強化してしまったとも言われる。社会の現実を見ることなしに、西欧の概念に(表面だけ)似たものを現地で探し、その重要性を過度に評価するという、ヨーロッパ人の悪癖は当時からあったのだ。
経済近代化と民主主義がカーストを相対的なものとする
経済が発展するにつれ、カーストは徐々に相対化しつつある。都市では、隣家がどんなカーストに属するのかわからなくなっているというし、子息をオックスフォードあたりに留学させ、帰国後はITや金融など以前はなかった職種につかせれば、カーストは意味を失うのだそうだ。バンガロールで操業している日本のソフト企業の社長から話を聞いたが、インド人の雇用にあたってはカーストに注意を払っていないそうだ。
そして既に書いたように、下層カーストは人口の半数を超えるので、民主主義のインドにおいては最大の政治勢力だ。下層カーストの者たちが作った大政党というのはないようだが、上層カーストの者たちが作った政党は、下層カーストの票を求め、彼らへの優遇措置を充実させてきた。政府(公務員)、国立大学、あるいは民間企業で、一定の数のポストを下層カーストの者に与えるよう、憲法、法律で定める等である。
こうしてみるとカーストは、「簡単な問題ではなく、これから長く残るだろう」(ある日本人の言葉)にしても、外国企業の対インド投資を断念させるほどの問題ではないだろう。アメリカでも、例えばハリウッドではカメラマン、化粧、大道具制作等々無数の職種についてそれぞれの労組があって、職種間の協業を妨げるので撮影費用が増える。ヨーロッパでも近世までギルドがあって、余所者は厳格に排除された。
カーストも、もとは征服民族が被征服民族を支配するための手段であったのだろうが、今では差別のための手段と言うよりは、個々のカーストの利益を守るギルド的な性格を持ってきたと言えるのではないか? それならばものもやりようで、清掃、例えばコピー取り専門のカースト出身者を揃えた派遣企業を作ってもらい、そこから派遣社員として雇っていけば、企業も柔軟・機敏な人事政策ができる。リストラも機敏にできるだろう。カーストの近代化である。
ムンバイからバンガロールへ
南インドは日本人向き――「ちゃんと」している
これまでの僕の経験では、インド人は何かを頼んでできないと、ものごとを解決するより言い訳する方に専念したり、私用電話が多すぎたり(コネに依存して生きているので、コネを終始確認し合っているのだ)という例が多かった。これは1990年代のロシアのような何でもありの世界なのだと思って今回も行ったのだが、勝手が違っていた。
ムンバイからバンガロールまでは国内線に乗ったわけだが、空港ターミナルは国内線用なのにもう米国の大都市の空港並みだった。ロシアよりやや上の水準を行く。ムンバイ空港のカフェで働くインド人は、自分のやるべきことを完全に理解していて、きびきびと、そして客に接していた。その様は、アメリカでの標準を上回る。そして、飛行場の荷物検査などいろいろなところでは自発的に行列を作り、――そしてここがロシアや中国と違っていて感心したところなのだが―――横入りする者がいない。
ちょっと高めのレストランでクレジット・カードで払う時、90年代のロシアであったようにカードを不正使用されることを恐れた僕は、ウェイターに「大丈夫だろうな?」的なことを言った。すると彼は憤りを抑えた声で決然と、「そんなことはございません。私もインド人ですから」と言ったのだ。そこまでブランドになっていれば、安心だ。インドは、あと5年もすると、見違えるように良くなっているのではないか?
