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2018年4月30日

中ロ準同盟はいつまで続くか

(これは、4月25日に「まぐまぐ」社から発売したメール・マガジン「文明の万華鏡」第72号の一部です。
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中ロ準同盟のきしみ

(対立が常態)
 今でこそ、中ロは鉄壁の準同盟関係にあるが、歴史は逆の例も示している。17世紀からウラル山脈を越えてシベリアと極東の征服に乗り出したロシア人が、ウラジオストクとその周辺の沿海地方を清王朝からせしめたのは、前述の通り近々1860年のことである。それ以降も敵対関係は続き、1900年の義和団事件では出兵したロシアが乱の鎮圧後も満州に居残り、朝鮮半島をうかがう姿勢を示したが故に、日露戦争となったのである。

(中ソ蜜月へ―ソ連のDNA、中国に注入)

 面白いことにロシア帝国も清王朝も同時期に滅亡しているのだが、中国での混乱の方が長く続いた。国民党政府は近代国家の建設を急ぎ、欧米の文物を吸収するべく、日本に多数の留学生も送っていたのだが、その日本が1915年、世界大戦のどさくさに紛れて21か条の要求をつきつけ、それを欧州諸国がベルサイユ講和会議で止めなかったため、国民党政府は西側に失望した。そこで短期間で国力を増強するにはどうしたらいいかということで、誕生して間もないソ連に1923年代表団を送ったのである。その中には蒋介石もいた。

 代表団は、ソ連が共産党独裁の下に議会を無力化、政府は共産党が抑えることにより、「政党国家」制なるものを築いているのを目の当たりに見た。この開発独裁こそ、新中国が取るべき政体だと確信して中国代表団は帰国するのである。民主主義より開発独裁。このモデルは中国共産党がその後そのまま採用したし、台湾に逃げた蒋介石も鉄壁の専制主義を敷いたのである。

 中国共産党は当初、マイナーな存在で、スターリンは馬鹿にした。農業国で「労働者」もろくにいない中国に、共産党などできるものかというわけで、スターリンは国民党を主要な相手とする。共産党には国民党との協力を強制し、これによって1924年「国共合作」がスタートするのである。その後もソ連は中国共産党内部をいろいろひっかき回し、時には血なまぐさい路線闘争の引き金も引いている。

 毛沢東は延安にこもって自力の戦いを展開、1949年10月ついに政権を奪取するや、早や12月にはモスクワに飛び、実に翌年2月まで滞在して(1月から周恩来首相以下事務レベル代表団が加わっている)、ソ連との関係をスターリンと交渉する。専制主義の国ではトップが何でも決めるので、ソ連のトップ、スターリンと交渉できるのは中国のトップ、毛沢東しかいないということで、建国直後に2カ月以上も国をあけて、厳寒のモスクワに滞在せざるを得なかったのだろう。

この時彼は満州、旅順の返還をスターリンに求めることばかりやっていたような印象があるが、2月14日には「中ソ友好同盟相互援助条約」が調印されているので、領土返還のことばかりやっていたのではあるまい。米国と敵対関係にあった中共政権にとっては、ソ連との同盟関係を確立し、経済建設にソ連の力を引き出さなければ国づくりができない――そういうことだったのだろう。

 そして中ソ蜜月がスタートする。ソ連は機械設備を提供(満州のものは中ソの間で取り合いになった)。多数のエンジニアを送り込んだ。新中国にはソ連の諸制度が導入され、経済は計画経済となった。企業はすべて国営・公営。企業・農園が労働者・農民の生活の面倒を見、利益はすべて政府に上納。政府は生産目標を企業ごとに定め、そのための資材・資金等を配分する。そして企業や農園には共産党の組織が必ず作られ、党の代表が「思想」を監督――この、中国で今も部分的に続く体制はこの時作られた。かつて国民党が持ち帰った「政党国家」は、中国に完全に移植された。同時に、国際情勢を帝国主義勢力の間の力の闘争のみに還元し、これに権謀術策と軍事力で対抗しようとする19世紀的な戦略思想も(要するにプレーヤーは国で、人間の自由とか民主主義は無視される)中国に移植された。これはまた、中国古代の孫子の兵家思想とも実によくマッチしたのである。

(中ソ対立が定番だった30年間)
 だがスターリンが1953年に死去し、後釜を狙うフルシチョフがスターリン批判を強めるにつれ、毛沢東は警戒を強める。スターリン批判は、1949年の冬モスクワで苦労して勝ち取った諸合意、つまり中国の国造りの基礎を揺るがせるものと見えたのだろう。専制主義国家に住む者は、何事もトップ同士で決める。どちらかのトップがいなくなるということは、その国、あるいは企業での利権構造が覆ったことを意味しかねないので、関係者は非常に神経質になる。

