旧満州鉄道ひとり旅
「満州鉄道」で一人旅をすることは、僕の夢だった。「満州」こそは日本の戦前史の縮図、ロシアから多数の兵士の血で購った南満州鉄道利権を遮二無二満州全体の支配権へと拡大して米国の機嫌を損ね、満州支配を守るために中国に進攻して英国の利権を決定的に害した。日本兵士の血で購った満州から離れられなかったが故に戦争となり、負けた日本は自分自身への支配権を失ったのだ。
それでも日本にもっとも近い大陸の広野「満州」(今中国人はこの言葉を嫌い、「東北部」と言っている)は、限りない可能性とロマンをもっているかのように見えるし、そこを突っ走るという「満州鉄道」は、日本がまだ世界政治を動かすことのできた戦前をけだるいノスタルジアとともに呼び起こしてくれるものとして、僕は是非乗ってみたかったのだ(帝国を懐かしんでいるのではなく、当時日本が冒した戦略的な誤りを想っているのだ)。
「満州」は清朝出身の地でもあり、現在はロシアのハバロフスク、ウラジオストックと呼ばれている地域に至るまで、この王朝は実効的な支配を及ぼしていたようだ。それ故に、1600年くらいからウラル山脈をこえて東漸していたロシア人も、このあたりは素通りしてカムチャツカ、アラスカに先に行った。アラスカへの食糧など補給のため当時のロシア人は、サンフランシスコ、ハワイ諸島にまで手を伸ばしている。
それが、アヘン戦争をきっかけとする清王朝の急速な衰退につけこんで、ロシアは現在のアムール州、沿海地方まで150万平方キロ(日本の4倍)に至る地域を自分のものとすると同時に、シベリア鉄道からウラジオストックまで最短距離の満州北部を東西に貫く東満鉄道を敷設、その真ん中のハルビンに街を築き(現在では人口270万人の大都市になっている)、そこから南の軍港旅順まで南満州鉄道を分岐させたのだ。だから今、中国の東北地方からロシアへ行く鉄道は、ハルビンまで北上したあと90度西へ進路を変えて国境の満州里にまで至るのだ。
なお日本では、「『馬賊』しかいない、満州の無人の荒野」を開発、近代化したのは日本の功績だというふうに思っているが、実際は清時代からこの地方には漢人農民が大挙して入植し、日本にその支配権を奪われた張学良は瀋陽などに大規模な軍需工場を既に立ちあげていたのである。中国人が3000万人いたところに、わずか100万人の日本人がやってきたということだ。そのあたりは、「世界史のなかの満州帝国」(宮脇淳子、PHP選書)、「満州の歴史」(小林英夫、講談社現代新書)あたりを参照していただきたい。
だから以下に書くことは、日本大帝国への郷愁などでは毛頭なく、単なる感傷的な旅行記なのである。
長春から瀋陽まで
旧「満州鉄道」に相当するものは現在では、北京からハルビンまで1200キロ(ハルビンから北のアムール河国境までは更に630キロもあり、国境の町、黒河は今は人口170万の大都市となっている)。新幹線に相当する高速鉄道(既存の軌道を抑え目のスピードで走るもので、D列車と呼ばれている)はこれを4時間で突っ走るので、平均時速300キロということになるのだが、2011年7月温州で追突事故があって以来、スピードは50キロ落とされていると言う。だが実際には長春と瀋陽の間だけで、就業時の触れ込み1時間の3倍以上はかかっているので、平均時速は100キロ程度。乗っている感じは日本での新幹線というよりは、ヨーロッパのインターシティ列車程度だ。長春を出るとしばらくは徐行が続き、それほど旅情も出ない。
だがやがて日も暮れるという頃、電車は時速150キロ程度で走りだす。さすが「満州の広野」。沿線は一面の畑で、その中を電信柱がどこまでも伸びている。「広野」とは言ってもそれは「荒野」ではなく、畑の手入れはロシアよりずっといい。時々集落や孤立した石造りや煉瓦作りの農家があって、例外なく屋根から煙突がつき出ている。夕もやの中、野焼きの火が狼煙の如く、地平にまで一直線に消えていく。
スピードがでてくると、この電車はけっこう揺れる。ものを読むのに少し差し支えるほど。去年乗った北京・天津の新幹線は新設の直線レールを時速300キロ以上で突っ走って静かで揺れもなかったが(ロケットのようなものだ)、やはり在来線を高速で走るには限界があるということか。
車内は明るい。方々で、かなり頻繁に携帯電話の着信音。そして一隅には四六時中騒いでいる女性たちがいる。中国の新幹線はけっこううるさい。天井の荷物置き棚に液晶テレビがいくつも掛かり、四六時中大音量で放送している。折しもニュースで、「日本は中国をにらんで南方での軍事演習をやりました」。きまり悪い。だが誰も見ていない。
一点豪華でも、縦て割りの管理体制が中国の弱点
(瀋陽北駅待合室)この「新幹線」。乗ってしまえば快適なのだが、そこまでが艱難辛苦。どの駅にもだだっ広い雑然とした待合室があって、見送り、出迎えはここまで、乗客も列車が来る20分くらい前までは改札を入れてもらえない。と言うか、改札が閉まっていて誰もいない。だから乗客は少しでも早くホームに入ろうと、ずいぶん前から改札口の前に行列する。国際空港でも中国人は、搭乗アナウンスのある1時間も前から、列をなして待っている。「常在競争」の精神だ。混雑を防ぐための規制がかえってよりひどい無秩序と混雑を作り出す――この雰囲気はソ連にあったものだ。