と思ったのだが、それはバンガローの迎賓館と言うか、中級官僚用ホテルで裏切られる。シャワーの湯が出るのは朝だけ、トイレット・ペーパーはない(あとで入手したので念のため)。それでもシャワーの湯が出てこないのはモスクワ暮らしで慣れている、と思って水でシャワーを浴びようとして、ふと気が付くとタオルがない(だから余分なベッドのシーツをタオル代わりにした)。歯を磨こうとするとグラスもない。受付の老人に文句を言うと、インド訛りの英語に歯が欠けているから、ますます言っていることがわからない。これでは、インドは何年経っても変わらないだろうなと思った(冗談)。
ムンバイからバンガロールへの国内線は、中産階級の世界だった。モラル、そしてエチケットがあった。人々は知的で、Modestに見える。ロシアの国内線の殺伐とした空気より文明的だ。そして機内で上映した映画は、中産階級に属するインド人青年の生活を、まったく欧米的なように描いていた。
それでも、インド人は欧米の白人とはやはり異なる。一神教でものごとを黒白に割り切り、産業革命を経て能率の権化になった西欧の白人とは違うのだ。インド人は時間にルースなところがあるし、既に書いたように私用が多い。そして大型の式典のようなイベントの細部を計画、運営するのは苦手だと言われる。
「ヒンズー教には3億の神がある。すべての家庭に自分の神がいる」と言うインド人がいた。二分法でものごとを割り切るキリスト教、イスラム教の世界とは違う、仏教に近いのだ。財閥もその多くはファミリー企業で、人事は不透明なのだそうだ(例外はタタ財閥で、ここは総合職を研修したうえで、実力主義で処遇する。タタは珍しくちゃんと法人税を払っているそうで、タタ家の信奉するパーシー教、つまりゾロアスター教のなせる業だと思いたくなる。
バンガロールへ
というわけで話を戻すが、4日目にはムンバイから本来の目的地バンガロールへと飛び立ったのだ。
乗ったタクシーの運転手は、なぜか知らないがしつこくアメリカの悪口を言う男だった。こういうのはアラブ、イラン系に多いのだが、インドで会うとは。日本人は原爆を落とされて怒らないのかとか、イラクで大量破壊兵器はみつからなかったじゃないかとか、言うことを聞かないとすぐ敵だと言ってくる、なにも悪いことをしていないのに干渉してくる・・・云々かんぬん。うるさくなって僕は言った。
「なんでそんなにアメリカのことを気にするんだい? 君の生活がよくならないのは、別にアメリカのせいじゃないだろう? 君はイスラム教徒か? イスラム地域の生活が悪いのは、アメリカより欧州の植民地主義のせいだぜ」
運転手は納得したのかアメリカのことを言うのはやめて、生活の話を始めた。
「一日4、5回はモスクに行くんだ。日本人は仏教か? 日本は自由なんだそうだな。ここでは自分の子供を監督して、職業も結婚相手も決めるんだ」
僕が、「いや、君の息子もいつかは勝手に結婚相手を連れてくるだろうよ」と言うと、イスラムの運転手は目を細めて嬉しそうな風。僕はたたみかける。「社会とか風習は変わるんだよ」
運転手は続ける。「ここは汚職がひどいんだ。警官? もちろん全員。でもみんな給料では家族を養えないからな。値段がどんどん上がっている。ところで現代自動車って、日本の会社か? (こちらは沈黙) 日本はすごいよ。25年前に買ったサンヨーのラジカセ、まだ使っている。今は、日本の製品も質はそうでもないそうだな。それでも、日本人は頭で稼いだんだよ」
空港に着く。600ルピーの約束だったので、つりをもらうつもりで1000ルピー札を出す。すると敬虔なイスラム信者の運転手は、「つりがない」。(それでも、200ルピーは「持っていた」)
ムンバイとバンガロールは隣の州なのだが、飛行機で1時間少し南下する。もう夜になった。下は陸地のはずなのに灯りが見えない。見えてもまばらで暗い。まるでシベリア上空を通り過ぎる時のようだった。それから3日後、バンガロールからデリーに帰るときは昼で、下がよく見えた。空港を飛び立って30分も経たないうちに、大地は赤茶けた砂漠のようになり、なるほど何もなかったのである。溶岩が噴き出てできた、デカン高原というやつだろう。それでも所々に、白一色の大都市が見える。村もわりと集住していた。バンガロールからデリーまでは2時間半もかかる。稚内から鹿児島くらいまでの距離だろう。亜大陸と言われるゆえん。
