アジアでロシアは何ができるのか? Ⅱ 冷戦終結後
冷戦終了後の激変
一九九一年崩壊する前後、ソ連・ロシアは政治的・経済的な大混乱に陥る。これは、極東におけるロシアの軍事力も大きく低下させた。全土で四〇〇万人強の兵員を擁したソ連軍は一一〇万人強にまで減員され、海軍、空軍の装備は更新されずに摩耗度を強めた。二〇〇二年、カムラン湾の使用権をベトナムに返還したことは、アジア太平洋地域におけるロシアの退潮を象徴するものになった。現在も、ロシアの退役原子力潜水艦解体に対して、日本を含めたG8諸国などが資金援助を続けている。極東におけるロシアの地位は政治・経済・軍事すべての面で下がったままで、ロシアは極東・シベリアに中国、北朝鮮からの移民があふれることを懸念している。だが、サハリン石油ガス・プロジェクトが稼働したこと、シベリアの石油を中国・太平洋岸に運ぶパイプラインの建設が始まったことは明るい材料となっている。
(対米国):ソ連崩壊後米国は、民主化・市場経済化を唱えるロシアを助ける姿勢を一時見せ、極東においても老朽化原潜の解体に資金を提供したほか、一部の識者は日本とともに極東の開発を進めることを提唱した。だがブッシュ政権登場のころから米国の対ロ関心も後退し、NATO拡大などでロシアの神経を逆なですることを繰り返した。それに対してプーチン大統領も、厳しい対米批判で応じたばかりでなく 、二〇〇八年八月グルジアに侵攻した。米国批判は、経済問題から国民の注意をそらせるのに適しているという事情もあった。
オバマ政権はロシアとの関係では核軍縮に最重点をおくとともに、対立関係を「リセット」し、ソ連崩壊で傷ついたロシアを宥めて邪魔をさせないように努めている。だがオバマ政権はロシアを大西洋を通して見ており、アジア太平洋地域においてロシアを外交カードとして活用しようとする姿勢はほぼ皆無である。東シベリアでの資源開発に米国が参加し、ロシア極東部からLNGガス、石油等をアラスカ、米国西海岸に輸出するだけでも、極東におけるロシアの対中バランスを向上させ、北東アジアの安定化に資することになるのだが、米国はサハリン石油・天然ガス開発への参加にとどまっている。米国では州毎の規制が異なるため製油所の新設が長らく行われず、ロシア原油を大量に輸入できる態勢になく、またLNGを輸入するためのインフラも欠く。
ロシア軍は極東地域でまだ一定の力を保持している。ただ最も戦略的意味の大きいSLBM搭載の原子力潜水艦は老朽化しているだけでなく、欧州部の北洋艦隊に集約される動きにあるようだ。ロシアの経済が一応回復した二〇〇七年七月、マソリン海軍総司令官は①カムチャツカの原子力潜水艦基地拡充、太平洋艦隊の新たな基地建設、②二〇一五年から新型空母の開発を進め、二〇~三〇年後に極東と北海に空母を核とした新艦隊を創設するなどの構想を発表したが、これは海軍としての抱負にとどまり、同司令官がそれから間もなく更迭されたこともあり、その後具体化への動きは見られない。ロシア太平洋艦隊への意義づけが揺れているようだ。
(対中国):中国は一九七九年の経済改革以降、高成長を開始した。中ソの経済力は逆転し始めた。一九八〇年代後半、石油価格が記録的に下がる中、ゴルバチョフ政権は西側との関係改善によって経済力回復を達成しようとし、中ソ論争で傷ついたままだった中国との関係も修復をはかった。経済発展を政策の第一の目標とし、このために周囲の情勢安定を強く望む中国もこれに応じた。
