台湾旅行記 高雄 台南から台北へ
(これは、2020年1月の旅行記で、このブログにも既に別のタイトルで搭載されているのですが、昨今台湾が話題になっているので、再度掲載します)
台湾旅行記
2020年1月4日から8日まで、台湾を夫婦で旅行してきた。正味4日だったが、高雄、台南、台北を十分見物し、南北新幹線にも乗ることができた。台湾は2005年にも来たことがあるが、その時は一人で政治や経済の話しばかり聞いて回ったので、生活ぶりはあまり見ることができなかった。今回はその逆。
(高雄へ)
成田を出た飛行機は2時間半もすると、台湾西岸上空を飛び始める。上空から見ていると、峩々たる山脈が南北に貫いているのだが、海岸に沿ってかなりの平地が続き、そこには市街地がべたっと続いている。やがて眼下に大都市が見える。最初これが高雄かと思ったが台南で、街並みは東京より整然としている(後で地上で見ると、街路が碁盤の目になっているだけで、街並みは古典中国的だが)。そして飛行機は暫時海上に出て、その先のスモッグを通してはるか先、蜃気楼のような未来都市のシルエットが浮かぶ。それが高雄で、真ん中に85階建ての高層ビル「高雄85ビル」がそびえたつ。
(高雄で)
高雄は台南より新しい都市だ。1858年の天津条約で、清は台湾のいくつかの港を開港。高雄(当時の名は打狗)はその一つとして1864年に開港されてから発展を始めた。日本統治時代には当時の最大輸出品目の砂糖を加工、積み出すための拠点となり(今回知ったが、あの新渡戸稲造は若い時代、台湾で製糖産業の発展に尽力している)、海岸には今でも当時の砂糖倉庫が延々と続き、そこは今ではちょっとした画廊やカフェといった、洒落た観光名所となっている。
僕の持って行った今から15年くらい前のガイドブックでは、高雄は世界4位の貿易港だとある。日本では知られていないが、台湾は世界の製造業のハブのようなところがあって、特に電子産業での請負生産に優れる。請負生産からスタートして大企業になったのが、日本のシャープを買収した鴻海(中国ではFoxconnの名で、アップルの製品をほぼ一手に組み立てている)、スマホ用システムLSI半導体で世界市場の過半を握る米国Qualcomm(自前の工場を持たない)の委託を受け、半導体受託生産では世界一になったTSCM、パソコンのAsus等々が台湾西部の平野に工場を展開しているので、高雄はその製品の積出港としてにぎわったのだ。その後製造業が中国に移転したため、高雄港は今では貨物の取扱量も世界で38位に落ちたが、海岸で見ると、沖合で26隻の貨物船が待機していた。
神戸に似て、港町であることから何となく洗練されていて、その割には人は温厚で道路を多数走るバイクもすぐ緊急停車できるようなおとなしいスピードしか出さない。台北ではバイクは時速60-70キロで突っ走っていて、急ブレーキをかければ引っ繰り返ってしまうような危なさを感じさせる。
歩道はだいたいの道で広いのだが、不思議なことに各店が異なる高さのテラスを張り出しているので、車椅子で移動することができない。しかもそのテラスは駐車場や物置代わりに使われていることも多く、歩行者は車道と歩道としょっちゅう移動しながら歩かないといけない。それでもハノイのように、前後左右、たとえ一方通行の道路でもどちらの方向からもバイクが突然目の前に飛び込んでくるようなことはなく、前出のようにすぐ止まれるスピードで走っているから、割と安心して歩くことはできるのだが。
そしてなんと高雄には地下鉄がある。約300万の大都市だから当然なのだが、市中を十字に貫く2路線があり、その端をぐるっと円に結んで路面電車が走る。台風に備えて架線はなく、駅で電池に充電するのだそうだ。但し路線は、現在の韓国瑜市長に途中で建設を止められ(多分、利権がらみ)まだ北半分の半円しかできていない。
これらの公共交通機関は台湾全島で単一の料金システムになっていて、我々夫婦はJTBにもらったミッキーマウスのキーチェーンを改札マシンに押し付けると、それがICカードになっていて、地下鉄も路面電車もバスも、台北の地下鉄も、乗ることができた。このキーチェーンはコンビニで、いとも簡単にチャージができる。