デカン高原というとなぜか「デカン高原の赤犬」という言葉が頭のなかに浮かんできて、何だったのだろう、シャーロック・ホームズか、いやあれはパスカルヴィル家の犬だ、と思って、これを書いている今、「パスカルヴィル」をインターネットで検索すると船橋の賃貸アパートがトップで出てきたりして、現代はどうも散文的でいけない。で、結局わかったのは、「デカン高原の赤犬」はキップリングのジャングル・ブックに出てくるということでした。モーグリの育て親、オオカミのアキーラを殺してしまう悪い動物だ。ジャングル・ブックはもう少し北の話だと思っていた。
バンガロールはインドのシリコン・バレーと言われているが、このデカン高原、さしずめカリフォルニアのNapaバレーにも似て、今ではワインも作っている。飲んでみたら、コクは足りないが香りが高いいいワインだった。
インドの経済
バンガロールに着くまでの間に、インド経済の鳥瞰図をお話しておく(州の位置については、次のサイトをご覧ください)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%8C%BA%E7%94%BB。インド経済の中心はいくつかあり、デリー周辺、西部のムンバイとその北のグジャラート州(知事が外資誘致に熱心)、南部のバンガローとさらに南のチェンナイ(昔のマドラス)が主なものである。カルカッタを中心とする中東部に住むベンガル人は、芸術や哲学論争には優れているが、このあたりの経済は後れている。カルカッタでは共産党政権による州統治が30年も続いて労組が強くなり、資本が逃避したのも一因だそうだ。1月7日のEconomistを読むと、1960年には全国の工業生産の13%を占めていたカルカッタが、2000年には7%に落ちていたのだそうで、周辺の西ベンガル州も含めてインド全国への外国からの直接投資中、2%しか得ていない。現在の州首相Banerjee女史は国民会議派に近い政治家だがポピュリストだそうで、政権につく前にはタタ財閥による自動車工場建設に反対してこれを失った人物である。共産主義とポピュリズムは双子のようなもので、現代の日本でもこれを一身に体現したような政治家たちもいるけれど、カルカッタも運に恵まれていない。
バンガロールの南、インド半島が海に突き出たところの西半分にはケララ州がある。ここは中国で言えば温州のように、全国をまたにかけて商売するヴェンチャー的商売を手掛けるものが多数いるのだそうだ。識字率が高いわりに、地元の仕事が少ないのが一因で。
バンガロール
「バンガロールはインドでは別世界。IT(ソフト開発)の中心地で、豊かな中産階級の住む町」ということになっている。だから僕はバンガロールというと、軽井沢のような洒脱な高原の町に一本(だけ)大通りが通っていて、その両側にござっぱりした近代的ビルが並んでいる、並木道の木陰のカフェではインド人や外人が歩道にせり出したパラソルつきのテーブルに座って談笑――という光景を想像していたのだ。ところが今回来る直前にウィキペディアを見てみると、なんと人口800万を超えるインド第三の都市というではないか。しかもウィキペディアのページには、見たこともないような近代建築が並んでいるhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB。これで僕は、バンガロールという街がすっかり見当つかなくなった。実際、まさに着陸しようという飛行機の窓から見ていると、灯りが地平まで果てしなく続いているのだ。
空港には、今回声をかけてくれたバンガロール大学の日本語教師若林さんが出迎えてくれた。韓国の現代自動車の小さな小さなタクシーに乗り、スーツケースは屋根にゆわえつけ、バンガロール市内に出発だ。ところがこの現代自動車、インド人どころか鈴木自動車もビックリするほどよく走る。エンジンの馬力も操作性も抜群だ。そこで大学の迎賓館と言うか、中級官僚用の宿舎でやれやれと荷をほどいたのはいいが、シャワーの湯もタオルも、トイレット・ペーパーも、洗面所のコップも――ああ、そしてインドでは必須の蚊取り線香も――なかったのは既に書いたとおり。
