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世界はこう変わる

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2009年1月 3日

ヨーロッパとは日本にとってナンボのものか? --安保面を中心に そのⅡ NATO、EUによる欧州安保体制ーー戦後の歴史

                                             2009,1.2
                                       Japan and World Trends
                                                河東哲夫
はじめに

(1)戦前、日本の平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」という声明を残して退陣した。そして欧州の国際政治は今でも、複雑怪奇である。戦前は列国の間の合従連衡の様を日本は読みきれなかった。現在ではEU内部での合従連衡はその先鋭さを失ったものの、欧州国際政治には米国、NATO事務局、EU委員会、西欧同盟(WEU)、欧州議会、欧州評議会、OSCE等の国際機関・組織が加わって、ゲームを非常に複雑にしている。
現在の欧州国際政治は、各国政府の首脳・官僚、そして各国際機関・組織の官僚、そして米国の思惑が綾なす中で、ある時は他者の権限を奪い、ある時は責任を押し付け合いながら進められるゲームである。

日本においてはEUと言えば「超国家で善」、NATOと言えば「冷戦の道具で悪」というイメージがなぜか浸透し、そのイメージで事態を分析するために、理解は実体から無縁のものになりがちである。EU委員会といえどもその実体は官僚であり、彼らは加盟各国議会どころか欧州議会への説明責任すら負っていない。そこには、冷静な分析の対象はあっても、憧れをもって見つめるべき理想の具現者はいない。

(2)深化するEU内部の政治・軍事協力とそのことの意味
 今回この小文をまとめてみて、30年前西独に勤務していた頃とは格段に進んだ政治・軍事協力がEUの枠内で実現していることを認識した。これまでは米国抜きの欧州諸国だけによる軍事協力については、言葉だけで実質が伴わないものとタカをくくっていたのだが、EUをベースとする多国籍軍は既にボスニア、チャド、コンゴ等で展開していて、もう珍しいものではなくなっている。そしてチャドでの作戦にはロシア軍がヘリコプターを要員つきで派遣し、EU側の指揮に服している時代なのである。

 他方、EU枠内の政治協力、軍事協力は多くの限界を抱えており、これを「超国家EUの力強い羽ばたき」と呼ぶことはできない。実体はアヒルが何とか飛び立とうとして、地面をいつまでも走っているのに近いところがある。

 政治面での協力はCFSP(共同外交・防衛政策)の名称の下に制度化され、ソラーナEU上級外交担当がCFSP上級代表を兼任、事務局も設けられている。だが後述のように、ソラーナは「EU外交」を白紙委任されているわけではない。EU議長国の要請がないと動けない。EUの中の大国指導者にとってみれば、外交のように目立ち得点を挙げやすい分野をやすやすとEUに譲り渡す気にはなるまい。現に、08年8月のグルジア紛争においてはサルコージ・フランス大統領(EU議長)の活躍ばかり目立ち、ソラーナの出番はなかった。このような状況は、EUの調整力を強化したリスボン条約が発効しても、さして違いはないようだ。

 EUの軍事面での協力はESDP(欧州共通安保防衛政策)の名称の下に制度化されている。上記CFSPの一環であり、ソラーナCFSP上級代表に服属している。兵力としてEUFOR(欧州連合部隊)、及びEUROFOR(欧州即応部隊)を有する建前となっている。

 このうちEUROFORは恒常的性格を有しているようだが、EUFORは「EU軍」というような形で恒常的に存在しているものではない。それは事態に応じてアドホックに構成される、EU諸国だけによる多国籍軍である。しかも、EU諸国自身を防衛する場合は、EUFOR及びEUROFORがたとえ出動したとしてもNATO軍の指揮下(最高司令官は常に米国軍人)に組み込まれることになるだろう。

 EU域外においてEUFOR、EUROFORは、ロシア、中央アジアの一部、そしてイスラム諸国からはとかく猜疑心をもって見られやすいNATOに代わってPKO等の任務につくことができる。EUFORないしEUROFORと日本の自衛隊がPKOで提携することは十分あり得るシナリオである。但しアフガニスタンにおけるISAFのように、本格的軍事力を必要とする活動の場合には、NATOの方が有効な枠となる。
 
 以下、第2次大戦後の欧州安保体制の変遷を眺めて見たい。右体制は終戦直後の生成期、そして冷戦終了からロシアの再台頭までの最近20年間の2回、とみに流動化の様相を呈している。そこには、米欧同盟体制の抱える問題点と可能性が露頭している。

1.終戦直後からNATO成立まで
 第2次大戦の結果、ドイツ(現在の中国と同じで後から台頭したために、20世紀前半を通じて欧州の不安定要因となっていた)が東西に分割されたことは米ソ対決、冷戦の最大要因になったものの、実際には周辺諸国はこれで大いに安心し、戦後の国際政治体制はドイツ分割、「ドイツの脅威封じ込め」を前提として固められた。

だが冷戦が激化したことによって戦後の欧州政治は、①ドイツの無害化ばかりでなく、②ソ連の脅威防止、③米軍を欧州に引き止める一方で、欧州の独自性も維持する、この3点をめぐって展開するようになった。

それは、NATO初代事務総長イスメイが言ったとされる、「Keep the Americans in, the Russians out, and the Germans down 」という言葉に見事に集約されている。NATOだけではなく、EUもこの3点を念頭に作られてきたのである。