路面電車は、料金を払わずとも乗ることができたが、公衆道徳が発達しているのか、見つかった時の罰金が高いのか、皆きちんと払っている。生き馬の目を抜く中国と違って、好感を持てる社会だ。
(選挙)
我々が行ったのは、選挙の直前。さぞや選挙運動でうるさいだろうし、2日には軍の参謀総長がヘリコプターで墜死するという「事故」があったばかりだから、テロだってあるかも、と思っていたのだが、そんな気配は全くなかった。ガイドによれば、選挙直前は街宣等が禁止され、有権者は「黙考」する期間になるのだそうだが、ちらほら街宣もやっていたのは別にして、選挙の熱気は感じられない。有権者は「黙考」するどころか、仕事や遊びで飛び回っていて、一見したところ政治は生活から遊離している。それでも、ある台湾人は言っていた。「民進党も国民党も嫌いなんだけど、やっぱり自由は大事。民進党で中国との関係が悪くなって、経済が悪くなっても、自由がある方がいい。(だから民進党に投票する)」
その「自由」だが、米国文化がやってくるはるか前から、その気風は台湾にあったのではないか? と言うのは、例えば韓国と違って、儒教的な老幼・上下の厳しい秩序が台湾では感じられないからだ。戦後を除き、強力な政権が存在したことのない台湾では、儒教を統治に利用する者もなく、それで柔らかい感じがするのでなかろうか。ガイドが言っていたが、「台湾では徴兵制があります。しかし何かいやなことがあると、今の若者はすぐスマホでSNSに投稿するので、上官は厳しいことは言えないのです」ということだった。
台湾にも孔子廟は所々にあるが、仏教寺と同じく、彼岸での幸せより現生でのご利益を願う感じが強い。寺の装飾は派手そのもの。僧侶はラマ教のように脂ぎってはいないが、音楽はガムラン的で、ドンドン、カンカン、陽気なものだ。台南の大観音亭という寺では、虎爺という虎の像も祀られていて、阿弥陀や薬師如来と同列の神扱い。つまり多神教なのだ。
(不景気?)
高雄は不景気なのだそうだ。飛行機から見えた高層ビルは、高層階がホテルなのだが、最近倒産したのだそうだ。国民党が政権を取っていた時代は中国も、台湾世論を抱き込むためにいろいろ経済的な恩恵を与えた。特に中国が嫌う民進党の地盤である台湾南部での人心収攬を重視していたと言われる。当時年間400万人にのぼった中国からの金持ち観光客を目当てに、この高層ホテルは建てられたのだろう。
それが民進党の蔡英文女史が政権を取ると、中国は手のひらを返したように、台湾敵視を露わにする。中国からの観光客は半減し、それで高層ホテルも倒産したのだろう。しかし、日曜の夜6時頃にはホテルのレストラン(中級の上程度)は家族連れや若者、そして年長組で満員。ウェイトレスは戦場の忙しさだった。
高雄市長は、今回の総統選で国民党の候補となった韓国瑜(2020年時点で)だが、一見したところ、街の整備はよく進んでいる感じがした。しかし彼が市長になったのは2018年12月なので、その前の市長(民進党)の功績なのだろう。ただ唯一、夕方になると「乙女の祈り」のチャイムが街中鳴り響き、それもずっと続く。煩わしい。イスラムのアザーンの方がずっといい。
(台南へ)
次の日は電車に乗って1時間ほどの、台南に行った。切符の買い方とか改札は日本とほぼ同じなので、僕の中国語で十分。往復割引切符もちゃんと買った。
商都・高雄と古都・台南は電車で1時間ほどだから、大阪・京都と似たような関係にある。台湾は地下鉄も電車も幅が広く、両側の座席の間に3列で立つことができる。台湾の道路は、日本統治時代は左側通行だったろうと思うが、今は右側通行。ところが地下鉄や電車はまちまちで、高雄と台南の間の電車は狭軌で左側通行なのだ。台北の地下鉄は、右側通行のものと左側通行のものがある。そして車両はSiemensやフランスのアルストムとか、路線毎に違う国籍のものを使っている。いろいろな国に万遍なく、利益を与えているのだろう。
高雄から台南への沿線の景色は、東京郊外と同様。50分程の行程のうち、田園地帯は10分弱しかない。そこの植生は熱帯性で(台北は亜熱帯なのだと、台北の人は強調していた)芭蕉、ヤシ、榕樹の類が田畑の端に生えている。