水シャワーを浴び(モスクワに住んでいたころは、毎年5月のまだ肌寒い頃、「点検のため」に1カ月も地区の給湯が止まったので、水でシャワーを浴びていた。やればできるのである)、二つあるベッドのうちの一つのシーツをはいでタオルとし、まあこれも想定内、インドに修行に来たと思えばいいのだと思って寝に着いた。翌朝食堂に行ってみると、英語が通じない。隣で食べているものを指して、「あれ」と言う。ウェイターは腰巻きをして足は剥き出し。なぜか腰を曲げてなよなよとスリ足で歩く。どこか違和感を感じたが、みると裸足なのだった。
そこでその日はとるものもとりあえず、まずタオルとコップとトイレット・ペーパーを買いに出たのだったが、案内の若林先生、ふだん耐乏生活をしているらしく、そこらの雑貨店で買いそろえようとして、結局2時間走り回ったあげく揃わなかった。と言うのは、広いバンガロールの中を移動するための車道が少なく、混雑してどうしようもないのだ。
バンガロールでも、人力車はもう姿を消し、牛もいないが、ムンバイとは違ってバイクが多い。ムンバイより雑然とし、町にメリハリがない。
未来都市のような部分は僅かで、歩道もろくにない粗悪な舗装道路の両脇に傾いたような商店が立ち並ぶ、いわゆるインド的な情景がどこまで行っても続く。自分がどこにいるのかわからなくなる。分散型都市とでも呼ぼうか。バンガロールは別に、ITだけの街ではない。軍需生産の中心地のひとつなので、元から先端技術を受け入れる素地はあったし、経済規模も大きい。
だが、バンガロール大学の外国語科の建物は、極めつけの粗末さだった(内部はきちんと整頓されていたが)。
ここでは日本人の先生方が3名ほど教えておられる。うち一人の方は急病で、僕の去った後、なんと死去された。この大学ではフランス語、ドイツ語の履修希望者が多いそうで、学部長とも会ったが、日本語には関心が薄いようだった。とは言え、中国語を履修する者は3人だけで、韓国語履修者も少ない(このふたつの言語は、IT企業で教えているのだそうで)。ロシア語に至っては、勉強したい者がいないというから、ロシア専門の僕としては悲しくなる。
ここの日本語科は大学院レベルまであって、インド人の日本語教師を磨いているのだ。僕の「講演」でも10名ほどの大学院生が聴きに来て、日本語での早口での講演を面白がって聞いていた。
インド南部の人たちは、感覚的には日本人に近いものがあり、あまり自我を前面に出さない。大学院で学ぶ日本語教師のインド人女性には主婦が多いのだが、いい意味で協調的というのだろうか、感じがいい。日本に行ったことのある人も多く、「私の子供、『また日本に行ってカレーを食べたい』と言って聞かないのですよ。日本のカレーライスおいしいからね。そう、『インド人もびっくり』っていうコマーシャルのこと、若林先生が教えてくれました」と言って、笑わせてくれた。
彼らのうち数人は講演の前日、僕の希望で郊外の村に連れて行ってくれた。バンガロール南西のJanapadalokaというところには、民芸品を集めた博物館があった。大きな催しの翌日で閉まっていたのだが、日本語教師のインド人女性が機転を利かせて、「私、この博物館の創立者とは親戚なのよ」と吹いた途端、館長が出てきて一同を案内してくれたのには驚いた。陳列品の中で面白いと思ったのは、石をくりぬいて作った鍋。土鍋と言うか石鍋と言うか。
土鍋以上に保温にいい。量産したら、日本でも売れるだろう。このあたりの売店の土産物は、実際には中国製が多かった。この頃は、ロシアの土産物も中国製の時代。
今回は、「農村」に連れて行ってくれるよう頼んでおいた。45年も前に見たサタジット・ライ監督の「大地」に出てくるような、「貧しい農村」を見たいと思って。ところが、そういう農村はもうバンガロールの近くにはないらしい。連れて行ってもらったのは、村と町の中間くらいの大きさで、木工工場をもつ村だった。
街路は碁盤の目に通り、土で作った粗末な家に草ぶきの屋根が乗っている――といったものでは全然ない。ここはイスラム系の住民が多くて、ある工場に入ったらそこは女生徒たちばかりが木工をやる棟、写真を撮ろうとしたら「だめ、だめ!」と言われてしまった。男性の働く工場、というか作業場も見たが、皆熱心に働いているし、仕上げはちゃんとしている。値段が申し訳ないほど、安かった。