西ドイツは、核兵器生産禁止を初めとする軍備制限を受けた上でNATO、ECの中に自らをしっかり組み込み、その中で発言権を確保することに、自らの存在価値を見出していった。そこにおいては、アデナウアー、ドゴールを初め、歴代の独仏首脳の間の信頼・友好関係、「再び戦争を欧州の地から起こしてはならない」という強い決意が重要な役割を果たした。
現在のEUにおいて、英仏は依然としてかつての帝国の伝統をひきずってEU委員会による超国家的統治に抵抗するのに対して、ドイツはEU予算の20%を負担するばかりか、EUの統合強化に強くコミットしているのである。
敗戦国ドイツにとって自己実現ができるのはEUのような国際機関の場であったという事情の他に、経済力で抜きん出ているドイツにとってEUの統合強化が大きな利益を生むものであったことも挙げておかなければならない。

ここで、戦後欧州における安全保障上の主要な出来事、即ちブラッセル条約、欧州防衛共同体、そしてNATOの生成についてまとめておく。

(1)対ドイツ防衛=ブラッセル条約
1948年頃までの欧州には、「ドイツは敵、ソ連は同盟国」という意識が強かった。ドイツを破ったのはソ連軍だから、これは当然の感覚である。そのため1947年3月には英仏相互援助条約が結ばれたし、1948年3月には英、仏、ベネルックス三国がブラッセル条約を結んだ。これは、国防、経済、社会、文化諸方面についての協力を定めたものだったが、その本質は、ドイツの復活を恐れる国々に、戦前までの超大国英国が安全を保証したものと言えよう。

(2)NATO発足
ブラッセル条約締結当時、東西冷戦が厳しくなっていた。1948年6月にはソ連がベルリンを封鎖し(ソ連は、西独を対ソ連防衛網に引き込もうとする英国の意図に気がついて、西独を永世中立国化しようとしたのであろう)、米軍は1年間にわたって西ベルリンへの大空輸作戦を行う。これは西側における対ソ・イメージを決定的に変えた。
ここで英国のベビン外相がイニシャティブを取り、米国にNATOの結成を持ちかけた。「米軍を欧州に保持しておく」という政策が初めて前面に出たのである。

米国はこれに直ちに応じ、1949年4月には北大西洋条約(NATO)が署名されて8月に発効するのである。ベルリン封鎖の最中だった。これは米国の立場から言えば、第2次大戦の結果生じた米軍の欧州駐留を恒久化させることによって欧州をソ連から守るとともに、それによって超大国としての米国自身の国際的地位を保全する効果も持ったものだった。

これは、1951年のサンフランシスコ講和条約と同時に発足した日米安保体制と双璧をなすアレンジメントであった。それ以来欧州(特に西独)は、安全保障については米国に大きく依存し、文明的・歴史的優越感を誇示しながらも米国の力の前にはひざまずくというアンビヴァレントな関係を続けているのである。

NATO第5条は、「締約国に対する攻撃を全締約国に対する攻撃とみなし、個別または集団的自衛権を行使して、攻撃された国を個別または共同で援助する」ことになっている。日米安保条約第5条は、日本が攻撃された場合のみを想定し、米国が攻撃された場合の日本からの援助については定めていない(米国が新憲法で日本から軍事力を剥奪したのだから当然ではあるが)。
但し西独は当初、NATOには入っていなかった。この頃、西独は未だ主権を回復していなかったし(西独の主権回復は日本の1951年より遅い1955年)、「ドイツ軍」を復活させることにはフランスが反対だったからである。

(3)朝鮮戦争と、西独のNATO加盟への動き。その準備としての「欧州防衛共同体」設立騒ぎ
だが事情は、1950年6月の朝鮮戦争勃発で変わってくる。米国は西独の再軍備を望むようになった。それは日本に対する姿勢と同様であり、西独でも「連邦警察部隊」の設立が一時検討された。
朝鮮戦争は、分割されていたドイツをめぐっても戦争が起こる危険を強く感じさせるものだった。フランスはドイツの再軍備(英米はその以前から、西独軍を作ってNATOで活用しようとしていた)への反対を取り下げる。
だがフランスは「ドイツ軍」の復活は避けたかった。つまり西独の兵力復活は認めても、その政府に指揮権を与えたくはなかったのである。

そこでフランスのプレバン首相が考え出したのが、超国家的な「欧州防衛共同体」(EDC)を作り、「ドイツ人の軍」はその超国家的機構の管理下に置いてしまおうということだった。具体的には超国家的な欧州議会を設置し、欧州国防大臣を置いてその下に欧州軍を設け、この中に各国軍隊を混合させてしまおうとしたのである。

1951年5月には米英仏・西独は「ボン平和条約」を締結し、EDCが成立したら同時に西独の主権を回復することで合意した。

1952年にEDC条約は仏、西独、ベネルクス三国、伊によって署名される。英米はこれに加わらず、NATOの一部として欧州大陸への駐留を続けていた。EDCの総兵力は125万人、空軍機5,300機を予定したというから、半端じゃない。
このEDC軍(欧州大陸軍のようなものだ)がまとまってNATO軍に参加することになっていた。
つまりEDCは欧州に超国家を作ることが目的ではなく、西独をNATOに加盟させるための便法だったのだ。

(4)EDC流産と西独の主権回復・NATO加盟――東西対立の構図固定化
だが西独の戦後復興があまりに急でフランスの警戒心をあおるようになったこと、朝鮮戦争が終結したこと、1953年のスターリン死後ソ連が平和攻勢に出ていたことにより、フランス世論はEDCに後ろ向きになっていった。