一九八九年ゴルバチョフ書記長は中国を公式訪問して、中ソ和解を劇的に演出した 。これは天安門事件、そしてソ連崩壊などで頓挫したが、二〇〇一年にはプーチン大統領が、中国側が一九七九年に破棄していた中ソ友好協力条約を実質的に復活させる善隣友好協力条約を結んだ。中ソ友好協力条約は日本の脅威が復活した場合を強く想定した同盟条約だったが、中ロ善隣友好協力条約もその第九条で「中ロいずれかが外部から脅威を受けた場合、双方はそれを除去するために直ちに協議する」と定めている。ただし一九九九年、ユーゴの中国大使館が米国に「誤爆」されて以来、中米関係は緊張気味に推移していたので、この善隣友好協力条約は日本よりも米国を念頭に締結されたものだろう。
このころ、「米国による内政干渉を防ぐ」という趣旨の言葉は中ロ双方の指導者が頻繁に発しており、二〇〇一年結成された上海協力機構は中ロがスクラムを組み、そのなかで中央アジア諸国はその権威主義的政権を米国の干渉から守る、という目的も持っていることが明白だった。しかしその後、対米経済関係に大きく依存することとなった中国は、ロシアの対米批判言辞に本気では加わらない。
なお、中ロは二〇〇七年から二〇〇八年にかけて貿易額を約四五%も伸ばし、中国はロシアにとって最大の貿易相手国の一つとなった 。だがロシアの対中輸出は石油に大きく依存しており、その値決めなどには常に政治力が必要となるだろう。また近年中ロ関係を支えてきた、中国によるロシア製兵器の購入は大きく減少している。戦闘機スホイ27、スホイ30の対中供与契約は終了し、それに続く大型案件がない。二〇〇六年九月には輸送機IL76、IL78の供与が停滞していることなどの理由で、中ロ国防相会議が無期延期されたことすらあった。
こうしたことの背後には、中国がもはや単体の輸入ではなく、ライセンス生産を求めるようになったことがある。ロシアはスホイのための最新の電子技術などの輸出は抑制していたが、中国はそれでもスホイに学んで「殲10」戦闘機の量産体制を整えてしまった。ロシアは、中国に兵器を輸出しようとすればライセンス生産を求められ、それを認めれば大量コピーされて第三国に輸出されてしまうというジレンマをかかえている。
(中ロ間の摩擦要因):中ロは友好協力関係を続けているが、その陰では摩擦要因も存在する。中国人には、清時代からロシアに圧迫され、ソ連時代には「弟」として低く見られてきたという、ロシアに対する欝憤がある。そのため中国人には、現在の経済力をたてにロシア人をことさら下に見る傾向があり、今度はロシア人の側が傷ついている。
また二〇〇八年には中ロ国境問題が解決された と言っても、清王朝が一八六〇年北京条約でロシア帝国に譲渡したウラジオストックなど沿海地方の所属は、「歴史問題」として浮かび上がる可能性が潜在している。鄧小平はかつて、極東の領有権については放棄するのではなく棚上げするのだとの趣旨の発言をしているし、中国の歴史教科書には「ツァーリスト・ロシアによる中国の領土奪取」についての叙述がある。将来中ロ関係が悪化すれば、この「歴史問題」はいつでも中国の外交カードとして持ち出されるだろう。
エネルギー資源を求めて中国が中央アジアに進出を強めていることは、これら資源の独占をはかるロシアを苛立たせている。トルクメニスタンの天然ガスをパイプラインを新設して、ロシアを経由せずに中国に輸出する案件に対して、ロシアは陰に陽にこれに反対するロビー活動を展開した。
ロシアは上海協力機構を軍事機構とするべく中国に働きかけてきたが、米国を過度に刺激したくない中国は対テロ行動以上に駒を進めようとしない。上海協力機構の事務局は北京に置かれているうえ、首脳会議のたびに中国だけが新たな借款供与計画を明らかにするなど、上海協力機構は次第に中国のペースで進み始めている。
シベリアの石油・天然ガス欲しさに中国はロシアに対して下手に出ざるを得ないという見方もあるが、世界的不況の現時点ではむしろ中国が有利な立場にある 。中国は当面必要な石油はアフリカなどでの自主開発で手当てできている上、通貨の元がこれから恒常的に切りあがっていく中で購買力は向上する。国内の石炭は質は悪くとも豊富で、国内エネルギー消費の六〇%以上をまかなっているし、天然ガスも新疆地方などのガス田に四〇年分強の埋蔵量を有する。