スターリン批判が1956年、ハンガリーでの反共産主義暴動を引き起こすに至り、中国はフルシチョフの政策を公然と批判し始め、これは中ソ論争の始まりとなった。1960年、ソ連は技術専門家を一斉に引き上げ、毛沢東の怨念を決定的なものとした。中ソは論争だけでなく、1969年には国境の河川の島の上で軍事衝突まで引き起こす。中ソ対立は国際政治の定数となり、ここに米国のニクソン・キッシンジャー・チームがつけ込む。

 米国はベトナム戦争から手を引くのを至上課題とし、そのためにはベトナム援助を競っていた中ソを抑えようとした。キッシンジャーはコロンブスの卵を割るようにして1971年電撃訪中、1972年にはニクソン大統領の訪中を実現してソ連をビビらせ、ベトナム、戦略ミサイル制限交渉の両面で譲歩を引き出した。

 その後も中ソ関係は悪いままで、1978年に日中が平和友好条約を結んだ時も中国側は「反覇権条項」を入れることを強硬に要求(1972年の日中国交回復の際の共同声明では入っていた)。ソ連を過度に刺激するのを好まない日本は、これに抵抗した。そして1980年4月11日に中ソ友好同盟相互援助条約は30年の期限を迎えるのだが、中国は不延長をあらかじめ決定、条約は失効する。

1989年5月、ゴルバチョフ書記長はこのようなばかげた対立に風穴を開けようと、中国を訪問するのだが、6月の天安門事件を前に北京は民主化を求めるデモで騒然としており、ゴルバチョフはさしたる成果もなしに帰国する。そしてソ連は1991年12月崩壊してしまう。新生のロシアは混乱し、かつ無力な存在となった。

 そしてこれと反比例するかのように、中国は開放政策と高度成長を開始するのである。鄧小平が南巡講話で、外資優遇政策を打ち出したのは1992年のことで、早や1993年には台湾、香港から華僑の資本が大量の流入を始め、それは日本、欧州、米国企業による直接投資につながって、1996年頃には上海は建築ブーム、周辺には日米欧企業の工場が林立していく。その間ロシアは低迷と混乱を続け、90年代半ばには国債の大量発行で仮初の回復を演出するも、1998年8月にはそのバブルが崩壊してデフォルトを起こす有様で、当時中国人外交官は、「ロシア人は経済を知りませんから」とうそぶいていたものだ。中国人はロシア領を素通りして東欧諸国に押しかけて消費財を売りまくり、ロシア人が大挙して中国に赴いて安手の消費財を仕入れては国内で転売して日銭を稼ぐ時代であった。

 それでも2001年7月には江沢民総書記がロシアを訪問して、善隣友好協力条約に調印。2004年10月には胡錦濤総書記とプーチン大統領が国境協定に署名して、1991年以来進めてきた国境河川の中州島(複数)での境界確定交渉を完了している。両国はこれで、国境問題はすべて解決したと言っているが、関係が悪くなれば、中国は前記の沿海地方150万平方キロを昔ロシアが奪ったことを問題にしてくるだろう。

 2000年に上海協力機構が設立されているが、これは当初は反米が目的ではなく、かつての中ソ国境のうちかなりの部分が中国・中央アジア諸国の間の国境となったため、ひっくるめて安定をはかるためのものであった。中ソ関係が中央アジアを含むマルチなものになったと言おうか。

(中ロ提携へ―反米のための便宜結婚)
 中ロが提携関係を強め、上海協力機構も米国による政権転覆・民主化の企てに対抗するものとなってきたのは、2000年代後半のこと。2003年ジョージアでの「バラ革命」を皮切りに、ウクライナ、キルギスと旧社会主義国で、「民主化勢力」が政権を倒す例が相次いだことを契機とする。旧ソ連諸国、そして中国の指導者達は、これを地元の市民が自発的に起こしたものとは見ず、それら諸国で長年活動してきた米国のNGOが煽動・指南して起こしたものと決めつけ(米国ではレーガン時代、National Endowment for DemocracyなるNGOが設立され(CIAの肝入りとされる)、議会は超党派で毎年約100億円分の資金をこのEndowment等を通じて各種NGOに助成金として分配。各地で民主化運動を行わせている)、警戒を強めた。上海協力機構は、そのような対米警戒同盟の色彩を帯びるに至る。中ロは2005年には上海協力機構の名を借り、二国間で共同軍事演習を隔年で行うようになった。