ホームに「新幹線」が待っている。さすが車両は立派で、見送りの中国人も誇らしげだ(改札の見張りを口説いてホームまで入ってきてくれた)。だがプラットホームの表面はコンクリートを流し込んだだけのようなでこぼこ状態。スーツケースを引いていくのも大変で、ところどころにケースの車輪から落ちたとおぼしきビス、ナットの類が戦死者のようにころがる。
以上が示すことは、中国ではものごとがシステムとして動き出すまでには時間がかかるということだ。「新幹線を作る」という決定が上部で行われると、「ぴかぴかの車両を300キロで走らせる」ところに注意と資力が集中し、改札のシステムやプラットホームの整備まで総合的に管理するイマジネーションと動機づけが足りないのだろう。つまり、課題重視で顧客無視。ソ連計画経済の置き土産だ。
中国の組織は政府の諸省庁にしても日本以上の縦割りで、「右手は左手のしていることを知らない」(ロシア語格言)。どこも、自分に与えられた指令をこなし、自分の成績をあげることにしゃかりきだ。
これが示すのはどういうことか? それは中国の場合、ものごとの表面に惑わされず、実力をよく見極める必要があるということだ。空母を手に入れても艦載機を離発着させるカタパルトはなく、林立する高層ビルもその多くは資産保全、投機のために使われていて、入居率は高くない。新幹線にしても、この前の事故で鉄道部が大きな打撃を受け、新線建設も凍結された。すると多分、新規車両の建造も止まるだろうから、既存の車両を修理するための部品も不足してくるだろう。鳴り物入りで年間数千キロも伸びた中国の新幹線も、走る車両が一台、また一台と消えて行く運命にあるかもしれないということだ。これは、悪意から言っているのではない。中国がその気になれば、また中国全土に第6世代でも第10世代でも、ぴかぴかの新新幹線を走らせることはいとも簡単だろうだからだ。その間日本はまた、中国がいつでも使えるように、技術をせっせと磨いておこう。
中国は4000年の歴史を持つ国。どっしり構え、日本のようにせこせこしない。長周波で動いている。
瀋陽から大連
瀋陽から南行きの鉄道は二手に分かれる。ひとつは北京へ行く高速鉄道(これが昔の満州鉄道)。もうひとつは大連に南下する昔の南満州鉄道だ。大連行きは高速化が遅れ、今でも普通の急行列車。僕はこちらの方が楽しみだった。戦前の満州鉄道に近いのはこちらだからだ。
気楽な一人旅。くつろいで、僕はベートーベンのピアノ協奏曲4番(仲道郁子独奏、ヤルヴィ指揮)をイヤホンで聞きながら、瀋陽駅のホームをすべり出る。こういうことをした日本人は、史上初めてだろうと思いながら。
街はずれになると、5階建てくらいのわりと古いアパートが並ぶ。ベランダに洗濯物がかかっている。20階建てのマンションも並んでいるが、未入居のようだ。
郊外に出る。まばらな林の中を汽車は走っていく。思い立ち、こんどはウィンナ・ワルツ「ウィーン気質」を聴く。するとご機嫌、にわかにヨーロッパを走っている感じ。北方の寒い淡い色の植生が、ヨーロッパを思わせるのだ。そして今度はロシアの歌を聴けば、ロシアの大平原を走っているつもりになれる。景色が共通しているのだ。
鉄道。ヨーロッパの鉄道に初めて乗ったのはデンマークの家内の故郷へ行ったとき。アメリカ中部の大平原をイリノイからニュー・オーリンズまで仲間と一緒に行った旅。北京・ウランバートルを36時間かけて旅した時。学生の頃、弘前へ何度も行った、奥羽本線の夜行列車。湯気が窓に凍りついて。そして小さい頃、祖母と仙台に常磐線で行ったときの蒸気機関車。シャツから出た二の腕が煤で黒くなった。
「満州の広野を一人行く」旅情が味わえるかと思っていたが、瀋陽ー大連間はけっこう大きな街が続く。鞍山(人口340万人)、海城(人口110万人)、大石橋(人口70万人)、蓋州(人口70万人)。鞍山で鉄鉱石を取ったあとのボタ山はすごい。そしてこのあたりでは石灰岩の山がセメントを作るために掘り崩されている。つまり東北の山が消え、中国諸都市の高層ビルとなっては、GDPを膨らませているわけだ。しかし砂利はどこからとっているのだろうか?
そして大平原のように見えても、地図をみると東北地方は鉄道が格子状に通っていて、その上にはずいぶん町がある。鉄道が通ると物資の集積地が町になっていくのだ。そして南下するにつれて、地形ももはや一面の大平原ではなくなる。大連に近くなると、朝鮮との境の低い山脈が迫ってくるからだ。
日も暮れた大連に近づいていくと、欧州の都市の郊外と変わらない(暗いので細部がわからないから)。高層アパートが並び、車が行きかう道路にはナトリウム灯が輝く。
大連駅のプラットホームはなめらかで、スーツケースを安心して引いて行ける。そして階段は段々ではなくスロープ式だ。さすが開けた港町と思っていると、改札口が二つしかなく、駅員が各乗客から切符を試すすがめつ集めているので大混雑。
その人波の向こうで、出迎えの中国人夫妻が手を振っている。ヨカッタ。
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