それにしても、土壁に草ぶきの屋根の粗末な家が泥でこねたような道ばたに散在しているような「本当の農村」は本当にもうないのだろうか。インド人の日本人教師に聞いてみたら、「本当の村はもっときれいなんです。川があって。葉を皿の代わりに使うので、ゴミも出ません。住民は裸足で歩いていますが」ということだった。ムンバイの日本総領事館で聞いたところでは、「農村は貧しく、水くみに毎日3時間もかけている婦人が多い。そのため井戸掘りや、灌漑が非常に重要なのだが、日本政府がやっている『草の根・人間の安全保障援助』は他の国にはない機敏で地に足のついた援助ができるので、井戸掘りなどにぴったりで、インド社会からの評価は高い」ということだった。やはり、「本当の農村」はあるのだ。インターネットで探して見たら、http://www.flickriver.com/groups/indianvillages/pool/interesting/ などが面白い。
バンガロールの日本
百聞は一見に如かずで、バンガロールはデリーに次いでインド2番目に日本人が多いのだそうだ。バンガロール周辺のカルナータカ州における日本企業の拠点は182あって、インド全体の13%に及ぶ(インドには22の州と連邦直轄地がある)。
バンガロールのJETRO事務所http://www.jetro.go.jp/jetro/overseas/in_bangalore/からもらった資料では、アイシン精機、アマダ、ブラザー工業、カシオ、キャノン、シチズン、デンソー、ファナック、富士通、日立、堀場製作所、イビデン、日清食品、JFEスチール、豊田自動織機、コマツ、京セラ、村田機械、三菱重工、安川電機、日本電気、NTTコミュニケーションズ、第一三共、ルネサス、リコー、シャープ、東芝、矢崎総業、トヨタ、ヤクルト、安川電機、横河電機、横浜ゴムなどが進出している。
IT、ソフトだけではなく、製造業も広い分野で進出している。トヨタはバンガロール郊外にほとんど一つの町を形成しており、インド人社員を養成するための全寮制高校まであるらしい。トヨタだけでバンガロール在留日本人の半分に達すると言うから、製造業の雇用力の高さがわかる。もっとも、ITソフトの開発も多くの人員を雇う。バンガロールのあたりでは、ソフト1社が万人のオーダーで雇用している由。但しソフト要員は一社に定着しないので、企業城下町はなかなか形成しないだろう。
友人の紹介で、東芝(昨年買収したばかりのスイスのランデスギアがデリーに進出しているので、ここと組んでスマートグリッド用のソフトを開発している)の社長から話を聞いた。インドは独立後、社会主義的な経済政策をとり、ソ連の計画経済ほどではないにしても政府の力は強く、外資の流入は強く制限されていた。これが1991年、対外開放の方向に変わって(中国とは違って、外資による100%の出資さえ認める)、インド経済は成長率を高めたのだが、今ではビジネスの自由度はどのくらいかと思って聞いてみた。すると、①インドでビジネスをするうえで、連邦政府はほとんど関係がない、②「経済計画委員会」は残っており、各分野から出される計画を一まとめにしているが、企業にとっては発電量・道路建設の計画等が参考になる程度であり、全体として「計画」通りに経済が動くわけでもない、もちろん企業レベルの操業計画に干渉してくることはない、③州の間で外国企業誘致競争が行われていることもあり、地方の当局は外資を助けてくれるほうである、特に複雑な地権がからむ土地問題を処理して企業団地を作ってくれるのは助かる、団地では衛生、消防、その他許認可手続きも、企業団地に立地すると窓口が一つに統一されている、ということだった。
日本の企業が外国に投資するのは仕方がないが、せめて利益の一部だけでも日本に送金してもらわないと、日本の国内は干上がってしまう。外国に出た日本の企業は本社への配当の形で利益を送金するのだが、インドの場合、株主総会の了承を得れば配当の送金に問題はないそうだ。但し、配当を行う企業は16%の配当税を取られる由で、そこはインド政府もしっかりしている。法人税は33%ほど、社会保障は基本給の12%相当を企業・従業員が折半するのだそうだ。そして、日本の国民年金に相当するシステムはまだない。バンガロールの日本企業の場合、インド国内の金融は地場銀行を使うことが多いのだそうだ。インド国内の支店数が多くて便利だからである。そして投資資金はITソフト企業の場合、銀行借り入れをするまでもなく、自己留保で十分まかなえる。