1954年6月政変で、EDCにかねて反対だった急進社会党のマンデス・フランスは首相になると、EDCの実質を換骨奪胎した新案を作って各国に提示した。
これを各国に拒否されると1954年8月、フランス議会はEDC条約案討議打ち切りを採択することによって、EDC(そして同時進行していた「欧州政治共同体」設立への動き)を葬ったのである。

他方、西独でも野党の社会民主党(SPD)がEDCに強硬な反対運動を展開していた。EDCやNATOはドイツの東西分割を恒久化させるので反対だ、というわけだ。これはSPDがソ連の工作に乗ったためと言うよりは(実際SPD内部にはソ連・東独のスパイが入り込んでいたが)、西独が英米仏の支配下に恒常的に置かれてしまうことへの反発、SPDの政治的基盤がむしろ東独地域にあったこと(西独はカトリックの勢力が強く、SPDが支持基盤とするプロテスタントは東独に多かった)等によるものだろう。東独にその大部分の勢力を有していたプロテスタントの福音教会も、西独の再軍備に当初から強硬に反対し、福音教会派長老会議議長を兼ねていたハイネマン内務相はアデナウアー首相(カトリック)に解任されている。

だがEDCが葬られたことで、前出1951年の「ボン平和条約」(EDC成立と同時に西独の主権を回復するというもの)が意味を失った。そのために英国がイニシャティブを取り、1955年5月発効したパリ協定で、(EDCなしでの)西独の主権回復・NATOへの加盟が実現したのである。
西独は占領を解かれたが、米英仏軍の駐留維持を認め、西独によるABC兵器の生産等は禁止された。西独では徴兵制が敷かれたため、国内の反対運動が強かった。

NATO軍最高司令官の権限は拡大され、西欧の加盟国軍を平時からその権限の下に置くこととされた。これはEDCに代わって、西独軍に対するフランスの恐怖を宥めようとしたものだろう。
  
(5)ブラッセル条約の改定とWEU(西欧連合)の設立
西独の主権回復とともに、「ドイツの脅威復活を抑える」ために締結された前記ブラッセル条約にも変更が加えられた。
即ち前記1955年のパリ協定でブラッセル条約は改定され、旧敵国の西独、伊が加盟して、「西欧連合」(WEU)と称することになった。EDCと異なり、これには当初から英国が入っており西欧諸国がここに結集したこととなるが、EDCのような超国家的性格は持っておらず独自の兵力も持っていないため、これ以後長い間実質的な意味を持たなかった。

(6)ソ連は西独を中立化させることを諦め、外交関係設立
 NATO成立を妨害しようとしていたソ連は、NATO成立と同時にそれまで4国で共同統治していたオーストリアの中立化を認めた(永世中立国としたのである)。同国の中立化はそれまで西側が提案していたものである。

ソ連は、オーストリアでの利権を捨てるという捨て身の戦術で、「西独もオーストリアと同じく中立国にしよう」という世論を欧州に醸成しようとしたのだと言われるが、NATO成立直後の1955年5月11日には早くもワルシャワ条約機構を成立させているし、その6月7日にはブルガーニン首相がアデナウアー首相に訪ソ招待を伝えているのである。
ソ連は西独のNATO加盟のかなり前からドイツ中立化には見切りをつけ、二つのドイツを前提とした外交を準備していたものだろう。
  
2.米欧安保体制における冷戦中の主要な出来事
ここでは、現在の話題あるいは日本に関係のあることのみ記す。

(1)フランスのNATO軍事機構脱退
フランスでは1958年6月にドゴールが首相となったが(後に憲法を改正して大統領職を設けた)、彼は欧州におけるフランスの地位向上を求めた。彼は米国に対して、米国がイギリスに提供したのと同等の核技術をフランスにも提供せよ、フランスに持ち込まれる核は米仏共同管理とする、これらに米国が同意しなければ仏への核持込を拒否するという厳しい条件を米国に提示した。

その決着がつかないまま7年が過ぎ、1966年3月にフランスはNATOの軍事機構から脱退するのだが、それに先立つ数年間はケネディー政権の対ソ宥和政策が米欧間に摩擦を生じさせていた。
ケネディーはベルリンへの軍駐留をやめ、ソ連と国際協定を結ぶことで西ベルリンの地位保全をはかろうとして、西独のアデナウアー首相の反発と独仏接近を招くのである。ケネディーがベルリンを訪問してIch bin ein Berlinerと見栄を切ったのはその最中、1963年6月である。

フランスのNATO軍事機構脱退は、軍事的には大きな意味を持たなかった。フランスがNATOに提供していた軍は西独ライン西岸駐留の7万5千人、2個師団のみで、東独正面の守りについていたわけではなかったからである。
但しこれには戦術核が配備されていたため、米軍はこれの返還を要求した。またNATO本部はパリからブラッセルへ移転した。
 
(2)「全欧安全保障」は「ソ連のNATO加盟」も含んで、ソ連・ロシアが戦後一貫して提案
ロシアのメドベジェフ大統領は2008年6月、「既存の国際機関、組織から離れて、欧州諸国が個々の国の資格で(米国も入れて)安全保障について話し合う」ための会議を開くことを提案した。これはいつものNATO弱化のための策謀だとして西側が取り上げるところとなっていない(サルコージ大統領は右首脳会議を2009年春にも開くことを提唱したが、08年12月のNATO外相会議はこれに賛成しなかった)。