そして台南は高雄よりは古いので、街並みはもう少し雑然とした感じがして、そこらじゅうが吉祥寺のハモニカ横丁のような態を成している。僕は昔、ハモニカ横丁からバスで15分程の草深きところで育ったので、懐かしい。あの頃ハモニカ横丁は、「へい、らっしゃい、らっしゃい」の掛け声でにぎやかで、レジの代わりにゴムひもで天井から吊り下げたざるで、カネを出し入れしていたものだ。
台南の横丁は、あまり掛け声は響いていないが、雑然として、やたら「小吃」(小料理店)が多い。聞けば、共稼ぎの家庭が多く、料理する時間がないので、家族ぐるみで小吃で食事をすませるのだそうだ。
(ゼランジア城と繰り返す歴史)
台南での目当ては「安平古堡」、またの名を「ゼランジア城」。前からそんな変な名前の城が本当にあったのかと思っていたのだが、本当だった。これはオランダ語で、意味はsea land。17世紀当時は真珠湾のような大きな内海(今では殆ど陸地)の入り口を抑える岬の突端に建てられたがっしりした城で(今は土台しか残っていない)、インドネシアから北上してきたオランダ・東インド会社がこのあたりの商圏を抑えるため、1624年から38年間君臨した跡。
オランダは短い統治の間に、果物や野菜を随分広めたらしく、台湾住民はそのことで今でもオランダに感謝しているのだと、ガイドは言っていた。もっとも1653年には地元民が叛乱したので、オランダは台南の街中にプロビンシア城を築いている。これも、あとは残っておらず、現在復元作業中。
もともと台湾西部の平野には、今から4000年程前に雲南地方からオーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)の人達が渡ってきて、またそこからフィリピン、インドネシアに分布し、最後にはマダガスカルやハワイに至ったと推定されている(日本の南西諸島、沖縄、そして九州等に移住した人達もいただろう)。
今では55万人ほどが原住民として登録されている。うち半分は山間部にいて(多分、17世紀以降大挙して移住してきた漢民族に、西部の平地から追い上げられたのだろう)、半分は都市に居住している(これらは台北の原住民博物館で調べたもの。台湾西部の平野は豊かな富を生み出し得る土地だが、原住民はおそらく稲作技術を持っていなかったのだろう。今でもアワを栽培している。富がなければ、統一国家もできにくい。
それが17世紀になると、中国東部の福建、広東地方等から漢民族の移住が始まり、彼らは西部の平野に住みついた。そして間もなくするとスペイン人が北部に、オランダ人が南部に拠点を築いて、統治とまではいかなくとも、商圏を握ったのだ。オランダは1624年ゼランジア城を建てると、この内海の港に集まる諸国の船から10%の税金を徴収し始めた。集荷に便利な河口、かつ台湾海峡の入り口に拠点を築いて利益を独占したのである。
そこで1627年、日本の朱印船の船長だった浜田弥兵衛は、幕府の支援を受けて、ここのオランダ総督を人質にして、関税撤回を要求。オランダはこれをのみ、日本は高砂(台湾)を自由貿易地として維持することに成功した。弥兵衛は後に日本統治の大正時代、勲章までもらい、記念碑を建ててもらっている(ウィキペディア)。
しかし当時、中国大陸の歴史は激動していた。1644年明朝は滅ぶのだが、その遺臣鄭芝龍の息子の鄭成功(母親は平戸の豪族の娘だから日中のハーフ)は海賊となって日中貿易を差配。その上がりの資金で明王朝の復活を目論むのだ。彼は台湾をその拠点とするべく、1661年ゼランジア城を大艦隊で包囲・封鎖する。ゼランジア城を兵糧攻めにして、11カ月後開城させたのだ。だから彼は漢民族(ハーフなのだが)の英雄で、「国姓爺」の称号を奉られている。そして日本では歌舞伎で、「国性爺合戦」という出し物として残る。大きなロマンだ。
