2008年6月モスクワの空気
6月中旬、モスクワに行ってきた。3月に2週間滞在した時には、あたかも「幸せになってしまったソ連」にタイム・マシンで迷い込んだような気分を味わった。社会が全般的に保守化している一方では、原油高価格の恩恵がモスクワにかなり広く行き渡っているのが見て取れたからだ。
だがそれから3ヶ月、原油価格が100ドルを超えて更に急上昇する中、モスクワの有識者達はさすがに不安になってきたようだ。「持ち上げられて落とされる」危険を嗅ぎ取ったと言うか。政府関係者も、「石油価格が高すぎる。規制が必要だ」と言い出した。その不安と言うか、醒めた気分は大衆も共有している。タクシーの運転手は言っていた。「石油があれだけ高くなりゃ、誰が大統領でもあれくらいできるわな」
大統領選挙が終わったこともあり、この1年幅を利かしてきたナショナリスチックな物の言い方、欧米に対する挑戦的な態度は潮が引くように静かになって、今はメドベジェフ大統領・プーチン首相の「トレーラー権力」(Tandem)のお手並み拝見といったところだ。それに今は世界中がアメリカの新大統領待ちなのだ。
今回、トヴェルスコイ通り(銀座に相当)に面する僕のホテルの部屋では、夜3時頃、外が大騒ぎになった。カーテンを開けてみると、サッカーの欧州選手権でロシア・チームが予想に反してスウェーデンに2-0で勝ったことに喜んだ若者達が繰り出したのだ。奇声をあげ、声を揃えて歌い、大変なエネルギーが感じられる。僅か6年前にはロシア・チームが日本に0-1で負けたことに青年達が怒り、この同じ場所で車を引っ繰り返すほどの大騒動になったことを思い出す。金持ちになれば、サッカー・チームも強くなるのだ。
モスクワは7月にはもう閑散として、休暇モードに入る。夏の間に親しい者同士が夫妻で海外旅行をしたり、サウナで呑んだりしながら、「あいつはいい。あいつはけしからん」とか謀議を重ねる。彼らが休暇から帰ってうごめき出す8月末あたりからロシアの政治は活性化するのがいつものことなのだが、今年はどうだろう? メドベジェフ・チームが、夏の閑散な時期をむしろ狙って新基軸を打ち出す可能性もある、と僕に言うロシア人も今回いたが。
以下は、今回モスクワ出張の際得た印象や、ロシア人の話をつづったものである。
河東哲夫
今のモスクワの雰囲気
昔のモスクワは車は少なく広告など無くて、本当にすっきりしていた。それが「市場経済」になって以来、安手で悪趣味な新築物が林立し、どこに目をやっても広告、広告の氾濫だ。息が詰まる。
ロシアが原油価格高騰で偽りの繁栄を享受していることは、ロシア人自身が良く知っている。大衆に至るまで。あるエコノミストは「4~5年で構造的な危機がくる」と僕に言ったし(もっとも、この人はいつもこういうことを言ってきたのだが)、タクシーの運転手は僕が質問もしていないのに、「この国は破滅に向かっているのさ。競争がないところでは、自分の能力を磨こうとしないからな。俺は90年代、3,4年間あっぷあっぷしてやっとわかったんだ」と言った。この運転手は月に1,600ドルも稼いで、モスクワ平均の約1,000ドルよりはいい暮らしをしているのだ。
有識者達は相変わらず「民主化」とか「市場経済化」、「構造改革」の必要性を議論している。メドベジェフ大統領になったから、プーチン時代の「シラビキ」(諜報機関出身者)が追いやられてリベラルな政治が復活する、プーチン大統領に逆らってシベリアに流刑された石油王ホドルコフスキーも赦されて戻ってくる、などの議論が流行だ。
だが、1985年にゴルバチョフが登場して以来何回かあった改革機運のうち、今回は最も力が感じられない。「あきあきした、どうせ駄目さ」という感じだ。さもありなん。シンポジウムなどで指摘される問題、掲げられる課題は、この15年基本的にはずっと同じで変わっていないのだから。ロシアの有識者、エリートの大部分は閉塞状況にある。
そして、インフラやハードは新しくなっても、その使い方では「ソ連的」なやり方が根強く戻ってきている。15年前は、もっとみんな真剣に西側レベルのサービスを習得しようとしていたのに。シェレメチェヴォ空港のキオスクでは5人も店員がいるのに、客に応対しているのは1人の青年だけ。他の4人は若い女性で、帳簿を広げながら談笑している。客のいる方向を全然見ようとしない。
アエロフロートも料金が跳ね上がった割りには、機内のテレビは薄汚れているし、ビジネス・クラスの椅子もモーターが壊れて動かない。10年前は世界最高水準だった機内食も、今ではその形骸ばかりが残り、味、盛り付けはしまりがなくなっている。
これは、ソ連時代だ。どうしてこう根強く、若い世代に「伝統」が引き継がれるのだろう? 若い世代はソ連時代を知らないはずなのだが。と言ってもこれはロシア人、スラブ人の遺伝子の問題じゃない。社会の問題だ。例えばアメリカに移住したロシア人で、勤労道徳の鑑みたいな人は沢山いるのだ。
ドヴォルコーヴィチ大統領府補佐官やナビウリナ経済発展相達は、「民営化のプロセスはもう完成した。これからは民営化をめぐる切った張ったの時代から、具体的な前進をはかる時代に移るのだ」とばかりに新たな改革推進勢力となることを目指しているようだが、彼ら陣営の経済政策には、「西側とは石油と技術を交換する」というような荒っぽい発想も見られ、果たして功を奏するのかどうか。