耐久消費財においては、安価な中国製品がロシア国内企業の反発を買うケースが見られる。たとえば二〇〇七年上半期、中国車の対ロ輸出は約三万八千六百台で、その前年同期比で約六倍に増えた。中国車はロシア車より約三割安い。ロシア側の警戒は高まり、中国車はロシアでの衝突テストで最低クラスの評価を受け、中国メーカー四社がロシア政府に申請していた工場建設の許可は二〇〇七年十月、すべて見送られたとの報道があった。
(対北朝鮮):ソ連はその崩壊直前、経済力に魅せられて韓国へと歩み寄り、北朝鮮との関係を大きく後退させる。八〇年代末経済困難が顕著となったソ連は、北朝鮮の反対を押し切って一九八八年のソウル・オリンピックに参加した。韓国も「北方政策」を発表して東欧、ソ連との関係樹立に乗り出し、九〇年九月にはついにソ連と外交関係を樹立してしまったのである。
九二年以降経済大混乱に陥ったロシアは北朝鮮への援助を停止し、貿易では外貨での支払いを要求するようになったため、貿易額は激減した。一九九三年に北朝鮮がNPT条約から脱退したこともあり、九五年ロシアは北朝鮮との友好協力相互援助条約を破棄した。
二〇〇〇年二月プーチン大統領代行の下で友好善隣協力条約が結ばれるが、ここでは相互に相手方の主権、独立及び領土保全に反する条約・協定を第三国と締結しないことを誓っているものの、友好協力相互援助条約にはあった、有事の際の軍事的支援についての条項は脱落している。プーチンは大統領就任直後の政権浮揚策の一環として二千年七月北朝鮮を訪問、以後〇二年まで計三回、金正日主席と会談したが、当時のロシアは北朝鮮を助けるだけの経済力に欠けており、その外交は多くの場合ジェスチャーで止まらざるを得なかった。そしてロシアのマスコミ関係者、専門家層は、北朝鮮外交官が酒・煙草類の密輸で生計を立てていたことや、その集団主義、権威主義に対して常に嘲笑的だった。
ロシアが外貨を豊富に持つようになった二〇〇七年には、北朝鮮の対ソ連未払い債務をほぼ帳消しにする提案をしたことがあったが、債務の額 についてさえ合意に達することができない上に北朝鮮側は全額帳消しを主張して、合意は成立しなかった。現在の貿易額については年間二億ドル弱と報道されているが、ロシアのシベリア、極東部では北朝鮮からの労働者が多数働いており、数字に表れない経済関係となっている。たとえばこれら労働者の中には、政府間の取り決めにより、北朝鮮の圧倒的な貿易赤字を支払うために派遣されている者もいるようである。なお、一時マスコミを賑わせた「釜山から北朝鮮・ロシアを通って欧州に至る鉄道」の開設は頓挫したままになっている。
北朝鮮の核開発問題が二〇〇二年頃から先鋭化するとともに、ロシアと北朝鮮の関係は再び微妙なものとなっていった。ロシアは、二〇〇六年一一月、北朝鮮の第一回核実験に関連した国連安保理決議に賛成して、北朝鮮への兵器供給の可能性を自ら断った。〇九年四月にはラブロフ外相が五年ぶりに平壌を訪問したが、金正日主席に会うことはできず、オバマ政権発足後の六者会合再開へのきっかけを得ることはできなかった。
そして二〇〇九年五月、北朝鮮が再度の核実験を行うと、ロシアは六月には安保理決議に賛成して資金・資産の移転や金融サービスの提供拒否に加わるとともに、人道・開発目的以外の北朝鮮への支援をしないことを約した。ただ北朝鮮に出入りする船舶への貨物検査については、協力を約することはしなかった。