ロマンと言えば、これは残酷物語の類なのだが、当時東インド会社で神父をしていたAntonius Hambroekは、鄭成功に妻と息子(一説では娘2人)とともに拉致され、ゼランジア城の連中に開城を説得するべく派遣されるのだが、かえって徹底抗戦を煽って鄭成功のところに帰っていく。もちろん死を覚悟していくのだが、人質になった妻と息子を救うためだったろう。
ところがゼランジア城には、彼のまだ20歳にもならない娘が2人いて、父にしがみついてくるのだ。Hambroekはその娘2人をゼランジア城に残して鄭成功のところに赴くのだが、その後どうなったかは博物館に書いてない。ただ、娘2人がしがみついているところを描いた大きな油絵があるだけ。Wikipediaによると、Hambroekは斬首され、開城したゼランジア城のオランダ人の多くは処刑。女性は鄭成功軍の妾とされるか、奴隷として売り飛ばされた、とある。Hambroekの娘の一人は鄭成功の妾となった。
で、鄭成功は台湾を拠点に、清王朝へのレジスタンスを展開するのだが、半年もしないうちに急病で死んでしまう。そして清王朝はゼランジア城制圧を進め、鄭成功の孫鄭克塽は1683年、清に降伏してしまう。清は1895年、日本に譲渡するまで台湾に「道」を置き、福建省の一部としたが、「化外の地」と蔑視、わりとよそ者扱いをしていたらしい。
そして日本が第2次大戦で敗北すると、台湾は大陸の国民党政府が統治することになった。以前からの住民はこれに反抗し、多数が殺されたと言われる。その後1949年、大陸の内戦で共産党軍に敗北した国民党軍が大挙して移住してくる。これは大変な規模で、博物館には200万人と書いてあった。共産党軍が制海権を持っていなかったので、海の通航は自由だった。
と言っても、200万人とは大変な数だ。それは2年程前シリアからEUへの難民と同数だと言っても、小さな台湾では、食物を準備するだけでも大変だっただろう。そして国民党軍は規律が低く、そのため台湾の住民は「(日本という)犬がいなくなったと思ったら、(国民党軍という)豚がやってきた」とささやき合ったそうだ。
国民党軍は、大型の博物館をいっぱいにするだけの美術品も持ち込んだ。これが台北の故宮博物館で展示されているわけだが、大変なもので、一つの国の文物だけで大型の博物館をいっぱいにできるのは、中国くらいのもの。大英博物館やルーブル美術館は、他国のものでもっている。と思ったが、エジプトやイタリア、スペイン、日本でもそういう博物館、美術館はある。ただ中国の場合、金属加工の技術が、紀元前8世紀の春秋時代には完成の域に達していることもあり、やはりすごい文化なのだと思う。
なお、紀元前1600-1400年頃の文物は蛇、鳥のモチーフを多くあしらう。「羽毛をまとった蛇」というのは、メキシコのマヤ文明の神なのだが、この蛇、鳥というユーラシア大陸で多く現れるモチーフは、南米にも伝わったのだ。多分、南太平洋からポリネシア系の人間たちが持ち込んだのだろう。
話しを戻すと、こうやって国民党は「中国人の魂」に相当する目ぼしい文物を根こそぎ台湾に持ってきてしまったのだ。北京の故宮に行っても、清明上河図を除けば目ぼしいものは置いてない。中国大陸は、魂を失ったままなのだ。
そして台湾は、「外国人による統治⇒本土の反政府軍による占領⇒本土の政権による奪取」のサイクルを、もしかすると2回繰り返すのかもしれない。今回、民進党が選挙で勝利した後、米軍は駆逐艦を1隻、台湾海峡を通航させ、台湾政権支持の姿勢を示した。しかしトランプは15日に中国と貿易問題で合意を結んだ。
彼は、11月の大統領選挙に向けて、「米国労働者の職を奪った中国の安い製品には関税をかけた。そして中国には米国の農産品、工業製品をもっと買うよう約束させた」ということをアピールできれば、あとは「何でもいい」のだ。台湾防衛をめぐって、中国と戦争をすることは金輪際避けるだろう。それは、8日イラクの米軍基地をミサイルで攻撃されても、イランと開戦しなかったことで証明される。
話を戻すと、ゼランジア城は土台の上の展望台とか、横にできた博物館が面白い。そして城の脇には、17世紀の絵図にも書いてある、雑然とした街並みがそのまま残ったようにあって、観光客でにぎわっている。
(「台湾は守りやすい」のか?)
