中国人は本当にさまざま
最近、ひとりの中国人に会った。ときどきあるタイプで、「中国は日本よりぜーんぜん歴史が長い、2000年前の日本には何もなかった、文字もなかった、日本の文物はみんな中国から来た、日本人と言っても中国人と人種的には同じ、タイの首相もフィリピンの大統領もみーんな中国人」ということを、なぜか手を変え品を変えこちらに刷りこんでこようとするタイプ。
なんなんだろうね。こういうのは。日本人を恐れ入らせるためにやっているのか、それとも日中両国民は全ての違いを忘れてなあなあでやっていこうと言いたいがために言っているのか。どちらにしても逆効果。こちらは疲れてしまう。喉まで出てくる言葉は、「それがどうした? 手前とこちとらとは違うよ」
仮にイギリス人がドイツ人に同じことを繰り返し言われたら、同じ反応をすることだろう。アングロサクソンやノルマンもゲルマンの一種なのだが。
と思って拳を振り上げると、ずいぶん良心的な中国人ももちろんいるので、拳のやり場に困ってしまう。
日本に来ている中国の留学生のなかにも、高速鉄道の事故で鉄道当局に大変な怒りを感じている人々がいる。日本にやってきて、日本での中国のイメージの悪さに悩み、「中国人がキッチンにポイ捨てした牛乳パックをいつもちゃんとハサミで切って分別して捨てています。バスルームの掃除も人一倍にやっています」という人が、今回の事故への中国鉄道当局の対応に本当にキレている。当局が腐敗しているうえに、事故後の記者会見での鉄道省スポークスマンの態度が傲慢に見えたからだ。
「貪欲のために国民を死なせたやつらは言語道断。このような国を愛そうとしても愛せない。自分の生まれ育った土地に愛の気持ちを持ちたくても持てないものの切なさは、他人には理解できないものがあるかもしれません。
絶対的な権力の下では絶対腐敗しか生まれない。中国って、到底救われない国かな」
この言葉の切なさといったらない。清末期に漢人知識人が当局に対して抱いていた感情、19世紀末にロシア知識人が政府に抱いていた感情とそれは通ずるところがある。われわれ日本人も、東日本大地震と福島原発事故への政府の対応をめぐっていろいろ感ずるところがあるけれど、絶望感はこれほどではない。われわれは、まだ何かできると思っているし、政治のシステムが浄化と改善を可能としているからだ。。
だから心ある中国人は、この「システム」、つまり社会の表面の底にあるものに目を向ける。日本の新幹線が47年間、大事故なしに運行を続けてきたことの背後に、そうした原理的な違いがあると思うのだ。「漠然と中国は日本とは違う論理で動いているように思います。改善の見込みはあるでしょうか。あるとしたら、どこから着手すればいいのでしょうか」と自問する。
可哀そうだ。僕がアメリカに留学したときも、日本社会の嫌な点はいろいろ見えたし、直したいと思ったが(その後ある程度よくなってきた)、これほどの絶望感は感じなかった。
中国は、彼らが誇るその長い歴史によって、その活力を押し殺されている。一つは、皇帝とその周辺の官僚層に利権と権力が集中し過ぎ、これを守ろうとして社会を窒息させてしまうということ(今の中東や中央アジアやロシアでも起きていることだ)、もう一つは「中国革命の父」孫文がその昔、国を手っ取り早く統一し、発展させるために、「政党国家」というやり方をソ連から持ち帰ったことだ。政党は一つだけ、そこに行政権も立法権も司法権も軍隊も、全てを直属させる。そして計画経済を敷くことで、すべての利権が党政府官僚の手に集中する。
こうしたやり方が、リーマン・ブラザーズの金融危機をきっかけに、中国社会にふたたび復活してきたので(「国進民退」と言う)さしもの中国経済も今、曲がり角なのだ。社会を支える原理の問題――つまり生産手段の私有権が保証されているかどうか、官僚が経済活動に直接関与することがないかどうかということ――が、中国の経済成長を終わらせようとしている。
高層ビルが立ち並び、高速鉄道が350キロで突っ走るという(直線区間が多いから)表面的な成功と、そのような成功を今後も続けられるかどうかということは、まったく別のものなのだ。
だから、「中国の歴史は日本よりはるかに長い」と言われたら、僕は言い返す。「それがどうした? So what? こちらの方が暮らしはいいよ。社会の底の原理がどこか違うんだ」と。
(だけれど、現在の日本の政治状況はひどいですよね。経済は、企業が必死に活路を切り開いていてくれるようですが)
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