今年は近代 の曲がり角=明治維新・戦後日本の総見直し
(これは12月24日に発刊したメルマガ「文明の万華鏡」第140号の一部です)
19世紀、英国での産業革命は広汎な中産階級を生み、彼らが選挙権を獲得することで、今日の民主主義は形成された。個人の権利=自由、それを基礎としてものごとを決めていく民主主義体制、つまり「近代」は19世紀の西欧で形成され、我々もそれがいいと思って――米国占領軍が日本の支配層の抵抗を破ってくれたからだが――今日に至る。
それが前記のように、経済が悪化し、格差が拡大し、中産階級がぼろぼろになることで、曲がり角に来ている。ポピュリズムはファシズムにつながるもので、個人の権利を抑圧する。ポピュリズムの権化、トランプは民主主義の「み」の字も発音したことがない。自分の再選を妨げた議会は、暴徒に襲わせて破壊しようとする。
そして近代のアダム・スミスの唱えた「市場経済」も、中国経済の急伸に惑わされた――実際は外国資本・技術の流入が中国経済急成長に火をつけ、今でもその火を保っているだけなのだが――バイデン政権が、電気自動車への補助金給付など、「国家資本主義」の方向になだれこんでいる。
こうして「近代」は曲がり角。明治維新以来、そして戦後、日本が必死に輸入してきた欧米の、「近代の価値観」はもうお払い箱。これからは国家資本主義、専制、帝国主義でないとやっていけないのか?
日本戦後の安保体制の曲がり角
「近代の価値観」と並ぶ、現代日本の土台石=日米安保体制。これも台湾有事――今その蓋然性は低下していると思うが――やトランプが再選されると、揺れる可能性がある。日米同盟の重しが薄れると、日本の世論は戦前の超国家主義、あるいは逆に非武装平和論の極端にふれる可能性があるので、慎重な舵取りが必要になる。それに備えて、日本社会は「自分が好きな価値観」は何なのか、見定めておく必要性がある。
今の日本では、民主主義、民営経済は肌に染み付いていると言えるのでないか? たとえ米国がトランプ再選で専制国家になっても、西欧がポピュリズムでファッショになっても、日本人は近代の価値観を自分のものとして守っていく、世界に宣伝していくことが必要だろう。
自分で調べて考えることが大事だ。戦後の大新聞やマルクス主義野党の言説のせいで、何かあるとすぐ「政府が悪い」、「政府がちゃんとやれ」で議論は終わってしまうが、これではものごとは進まない。なんでも政府に丸投げすることは、自分の権利を政府に投げ渡すのと同じだ。
マスコミ――しっかりしたマスコミもあるが――の作り出す言説は、人間の頭を糖尿病にしてしまう。「米国は産軍共同体の陰謀で動かされている」とか「プーチンは世界の制覇を狙う」などのperceptionは、ものごとのウラを見極めようとしている人たちには、格好の解答に思えるものだから、彼等はこれをベースに壮大な理論体系をこしらえ、自分だけ世界をわかった気でいる。しかしいくら壮大でも、彼等の見方は現実と関係がない。
日本では、これまでの同盟関係や国家がこれからも確固としてあることを前提に、日米同盟の中での日本のあるべき姿とか、日本での政府と国民の間の正しい関係とか、悠長な優等生的議論が幅を利かしていたが、これからは同盟や「国家」が消えてしまった「無政府」の状況で人間はどうするか、という基本に戻って議論を組み立てないと、いざという時に使えない。
日本は、日本の国民、そして「グローバル・サウス」の人間にも共感可能な価値観を、自分の言葉で打ち出すべきなのだ。それはロシアのような帝国主義的・超国家主義的価値観ではなく、生活水準の向上を通じての権利意識の向上、思いやり、責任感等を前面に出すものがいいと思う。自分の価値観を持っていて、それを自然体で実行していきたい。
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