失われた意味を求めて 第七話:中世西欧史の意味――西ローマ帝国の残影=ローマ教会の緩慢な後退
では、英国で産業革命が最初に起きたのはなぜかという話に移る。なぜそんなことを議論しなければならないのか? それは、産業革命こそが「富」の速やかな増殖を可能としたものなのだから、英国で産業革命を起こした諸要因を明らかにすれば、開発途上国を急速に発展させる処方箋が書けるかもしれないからだ。それに日本や中国での経済発展を英国の産業革命の過程と比べてみると、それがどこまで自律的な要因による――つまり長期の安定的な成長を可能とする――ものなのか、わかってくるだろう。
科学と合理主義精神について
英国を論ずる前にまず、ヨーロッパ全体について議論しなければなるまい。というのは、産業革命が英国、即ち白人地域であるヨーロッパで起きたことについては、白人、そしてその他人種の間で人種優劣論のからんだ安っぽい議論が横行してきたからだ[i]。たとえばヨーロッパの白人は、キリスト教が神学――神の存在を証明し宇宙のすべてをそこから論理的に説明すること――を育て、それが「科学」と合理主義の精神を生んだ、それが産業革命を可能とした技術と理論を育んだのだ、と主張する。
しかし科学的精神があるかないかについて、人種間に遺伝子上の差があるわけではないだろう。例えばアル・ジェブラ(代数)とかアル・ケミー(錬金術から化学の意味へ)の言葉が示すように、イスラム帝国においては同時代の西欧をはるかに先まわる科学が花開いていたのである。それは古代ギリシャの科学を大翻訳事業でアラビア語に移した結果ではあったが、アラブ人、ペルシャ人たちは数学、医学、天文学、博物学などの科学をさらに発展させている。そしてイスラムにも神学があって、そこでは論理的思考が磨かれていた。
中国においても、羅針盤、火薬の発明、そして朱子学や陽明学の発達が示すように、科学的精神や技術は存在していた。そもそも西暦1000年くらいと言えば、ヨーロッパ中部・北部はまだ深い深い森林におおわれていた頃だろうが、中国の宋王朝は開封に都をおいて、高度の経済を享受していた。北宋時代、森林が枯渇したために製鉄には既にコークスが用いられており、年間15万トンもの鉄を生産していたし、南部の江南地方から大運河でもたらされた物産で、消費生活はこの上なく盛んだった。当時の開封の生活を描いた「東京夢華録」には、街の露天で売られている食品の種類を2ページほどにわたって列挙している箇所がある[ii]。そして北宋においては、おそらく世界初の「紙幣」が用いられていた[iii]。
だがそれでもヨーロッパが中国やイスラムから際立つ点がある。それは、特に英国では中央の権力――それは国王と教会のことを意味する――が弱体化し、その中で資産家たちが「事業の自由」を標榜しながら利益の上がる事業に投資しやすい環境ができたこと、そしてヨーロッパは鉄砲と大砲を活用して[iv]植民地を広げては、そこを自分の商圏としていくことができたこと、この二点である。
西欧中世は西ローマ帝国の残影のなかに
われわれが習ってきた世界史や日本史はつまらない。歴史の瞬間を静止画像のように切りとっては、その時代の状況、人物を説明すると、次は50年もあとの別の瞬間に移ってまた同じことを繰り返していく。これでは流れがわからず、全体が見えない、意味もわからない。例えば西ローマ帝国は476年にオドアケルというゲルマン人傭兵隊長に滅ぼされたことになっていて、少し大げさに言うとその後の300年はまるで暗黒の闇のよう、次の800年フランク王国のカール大帝が「西ローマ帝国皇帝」として戴冠するところまでよくわからないのだ。
だが実際には西ローマ帝国消滅後も、その行政機能の一部は全国組織を持っていたカトリック教会に継承された面があり[v]、ローマ時代のインテリはここに就職したのである。西ローマ帝国の交易はベニスやイスラムの商人によって継承されたが、この地中海貿易圏とは別に北部ヨーロッパ貿易圏――ハンザ同盟とか――が発達しつつあり、この2つの経済圏は中世末期一つに結ばれて――内陸ではドイツ商人によって、海運ではオランダ商人によって――大きな経済効果[vi]を生んだのである。
政治面では中世ヨーロッパに「ドイツ」や「フランス」などの国家はまだ成立しておらず、ハプスブルクやカペーなど有力な王家がヨーロッパの諸方に虫食いのように飛び地を持っていたのだが、彼らはよくローマ法王と提携し、それによって他の国王に対する優位を確保しようとした。中世ヨーロッパは日本の戦国時代の諸大名のように、「上京して」ローマ法王を抱き込むことに鎬を削っていたのである。17世紀の30年戦争で「主権国家」がヨーロッパ政治の主人格として認定されるまでのヨーロッパは、カトリック教会に姿を変えた以前の西ローマ帝国が、最終的な死に向かって1200年もの歩を進めていた時代、と呼ぶこともできるだろう[vii]。
もう一つ、ヨーロッパの中世における大きな要素としてイスラムがあるのではないか? 1492年までは、スペインでイスラム王朝が栄えていたし、1453年東ローマ帝国の滅亡以来、オスマン帝国がヨーロッパ政治・経済の舞台に登場していた。このことが当時のヨーロッパ人の心象にはどう映っていたのだろうか? 1492年スペインのイスラム勢力がアフリカに追い払われる――レコンキスタ――のと同時にコロンブスが「インドへの航路」発見の旅に出ているが、これはインドへの通商路を独占していたイスラムの退潮につけこんだものだっただろうし、当時のヨーロッパの白人たちは頭の上の重しが取り去られたような開放感と、拡張への意気込みに燃えていたのではないか?