「日本企業の日本人は、指示があいまいなんです。能力はインド人の方が上のこともあるので、自分で何をどう動かしたいのかわかっていないような日本人幹部は軽視されるようになります」という人もいたが、東芝の場合、その心配はなさそうだった。それでも、一番の頭痛の種はインド人がどんどん転職していってしまうことのようだ。因みにここの東芝は420人を雇っており、新規の雇用は公募でやっているのだそうだ。
ある日本のソフト会社の例
もうひとつ、ここでは名前を伏して、ある日本のソフト会社で聞いた話を書いておく。
「このあたりは、これからは生活が必ずよくなるという確信があり、明るさがあります。自社のインド人の給料は毎年14%あがっていますし、製造業でも10%はいくでしょう。新卒者の給料は5万円くらいで、私用車の運転手に払っている1、5万円に比べればはるかにいいものがあります。但し彼らは、キャリアを積むために、どんどん他社に移転していきます。流動率が高いのです。ホワイトカラーには労組がないので解雇もしやすいのですが、その暇もなく辞められてしまうほどです。ソフト・エンジニアは、インド人の方が日本人より能力が上です。インド工科大学IITに入れなかった者が、米国のMITに入る、と言われているくらいですから。だから、これまではソフトの設計は外国で、作成をインドでやってきましたが、逆の例も出てきているのです」
「この現地法人の社長は将来、現地人にしたいですね。そうするとブラックボックスになってくるので、現地人、日本人と交代で務めるのがいいかもしれません。他方、インド人はチーム意識が強くて、ボスが部下を抱え込みます。ボスが転社すると、みな辞めていってしまうので、この交代方式もうまくいかないかもしれません」
「インド人は自分の意見を言いますが、固執はしません(ここは僕の国際会議での経験とは違う)。合理的です。そして、ルールはきちんと守ります。他面、日本人のように周囲の空気を読んで柔軟な対応をすることはできません」
インドと組んで中国に対抗するのだ、と言う人たちのために
話しは前後するけれど、中国と中国人がどこまでインドに食い込んでいるかについて書いておく。日本では、強大化する一方の中国に対抗するためにインドと組む、という発想が強いのだが、印中関係というのは対立一辺倒ではない。それにインドも日本のことを、対米従属で自分ではものごとを決められない国だと思っている節が強いので、気を付けないと日本の片思いに終わるということを言いたいからだ。
たしかにインドのエリートは中国に対抗心、警戒心を持っている。それは、インドの安全保障にとって随一の懸念材料であるパキスタンを中国が支持しているからだし、国境紛争も抱えているからだ(インドは中国に占領された領土を「北方領土」と呼んでいるのだそうだ)。中国は中国で、インド洋のスリランカ、モルディブなどに地歩を拡大しては、インドの制海権(インド海軍は英海軍人の指導を受けているのだそうだ)にチャレンジする構えを強める。僕がインドにいる間も、モルディブでのクーデターまがいの政変がインドで大変な話題になっていて、僕はまたなんでそんなに騒ぐのかわからないでいたが、これはモルディブで親中国勢力が伸長しかねないことを懸念していたので、米国もNuland国務省特別代表を急遽送り込んで調停を試みるなど、すったもんだだったのだ。
中国にとってみれば、これは中近東、アフリカからの石油輸入「シーレーン」を確保するための已むに已まれぬ行動なのだろうが、世界世論はこれを、インドの首に中国が巻きつけたダイヤのネックレスと呼んでいる。他方インドもインドで、米国、日本、豪州などと提携関係を推進しているし、モンゴルとは毎年、軍の共同演習(双方50人以下の規模だが)までやっている。