筆者は、同種の全欧安保的提案は1970年代、ブレジネフの緊張緩和外交の一環として初めて出てきたものと思っていたが、実際には終戦間もなく、ドイツ問題処理の過程で既にソ連は言及していることを最近認識した。
即ち戦後、ドイツ再統一が東西間で話し合われたが、西側はまず統一を実現してから統一ドイツと連合国の間で平和条約を結ぶべしとしたのに対しソ連は、西独・東独が別個に連合国側と平和条約を交渉しそのあと統一をはかるという漠然たる提案で対抗して、結論は出なかった。
1954年1月ベルリンでの米英仏ソ4国の外相会談でソ連は、両独からの全軍隊の撤退、平和条約締結までの両独の中立、全欧(米国を除く)集団安全保障条約の締結を提案した。これが多分初めての、全欧安保構想ではないか?
この会談は失敗に終わるがその後ソ連は、「全欧安保会議に米国が参加することに反対しない」、「ソ連のNATO加盟を討議する用意がある」とまで言明して、1955年5月の西独の主権回復・NATO加盟に向けて布石を打とうとしたのである。

(3)NATOの核兵器
最近の日本の一部では、米国による「核の傘」の有効性を疑い独自核武装を提唱する向きも見られる。
ここでは、領内への米軍戦術核兵器の配備を認めると共に、その使用(ドイツ領内での)についてはドイツ側(統一前は西独)の了承を義務付けている(dual key方式と称する)ドイツのやり方が参考になる。
ユーラシアと陸続きでない日本では、「戦術核」を用いる機会があるのかどうか定かでなく(戦術核兵器を使用するのは多くの場合、本土作戦において敵軍を破砕するためのものだろう)、また(爆撃機で核弾頭つき巡航ミサイルを発射することによって)大陸で使用した場合、それはむしろ「戦略核」的な意味を持ってくる。
それはそれとして、今後の検討に資するためにNATOの核保有体制をここでまとめておく。

○NATOの核保有体制
米国は当初、核兵器は自国だけで管理しようとした。不用意に核戦争に巻き込まれるリスクを嫌ったのである。このため西欧諸国は、米国による核の傘を信用しなかった。このギャップを埋めるため、1960年には中距離核ミサイル(INF)を搭載したNATO核艦隊を創設することが米学界から提唱されたりしたが、決定的だったのは1962年のキューバ事件の生起である。これを契機として米国は、核の権限を西欧、特に英国とシェアし始めたのである。

1962年12月米英首脳会談で、「ナッソー協定」と呼ばれる合意が成立し、米英の核部隊の一部(ポラリス原潜も含め)をNATO軍に編入することを決定した(それ以前から米英は核兵器技術で協力関係にあった)。

1963年1月になると米国は、「NATO多角的核戦力」(MLF、Multilateral Force)構想を提案する。これはNATOに多国籍核艦隊を作ることを意味した。この艦隊に参加するNATO加盟国に対して米国はポラリス・ミサイルを売却する、但し核弾頭は売却しない、数カ国からなる執行委員会がこの多国籍核艦隊を管理する、当初は(速やかに建造できる)水上艦のみを対象とする、但し米国は地中海配備のポラリス潜水艦3隻を多国籍核艦隊に所属させる、というものだった。

この提案のその後についてはまだ詳らかにしないが、1970年までにはポラリス原潜4隻を建造することを決定していた英国はこれにあまり乗り気でなかったらしい。多額の予算を他国の防衛のために用いることの説明が難しいからであろう。フランスは既に、独自の核戦力を保持することを決定していた。
他方、西独は乗り気で、INFを地上に配備することまで求めたらしい。これには、米国が乗らなかった。しかしそれから15年もたった1980年、ソ連がINFのSS20を配備し始めたことによってドイツへの陸上INF、即ちPershing2の配備が決められ、西独国内は反対運動で騒然とするのである。

○西独における核
西独はその主権を回復したパリ協定において、核兵器の生産を禁止されている。しかしその世論は日本と異なり、核兵器の配備そのものには大きな反発を示していない。ドイツは西独の時代から領内に米軍核兵器(主としていわゆる「戦術核兵器」)配備を認め、ドイツ防衛のために右を使用する際にはドイツ(あるいは西独)政府の承認をも必要とするdual key政策を取っている。
野党の社会民主党は核兵器配備反対運動を行ったが、それは市民が自分の地元への配備に反対する程度のものにしかならなかった。

米軍は当初から戦術核を西独に持ち込んでいたし、1956年には西独国防省が「生産は許されていないが、西独軍が核兵器を用いることは構わない」とする解釈を公にし、アデナウアー首相も戦術核を容認する趣旨の声明を明らかにしている。こう言っておかねば、西独軍はその領内での戦術核使用につき、何ら発言権を持てないことになりかねなかった。

それでも1957年の総選挙では核武装が大きな争点となったが、アデナウアー政権はこれを乗り切り(アデナウアーは選挙運動中は「西独は核武装しない」と約したのではあるが)、1958年3月連邦議会は核武装を容認する決議を採択した。
野党の社会民主党は、核武装はドイツの分裂の恒久化につながるとして反対を続けたが、1959年現実的路線に転換した際のBad Godesberg綱領では西独のNATO加盟を追認するとともに、西独駐留NATO軍が核兵器を保持していることを言外に是認した。

