ウクライナをめぐる西側世論の揺れ
(これは8月末発行のメルマガ「文明の万華鏡」第124号の一部です)
ウクライナについて西側では、これまでの同情論一辺倒が変わってきている。それは、一つにはゼレンスキー政権の体質に対する疑念(野党勢力弾圧が並みでないとか、西側兵器の横流しを放置しているとか)、もう一つは欧米諸国のお偉方がウクライナ擁護、ロシア排斥の論拠として掲げてきた「自由と民主主義」という看板への疑念、つまり失業・低賃金に苦しむ西側諸国の青年層にとっては、「自由と民主主義」は富を独占する自国の上層部が自己擁護のために掲げる似非看板にしか見えない、という事象である。
前者については4日、人権問題について最も権威あるNPOの一つAmnesty Internationalがウクライナについての報告書を発表。「ウクライナ軍は故意に病院・学校などの公共施設に陣を構えることでロシア軍の攻撃を誘い、これをロシア軍によるウクライナ民間人虐殺だとして世界にアピールしている。これはウクライナ人の人権を軽視したものだ」という趣旨。このことは、これまでも言われてきたものだが、Amnesty Internationalの報告書は現地で念入りに聞き取りを行った結果なので、反響は大きかった。ウクライナ政府は八方手をまわして、この報告書の正当性に「?」をつけようとしている。日本は旧統一教会問題で手いっぱいで、この報告書のことはろくに報道もされていないが。
「自由と民主主義」への反発は、悲劇的なことだ。本来は皆のためになることに対して、唾をはきかけている。屈託のない女子中学生などを見ると、日本などでは自由と民主主義は本物であるように見える。しかし欧米諸国の青年の一部には、「自由と民主主義というのは、アメリカのネオコン連中が自分たちの影響力を広げるために使っているスローガンに過ぎない。そんなもののために自分たちの税金を使うな。自分たちにもっと分配しろ」という機運が見える。
日本の社会主義勢力も同じように考えていて、米国が呼び掛けるウクライナ擁護などには加わるな、ネオコンに惑わされるなと主張する。
これらの議論は仕分けを必要とする。ウクライナ政府と米国、ネオコンをきっちり区別し、「誰が何をやっていて、ここは是正を必要とする」という議論にしないといけない。一番大事なのは、ウクライナに住む人間たちの権利と生活。
議論を仕分けるために言うならば、今のウクライナ情勢は別に米国のネオコンが主導したものではない。2014年2月ヤヌコーヴィチ政権を倒したのは、ネオコンのコントロール外にあったウクライナの極右分子(彼らの多くは親米ではなかった)で、その後一貫してロシアとの妥協を拒否して現在の情勢を導いたのも、彼ら極右勢力なのだ。
だからウクライナ問題でネオコンを批判するのは的外れ、Amnesty Internationalが言うように、ウクライナ市民を盾に、自分たちの野望をどこまでも追求しようとする極右の連中に自制を呼びかけるべきだろう。
因みに、「ウクライナをなんとか持たせているのは米国だ。米国は自分の勢力圏維持のためにそうしているのだ」という日本での一部の主張も、現実とは違うと思う。バイデンは、米国を何とか戦争に引っ張り込もうとするゼレンスキーから終始距離を置いてきたし、最近のNYTも「ホワイトハウスとゼレンスキーの間の深い不信感」について報じている。CBSは、米国がウクライナに供与した兵器が横流しされていることを克明にレポートしている。
アフガニスタンから撤退したバイデンが、わざわざウクライナに入れ込むことはない。中間選挙まではウクライナを「何とか持たせる」ことだろうが――昨年8月のアフガニスタン情勢のような醜態を繰り返せば、共和党にたたかれる――、それ以降はウクライナにロシアとの和平を強く働きかけるだろう。
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