日本人がロシアの芝居を演ずる時
昨日、日本の劇団がゴーリキーの「どん底」を演ずるのを見に行った。演出はロシア人。
「どん底」をロシア風に演じようとしたものではなく、日本人が演ずることで、別の意味を付加したかったのだろうと思う。
僕がすぐ感じたのは、「ああ、日本人のつきあい方とロシア人のつき合い方はやっぱり違うんだ。」ということ。ロシア人は西欧人のごつごつした個人主義ではない。西欧では個人同士の境界はきっちり仕切られているが、ロシアではソフト・フォーカス。日本より個人主義的だが、個人の境界は少しぼやけていて、日本のような共同体の集団性も残っている。
日本人の「どん底」はその点、まるで村の共同体が舞台の上で演じているような感じで、登場人物間のきずな、凝集力が強すぎるのだ。いくらロシア人が共同体的要素を残していると言っても、彼らの個人は日本人の場合よりは強い。皆めいめい勝手なことをやり、勝手なことを考え、勝手なことをわめいている。だが、どこかペーソスが醸し出され、ばらばらのやりとり全体から詩情が立ち上がるーそういうのが僕はいいのだが。つまりチェーホフの演劇に典型的に現れる、人間と人間の間の無関心と共感の絶妙なブレンドが自然に醸し出すメロディーと対位法。
昨日の演出では尺八を流して、無常観を強調していたが、あれは押し付けだ。意味を押し付けられるのは嫌い。劇自身に語らせるべきだ。
と他人のことをくさしておいて、自己宣伝もないのだが、下にある「遥かなる大地」は僕が筆名で書いた小説で、1991年のソ連崩壊前後のモスクワの様子を、ロシア人の架空の人物に託して描いた大河ロマン(のつもり)だ。
これの下巻に、「どん底」を下敷きに書いた個所がある。路上生活者が集まって寝泊まりする地下の場面のこと。これは1992年当時のモスクワで、ベラルーシ駅の脇にある古い建物の地下に、路上生活者達がたむろしていたのを題材にした。彼らがいなくなった後、僕はそこを見に行った。だから、小説に書いた場面は、まったくの思い付きではない。それでも、随分無理をしてロシア文学風に書いている。下巻は、このように不自然な個所が多くて、往生した。上巻はもっと自然でロマンチック。上下とも、是非読んでいただきたい。
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