このため西独連邦軍は、オネスト・ジョン等、NATO所有の核兵器を装備することを認められた。NATOの米国人総司令官、西独双方が「引き金」を有しているいわゆるdual keyの配備形態である(dual keyというのは、米独間に限られない。英国でもかつて同様のやり方がdual keyと呼ばれていた)。

08年7月のインターナショナル・ヘラルド・トリビューンによれば、今でもケルン南方70マイルのBuchel独空軍基地に(多分最後の)戦術核が配備されている。これは小型のミサイルB61、20基で、戦闘機トーネードJBG33に装備される。トーネードは2013年から順次退役するし、後継機のユーロファイターは戦術核装備用ソケットを持っていない由。

同じ記事によれば、米軍核兵器保管庫は他にベルギー、イタリア、オランダ、トルコにあるが、米国は戦術核は時代遅れのものとして撤去を望んでいる由。英国からは既に04~05年に、B61が撤去されたもようである。しかしドイツ国防省の一部には、「NATOの核政策における発言権を維持するため」という曖昧な目的のためにB61の保持を主張する者もいる。その数は年々減少している。

筆者の今回の出張であるドイツ人専門家は、「ドイツの戦術核は、ポーランド、チェコに米国が配備するMDに関するロシアとの交渉において、ロシアに与える見返りとしてドイツから撤去されることになるのではないか」との見通しを述べていた。

(4)ドイツの東方外交とINF
西独にとっては再統一が国是であり、そのため当初はハルシュタイン原則と言って、「東ドイツと国交を持つ国とは外交関係を持たない」方針を採っていた。それでも、戦争抑留者の帰還を実現するために1955年、アデナウアー首相は節を曲げてソ連と外交関係を復活せざるを得なかったし(平和条約は未だに結ばれていない)、東西デタントの進展とともにハルシュタイン原則の維持も難しくなっていった。

1969年に政権についた社会民主党のブラント首相は「東方外交」を掲げ、ハルシュタイン原則を捨てて1970年には独ソ条約(領土保全の尊重等)、独ポーランド条約(戦後のポーランド国境を承認)、1972年にベルリン4カ国協定(米英仏ソの4カ国がベルリンの現状維持を確認)、東西ドイツ間の基本条約(相互承認)等を締結した。

現在、ドイツが天然ガス供給の40%近くもをロシアに依存していることが批判されるが、これは既に1980年代から始まっていた。他方、当時の社民党シュミット政権は、安保面ではソ連に毅然たる対応も見せた。INF問題である。
これは1970年代末期ソ連が、欧州への発射を念頭に置いているとしか思えない中距離核ミサイルSS-20を配備したことがきっかけになっている。NATO諸国は騒然となり、「ソ連が核攻撃で欧州を脅してきても、アメリカは必ずしも守ってくれないかもしれない」というわけで、Pershing-2という米国の中距離核ミサイルをドイツ等に配備することを決定した。これを西ドイツのシュミット政権は毅然として推進したのである。彼の与党社民党は内部分裂したし、青年層を中心に新たに現れた野党勢力「緑の党」を中心に街頭では反米・反政府デモが吹き荒れた。
しかしNATOがPershing-2配備を決定したことによりソ連は折れ、結局SS20,Pershing-2の双方をゼロとする「ゼロ・オプション」(1987年)によって、東西の間の決着はつくのである。

(5)ドイツ再統一
 1985年ソ連ではゴルバチョフが書記長となり、ペレストロイカ政策を開始する。それは当時起こった原油価格暴落を受け、原油輸出依存のソ連経済を再活性化させようとする試みでもあった。
右政策の環境醸成のため、彼は東欧諸国におけるリベラルな政策を容認したばかりかむしろこれを煽り、これら諸国の社会を流動化・不安定化させた。当時、東欧諸国では指導者の老齢化が軒並み政策が硬直化していたから、ソ連からの圧力を見た国民が不満を表面化させ、これら指導者の力を大きく低下させた。

その結果、東欧諸国では1989年の秋、連鎖反応的に革命的な政権交代が起こったが、ソ連はこれに介入しなかった。中でも1989年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境を開放し、そこから東ドイツの観光客が西側に流出する事件をきっかけに、東ドイツ国内の不満が大きく表面化して、同年11月9日には東ベルリン市民の圧力の下でベルリンの壁が「崩壊」(往来の自由化)するのである。

その後東ドイツでは政権が相次いで代わったが、遂に何者も統治能力を回復できず、ソ連も介入する力はもはやないことがわかると、再統一へ向けての交渉が開始される。
当時、西側との交渉に当たったソ連外務省タラセンコ政策企画局長が筆者にかつて述べたところでは、「ドイツの再統一はもはや防ぐことのできない現実であり、ソ連側としては国内保守派をどうやって抑えつつ再統一を実現するか、そしてその中から如何に多くの代償を西側から引き出すか、ドイツ統一が将来ソ連の安全保障にとって危険な要因となることを如何にヘッジしておくか」ということが念頭にあったが、西側交渉者との間では深い信頼・共感関係にあったという。

ドイツ再統一をもって、東方外交から始まる西ドイツの「柔軟な対ソ外交の成果」とする向きがある。これは結果論である。東方外交は米国を初め西側が対ソ・デタントに乗り出したため、西独もやむなく追随を迫られた結果である。
ゴルバチョフのペレストロイカ政策を当時の西ドイツの外相ゲンシャーが「歴史的チャンス」と呼び、ソ連との関係を大いに推進する動きに出たことをもって、西独外交の先見性を示すものとする向きもある。これも結果論である。