ロシアの政治
僕には、昨年の12月プーチン大統領がメドベジェフを後継に指名したあたりの経緯がまだわからない。今回も聞きまわったが、結論は誰も決定的情報を持っていないということだ。
大多数の意見が一致するのは、プーチン大統領は有能、剛腕のセルゲイ・イワノフ第一副首相を後継にすることに不安を感じたのだ、ということだ。但し、プーチンとイワノフの間には強い信頼関係があることを指摘する者もあり、だから決定的情報はないと言うのだ。
そうした中で比較的確かなことは、メドベジェフ大統領はシュヴァロフ第一副首相と親しく、彼を大統領府長官にしたがったが、首相府に連れて行かれたということ、スルコフ大統領府第一副長官は「プーチン・チーム」側からメドベジェフ大統領へのお目付けとして送り込まれた、ということくらいか。
なお前者とのからみでは、6月初めの閣僚幹部会でプーチン首相がシュヴァーロフを叱責し、「国際会議でいい格好をするのもいいが、もっと国民の気持ちをわからなければダメだ」ときつい言葉を吐いたことが報道された。
シュヴァーロフは6月初めサンクト・ペテルブルクで西欧実業家達との会議に出席し、「政府要人が大企業の取締役を兼任していることを早急に是正」すると大見得を切って西側マスコミの話題をさらったのだ。シュヴァーロフは「新しいタイプの」「リベラルな」官僚ということで、今のロシアで期待される人間像としてもてはやされ、同じ会議に出ていたメドベジェフ大統領もすっかりかすんだし、プーチン首相も自分の業績を否定されたと感じただろう。後者は、本当にお冠だったということだ。
プーチン首相も実際に毎日経済問題を手がけてみると、それが大変であることに気がついたろう。そして、マスコミでは自分が次第に目立たなくなり始めたのを認識して心安らかでないかもしれない。ロシアに怒涛の如く流れ込む原油輸出収入は、いくら「不胎化」しても、結局は予算のばらまきで市場に出、インフレを昂進させる。昨年12%で問題とされたインフレは、今年1~4月だけで8%に達したからもう当局のコントロールを外れ始めたと言える。地方を中心に政府に対する不満は増大していることだろう。
経済
今回泊まったリッツ・カールトン・ホテルはシングルで一泊800ドル、朝食(バイキング)は別料金で6,000円相当だったから文字通りたまげた。シンポジウムを主催したドイツの銀行が払ってくれたからいいようなものの、ロシアはもう成金以外には手の届かない国となった。ハイヤーの運転手などは、「こうモノが高くなっちゃやってられない。外国人の客は昔の10分の1に減ってしまったぜ」と言う。
大卒の初任給は2,000ドル、英語ができればもっと高くなったそうで、最近では日本の企業は中央アジアの学生までリクルートしているそうだ。
ロシアは高賃金の国になりつつある。ルーブルの(対ドル)レートも高くなる一方なので、ロシアはもうモノづくり、輸出立国のモデルは取り得なくなったのだ。
外交
今回、5月のメドベジェフ大統領就任以後初めてだとかいうラヴロフ外相のスピーチを聞いた。彼は、17世紀以来続いた、ヨーロッパによる世界の支配が終焉しつつあると高邁なことを言いながらも、米欧露間の協力強化を呼びかけた。僕が思っていた通り、欧米に対するプーチン大統領の強面の物言いは、大統領選挙後ずっとソフトになって、協力を呼びかける場合が増えている。ラヴロフ外相のスピーチもそれだ。
ただロシアも米国新大統領待ちの時期で、それまでは米国と大事の交渉は控えるだろう。ブッシュ時代の米ロ関係を振り返ると、まあ本当にロシアが「コケにされた」8年間だった。見ていて可哀想なほどだった。7月1日のインターナショナル・ヘラルド・トリビューンにキッシンジャーが書いているように、アメリカはロシアの利益と感情を不必要に踏みにじった面がある。プーチン大統領が昨年2月のミュンヘンでの会議で、アメリカに対して「切れて」見せたのも、仕方が無い。もっともキッシンジャー氏にはロシアだけではなくて、例えば日本にも注意を向けて欲しいとは思うけれど。
他方、ロシアの政策担当者、有識者も、その実力に見合わないほど、ことごとにアメリカと対抗しようとするのをもうやめるべきだ。欧米に楯をついて見せることで、エリートは溜飲を下げることができるかもしれないが、経済関係悪化などのツケを払わされるのは結局ロシア国民であるからだ。
戦後の世界体制、つまり自由貿易と政治的な安定は、アメリカの力を背景としたIMF、WTO、その他国際機関、組織、そして同盟体制によって維持されてきたことを観念し、この中で協力していくことが、ロシアが世界で評価されるための最高の方策だろうに。
経済とか環境問題とか、具体的な問題の解決で汗をかこうともせず、中国を引き込んでアメリカと対抗しようとしたり、日中間の歴史をめぐるやり取りをめぐって日本を揶揄したり、19世紀的なゼロサムの「パワー・ポリティクス」(要するにどの国がどの国とくっついて、どの国と仲が悪くなったか、どの国がどの国より強いから言うことを通す権利を持つのだ、というようなこと)しかやらない―ーーこういう段階からは早く卒業するべきなのだ。
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