個人主義と個人による所有権
「個人」そして「個人による所有権」を政治や経済の基礎とした社会である、ということも、ヨーロッパ文明を他から際立たせている。たとえば白人は北米大陸に入植すると、それまでインディアンが集団の所有物としてきた大地を「無主物」だとして柵で囲み、自分のものだと宣言してそれを法と銃で守った。土地のように富を生む源泉となる、いわゆる「生産手段」を個人が所有する――こういう社会は当時の世界では珍しかった。豪族も地主もいないような原始社会か、それとも個人の権利が保証されている近代的社会か、どちらかでしかこういうことはない。そして個人に才覚があれば、所有する生産手段を使って富を増やそうとするので、社会に活力がみなぎる。一人の国王や数人の権力者に富を独占された社会は、才覚のある個人を抑えるから、停滞してしまう。つまり、「個人の所有権」というやり方は、経済成長や産業革命の基礎となるのだ。因みにアジアで個人の所有権という伝統が強いのは、日本である[viii]。
日本では明治以来、「欧米は個人主義(エゴイストという意味ではなく、個人の自由、個人の才覚の発揮を尊重するという意味)の社会だ。日本も儒教的な上下意識、あるいは付和雷同の集団主義を捨てて、個人主義的にならなければいけない」ということが言われてきた[ix]。確かにゲルマン人――アングロサクソンやノルマンもゲルマンの一員だ――というのは、ローマ時代のタキツス「ゲルマーニア」などを読むと[x]、原始的生活をしていたその頃から既に、独立不羈の個人主義的性向を示していたようだ。日本を含めた東洋では、大衆レベルになるとこうはいかない。だがそれも、古代ゲルマン人の生活様式に起因するものではないか。東洋の農耕社会では古来から上下関係が確立してしまい、大衆は頭をすくめて生きることに慣れてしまったのに対して、古代ゲルマンの世界は家族を単位とした自然経済が主体だったからではないか?
そこで話を本題に戻す。中世の西欧はローマ的なるもの、帝国的なもの、つまりカトリック教会からの離脱の過程であったと言えるわけだが、それはまた「国民国家」[xi]と個人の自立化の過程でもあったと言える、ということについてだ。
ローマを頭とするカトリック教会の力と利権(広大な土地を持っていたし、教区から「十分の一税」を徴収していた)を奪おうとする動きが強くなるのが、16世紀である。英国のヘンリー8世は自国のキリスト教会をローマから切り離し、「国教会」とすることで、「イギリス国家」のローマからの独立を確保した。ルターの宗教改革も、ローマ法王と結びついて自分の権力を保持しようとする神聖ローマ皇帝(ドイツで覇を唱えたハプスブルク家)に反抗した諸侯の支持を得て、あれだけ大きくなったものである。
そして同じころの西欧では、個々の知識人、文化人もカトリック教会の縛り、そして神学から逃れ、自分の考え(「理性」)に基づいて世界を捉えなおしてみようとする動きを強めていた。それは後世、ルネッサンスという名前をつけられたが、「運動」と呼べるほど大きな社会変動ではなかった。それでも、当時の西欧諸国の文化人、芸術家たちは互いのことを知っていたし、密接に文通し、時には長い旅行をして訪問しあってもいた。何より重要なことは、彼らの業績が合理主義に基づく学問、科学の基礎となったことである。
自分の理性に基づいて世界を考えるという思潮は、インドにもイスラムにも中国にもあった。僕はまだ知らないが、中国の陽明学がそうなのだそうだ。だがアジアの場合、政府の力が大きすぎたがゆえに、個人主義、合理主義は社会の主流とはならなかった。それに比べて西欧では、個人が精神的に教会から解放されたがために、科学の自由な発展が可能となり、産業革命を助けたのだろう。
こうして中世末期の西欧では、国家も個人もローマ教会からの自由を求めるという点で、利益と関心が一致していたのである。国家と個人はどの国、どの時代でも対立しがちなものであるが、この頃の西欧、特に英国やドイツで宗教改革を支持する諸侯が支配する地域では、関心の方向が一致していた。個人が政府を支持し、政府が個人の権利を保証する――こうした社会は、大きな活力を生み出すのだ。
