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日本史

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2013年5月 4日

福井紀行

ゴールデン・ウィークに3日ほど、福井を駆け足旅行してきた。人に会って話を聞いたわけではないが、いくつか発見もしたのでご紹介する。

「北陸」再発見

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(東尋坊の夕日)

北陸というと、なんとなく遠くて不便な感じがしていたのだが、今回米原から車で旅して痛感したのは、京都と北陸、特に福井(越前)との間は指呼の距離、だから北陸は文化的・経済的・政治的に「京都首都圏」の中に入っていただろうということだ。地元の説明看板では、平安時代、奈良東大寺領の荘園のうち3分の1は越前にあったという。それより古くは、西暦500年頃の継体天皇が今の福井の地で育ったという伝承がある。福井市の外れの公園には、継体天皇の像がある。この継体天皇については、わからないことが多く、日本史上重要な転機を画した人ではなかったかと思うのだが、それはまた別の話し。

北陸が重要だったという話しを続けると、一般には江戸時代から東海道の方が北陸道より断然上を行っていただろうと思われているのに対して、有数な地方都市は今でも新潟、富山、金沢、福井をはじめ、北陸の方が多そうである。そして東海道を横切る大河には橋がかかっていなかったが、北陸では富山の神通川、福井の九頭竜川など、舟橋や普通の橋がかかっていたのである(しかし幕末の開国以降は、事情が異なってくる。東海道線が新橋から神戸まで開通したのが明治22年、北陸線が米原から直江津まで開通したのが大正2年である)。

北陸には平地も多くて経済力に富んでいただろうから、政治面での有力者もまた多く、信長・秀吉がらみの悲劇の武将、浅井長政、朝倉義景、そして柴田勝家などは、皆琵琶湖から北陸に居を構え、その運命はからみあっていた。朝倉は信長に抗して浅井氏に援軍、そのために信長軍に本拠の一乗谷まで攻め込まれ滅ぼされてしまう。朝倉亡きあとの福井を押さえるために(一向一揆の連中が統治権を掌握していた)、信長の忠民、柴田勝家が天正元年、福井(北ノ庄)に送り込まれ、信長に滅ぼされた浅井長政の妻、そして信長の妹であるところのお市の方を娶る。そして天正10年信長が暗殺されると、柴田勝家は秀吉と対立するようになり、翌天正11年には賤ヶ岳の戦いから敗走した後、本拠北ノ庄城を秀吉軍に包囲されて自害している。その時お市の方も自害したが、連れ子の娘3人は秀吉の下に送り出され、長女は後に淀君、そして末女は徳川秀忠の妻、お江の方となるのである。

京都と福井の間は約150キロ、東京と軽井沢の間程度で、例えば織田信長の忠臣、柴田勝家は1583年4月21日、琵琶湖北部の賤ヶ岳から敗走した後、本拠の北ノ庄城(今の福井市の都心近く。神社となっている)を23日には秀吉軍に包囲され、その翌日には自害している。両地の距離は約100キロ、当時の秀吉軍は時速10キロ(歩兵にしては非常に速い)ほどで行軍することもあったので、このスピード感となる。

日本の玄関だった敦賀の港

米原から1時間足らず、琵琶湖の北端、塩津からはわずか25キロのところに、敦賀の港がある。つまり敦賀は古来から、京都から山を一つ越えたところにある日本海の玄関口、東京にとっての横浜、アテネにとってのピレウスのような存在だったのだ。鎖国までは、海の向こうに中国、朝鮮を控える日本海側の方が、経済・文化面で太平洋岸を上回る重要性を持っていただろう。敦賀は、平安時代から江戸時代の鎖国までは日本海を隔てる渤海国等との交通の拠点であったし、戦国時代の朝倉氏や一向一揆は敦賀の利権で潤っていたはずである。もっとも朝倉氏は敦賀よりはかなり北にある九頭竜川の河口、三国港を使っていたようで、一乗谷の発掘では発見された陶磁器の3割が明朝からの輸入品であったそうだ。16世紀半ば、明朝が海禁政策(鎖国)を強化するとこの方面の交易は廃れ、その機にマカオのポルトガル商人が泉州堺に進出した、ということのようだ。

敦賀に話しを戻すと、この港は江戸時代も北前船の寄港地として物流の拠点であった。京都は淀川を通って大阪に出る物流ルートを持っていたが、敦賀ルートも重要であっただろう。そして敦賀は大正以降、満州との交通の拠点となった。今の北朝鮮の羅津港から鉄道で満州に入るのである。

また敦賀は、西欧への玄関口ともなった。シベリア鉄道を通って欧州へ行く者は、敦賀を出発してウラジオストックに入ったのである。明治45年には、東京駅から敦賀(金ケ崎駅)までの直通列車が船の出港日に合わせて運行された、とインターネットは言う。1918年からの日本軍シベリア出兵では、敦賀は輸送の拠点となった。その後第2次世界大戦直前、有名な杉原ビザでリトアニアから来たユダヤ人は、ウラジオストックから船で敦賀に入り、ここを「天国のようだった」と評している。敦賀港に、これを記念する「敦賀ムゼウム」があって、そこにそう書いてある。

つまり敦賀は日本海随一の港であったわけだが、それが今のように後景に退いたのは、日本が満州から退いたこと、そしてシベリア鉄道が欧州へ赴く際の動脈でなくなったことが影響しているだろう。舞鶴に海軍鎮守府が置かれて急発展した(1901年)ことと、物流の拠点として神戸、大阪が台頭したことも、一因だろう。