こうして中ロには準同盟関係が成立したし(但し前述の中ロ善隣友好協力条約は、有事の相互支援条項を含んでいないので軍事同盟ではない)、国連安保理でも中ロ代表は共同して米国に対応することが多い。そして習近平はプーチンを専制支配の先輩として尊敬しているようで、対ロ関係では粗相がないよういつも気を配っている。中国で首脳級の国際行事をやる時は、外交儀礼を無視して、プーチンをいつも脇に並ばせる。2017年4月米国でトランプ大統領と会談した際、米国が巡航ミサイルをシリアに撃ち込んだと聞かされて、これを支持するようなことを思わず公言したが、直後の26日には側近の栗戦書・中央弁公庁主任をモスクワに派遣し、プーチンとも会談させている。おそらくシリア攻撃についての米国での発言は、ロシアに悪意を含むものではないと釈明もしたのだろう。

そして日本が心しておかないといけないのは、中国がシベリア、極東開発に大きく乗り出してきたため、日本の経済力の魅力を梃子に北方領土問題解決の進展をはかるこれまでのやり方が、もう効かないものとなってきたことだ。中国はシベリアで工場やインフラ建設を進めているし、3月のロシア極東開発省の幹部会には中国大使が出席して「中国の投資家がロシア極東で予定している案件費用総額は300億ドルを越えている」と大見得を切っている。ロシア極東への外国からの投資のうち、85%は中国からのものだそうだ(3月7日 Rusvesna.su)。

(中ロ間の摩擦要因)
しかし両国には常に摩擦要因がある。まず、ロシア人は中国人が好きではないし、特にカネに明かせてあこぎなことを仕掛ける最近の中国人を嫌っている。そしてその中国人はロシア人を上から目線で見ている。さらに昨今のロシアでは、東部での対中バランスが、ロシアに圧倒的に不利なものになっていることが、おおっぴらに語られるようになっている。3月23日独立新聞の「独立軍事報」は国防アカデミー教授Aleksandr Shlyndovの論文を掲載、近年の中国軍の増強ぶりを詳細に紹介し、極東150万平方キロをロシアに奪われたことを中国の専門家達は依然として議論していること、極東・シベリアでは中国軍がロシア軍に絶対優位を持っていること(国境地方に大軍はないが、新幹線・輸送機で短期に大量輸送できる)、ロシアは東西を結ぶ唯一の輸送動脈であるシベリア鉄道とBAMを有事にはすぐやられてしまうだろうこと等をあげて、25ー30年間で極東を自力で開発すること、鉄道を守ること、有事の際の軍事物資を集積しておくことを提唱、そして戦術核兵器が決定的に重要であること、ロシア領内の中国人を集住させてはならないが、他方弾圧して中国に介入の口実を与えてもいけない、と述べている。

そして中央アジアでは、中ロはテーブルの下で足を蹴りあっている。中国が中央アジア諸国に活発な融資・投資をして、現地官民の歓心を買っている今の状況を、ロシアは苦々しく思っている。ロシアは中央アジア諸国を自分の「勢力範囲」と今でも思っているのだが、それを確保していくだけの経済力を欠いているからだ。だから上海協力機構SCOは、中ロが共同で中央アジアの開発に乗り出す場とはならない。SCOの旗を掲げたインフラ建設案件などはないのである。SCOでの中国の勢威を薄めるためにロシアはインドを引き込もうとし、中国はインドへの当て馬としてパキスタンを引き込んだ。

中国がAIIBを設立した時、中央アジアでのインフラ建設融資のために既に「ユーラシア開発銀行」を設立していたロシアは最初、鼻白んだ反応を見せていたが(中国をユーラシア開発銀行に入れようとして、断られたことがあったのだ)、資金額等で到底勝負にならないことを見て取ると、今度はAIIBに急遽加盟、これを利用せんとする構えを示した。ユーラシア開発銀行の資本金は70億ドル、AIIBは1000億ドル(の触れこみ)だから、これもまた仕方ない。

しかしロシアの目論見はうまくいかず、当然もらえるものと思っていたAIIB副総裁(4名いる)のポストももらえなかった。これに加えて、先述の中国のシベリア、ロシア極東への関与の増大は、ロシアでマイナスの反応も起こしている。「中国人が進出」してくることが地域住民の恐怖心、反感を誘う例、あるいはそれを地元の野党勢力が煽る例が見られる。現在は、バイカル湖周辺の開発に中国人が乗り出してきたことに対して、地元住民たちが当局に規制措置を取ることを求めている。中国人が野菜を作って中国に輸出しても、地元住民は「自分たちは何ももらっていない」という、ロシア人特有の反応を示している。中国人観光客のガイドには、「この湖は中国の北海です。中国人の先祖のものでした」と言う者もいる(3月29日 Jamestown)。

 中ロは古来、ユーラシア北部では同一の平面上で相争ってきた。モンゴル帝国の時代には両者は一つの帝国に「止揚」されてしまったこともある。両者の間に自然の国境はないのである。国家が存在する限り、両者の間に摩擦要因は絶えないだろう。
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