(対韓国):韓国・ロシア関係も、伸び悩んでいる。韓国がソ連と外交関係を樹立したのは、ソ連が北朝鮮に対して持つ影響力を使って北朝鮮との関係を有利に進めることができると踏んだためだろうが、ソ連・ロシアはまさに韓国と外交関係を樹立したことによって北朝鮮の信を失い、影響力どころではなくなっていたのである。韓国は、ロシアから得られるものはあまりないことをすぐ見て取り、政治面での韓国・ロシア関係は一時中だるみの状態となった。
経済面では、九〇年代日本の企業が事業の整理に努めている間、韓国の家電企業はロシア市場を席巻したが、当時のロシア市場は韓国にとってもニッチ市場の域を大きくは出なかった。九〇年代半ばから中国の成長が顕著になったことで、韓国の経済的関心は中国へと大きく移る。中国は、短期の間に韓国にとって最大の貿易相手、かつ直接投資先となったからである 。
李明博政権は、就任当初は東シベリアの資源開発に大きな期待を見せた。二〇〇八年十月には訪ロして、「ロシアを戦略パートナーの地位に引き上げる」構えを見せたが、今のところ具体的な成果にはつながっていない。なお報道によれば、韓国は二〇〇二年からモスクワのフルニチェフ社と共同で二段式ロケットを開発し、百キロほどの人工衛星を打ち上げるべく準備を進めている。他方では、二〇〇八年三月、ロシアの偵察機が韓国の防空識別圏に進入し、米海軍の原子力空母「ニミッツ」に接近した事件も起きている。これらを総合するに、ロシア・韓国の関係は十分緊密なものにはなっていない。
(朝鮮半島をめぐる国際協力):ロシアは北朝鮮核開発をめぐる六者会合の一員であり、その中の「北東アジアの安全保障」に関する作業部会の議長国である。ブッシュ政権時代の米国には、この六者会合をベースに北東アジアの集団安全保障体制を作ろうとする動きがあり、その関連でこの部会も注目されたが、二〇〇七年八月モスクワで開かれた以外、この部会の活動についての報道はない。
ロシア、中国、北朝鮮の国境が集約している豆満江(図們江)河口地帯の開発を梃子に、日本とこれら諸国の間の経済交流を活発化させようとする「環日本海構想」があるが、ロシア側がこの地域のハサン港開発よりウラジオストック港改修を優先したりしたことによって、この構想の実現は停滞していた。だが二〇〇九年には、中国が北朝鮮領内の鉄道を改修して、中ロ間の物流を大きく増やそうとしている。
(対東南アジア):ロシアは、ソ連崩壊後の九〇年代も東南アジア諸国との関係を続けたが、経済力・軍事力が低下したことからその動きは鈍かった。ベトナムは九〇年代半ばまでは、おそらく対中抑止、そして米国との関係推進の際自分の値段を吊り上げるため、ロシア海軍へのカムラン湾の施設貸与を継続したが 、一九九五年に同国がASEANへの加入を認められたことで対ロ姿勢も変化した 。ベトナムはカムラン湾施設の使用料金支払いを求めるようになり、二〇〇一年プーチン大統領はこの施設使用権を返上した。プーチン政権は当時、軍事予算を節約するため、キューバにおけるレーダー基地も返還したが、これにより東南アジア、太平洋地域における唯一の軍事的足場を失った。
それでもロシアには、安価で性能の良い兵器の供与という手段が残った。マハティール首相の下、米国と張り合っていたマレーシアは、一九九四年にミグ二九などの輸入に合意したし、東チモール問題で米国から武器禁輸制裁を受けていたインドネシアも一九九七年、スホイ30などの輸入を約している 。
ロシアもその混乱が収拾した九〇年代半ばから、東南アジアでの足場を再構築する動きを見せる。九八年には「ロシア外交政策の大綱」を発表し、「アメリカ一極主義に対抗し」、「シベリア・極東発展に不可欠なアジア太平洋地域との統合を進めるため」、ASEANでの活動を活発化させることがうたわれ、一九九六年以来、ASEAN拡大外相会合に中国、インドに加えて招待されるようになった。当時は米国との関係も良好であったことから、一九九八年には日本、米国の後押しも得てAPECにも加盟した。ARFには一九九四年の創設当初から、日米中などと同格の「対話パートナー」として招かれている。ロシアはASEAN諸国の大部分にとっては、「何かあった場合の当て馬」程度のものであるようだ。