だが印中関係が対立一辺倒だと思うと、間違いなのだ。ロシアが勧進元となって、インド、中国、ロシア三国の外相会談、首脳会談は何回か開かれているし、この3国はBRICSのメンバーとして、WTOなどでは米国に共同して対抗したりする。印中には、首脳の相互訪問も珍しくない。2006年11月には胡錦濤国家主席が来訪したし、昨年12月来訪した温家宝首相は、電力分野など200億ドル近くの商談で合意、FTAの速やかな交渉開始を呼びかけている。そして中印間の貿易額を2015年に、今年の見込み額の1・7倍、1000億ドルに拡大する目標で合意、中国はインドのITサービス、後発医薬品、農産品の輸入拡大を促進、インドは道路・鉄道などのインフラ整備や製造業で中国の投資受け入れを歓迎する考えを示した。
今年2月の「選択」によると、中国のハイアールが生産する洗濯機、冷蔵庫、レノボが生産するパソコンはインド市場を席巻しているし、財閥リライアンスが出しているタブレット3Gも中国製、バイクの生産を「低賃金の中国」に委託している企業もあるらしい。中国製の発電機はインド市場の4割を押さえ、インドの鉄鉱石輸出の95%は中国向けである。中近東は伝統的にインドの商圏と見做されているが、それを悪用して中国製のmade in India製品さえ流入しているそうだ。このバンガロールのあたりでも、土産物のガネシュ(ヒンズー教の象の神様)の神像http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3も裏を見るとmade in Chinaと書いてあったりする。僕も以前、日本の円借款も使って建設されているはずのデリーの地下鉄工事現場で、中国の建設会社の大看板を見て、苦笑したことがある。他方、インドのIT企業や後発医薬品メーカーも中国をモノとサービスの有望な市場と位置付けており、経済で両国は相互依存関係にあるのだ。
そしてなんと、両国は共同軍事演習をすることもある。2007年12月には、雲南省で初の合同軍事演習を実施するという報道があった。テロ対策を想定、両国からそれぞれ陸軍約100人が参加するのだそうで、両国海軍は2003年に上海沖で捜索救難訓練、今年4月に青島近海で通信訓練をするなど交流を重ねている。
これまでの中国経済は昇竜の勢いだったが、それには土地再開発に大きく依存した、「繁栄の前借」的な要素がある。そしてこれからは人口の老齢化が急速に進んでいく。それに比べるとインドは、強すぎる私的所有権に土地の再開発を阻まれているが、他面その経済成長にはバブル的な要素は小さく(輸出/GDPは約15%と日本並みの低さで、堅実な内需主導の成長である)、インドの人口は2050年までに中国を上回る16億5800万人になると予想されている他、現在30歳以下の若年層が人口の約6割を占めていることも、中国に比べて有利な点だ。マッキンゼー・グローバル・インスティテュートの予測ではインドの「中間層」(年収20万~100万ルピー)は05年時点で約5000万人だが、2025年には5億8300万人(総人口の41%)に達するとしている。現に携帯電話契約数は08年末に2億5000万人と、前年から約8000万人もの増加を示している。もっとも、世界の貧困層(1日1人当たり消費支出が1ドル以下)の約4割がインドにいるという、芳しからぬ数字もあるが。
まだ低価格
インドの価格水準はまだまだ低い。ムンバイのガイドは半日で2000円だったし、タクシーは3時間使って600ルピー=1000円だった。他方、大学6年間には100万円が必要だと言うし、IBMでの初任給は約1000ドルで、もはやそれほど安くもない。インドの低価格も、あと10年くらいで様変わりになってくるのではないか。
南インドの人たちの心情
バンガロール周辺の南インドにはタミル人やドラヴィダ人など、北インドのアーリア系とは言葉も全く異なる人種が集住する。彼らが北インドの連中を見る目には、一種独特のものがある。
「北インドの人たちは乱暴で(aggressive)、行列は横入りしますし、私たち南インド人を下に見ているところがあるんです」
このあたりは、学校教育は標準語としてのヒンズー語だが、テレビはローカル言語のチャンネルを見るのだそうだ。それもあまり見るわけでもなく、ニュースは英語のチャンネルで見ている。インドは民族別、地域別の文化の違いが大きい。だから標準言語は英語にするしかなかったとも言えるが、下層階級になると英語もできない。「インドはパキスタンという目の前の敵がいて、かろうじて統一国家たりえている」という者もいた。インドは国家連合に近い。インドの通貨ルピーには、十六の言語が書かれている(のだそうだ)。