東欧諸国が西側になだれを打ったのは西独外交のおかげと言うよりも、ソ連からの締め付けが弱くなったので、東欧諸国にとっての本来の文明圏に回帰しただけである。もっとも、その時に西ドイツが強い反ソ的姿勢を取っていれば、それを口実に東欧諸国は国内を締め付け、あれほど簡単には倒れなかっただろうが。

なお、ドイツの再統一によってかつての大国ドイツが復活してEU統合に抵抗したり、米軍を大西洋の彼岸へ追いやったりする可能性もあったわけだが、実際にはこうしたことは起こらなかった。ドイツは東独の「消化」と、EUの東方への拡大で手一杯となり、NATOの域外行動にも軍を派遣するようになったが、アフガニスタンで戦死者が増えたことで、域外への軍派遣に対する社会の反発が強まっている。

3.最近の米欧安保体制
西欧諸国は文化、歴史において米国を自分の下に見る傾向が強く、戦後安全保障をその米国に依存せざるを得なくなった状況は、是認しがたいものがあった。そのため西欧だけでの自衛能力をつけるため「西欧軍」を作ろうとの動きは戦後何回も起きた。そしてそれはその度に、米ソの圧倒的な軍事力の前にその非現実性を露なものとさせては消えていった。西欧諸国は過度の国防支出を行う用意はなかったのである。

だが冷戦が終わって既に20年、「欧州軍」も漸く少しは目に見えるものとなってきた。だが「欧州軍」は様々な状況で異なる名称、建前で形成・派遣されることが多いこともあって、NATO、米軍、EU委員会等との相互関係は非常に複雑なものとなっている。

話をわかりやすくするため、まず関連年表を掲げておく。

1992年2月 マーストリヒト条約調印
(「共同外交・防衛政策」CFSP(Common Foreign and Security Policy)発足)
1992年5月 ボスニアで内戦勃発。EUによる経済制裁効かず、94年NATOが制裁空爆
1995年5月、WEU閣僚理事会で「欧州即応部隊」(EUROFOR)を設置■
1999年3月 NATO、ユーゴ攻撃決定
1999年6月 コソヴォに平和維持部隊(KFOR)が到着。
NATOの地上部隊を基礎とする。
1999年10月 アムステルダム条約調印
2004年12月 ボスニアの停戦後治安を担当していたNATOのSFORに代わってEUFOR ALTHEAが展開。当初7千名、08年2200名。

 以下、上記項目につき説明を加える。

(1)マーストリヒト条約でEUのCSFP(共同外交防衛政策)発足
(イ)EUは以前から非公式の政治協力

EU諸国は既に1970年代から、外交面でも非公式な政策のすり合わせ、協調行動を取っていたが(1980年頃、筆者が勤務していた西独ボンでは、面談中の筆者を待たせて西独外務省要員がフランスやイギリスのカウンター・パートとファースト・ネームで呼び合いながら、綿密な調整を電話で行うことが頻繁にあった)、冷戦終了とともにそれはより正式な形態を取る様になった。

(ロ)CSFP発足
即ち1993年のマーストリヒト条約で、CSFP(共同外交防衛政策)がEUの第2の柱として発足したのである。政治統合まではいかないものの、加盟国間の外交政策の調整が公式の地位を得たのである。
CSFPは1999年のアムステルダム条約で、更に手を加えられた。即ち、CSFPは①EUの保全、価値観を守る、②国際協力、③民主主義、法治、人権、自由を守る、ことがその目的とされた。
また、CSFPについては、①欧州理事会が具体的問題についての(今のところロシア、ウクライナ、地中海、中東和平)戦略を定める、②アフリカの大湖地方、中東、マケドニア、エチオピア・エルトリア、アフガニスタンに特別代表を置く、③CFSP上級代表職を設置し、これをEU委員会事務総長職と合体する(99年10月にソラーナEU上級外交担当が初代上級代表となった)、④EU委員会事務局にCFSPのための政策企画・Early Warning Unitを設立することも決定された。

つまりCSFPによって、実質的な「EU外務大臣」としてのソラーナの権限とスタッフが強化されたのだとも言える。

(ハ)CFSPの限界
だがCFSPがEU加盟国自身による外交の影を薄くすることがなきよう、CFSPをめぐる体制は意図的に曖昧にされている気味がある。
即ち実質的にEUの外務省となる含みで創設されたものであるはずなのに、EU委員会はCFSPにつき独占管理権を持たない。CFSPの活動について欧州理事会(EU加盟諸国の首脳会議)に提案を行うことができるのみである。

そしてCFSP上級代表は、EU議長国の要請があれば、欧州理事会に代わり適宜第三者との政治会談を行うことができる。つまりEU議長国の要請がなければ、CFSP上級代表は表舞台に出られないようだ。実際、08年8月のグルジア危機においてはドイツ外相、フランス大統領の活躍ばかりが目立ち、ソラーナに出番はなかった。

恐らく、大国がEU議長国の時にはその議長国がEUを代表しての外交の表舞台に立ち、弱小国がEU議長国の時にはCFSP上級代表が活躍する―――というような「分業」体制が暗黙のうちに成立しているのではないか?

