「自分探し」より職探しの時代――それでも理想は高く
今日は大学で、サイモンとガーファンクルのThe Boxerをかけて、学生は好奇心、僕は回顧のセンチメンタリズムにしばしひたった。70年代、アメリカの白人文化が頂点にあった時、ベトナム戦争から逃れたヒッピー達が偽りの自由を謳歌していた時、まだ女子学生が一人でヒッチハイクするほど安全だった時、僕はこの曲を聞きながらアメリカの大平原を西へ向かって突っ走っていた。安いスピーカーを段ボールの他にはめ込み、ひもで車中につり下げながら、何もない平原をまっしぐらに。地平線にはいつまでも届かない。その向こうに雪のロッキー山脈がかすかに見えてくる。
これが僕のいちばんハッピーだった頃だ。給料を保証された上での、ひと時の完全な、だが偽りの自由。だが誰も、何物も僕を縛らない完全な自由。大学の夏休みだったのだから。
それはアメリカ人の学生も同じで、この頃は彼らの間でも「自分さがし」(realize oneself)という言葉が流行っていたのだ。自分の才能を発掘し、自分のやりたいことをやる――そんな生き方がしたいし、それはできることだ、そうみんな思っていたのだ。みんな自由に、そしてもっといい世界がこれからやってくる。そう感じていた。それは、ロックやベンサムが築いた産業革命社会、市民社会の論理がその頂点に達した時だったろう。
それから実に40年。長い長い時だ。だがポップはまだ70年代の延長上にある。サイモンとガーファンクルを学生達は知らなかったが、それでもまるで現代のポップのように新鮮に響くと言った。若者達の価値観も70年代の延長上にあって、日本の若者達もつい10年ほど前までは「自分探し」とか言って、駄目な日本の大学(と言うより、学生が勉強しないから駄目なのだが)に飽き足らず、インドあたりまで出かけて行ったのだ。
それが今ではすっかり内向きになって、自分探しより職探しという情けない時代になった。日本では、産業革命の過程の逆回しが始まったようなものだから、こうなるのも当然で、学生が悪いのではない。
でも僕は、「自分の自由、他人の自由の尊重」という市民社会の基本理念はしっかり維持したいと思っている。それが、経済成長の目的だと思うのだ。別にGDPの大きさを国際的に自慢しあうことが目的なのではない。
日本では何か価値観の背骨が通っていないから、外交路線も昨日は米国、今日は中国、明日はロシアとすり寄る相手がふらふら変わる。日米同盟にしても、「これで日本は国防費を節約できるから」という説明をする人がいるが、それではさびしい。カネで魂を売るくらいなら、少々カネがかかっても自主防衛に移行したらよかろう。
僕が対米関係が重要だと思うのは国防費を節約できるということよりも、日本が戦後獲得した自由な社会を維持するには、米国と結んでいないと日本一国では少々荷が重いからだ。日本が裸になった時、どこかの潜水艦が領海を侵犯しただけで世論は檄こうし、普段は平和主義の人たちも「政府は何をやっているのか?! 反撃しろ!」という大合唱に加わるだろう。日本の政治家達は、今度の小沢訪中団の代議士達がそうだったように、民主体制ではない中国の指導部にへつらうかのように選挙区向けのツーショットを撮らせてもらって大喜びだ。価値観も○○もない。こういう雰囲気が日本に強く強く残っていることも、日米同盟が必要な一つの理由なのだ。
「衣食足りて礼節を知る」に至っていた日本社会が、これから「貧すれば鈍する」に至るまで、結構速いことだろう。でも、ここまで自由な社会を築いたことは、青年世代に是非覚えていてもらいたい。
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