失われた意味を求めて 第四話:政府などなくてもいい? そういうのは強者の言うこと
2009年の夏、日本では与党が自由民主党から民主党に代わったが、次の年民主党は参議院での多数を失ったため、その新しい政策の多くは国会を通りにくい状況になった。これを政治の空洞化、政策の空洞化と言う。だが、だからと言って、みんなの生活が明日から困るということにはならなかった。同じころ、ヨーロッパのベルギーでは2010年6月に総選挙が行われて第一党が交代したあと1年間以上も連立交渉が整わず、選挙前の内閣が暫定内閣として仕事を続けるという異常な状況になった。大きなことは何も決められないが、それでベルギー市民の生活に大きな支障が出たとは聞いていない。政治は止まっていても、行政、つまり役人たちがこれまでの法律や予算をベースにして動いているからだ。
「そんなことなら政府は要らない、国家は要らない」という議論になるのだろうか? 19世紀西欧で産業革命が行われ民主主義が定着して以来、「政府は不要だ」ということをいろいろな人たちが様々の思惑に基づいて言ってきた。その背景には、19世紀西欧の政府はまだ一部の裕福な連中、つまり貴族やブルジョワに牛耳られていて、一般国民の意向を代表するものにはなっていなかったということがある。
そのようなことを言ったなかで有名なのは、無政府主義者(アナーキスト)。これにも右から左まであるのだが、どれも強く優れた個人が自分の自由を確保することを至上課題とする考え方で、貴族主義的な色彩を持っている。弱い人間は徒党を組み、政府なるものを作って、金持ちや企業から金を取り上げざるを得ないが、強い人間はだからこそ政府なるものをなくしたい。
限られた個人のためではなく、大衆全体にとっての無政府状態を想定する思想も当然ある。マルクス主義は、労働者が国家・政府を牛耳り、「労働者独裁」を敷いて分配の公平性を実現しようとするものなので、プルードンやバクーニンなどの無政府主義者とは対立した。だが、労働者独裁を通じて経済の生産力をほぼ無限にまで高めてしまえば、「能力に応じて働き、必要なだけ消費する」共産主義の理想が現実となる。その時、金持ちから金を取り上げて貧困者に回す、というそれまでの政府の介入は不要になるだろう。つまり「国家は死滅」してしまうのだ。だから、こうしたマルクス主義も究極的には、無政府主義の一つに分類できる。
日本でも、「政府を信用しない。政府は嫌いだ」という形での無政府主義(主義と言うより、思潮か)が存在する。政治家や政府、そして政府にいる者たちがやることを疑い、激しく憎悪するという人たちである。こういう人たちは、政治家や官僚は無料奉仕で社会全体の面倒を見るべきだと思っているようだ。アメリカでも「茶会派」と呼ばれる保守主義者たちは、連邦政府の規模を最小限にしぼることで、自分たちの負担を最小限なものにしようとし、それがアメリカの外交や経済ばかりでなく、大多数の国民の生活にマイナスの影響を与えることは意に介しない。
こうした人々の意見が通って、日本や西欧のように「福祉国家」とよばれる国々が国として機能するのを止めると、そこに住んでいる数多くの人たちは本当に生活に困るだろう。ゴミ収集も滞り、路上にはゴミがあふれるだろう。年金も払われなくなる。外国から低賃金の働き手や英語の使い手が無数に入ってきて、一般の日本人の職を奪う。そして日本とよばれる地域を侵略から守る自衛隊も機能しなくなれば、日本は次から次へと侵食され、ついには日本語で日常生活を営むことすら難しくなるかもしれない。
国や政府がなくても困らず、自分の能力で世界中をわたっていける人たち――フランスの元官僚で後、思想家になったジャック・アタリなどは、彼自身も含めてこうした人間を「ノーマド」(遊牧民)と呼んでいる――は、昔も今も将来も、ほんの一握りにしかならないだろう。日本の大企業も法人税が下がらないと本社を海外に移すとか言っているが、英語も話せない多くの取締役たちとその家族はどうするつもりか。
だから日本語と日本料理にこだわる日本人の国、日本は、なかなか解散できない。日本という、日本語を使い、日本文化と呼ばれるものを共有する一つの地域を、自衛隊という武力で守り、警察で治安を確保し、円という通貨で経済を回していくことが、ここに住んでいる人たちの大多数の利益にかなうことなのだろう。
政府は必要だし、政治家も官僚も必要なのだ。問題はだから、この政治家や官僚という国家の道具立てを如何にして飼いならし、できるだけ多数の者の利益にかなうものにしていくかということだろう。日本国家・政府は一部の特権階層のためだけのもの――というふうにならないためには、社会と政府の間の風通しを常によくしておかないといけない。政治家そして役人は社会のニーズをくみ上げ、それを政策・法律案にして国会で揉んだ末に採択し、それを市民に説明し、結果が悪かったら責任を取る、ということである。
もっとも今日の日本でのように国民の権利意識や政治知識が向上してくると、これまでの代議制民主主義――自分たちの代表を選挙で選び、その代表たちが国会で重要事項を審議して決める――では飽き足らず、自分たちのリーダーを直接選びたいという欲求が高まってくる。総選挙のあと、「与党の内部で政権をたらいまわしにした」というような印象を国民が持つと、その政権は短命になりやすい。
「国」というものはなくなる。簡単になくなる。僕が住んでいたことのあるロシアでは1991年の末、ソ連政府に税金が集まらなくなって役人の給料も払えなくなり、約3カ月で政府は瓦解した。政府は人造物である。人間が作ったものならば、できるだけ多くの人間の為になるよう、改造していくことが必要だ。
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