(他方、現在各国で批准が進められているリスボン条約では「EU外相」職が設けられ、これはEU委員会副委員長と兼務することになっている。おそらく、現在のCFSP上級代表兼EU委員会外交担当委員がそのまま昇格したものなのだろう)

(ニ)CFSPの意思決定過程(後出ESDPの意思決定も兼ねる)
ブラッセルにおけるEU各加盟国大使の集まりであるCoreper(Committee of Permanent Representatives)が、欧州理事会のCFSP関連決定を準備する。それに平行して、大使級のPSC(政治・安保委員会。週に2回)、EUMC(EU軍事委)、EUMS(EU軍事参謀部)がある。
  この過程を経て理事会が出す"Joint actions"と銘打った決定は、各加盟国にとって拘束的である。他方、"Common positions"は指針に過ぎない。

(ホ)ソラーナはEU委外交担当委員、CFSP上級代表、そしてWEU事務総長を兼ねることで、三者を実質的に統合
マーストリヒト条約では、それまで休眠状態にあったWEU(前出)がこれから創出されるべき「EU軍」を差配することを想定していたが、00年11月WEUの閣僚会議で、1999年のアムステルダム条約以降はソラーナがCFSPの上級代表としてEUの外相的役割を果たすと同時に、WEUの事務総長職をも兼任することになった。

WEUは実質的にCFSPに統合されたと言ってよい。しかしWEUは正式には廃止されていない。というのは、WEUにはトルコが準加盟国として入っている他、オブザーバーにオーストリア、フィンランドがあるため、いくつかのWEU関係アレンジメントは残存させておくことに意味があるからである。

(2)EUのCFSP(政治協力)の一環としてのESDP(軍事協力)(Common Security and Defense Policy)
(イ)ボスニア紛争の衝撃

90年代前半のボスニア内乱は欧州内の武力紛争であったため、EUが自力解決に努めたが力及ばず、NATOによる空爆(米軍中心)で紛争は初めて終結に向かった。
このため、EU独自の兵力充実の必要性につき認識が高まった。欧州大陸とは異なる戦略思想を有する英国も、いつかは米国が欧州から去る日に備える必要性を感じたかもしれない。
EUも日本と同じく、紛争要因に満ちた後背地を持つことから来る恐怖感、対米依存感を持っているのだ。

(ロ)ESDP設立へ向けて
ESDP設立が初めて公に言及されたのは、98年12月の英仏首脳会談だと言われる。これにはドイツも賛同し、99年6月のケルン欧州理事会で「ESDPはCFSPの不可欠の要素である」として、ESDP推進が正式に打ち出された。

そして99年12月のヘルシンキ欧州理事会で、「ペータースベルク任務(注参照)の全範囲を実施することができ、60日以内に投入が可能、かつその後少なくとも1年間維持し得る5~6万人の部隊を(ESDPのために)創設する」ことが決まった。EUがNATOとは別枠で、別個の統合軍創設に踏み切ったのである。

(注:ペータースベルク任務とは、92年のWEU首脳会議で宣言されたもの。ペータースベルクとはボン近郊のペータースベルク迎賓館のことで、ロシアのペテルスブルクではない。人道支援・救難、平和維持、危機管理の際の平和創造を含む戦闘のこと。右任務はアムステルダム条約で、WEUからEUに移管された)

(ハ)EUFOR(欧州連合部隊)とEUROFOR(欧州即応部隊)
ESDPの下にEUFOR(European Union Force)、そしてWEAの下にEUROFOR(European operational Rapid Forceと称する部隊が設けられた。しかし後者も、EUFORと同じくEUのCFSPに(非公式に)服しており、時には同一兵力に右二つの名前が冠せられることもあるようだ。

そしてEUFOR、EUROFORとも、NATOの司令・通信インフラを用いることが許されている。このようにして、いわゆる「EU統合軍」と呼ばれるものの法的地位やNATOとの関係はいわば融通無碍、ヌエのような存在となっている。双方の兵員数も資料によってまちまちであり、未だ恒常的な大兵力とはなっていないものと思われる。十字軍方式とでも言おうか。

(注:ベルリン・プラス・パッケージ―――EU~NATO間の連携合意)
1996年、WEUとNATOの間で「ベルリン・プラス・パッケージ」という合意が結ばれ、03年3月にはEU-NATO間に移管された。これは次のとおり、EUが独自の軍事行動を行う際のNATOとの連携ぶりを定めたもので、EUの軍事行動はNATOのインフラを最大限活用して行われるものであることが如実に見える。
作戦の現場では、恐らく米軍将校・兵士も「EU」の軍事行動を補佐しているのではないか?

①EUが実施する危機管理活動(CMO)において、NATOの作戦立案能力へのアクセスを保証する(これは、EU作戦機能がNATOから独立していってしまう危険性を防ぐ効果も有する)
②EUのCMOにおいて、NATOのアセットと能力を利用
③EUの作戦司令官は、NATO欧州連合軍副司令官(ヨーロッパ人)が務める
④NATO欧州連合軍最高司令部(SHAPE)にEU室を設置する)

①EUROFOR
1995年5月リスボンでのWEU閣僚理事会で設立が宣言されたものであり、仏、西、葡、伊の4カ国軍で構成、任務は人道支援、PKO、平和強制活動等で、恒常的な司令部を有することになっている。
 これまで1999年コソヴォ紛争後の補給路護衛、2003年~04年のマケドニア安定化に投入された。後者はEUによるEUFOR Concordia作戦の枠内のものとされた。

②EUFOR
これはEUROFOR以上に実体が融通無碍で、EUの下に必要に応じて組成される多国籍軍(これに加わる国はその都度異なる)のことをEUFORと総称している気味がある。