それでも現代の敦賀港は再生をはかっていて、ローロー船でのコンテナ物流の拠点になろうとしている。江戸時代の北前船の伝統が復活したようなものだ。そして、敦賀港には北陸電力が使う豪州炭が毎週7万トンも陸揚げされている。毎週7万トン! 毎週戦艦大和が陸に上がってくるような場所塞ぎなのである。僕はこれまで原発の不足は石炭発電で補えばいいと思っていたが、この大量の石炭を貯蔵する場所の確保はちょっとした問題であることを認識した。

大野藩の話し

僕の先祖は明治初期、杉田という苗字で宇坂大谷というところに住んでいたらしいので、行ってみた。そこは永平寺から、朝倉氏が100年近く都を置いた一乗谷へ向けて駆け降りる急坂の途中、数10戸の家が棚田を作ってへばりついている山村だった。地元の図書館で調べてみたが、そこには杉田という人は住んでいない。明治時代には杉田定一という自由民権運動家が福井にいたが、彼は宇坂大谷からは離れたところの出身である。

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(宇坂大谷。うちはここの出身らしい)

この近くの大野市は随分大きな旧城下町で、幕府の老中なども務めた土井家(土井利勝等)の本拠、大野藩の城下町だ。山の上に大野城が復元され、観光に随分力を入れていた(朝倉氏の本拠で、100年間ほど都文化が栄えた一乗谷も、武家屋敷や町屋などの町並びが復元され、当時の人々の服装をした係員が歩き回っている)。

ここは山奥と言ってもいい地域なのだが、進取の気にあふれていたらしい。幕末、度重なる大火などで藩財政が逼迫、返せないほどの借金が溜まったのだそうだが、当時の藩主土井利忠は攻勢に出た。面谷鉱山(非鉄金属)を開発して増収を確保、藩校「明倫館」に西洋の技術、兵法、医学の翻訳書を揃え(もともと杉田玄白は福井県小浜(オバマ)の出身だ)、周辺からも学生を受け入れた。1856年には「洋学館」も作っている。

そして、まだ北前船の時代に西洋式の帆船を作り、函館と敦賀の間の海運に従事させている。そこから得た物資などを、全国に出店した「大野屋」で商った。そして、樺太の開発まで手掛けたのである。僕の先祖は福井から函館に移住したので、もしかするとこの大野藩のラインで函館にわたったのかもしれない。

大野藩は進取の精神にあふれていたが、福井市にも「ヨーロッパ軒」というハイカラ趣味の象徴がある。これはもともと早稲田鶴巻町に開店したのが、関東大震災で被災して、店長の故郷福井に戻って今に至るのだそうだ。名物は「ソースかつどん」で、普通のトンカツとは一味違うのっぺりした皮のカツにウースター・ソースをまぶして食べる、エキゾチックなもの。一度食べるとやみつきになる。

福井の産業

北陸の福井、石川、富山の3県を比べてみると、福井は人口では80万強で、110万内外の他2県より小さい。しかし一人あたりのGDPを比べると、富山が僅かに多いだけで大差はない。福井は古来、農業の他には養蚕、製紙、製塩、運輸で稼いできたところだが、今は繊維や先端分野を中心に工場も多い。日本で「ナンバーワン」ではないが「オンリーワンである」と誇れる特殊技術の中小製造業が数多く、それらは繊維部門から転身したものがほとんどだと言われる。

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(復元された戦国時代朝倉氏の都、一乗谷の街並み)

福井市のセーレンは東証一部上場の繊維会社で、布製カーシートでは国内シェアの4割を持っている他、2005年にはカネボウの繊維事業を買収している。川田達男社長は、福井商工会議所会頭を兼ね、福井財界の有力者と言われる。繊維関連では他にいろいろあるだろうが、自分で見たところでは大野市にある大門屋http://hukui-blog.com/fukui/post_54.htmlの呉服が面白かった。牛首紬とかいう、特別の織り方なのだそうだ。そして福井に隣接する鯖江市は、日本全国で消費されるメガネ・フレームの90%を製造している。

しかし福井と言えば、今日思い浮かぶのは原発である。福島県と並んでその集中度は最も高く、若狭湾の海岸線に敦賀、美浜、高浜、大飯という4つの発電所、合計14基の原子炉を持つ。そしてプルトニウムを燃やすはずの高速増殖炉もんじゅまでがここに立地しているのだ。今ではこのうち大飯しか稼働していない。

幸福度の高い福井県

どこかの大学の調査で、福井県民が日本で一番幸福度が高いことになったそうだ。2007年時点の話しだが、一世帯あたりの貯蓄残高は全国3位、失業率は全国最低なのだそうだ。そして三世代同居率が23.1%で全国2位だから、夫婦共稼ぎがしやすい。共働き世帯の割合は全国1位なのだそうだ。

そして同じく2007年には、小学6年生、中学3年生を合わせた正答率(何の試験だろう?)の総合成績で福井県が全国トップになったそうだ。もともと勤勉、好学の県民性で、2007年時点では小6の83.9%(全国平均72.0%)が携帯電話を持たず、中3でも62.2%(同40.7%)が持っていなかった。人口10万人あたりの社長輩出率が全国トップ、但し「将来の夢や希望をもっている」小6児童は62.0%で、全国平均(66.6%)を下回っている。

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