一般に、台湾を武力制圧するのは簡単ではない、と言われる。東部は高い山脈が迫っており、西部は平野でも、海岸は台湾軍が守りを固める。首都台北は山に囲まれているので、大軍が海岸から押し寄せるのは難しい。というわけだ。
そこで今回、高雄から台北まで新幹線に乗って、地形を観察することにした。南から北まで約400キロ。新幹線で1時間半ほど。東京―名古屋のようなもので、面白いことに景色、地形も東海道にそっくりなのだ。新幹線は面白いことに左側通行。そして平野部の奥の方を通っているから、海岸線の様子はわからない。飛行機から見ると、平野は狭いように見えるのだが、地表を走っていると、関東平野より広い沃野に見える。
景色は東海道と同じで、田園地帯は合わせて30分程しかない。他に台北に近いところで山地が10分ほど続く。他は市街地、住宅、マンション、工場、温室、畜舎、水田が延々と続く。大きな都市が多くて、新幹線は随分停まった。
こういうわけで、中国軍が台湾西岸に押し寄せると、防ぐのはかなり難しいだろう。台北は山に囲まれているので、中国は陸から進軍するのが難しいが、昔のゼランジア城のように、海から台北を封鎖してしまえば、人口約300万を抱える台北は、ゼランジア城のように11カ月も持ちこたえることはできまい。
だから蔡英文政権は、「台湾独立」をあまり強調すると、2049年の中国人民共和国成立100周年に向けて台湾の統合を最大の政治課題にしている習近平に、本気で軍事攻略されることになりかねない。1996年の第3次台湾海峡危機の時と違って、トランプ米国は軍事介入を避けるだろう。
それは、日本や韓国で米国への疑念を掻き立て、日米安保条約や米韓安保条約の形骸化を招くだろう。逆に米国が軍事介入してくると、中国は日本の米軍基地をミサイルでたたくかもしれない。また米国は日本自衛隊にも「参戦」を求め、これを自衛隊が拒絶すると、日米安保条約は意味を失う。逆に自衛隊が「参戦」すると、中国による日本への攻撃を招くこととなるだろう。台湾の歴史は繰り返すと言ったが、日本にとっては随分危険なことになるのだ。
(台北)
台北は15年程前に来たことがある。面白いことに、外交関係のない韓国とは航空便は就航していて、その時はソウルからやってきたのだ。台北は既に発展していて、当時世界一の高層ビル「台北101」ができたばかりだった。
その時に比べて、台北は変わっていない。トイレは全般的にきれいだし、人間はおとなしい。ここは「良い中国」なのだ。ただ既に書いたように、バイクが多数猛烈なスピードで大通りを走っているから、少しはらはらさせられる。
地下鉄の駅のホームは東京より全然広く、プラットフォーム・ドアもついている。車両の幅も、日本の電車より1人分広い。ただ建設の時期ごとに仕様が違っていて、路線によってSiemensとかフランスのアルストムとかまちまち。アルストムのは1991年製で、パリのゴムタイヤがついた車輪で走るものと同じだろう。
今回、ふと思ったが、15年前と比べて、都市部での生活水準は中国が追い上げてあまり差のないところに来ているのではないか。台北では郊外の観光地、九份に電車で行ったが、最寄りの瑞芳駅周辺の景色は決して、高い生活水準を思わせない。
台湾と中国の生活水準に差がなくなるということは、台湾の低所得層が中国と一緒になった方がいいと考えるようになることを意味するかもしれない。だから、台湾と言えば、自由と権利を大事にして、中国とは距離を置く、といつまでも考えていると間違うかもしれない。自由より、まずパンが必要な感じの人たちは、台北でも随分見受けた。そしてTSCMやホンハイなどの大企業は、中国のフアウェイなどとも緊密な関係を持っているので、対中敵対姿勢は取りたくないのである。
(台湾の日本)
台湾まで来ると、日本は遠い遠い北の国。殆ど「アナと雪の女王」の故地かと思われる程、北。しかし台湾と日本の関係には深いものがある。日本人が忘れているだけだ。高雄に残した砂糖工場・倉庫群とか、台北の総統府の建物とか、東京の拓殖大学(台湾、韓国での官僚養成)とかあるし、昭和2年、派手な倒産で昭和金融恐慌の先触れとなった鈴木商店も、そのベースは台湾にあった。
現代になると、台湾はEMS(電子機器の受託生産業)のメッカとなって、ここに組み立てをアウトソーシングした米国のアップル等の台頭と、その逆で何でも内製しようとして競争力を失った日本の電子産業の凋落を招くのだが、そのEMS諸企業、そしてASUS等の地場コンピューター企業は、日本の企業、あるいはそのエンジニア達と切っても切れない関係を築いて大きくなったのだろう。
台湾は日本で考えているように親日一辺倒の国ではないし、反日の連中も結構いるのだが、日本は台湾人の生活の中でごく自然に息づいている。だいたい日本のコンビニが日本と同じような密度で展開しているし、日本製の商品に中国語の包装をして売っているし、車も日本製が圧倒的。高雄のバイクはヤマハが多かった。台北の地下鉄では一車両の広告が全部「くら寿司」で埋め尽くされていた。
なお、物価はまだ安い。50分ほどかかる高雄・台南間の電車は、片道で僅か400円ほど。台北でもタクシーは20分ほど乗って約1000円。今回は、朝食を腹につめこむと夜まで街を歩き回り、レストランも全部閉まった夜になってコンビニの弁当で夜食をすませるという生活をしたので、カネは随分余った。台湾はいい。中国でのように人をやたら逮捕することもないから、中国語を勉強するのだったら、断然台湾だ。それに「中国人の心」は故宮博物館にある。
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