それ以上は、ロシアの外交も進んでいない。東アジア首脳会議には二〇〇五年一二月、議長国マレーシアのゲストとしてプーチン大統領が出席を認められたが、冒頭にゲストとして挨拶を許されただけでメンバーとなることはできなかった。その直前に第一回ASEAN・ロシア首脳会議が開かれ、今後十年間にわたる協力を約した包括的パートナーシップ共同宣言を採択し、ASEAN・ロシア首脳会議を定期的に開くことに合意したが、その後この首脳会議は一度も開かれていない。多くのASEAN諸国にとってロシアは無害であるにしても、自国の都合ばかり前面に出して日米中との間で主導権を争ったり、日本との北方領土問題が会議に持ち込まれたりしても面倒だという意識があるだろう。
今後も、極東からの資源輸出が飛躍的に増えないかぎり、ロシアは東南アジア諸国にとってはマージナルな存在にとどまることだろう。なおロシアはベトナム、ミャンマーでは石油・ガス資源開発に参画してきた。
(対南西アジア):インドは戦後長らく社会主義的経済体制を取っていたこと、中国と対抗していたことから、ソ連と緊密な関係を維持していた。ソ連崩壊後、ロシアが大混乱に陥ったことで、インドとの経済関係も大きく縮小し、インドは米国との関係を推進し始めた。それでもインドはロシアと良好な関係を維持して大量の兵器購入を続けているほか 、タミルナド州ではロシアが軽水炉建設を進めている。携帯電話などでもロシアからの民間投資が行われ、市場としてのインドはロシア実業界の視野に常に入っている。
ただしインド人に言わせれば「ロシア人は油断がならない」ビジネス相手であり、ロシア人に言わせれば「インド人ほど厳しい商談をしかけてくるところはない」。それに中国と同様、インドに対するロシアの兵器輸出も転換点にあるようだ。二〇〇七年インド国防省は、一兆円以上に相当する中型多目的戦闘機約百三〇機の購入手続きを開始したが、これは一八機のみ完成品輸入であとはライセンス生産、しかも米国、EU、ロシアなどを競わせる公開入札だった。
ロシアもロシアで、二〇〇四年に成約した中古空母「アドミラル・ゴルシコフ」のインドへの売却は、ロシアでの改修が遅れるうち費用がつり上がり、一六億ドルの契約に一二億ドルの上乗せが必要になっている。この背景には、ロシアにおける造艦能力の後退があるだろう。インドが二〇〇五年にロシアに発注したディーゼル潜水艦の近代化改修では、搭載された対艦ミサイルが六発の試射で一度も命中せず、〇八年、インドがその受領を拒否したとの報道があった。
ロシアはエリツィン時代末期から、「ロシア・中国・インド枢軸関係」を提唱してきた 。三国の首脳会議、外相会議は間歇的に開かれているし、G20の場において三国はブラジルとともにBRICsとしての連携を高めている。しかし中国、インドがほとんど明示的に対抗関係にある上、ロシア・インド関係、中ロ関係も枢軸関係からはほど遠い。
その他の南西アジア諸国においては、ロシアのプレゼンスはインドにおけるもの以上に弱い。パキスタンは中国、米国に近く、バングラデシュ、スリランカ、ネパールにおいても中国の進出が顕著である。アフガニスタンについてはロシアは一九七九年侵入失敗のトラウマをいまだに引きずり、兵力の派遣は絶対行わない旨何回も繰り返し表明している。しかしロシアはアフガニスタンの安定化に対する努力を示さないと、国境を接するアフガニスタンを脅威ととらえているウズベキスタン、タジキスタンに米国、NATOが付け込むのを許すことになる。