日本へ
今回(も)、カレーには飽き飽きした。Vegi(野菜)かNon-vegi(肉)かの2種類しかなかったのだ。しかもNon-vegiはChickenだけ。ビーフはもちろん、ポークもマトンもない。もうたくさんだ。成田へのインド航空の機内食で、「チキン・カレーにしますか。それとも中華のチキンで?」。インドへの復讐の意を込めてもちろん、「中華!」。
機上では一夜明け、窓から日の出の光りが射し込む。外務省に入って初めてアメリカに渡った時のことを思い出す。あれ以来、全く新しい世界に生きている。素晴らしかった。外交官をしていた間は、日本経済の頂点と重なった。ユニークな一生だった。暗い空には三日月と、導くかのような星が煌々と輝く。
(ちょっと、窓が汚かった)
僕の隣の席にはITエンジニアとおぼしきインドの青年が座った。洗練され、高い能力をうかがわせるその様は、日本人ではとても太刀打ちできないだろうと思わせる。
だが成田空港に降り立って、黒猫ヤマトにスーツケースを預けたとき、女子従業員の素早い、そして気配りのきいた対応には心が洗われる思いがした。日本の救いは現場の強さだ。
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[i] (2010年時点で、次のような報道があった)
年収10万ルピー(=25万円)以下は納税義務がなく、国民の97%が納税していない。中間層(年収20万~100万ルピーと定義)が増え、幅を利かせてきた。しかし彼らは税金を払わず、申告年収を抑えるため少ない年収から寺院や学校に寄附する習慣がある。納税者3300万は人口の僅かに3%。国家はここから税金を幾重にも取り、最終的には36%程度徴収するもののインド政府は年中財政赤字。外資から徴収する政策を採っている。
[ii] (「インドの歴史」メトカーフより)
イギリス人たちは、既に18世紀までには、個人の土地保有権を認めなければ社会の安定と進歩は不可能と信じていた。そこで、1776年、ベンガル総督参事会委員フィリップ・フランシスはベンガル地域を対象とする「土地の権利法規」案を提出した。彼らは、インドのザミンダール(大地主)はイギリスの豪農に値する存在であり、ザミンダールに土地保有権を認めてやればイギリスの豪農と同じように優れた起業家となるだろうと考えた。
こうして1793年、ホイッグ党の大物政治家だったコーンウォリス総督のもので制定されたのが「ベンガル永代土地制度」だった。この土地制度はザミンダールの土地所有権を完全に認め、その土地の税率を永久に固定したために、長期にわたってベンガル地方に重大な問題を生じさせた。ザミンダールの社会的地位をまったく誤解して制定された。ザミンダールは売ったり譲渡したりすることができたのは、その徴税権であって、土地そのものではなかった。ところが、新しい制度では、農民は土地に対する権利のない借地人に成り下がり、ザミンダールは土地全体の所有者とされ、査定された税金を払うことができなければその土地を売らなければならなかった。税金は高く、支払期日厳守が鉄則だったために、ザミンダールは当初、税金を払うことができず、次々と土地を売りに出した。しかし、いずれの土地所有者も「改革的なイギリス人地主」の役を演じようとはしなかった。ベンガルのザミンダールは間もなく地代で生活する有閑階級になり、地代でますます優雅な生活を営んだ。彼らはまた、農作業を取り仕切っていたジョトダールと呼ばれる地権者と地代を分け合った。こうして「囲い込み」運動によって土地の統合が進んでいたイギリスとは対照的に、インドの土地は無数の狭い農耕地に細分化され、自給用作物が栽培され続けた。(このために、米国の南北戦争で南部の綿花生産が激減した時も、インドの零細農民たちは綿花を栽培することを拒んだのである。畑が綿花だけになれば、餓死してしまうからであろう)
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