最初に2003年マケドニアへ350名(前記の如くその実体はEUROFOR部隊であったようだ)、2004年ボスニア・ヘルツェゴビナ平和維持活動をNATOのSFORから引き継いで約7000名(カナダ等、EU加盟国以外も加わっていたため、OSCEが勧進元になりたがったものらしいが、EUが押し切り、これを契機としてOSCEはマージナライズされていく)、コンゴ民主共和国治安維持のため2006年6月から11月、2007年からダルフール紛争のあおりを受けたチャド及び中央アフリカでの治安維持のため約4000名(フランス軍が中心)が派遣されている。

2008年12月にはソマリア沖で、NATO艦隊の後を引き継ぎEU諸国艦隊が海賊との戦いを開始したが、これにはEUFORの名称が冠せられていないようである。

(ニ)不明確なESDPの諸原則
ESDP、EUFORは曖昧模糊としたアレンジメントであるが、それでも一応の原則は作られてきた。例えば2003年12月の欧州理事会で、CFSP上級代表ソラナが提出したEuropean Security Strategyが採択されている。
これはESDPの活動目標として反テロ、大量破壊兵器取り締まり、地域紛争、State Failure(アフガニスタンのような)、組織犯罪を掲げている。

しかしそれでも、ESDPの地理的対象範囲は不明確である。またNATOとのデマケも不明で、いつどこならNATOで、いつどこならEUFORが対処するのかがわからない。これまでの前例ではNATOは中東・アフガニスタン、EUは中東欧・アフリカ、OSCEは域内(但しボスニアではEU)ということになっているようだ。

EUFORのためには前記のように、各加盟国部隊が恒常的に貼り付けられている、というものでもないらしい。2003年6月のテッサロニキ欧州理事会では、ESDP用部隊が成立した旨一応宣言したものの、その実体は各国のプレッジを集めただけのもので、実際に即応能力を有する部隊はその1割以下だったそうだ。

2004年6月のブラッセル欧州理事会では、ESDP用部隊の編成思想に変化が見られ、世界の流行に乗ってテロに対抗するためのbattlegroupを形成する構想が打ち出された。つまり①1,500人規模の合同統合部隊、②10日以内に展開可能で、30日までの地域確保が可能、③最大3ヶ月までの延長が可能という部隊を作ることが目標とされたものらしい。

(ホ)一時は有頂天だったEU
 近年のEUの一つの頂点は、2001年12月ベルギーのLaekenで行われた欧州理事会(首脳会議)だったろう。ユーロが1999年1月から導入されていたし、Laeken首脳会議ではEUの一層の拡大が高らかに宣言された。折りしも同年9月11日の集団テロ事件を受けて、米国とのバードン・シェアリングが打ち出された時でもあった。

 発表された「宣言」においては、「自衛と言っても、現代の『自衛』は海外で行われることが多い」、「EU周辺諸国で良い統治が行われることが(EUにとっても重要だ)」、「中東和平」等、EUの域外政治・軍事活動を示唆する言葉が見られる。
 さらに、「active,robust interventionを図る」、あるいは「米国は一国だけではやっていけない。グローバルな安保、世界の改善の負担を米国とシェアーする」という言葉も見られる。要するに、EUがその力の頂点にあった頃だ。

 当時のEUは外向き思考であり、「米、ロシア、日本、中国、加、印のようなパートナーと協力(この順番で言及)」旨を宣言で明言していた。

(3)現在の欧州――自己過信から自信喪失へ
 冷戦終結後の欧州は、意気盛んだった。ソ連は崩壊して安全保障上の脅威はなくなり、米国に依存する必要性が減少したかに見えた。
 EUは東欧諸国、バルト諸国に拡張されて統一市場が拡大したし、これら新加盟国における建設需要がドイツを初めとするEU原加盟国の景気を押し上げた。1999年に発足したユーロは、10年もたたないうちに対ドル・レートを大幅に上昇させ、ドルと並ぶ国際基軸通貨となったかのように見えた。

この頃のヨーロッパ人の鼻息は相当なものであった。EU統合強化には多くの者が反対であったことは忘れ、EU=超国家という「叡智」を発揮して時代遅れの国民国家という制度を乗り越えたのだという拙速な自信を、多くのヨーロッパ人が見せていたのである。

 だが、米国のサブプライム金融危機をきっかけに、欧州のムードも一気に暗転した。それに先立ってEU新憲法採択の試みは失敗していたし、金融危機はユーロの欠陥(欧州中央銀行は各国の金融監督権限を持たない等)を露にし、投機資金をこそぎ落としたことでこれを急落させた。フランス、イタリア等においては経済の構造改革はいっこうに進んでいないし、ドイツは中東欧における建設需要の急落に直面している。英国は金融ビッグバンで金融への依存度を上げすぎ、今や白色矮星となりかねない。欧州各国における移民人口はとみに増大し、デンマークのように他人種に寛大だった国においてさえ、最近ではとげとげしい態度を見せるようになった。

(以上、終戦直後については西郷従吾氏の「アメリカと西欧防衛」(読売新聞社)、現代EUにおける政治・軍事協力〔CFSP、ESDP〕については中村建史「CFSPとリージョナル・ガバナンス」〔http://web.sfc.keio.ac.jp/~kgw/Lecture/SFC/Regional_Governance/2006/handouts/8th.pdf〕が大いに参考になった。他にNATO、EUの公式サイトの資料ももちろん参考にした)                                          

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