アフガニスタン発の麻薬はロシアの社会をも汚染している。従ってロシアは、アフガニスタンの麻薬、テロ問題についてはNATO諸国、アフガニスタン周辺諸国などと緊密な情報交換、共同訓練を行っている。また上海協力機構の二〇〇九年議長国として、三月にはモスクワでアフガニスタンに関する国際会議を主催した。アフガニスタン国内でロシアは、北部のタジク系住民と緊密なつながりを維持している。
他方、中国も最近NATOと交流を推進することに関心を示し、アフガニスタンから新疆地方への麻薬流入防止あたりを協力の対象とすることを考えているもようである。これが実現することは、NATO拡張に反対してきたロシアにとって好ましいことではない。中国・NATOの協力の有無は、ユーラシア全域の力のバランスに影響を与えるだろう。
(対中央アジア・モンゴル):ソ連崩壊で中央アジアは独立し、モンゴルはそれまでの完全なソ連寄りの立場から離れ、西側、中国ともバランス外交を展開するようになった。ロシア、中国はこれら中央アジア諸国、モンゴルにおいても中国その他大国と影響力、利権を競うようになり、その結果はアジア太平洋地域におけるロシアの力にも反映される。アジア太平洋地域の国際関係を語るにあたっては、中国、ロシアの裏庭に相当するこれら地域の情勢にも目を配ることが必要になったのである。
これら諸国の対ロ関係はまちまちであり、しかも頻繁に変化する。しかし「中央アジアはロシアの一部」という日本での理解はまったく時代遅れで、かつ歴史的・人種的事実から遊離している。中央アジア諸国は自身の利権構造の保持、つまり独立を維持することを何より大切なものとし、その枠内でロシア、中国、米国などを競わせて最大限の利益を引き出すことを、その外交の基本としている。
日本では、上海協力機構の力を過大評価し、中央アジア諸国と話をするにはこの機構、あるいはこの機構を「牛耳る」ロシアと中国に話を通さなければうまくいかないと見る向きがあるが、中央アジア諸国とは個別に話をすることがもちろん可能だし、またこれら諸国もそれを望む。中国、ロシア自身、経済協力は上海協力機構を通してではなく、中央アジア各国と二国間ベースで進めている。上海協力機構はこうして、経済共同体にも軍事同盟にも発展し得ないまま、勢いを失っている。
一九九一年、ワルシャワ条約機構とソ連が崩壊したあと、ロシアは「集団安全保障条約機構」(CSTO)を一九九二年に結成し、旧ソ連諸国の軍事面での団結維持に努めてきた。メンバーはロシア、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンの七カ国である。しかしロシア以外の加盟国は財政負担を嫌うだけでなく、二〇〇八年八月グルジアで示されたようなロシアの軍事力行使を警戒してか、CSTO早期即応展開軍をロシアの司令下に創設しようとする動きに対して引き延ばし戦術をとった。中央アジア諸国にとってロシア軍はこれまで、米軍のように「レジームチェンジ」に加担しない信頼できる兵力だったが、グルジア戦争は彼らの見方を変えたようだ。
こうして、ユーラシア東部においてロシアは、その背後にさしたる国際組織の支えを持っていない。
(対大洋州):ソ連の時代からオーストラリア、ニュージーランドの関係は経済を除いて希薄だった。しかし中国海軍が外洋に進出の動きを見せている今、中国に隣接し太平洋艦隊も有するロシアは将来意味を持つだろう。
(対日本):中国の力は二十世紀を通じて退潮していたため、この間の東アジアでは日本とロシア・ソ連が主要な対立軸となった。日本はロシア革命後、西側のなかでは最長の四年間、シベリアへの出兵を続けたし、太平洋戦争前にも対ソ連攻撃を幾度か企図し、一九三九年ノモンハンで大敗を喫して初めて中立条約を結んだのである。
