「国民国家」は永遠なのか?
2007,3.4
Japan-World Trends
河東哲夫
(現時点での、「国民国家」についての私の意見を書いてみました。
国家の品格とか国益について議論が盛んな現在ですが、まずその「国家」とはどんな経緯でどんな目的をもって作られてきたものか、調べなおしてみる必要があると思います。人間が作ったものは永遠ではありません。人間が作ったものは、現代のニーズに合わせて作り直していくことができると思います。
まあ、そんなことをこれから勉強していくつもりです)
今の世界では「国民国家」あるいは「主権国家」というものが、国家のあるべき姿として一般に考えられている。戦後独立した国々も、「国民国家」となるべく、強大な軍事力、中央集権の官僚制などを整備することを目標としている。
しかし「主権国家」、「国民国家」は、支配領域が流動的で国王達の個人的関係が国際政治を規定していた中世の欧州から、国の領域が確立した近世に移行するにつれ、国際政治の主体として(あたかも「法人」であるかのように)概念、体制が整備されたものである。それは治安、徴税、徴兵など統治の権限が、国王個人から議会へ移行する過程でもあった。
国際政治において「国民国家」は、国家が国王のいわば個人会社であった時代より、はるかに強力な力を発揮するようになった。当時の欧州では国家間の勢力争い、植民地の奪い合いが盛んであり、「国民国家」はこれら戦争を効率よく遂行するための道具―――徴税と徴兵―――としても使われたのである。そして産業革命後の「国民国家」は、際限なく製造される財のはけ口を求め、帝国主義的な市場争奪、市場囲い込みの手段として活動し、遂には二度の世界大戦を起こすに至った。
当初は力の装置として生起した「国民国家」は、その後産業革命で広汎な中産階級が生じ、彼らに選挙権が与えられるにつれ、年金などの社会政策をも司るようになった。国家が個人と直接関係を持つことは古代国家以来、珍しいことではないが、徴税、徴兵などマイナス面だけではなく、福祉などいわばプラスの関係を大々的に結んだのは、これが世界史上初めてのことだろう。現代の「国民国家」は、暴力装置と福祉制度の双方を司っているのである。
今日、「国民国家の変質」が言われるようになって既に久しい。欧州では経済面での権限が次第にEUに集約される一方、地方自治体への権限委譲も進み、各国政府はいわば上下双方から権限を奪われつつある。EUでは大規模正規戦が起こる可能性は非常に乏しくなり、軍隊さえもが小規模単位に編成替えされつつある。米国では元々連邦政府の権限が限られていたが、今では年金制度さえもが民営化論議の対象となっている。「国民国家」は暴力装置、福祉制度の両面において、これまでの枠組みを離れた自由な見直しの対象となったのである。
しかるに、戦後独立国が続出し現在では急速な経済発展を遂げるアジアにおいては、多民族性を克服するため、あるいは多様化した社会をポピュリズムで統治するため、「国民国家」のイデオロギーが鼓吹されている。中国、韓国等におけるこのような動きは、様々な理由で国家意識が希薄になっていた日本国民を刺激し、「国家」への関心を高めさせている。日中、日韓の間では、こうして対立が際限なくエスカレートする危険が生じている。
アジア、特に東アジアの諸国は、戦後60年間続いてきたグローバルな自由貿易体制から受益している。経済が成長しているこれら諸国は、様々の国際紛争を未来志向、つまりプラスサムの原則で処理することができるにもかかわらず、「国民国家」イデオロギーに自ら縛られ、あえて不要なゼロサム的争いをする羽目に陥っている。
古来世界には、様々な国家形態が存在した。その中には、現代の参考となる要素もあろう。欧州が育んだ国民国家に「白人の攻撃的な性格」を見、それを「調和を重んずるアジアの穏和な精神」で代える、といった議論には組しないが(アジア人が穏和な性格だったらモンゴルの世界制覇とか豊臣秀吉の大陸進攻は起こらなかったろう)、国民国家からその危険な牙を抜き、東アジアが自由貿易体制の下に武力紛争のないStatus quoを維持する方向へ進むことは可能だろう。
BRICsという言葉に代表される次世代の大国は、いずれも人口大国、かつ多民族国家であり、単民族神話の上に成り立つ国民国家ではない。これからの世界は米国、EUも含めて、「メガ国家」とも呼ぶべきこれら大国、あるいは領域を中心として動くこととなろう。その場合、実は世界最大の「国民国家」である日本は、「国家のM&A」を考える必要があるのかないのか、この点も考えていかなければならない。もっとも、その前にまず英語や中国語をもっと話せるようにならなくては、アジアの片隅で逼塞するばかりだろうが。
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コメント
それぞれの国の経済が世界的連関性のなかで変化し、血液となっている資金・資本が別の国・エリアから供出されていることは当たり前、地域的共同体のあり方がアジアにおいても真剣に模索されている(模索されなければならない)今、「国民国家」という概念は、見直しというよりも、ひとつの役割を終えているような気がします。
国民国家としての実質的な定義を当てはめやすい日本においても、「力の装置」としての側面からの訴求力・求心力はもちろんない(あってはならない)ですし、「福祉」面においても、社会保障制度は破綻へのシナリオが見え隠れしています。
国民国家としてのイデオロギーが良い意味で浸透し、機能していれば、「高福祉・高負担型社会」を目指すのか、「低福祉・低負担型社会」を目指すのかについても、民主主義的な決定
プロセスを通じて方向性を明確にし、突き進むことができるはずですが、国のかたちを決めるこうした重要なテーマにおいて、最もしてはいけない「近視眼的視点による是々非々判断」を、政治も国民もしてしまっているわけですから、国民国家としての理想的な有り様からは遥かに遠い実態と言えるのではないでしょうか。
(北朝鮮情勢という、特別な要素が重要な影響を及ぼしている)韓国はともかく、中国に関して言えば、そもそも「国民国家」の概念を当てはめるのが非常に難しい国だと思います。
ただ、その概念を強く訴求し、カタチにしていくことこそが、現指導体制への求心力を維持する唯一・最大の方策なのでしょうし、良いか悪いかという議論はともかくとして、決めた方向性を徹底してやり抜くスタンスは、とりわけメディア政策において恐るべき推進力を感じずにはいられません。
そして、その先のゴールが、本当に「国民国家の実現」なのかどうかについては、少し切り離して考えるべきなのではないでしょうか。
日本ならばぶっちぎりの流行語大賞となったに違いない「ひとつの中国」という大スローガン、国民国家が必然的に導くこととなる歴史や
言語の共有、国民国家への志向が少数民族に対して強いることとなったものについても、我々は冷静に見ていくべきだと思います。
日本からもツアー客が殺到している(というより、チケットが取れない状況にすらなっている)「青海チベット鉄道」の開通によって、チベットの地域、そしてそこに住まう方々に経済的な繁栄がもたらされるかというと、必ずしもそうではありませんし、中部大開発が、結果的にさらなるエリア間経済格差を生み出すストーリーも容易に想像することができます。
しかしながら、中国の人々は、指導部が推進するしないに関わらず、ある側面においては国民国家たる民族的な融合を繰り返していることも事実です。
中国に息づいてきた文化、そして今なお息づく文化は、現在のポップカルチャー含めて、民族間の長年の融合の成果に他なりません。
「国民国家」という概念を、政権体制の拡充に使うことはまだまだ大きな余地があるとしても、本当の意味での「国民国家」を実現しようとすることは、これだけのグローバル社会・多用なる価値観の社会において、極めて困難なことであると思います。
それは一方で、国家の過度な暴走を抑止することができるとも言えるのかもしれませんが。