それに比べて革命前のロシアや中国清の末期では、政府と個人の利害は対立していた。保守的な政府は自分の権力を脅かしかねない改革を行うことを避けたし、改革を求める知識人や実業家たちを弾圧した。ここでは、個人は自分の政府を倒すことなしには、自分たちの権利も確保できなかったし、国全体の発展を実現することもできないという、悲劇的な状況に置かれていたのである。この点、中世末期の西欧は―― 一般化はできないが――、個人と政府の利益が一致した幸福なケースだったと言えるだろう。
政府と住民の間に中間媒体がない政体
この章長くなってしまったが最後に指摘しておきたいのは、中世末期から近世にかけて、政府が個々の人間に直接支配権を及ぼすようになってきた――別の言葉で言えば、封建制が絶対主義に移行した――ということである。それまでは、農民を支配して貢納を取り上げ、戦争に駆り出す権利は封建諸侯が持っていたのだが、新大陸から金銀が大量に流入して物価が高騰すると、諸侯は財政的に破綻して国王の宮廷貴族として生きるようになったと言われる。このあたりイギリスとフランスがごたまぜに論じられたりしていて、実相はまだ僕にはわからないのだが、17世紀頃には国王が「国民」に直接課税し、直接徴兵する――イギリスは第一次大戦前まで志願兵制度だったが――ことが可能になったのは事実である。イギリスの権力は1641年からの清教徒革命をきっかけに国王から議会に移っていったが、有産階級が牛耳った議会はイギリスの物品税水準を欧州随一のものにして、強力な海軍を作り、海外に植民地を拡大していった。政府が住民の血と汗(兵士、税金)を自由に動員できる「国民国家」という強力な装置[xii]は、産業革命による経済力を伴って植民地帝国の構築を可能とし、西欧はこれ以降300年間にわたって世界を牛耳るのである。
新大陸の金銀が西欧を根本的に変えた
そして新大陸から大量に流れ込んできた金銀が西欧の――いやその影響は中国にまで及んでいるのだが――経済を一段上のものに押し上げ、政体まで変えてしまったこと、そして西欧の都市中産階級の生活は豊かになり、テーブル・マナーやプライバシーなど、今日一般にヨーロッパ文化と見なされているもろもろの文物が17世紀頃に確立されたことについては、また次章に述べよう。
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[i] 日本人は江戸幕末以来、白人コンプレックスに悩まされている。明治以後、日本のインテリは、「欧米に植民地化されないこと。欧米に追い付き追い越すこと」にかかりきりになり、忘れていた中国の興隆と欧米の下降に今直面して途方に暮れている。それでも日本のサラリーマンがはじめて米国やヨーロッパに赴任するとき心配するのは、「人種差別されるのではないだろうか」ということである。
差別されるのではないかと戦々恐々としている人間は、当然差別されるだろう。よそ者には「おいしい」話はそんなに簡単に渡さない、仲間はずれにする、というのはどの人種にも見られる性向だ。そういうものとは微笑か拳か能力か、どれでも工夫してつきあっていかざるを得ない。たとえばアメリカでは、声をあげればそれなりに尊重してくれる、と言うか尊重しなければいけないという建前が社会にある。
人種間の差について言うと、それは相対的なものだ。ヨーロッパの白人も、北部と南部では性格がかなり違うし、同じ日本人でもハワイ移住の3世は「アメリカ人」並みにはっきりものを言う。
それでも白人と黄色人種の間には、物理的、心理的にかなりの差があると思う。それが人種としての遺伝子の違いによるものなのか(例えば黄色人種においては、セロトニンという、人間に恐怖感を持たせるホルモンが白人種より多量に分泌されているらしい)、それとも歴史の違いが成せる技なのか、僕は今でもわからずにいる。
[ii] 日本語訳が「東洋文庫」シリーズにある。
[iii] 2008年世界金融恐慌に襲われた現代世界とまったく同様に、中世中国の王朝も紙幣のために何度も滅びている。宋王朝も元王朝も、紙幣を発行し過ぎてインフレを起こし、大衆の不満が乱につながった。
[iv] 西欧中世末期に起きたこの現象は、「軍事革命」と呼ばれている。中国で開発されたと言われる火薬がイスタンブール等を通じて欧州に広まったのだろう。これによって、馬に乗った騎士は時代遅れの存在となった。それまで優秀な騎馬部隊で1000年以上にわたって世界を支配し、世界の枠組みを変えてきた遊牧民族は、銃砲を多用する西欧の常備軍にその道を譲ったのである。