だがその中立条約がまだ有効だった一九四五年八月、ソ連に参戦されて五十万名以上の日本人をシベリアなどに強制労働のために連れ去られ、うち六万名近くはその地で病死・衰弱死などしたこと、日本が独立を回復した一九五一年以降も、日本固有の領土である北方領土を返還していないことなどは、今に至るも日本人をしてロシアに親しみを感じさせず、日ロ関係発展の最大の障害となった。
だがそれでも、冷戦時代も日ソ経済関係は、シベリア開発のように進んでいた。日本はソ連にとって常に上位の貿易相手国だったし、日本の商社にとっても国家独占貿易のソ連は上得意だったのである。エリツィン大統領はそのような日本に、ロシア再建への貢献を期待したのだろう。すでにソ連崩壊前の一九九一年九月から、「日本とは戦勝国、戦敗国の関係から決別し」、北方領土問題は「法と正義の立場にのっとり」解決していく姿勢を明らかにしていた。ただ彼は本心では、北方領土については日本との間で棚上げする合意が可能であり、日本は実利を優先してくるものと踏んでいた可能性が高い 。
一九九〇年代を通じて北方領土問題解決への波は二回あったし、日本は二度にわたり解決案を提示した 。ロシア海軍の主力が欧州部の北洋艦隊に集中されつつある現在、オホーツク海への足場としての北方四島を是が非でも維持しなければならない安全保障上の理由は、ロシア側に既にない。なのに日ロ双方とも政府がこの問題での譲歩の姿勢を見せると直ちに国内で反対の声があがって、進展を止めようとする。それにプーチン大統領は二期目にはナショナリスト的傾向を強めたから、北方領土問題の解決はそれにそぐわないものとなった。
冷戦時代は「日本の経済力とソ連の軍事力が結びつくこと」をひそかにおそれていた米国は、民主主義と市場経済を標榜したエリツィン政権に支援の姿勢を見せ、北方領土問題についてもこれを早く解決して日本から本格的な支援を引き出すことを何度となくロシアに助言した。しかし九〇年代後半、ロシアが「米国によるロシア圧迫」に反抗する姿勢を強めると、このような助言はロシアから強い反発を招くようになり、米国は慎重に対処するようになった。
他方、二〇〇〇年代後半、ロシアが高油価による消費景気に沸くなか、日ロ経済関係は急進展した。日本からの輸出ばかりでなく、二〇〇五年のトヨタ進出を皮切りに製造業の進出、それに伴うサービス業の進出が相次いだ。日本による直接投資額は欧米諸国のものに劣るが、欧米諸国の投資がエネルギー・素材分野に集中しているのに対して、日本企業の投資はロシアが今もっとも必要としている製造業に集中していることがその特徴である。
日系の工場に対する機械、部品の輸出も含め、日ロ貿易は急伸長し、二〇〇八年には三〇〇億ドルに達した。二〇〇九年には、日本が約一兆円の融資を供与して、米国企業などと三〇年間以上にわたり進めてきたサハリンの石油天然ガス開発プロジェクトのうち、LNGの対日輸出が開始され、日ロ貿易額をさらに増大させることになるだろう。ロシアにとって日本は、不可欠な貿易相手国となりつつある。
ロシア極東の開発に米国が無関心な現在、日本の関与は極東地方の発展に及ぼす影響大である。二〇〇七年、日本政府は「極東・東シベリア地域における日露間協力強化に関するイニシアティブ」の名の下にエネルギー、運輸、情報通信、環境、安全保障、保健・医療、貿易投資の諸分野における協力拡大をロシアに提案している。しかしロシア極東は人口わずか六百万人強であり、製造業においては軍需の比重が高く、現地の利権構造も複雑なため、日本企業は極東で大きな地歩は有していない。消費財については中国、韓国の進出が目立ち、出稼ぎでは中国人、北朝鮮人が活躍する場となっている。ウラジオストックにはこれまで年間五〇万台以上の中古車が日本から持ち込まれ、報道によれば八万人のロシア人が関わってこれを全国に販売していたが、〇八年末関税が上げられて壊滅的打撃を受けた。
ロシア極東部
ここで、アジア太平洋地域に直接面している、ロシア極東部を概観してみたい。アジアにおけるロシアと言っても、直接にはここが対象になるのだから。ロシア極東部 は人口六五〇万人、全国人口の四・六%、GDPの四・六% (二〇〇五年)を占める。サハリン州での石油・ガス生産により、これからはGDP比率が上昇する可能性がある。ロシア極東部はサハ共和国、マガダン州の金、サハ共和国のダイヤモンド、サハリン州の石油・天然ガスなどの天然資源を産出し、ロシアの漁業においても欧州部での漁獲高を上回る。サハ共和国は希土類、希金属も含め、鉱産物の宝庫と言われているが、一部を除いて開発は本格化していない。極東部からさらに内陸は東シベリアと呼ばれているが、ここでの天然資源の埋蔵量はあいまいである。
極東は、日本、米国、中国、ロシア、韓国等の強国がせめぎあう世界でも珍しい場だが、経済力、人口で劣るロシア極東部はその中では脆弱な存在である。欧露部との物流はシベリア鉄道ほぼ一本に依存し、ハイウェーはいまだに整備されていない。そしてそのシベリア鉄道は人口と経済力で圧倒的な差を見せる中国との国境に近いのである。中国の東北三省(黒龍江省、吉林省、遼寧省)と内モンゴル自治区を合わせると一億三千万人を上回り、ロシア極東部人口の二〇倍となる 。またロシア極東部の経済は、ロシア本体に十分組み入れられていない。二〇〇七年八月、イシャエフ・ハバロフスク地方知事(当時)は地元の集会で、「極東で生産される財・サービスのうち四%のみがロシアの他の部分へ移出され、七五%は外国に輸出されている。」と述べている 。
このためロシア指導部も、極東部を安全保障上の問題ととらえるようになっている。二〇〇六年一二月、プーチン大統領は国家安全保障会議で発言し、極東が資源も活用できず、中国人の移住を許したままでいるのは安全保障上危険だとして、首相をトップとした「極東委員会」を設置した。メドベジェフ大統領もまだ大統領府長官だった二〇〇四年当時、「エリートが結束しなければ、ロシアはソ連崩壊以上に厳しい崩壊に見舞われる。特にシベリア、極東は開発しなければもたない」と警告している 。二〇一二年ウラジオストックでAPEC首脳会議が開かれる予定であるため、ロシア政府要人は極東視察の頻度を高めている。
ロシア極東については、「開発計画」に類するものが何回も採択されてきたが、現在は「二〇一三年までの極東ザバイカル社会経済発展連邦特別計画」を実施中である。この計画は元々は二〇一〇年までの予定であったのを、二〇一二年のウラジオストックAPEC首脳会議をにらんでウラジオストック市整備計画を付加した上で、二〇一三年まで続けることとしたものである。
この計画では、二〇一三年までに極東地域のGDPを二・六倍、投資額を三・五倍、鉱工業生産を二・三倍とするため、東シベリアも含めて二〇一三年までに六千億ルーブルの予算配分、二〇二五年までに九兆ルーブルの投資を予定している 。
ロシア極東の経済をこれから左右するのは資源開発・加工、そして運輸サービスであろう。後者については、日本からの中古車輸入とその全国への搬出が八万人分の雇用を創出していたことを想起するべきであり、世界の工場と化した東アジアに面するロシア極東部はこれからもロシア全土のための輸入基地として大きな役割を果たし得る。
ロシア極東部における製紙、木材加工、漁業加工も、将来性を持つと思われる。カムチャツカは、観光業を拡大する可能性を持つ。だがいずれの場合でも、製品・サービスの質を高めるために西側の協力を必要とする。なお魚の缶詰などの損益分岐点は非常に低く、ロシアの高い賃金水準で競争力を維持するのは難しい。(続く)
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