これ以降、「銃砲を多用する常備軍」は世界を支配し、ようやく第2次大戦後核兵器にその座の多くを譲った。現在米国軍は人工衛星などを利用して、戦場の末端までを本土の司令部から管理することが可能になっており、この装置を持たない他国の軍は米軍とおいそれとは共同作戦すらできなくなっている。現代は一種の軍事革命の時代なのである。
[v] カトリック教会は教区の信者(と言っても全員)たちから、10分の1税を徴収していた(このうちどのくらいがローマの本部に納められていたかは知らない)。現代においてさえ、例えばデンマークでは憲法の定めに則って所得の平均0.7%ほどが教会税として徴収されている。そして教会は教区住民の出生記録(日本の「戸籍」に相当)を管理している。
[vi] これは、1991年のソ連崩壊によって旧社会主義経済圏が資本主義経済圏に合体されたときの衝撃に似ていただろう。
[vii] 18世紀にはヨーロッパの主人になったかに見えた「主権国家」、または「国民国家」は、一見するとローマ帝国やオスマン帝国とは異なり、国のサイズも小さいかに見える。だがこれら主権国家はほぼ例外なく、帝国を築いている。考えてみればわかるように、今のヨーロッパの国の多くは――オランダ、ベルギー、デンマーク、スウェーデン、オーストリアのように現在では「小国」に分類されているものでも――海外に植民地、あるいは大きな領土を持っていた歴史を有する。これら諸国の首都は、「帝国」の首都であった香りをどこかに漂わせている。国民国家は、帝国を作る力を生みだすための核のような装置だったと言えないこともないだろう。
[viii] ちなみに、日本では戦国時代の混乱のなかで、農民の自治力が強まったし、豊臣秀吉が1582年からの検地で全国の土地の所有権を大名たちから取り上げたうえで、それを実際に耕作している農家に貼り付けた。江戸時代の農民はこの農地を売買することはできなかったが、先祖代々同じ土地で耕作しそこから納税するという、自営意識は強く培ったことだろう。
明治になると、その土地への所有権と売買の権利が認められたために、貧乏な農民がそれを売って一気に小作が増えたのだが、今でも日本における個人の所有権というものは、世界でもまれなほどに強い。公益性の強い道路を作ろうと思っても、わずか1平米の土地の買収ができないだけで頓挫する。当局が住民に強制立ち退きをさせたかつてのソ連や中国は言うに及ばず、米国やドイツのような資本主義国においてさえ、中央権力は公益のための収用権を持っている。
[ix] ヨーロッパ文明においては「個人」そして「個人主義」が強い、ということは、明治の夏目漱石以来、日本の知識人たちが上からの目線で同胞たちに説いてきたことだ。だが日本にも中国にも韓国にも、「個性の強い」人物は沢山いただろう。そして欧米でも大衆レベルでは、村八分とか根回しとか付和雷同とか、個人主義に反するような現象が沢山ある。だから問題は、社会の習慣、伝統、制度、法律が、個人の才覚を自由に発揮することを妨げるものかどうかなのではないか? そしてそれならば、欧米諸国に軍配があがる。
[x] 岩波文庫から出ている。
[xi] 詳しいことはまたあとで書くが、「国民国家」というのは西欧で発達した一種のフィクション(作りごと)であると言えよう。なぜなら、イギリスとかフランスとかドイツとか単一の民族がいて、それが同一の言語を話す、それら部族の利益を守るために国境を作って、軍隊でそれを守る、というのが「国民国家」の大筋なのだろうが、イギリスもフランスもドイツも単一の民族でできているわけではなく、ベルギーのような小国でさえ言語も単一ではない。
国民国家や主権国家は、中世西欧の有力王家が、他の王家とはりあったり、ローマ教会の締め付けから脱しようとする中で使われた旗印だったと思った方が真実に近いだろう。
[xii] このような強力な国家の原型は、オスマン・トルコ帝国に既にあった。オスマン・トルコは1683年になってもウィーンまで攻めてきたことがあり、西欧諸国は近隣の異質な大勢力として常に意識していたことだろう。そして、その国家体制を参考にするところもあったであろう。そのあたり、「オスマンVSヨーロッパ」(新井政美 講談社)に詳しい。
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